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演奏会データ

第204回演奏会ローテーション


詳細

第204回演奏会のご案内

 新響の音楽監督であった芥川也寸志が亡くなったのは1989年1月31日、20年が経とうとしています。芥川也寸志は1925年(大正14)文豪芥川龍之介の息子として生まれ、東京音楽学校(現東京藝術大学)作曲科に進みます。作曲家として魅力的な作品を残す一方、指揮者として音楽番組の司会者としてまたさまざまな音楽活動を通して音楽を広め、日本の戦後の文化の発展に大きく貢献しました。
 今回の没後20年の記念演奏会では、芥川の功績を記念して設立された芥川作曲賞の指揮者を長年つとめている小松一彦を指揮に迎え、前半では芥川作品を、後半は指揮者としての芥川を偲んでショスタコーヴィチの交響曲第4番を演奏します。

芥川也寸志とソヴィエト
 幼少の頃にストラヴィンスキーの「火の鳥」を愛聴していたという芥川は、次第にソヴィエトの音楽に興味を持ち、1954年にウィーンまでの片道切符のみを持って当時国交のなかったソヴィエトに行きます。ショスタコーヴィチなど著名な作曲家の方々と会う機会に恵まれ、持っていった「交響三章」がソヴィエト国立出版所から出版され、その印税で無事帰国します。
 ソヴィエトから帰国した1955年(昭和30)、この年に結成されたばかりの労音アンサンブルに招かれて指導を始め、翌年その団体は新交響楽団となります。1967年、新響は日ソ青年友好委員会の派遣により芥川の指揮でソヴィエト各地で演奏会を開きました。その後も芥川=新響は、チャイコフスキーやショスタコーヴィチなどのロシア音楽を取り上げ、主要なレパートリーとしてきました。

ショスタコーヴィチの問題作
 ショスタコーヴィチの交響曲第4番が作曲されたのは1936年。第3番から6年を隔て満を持して作曲された4管を超える大編成の意欲作で、高度な芸術的要素を持ちあわせマーラー的とも呼ばれます。リハーサルは行われましたが、その後自ら楽譜を回収し初演は中止されました。この頃書かれたオペラとバレエ作品を「西欧的形式主義的作品」として厳しく批判され、「人民の敵」の粛清が進むソヴィエトで命の危険を感じたのかもしれません。改めて作曲された第5番は政府の求めた「社会主義リアリズム」的作風で大成功します。第4番が初演されたのは25年後の1961年、スターリンの死後ソヴィエトの社会主義体制が軟化してからでした。
 1986年(昭和61)の新響創立30周年企画としてショスタコーヴィチの交響曲第4番を日本初演しました。これが新響で芥川が大好きなロシア音楽を振った最後の演奏会となりました。

芥川作品のオスティナート
 新響は芥川の初期の作品をたびたび取り上げていますが、「トリプティーク」もまた28歳の若い作品。当時NHK交響楽団常任指揮者だったクルト・ヴェスの委嘱によるものでニューヨーク・フィルで初演されました。明瞭で美しい旋律と明快なオスティナートリズムのこの曲は、芥川作品の中でも最も人気のある曲の一つでしょう。
 芥川は、オスティナートにこだわる作曲家でした。オスティナートとは音楽的なパターンを続けて何度も繰り返すことを指します。芥川は心臓の鼓動を例に挙げ、肉体的な喜びとして働きかけることが音楽の高まりであると述べています。オスティナートと名付けられたチェロ・コンチェルトは44歳の時に書かれた中期の傑作で、チェロがオーケストラとともに朗々と歌います。

芥川が新響に残したもの
 芥川は指揮者として音楽の指導をするだけではなく、運営に関しても新響と深くかかわり、オーケストラの在り方を常に提示してきました。存命中からの団員は3分の1になりましたが、アマチュアであることに誇りを持ちその可能性を追求をしていく、つねに「よい演奏」を目指して活動をするということは、今も変わりません。
 さて、天国から「新響もなかなかやるじゃないか」と言ってもらえるでしょうか。


新響行きつけの飲み屋「八起」閉店

松井祐介(コントラバス)

 新響団員の行きつけの飲み屋である、東十条の「八起(はっき)」がこの8月一杯で惜しまれつつ閉店となった。八起のママさんの娘さんが妊娠中で、これを機に店をたたむことをこの5月頃から決めていたのだ。八起は新響メンバーの練習終了後の飲み場の定番であったので、落胆している団員は多い。
 十条、東十条は飲み屋が多い所として有名であるが、団員の行く飲み屋はほぼ毎回決まっている。「ヴァイオリンはここ」、「木管はここ」とほぼ固定されたメンバーで押しかけるのがお決まりのパターン。「八起」は金管、特にホルンの人たちの溜まり場となっていた。
 「八起」は91年4月に現在の東十条の地に開店した。いつもはママさんと娘さん(お姉さん)とその後主人(若)の三人でお店に立っていた。店内はそれほど広くはなく、カウンターに10席くらい、座敷に20名くらいしか入れない。昔はあまりに来すぎて席がなくなり、店の外に追い出されたこともあったという。
 ママさんの話によると、94年頃ホルンの団員がたまたま発見したのが常連客となるきっかけとなったそうだ。残念ながらそのきっかけを作った団員は既に退団しているので、当時の話は聞けなかった。それ以降、ホルンの人たちを中心として金管の皆さんが集まって飲む場となったようだ。
 土曜の夜の八起は事実上新響の貸し切り状態となっていた。たまにカウンターに他のお客さんがいると、なんとうるさい団体客に迷惑であっただろうと思っていたに違いない。新響の練習が終わると、常連の皆さんは自然と東十条方面に歩いていき、八起ののれんをくぐっていく。新入団員が入ると、最初に誘われるのがだいたいこの店だ。
 皆さんがお店に着く頃にはテーブルにはすでにお通しの刺身が準備されている。まずは皆さんジョッキビールをもれなく注文され、乾杯。八起の料理はすごく量が多い。お通しの刺身も結構な量があり、これだけでも満足かもしれないが、それからいつもお任せの料理が数点でてくる。最後の飲み会で出てきたメニューは刺身、ポテトサラダ、ローストビーフ、鶏肉の唐揚げ、ゴーヤー炒めなどであった。日本酒の品揃えは豊富であったが、新響の注文するのはいつも「〆張鶴」と決まっていた。たまに「立山」を頼むときもある。焼酎は「黒霧島」のロックである。水割り、お湯割りはまず出たことがない。料理が出終わると、最後には蕎麦か平打ちうどんが出てくる。興がのってくると、この辺でホルンの某団員が「ノメノメ節」という歌を歌うこともある。「ノメノメ節」とは新響伝統?の歌なのだが、調は毎回違い、歌詞の意味は誰もわからないというもので、たまに演奏会の打ち上げで歌われることがある。これを歌うのが好きな団員も結構多いと思う。私もその一人だが、なにせ歌詞が不明瞭なところがあるので、歌うに歌えない。さて皆さん食べきれないほど食べて飲んでも、だいたい一人3,000円くらい。この安さと料理のうまさで常連になってしまった人もいるのではないか。
 八起閉店の知らせを聞いたのは今シーズンの初練習の日。いつも初練習で指揮を振ってくださる柴山先生もご一緒で、新入団員の歓迎会も兼ねていて盛り上がっていたところにママさんの衝撃の一言。最近は常連団員の退団等々、様々な理由で八起離れが進んでいて、かつてはいつも満員だった席が今日は5名ほどしかいないということがこの頃続いていた。このことは今回の廃業とは関係ないようだが、常連だった私は少々心が痛む。団員みんなで飲んだ最後の日は本当に店内満席で、みんなで飲む最後の機会を大いに楽しんだ。
 八起のみなさまには心からお疲れ様と言いたい。長い間お世話なりました。本当にありがとうございました。

■補遺  松下俊行(維持会マネージャー)
 オーケストラの奏者は基本的に個人主義者なので、練習後どうするかは皆まちまち。呑みにいきたい人は行くし、誘われても行かない人はいかない。誘った方も「俺の酒が呑めないのか」とか「つきあいが悪い」など一般の社会にありがちな酒の態はまず無いと断言できます。だから新響でも「八起」に1度も行ったことがない団員がいても不思議でもなければ、それを非難される事もない・・・けれど、新響に身を置いていればやはり「気になる店」として団内には浸透していました。お店の方々にコンサートにおいで戴いた事も度々です。
 音楽への、演奏への抱負や練習での失望と愚痴、演奏する喜びと失敗に対する怨嗟と反省・・・と、酒と共に様々な言葉が飛び交い、悲喜こもごもの言動が渦巻いていた店でもありました。要するに演奏団体が常連となれば巻き起こるであろう全ての事が起こり、その全てを許容して戴いていた類(たぐい)稀なる店・・・こうした店は庶民的な十条の街といえども、昨今はなかなか見出し難くなっています。
 どなたか「次の店」を御紹介下さいませんか。JRの東十条駅と十条駅の間にあって、最低でも10人以上収容できる上に他に客はおらず、一升瓶がキープできて、揚げ立てのものや切り立ての刺身が供される上に、「こちら~の方になります」という不思議な日本語と共に料理が運ばれて来ない事が、ささやかな条件ですが・・・。

ディーリアスとグレ=シュール=ロワン

岡田澪(フルート)

 維持会員の皆様こんにちは。前回の演奏会から入団しました岡田澪と申します。都内の音楽高校の2年生です。両親ともに新響の団員なので、実は最近まで維持会員でした。今回はディーリアスを吹かせていただきます。

 「ブリッグの定期市」を作曲したフレデリック・ディーリアスはイギリスの作曲家です。ディーリアスは1862年にイギリスに生まれ、この国で育ちましたが、実はこの作曲家は生涯イギリスに住んでいたわけではありません。音楽家になることを反対した父から自由になるためにアメリカへ渡り、その後なんとか父の同意を得てライプツィヒ音楽院に在学。1888年からパリに移り住み、1897年から亡くなるまでパリ郊外にあるグレ=シュール=ロワンという村で過ごしました。

 グレ=シュール=ロワンはパリ市街から南東に64kmほどの所にあり、中世の建造物である石橋や塔、そしてのどかな田園風景が残る静かな田舎町です。ディーリアスはパリでラヴェルやムンク、ゴーガン、ストリンドベリなどと親交を結んでいました。なぜ彼はパリから離れた、今日でも人口1300人ほどの小さな村に移り住むことにしたのでしょうか。

 実はこのグレの村、19世紀後半からさまざまな国から芸術家が集まった芸術家村で、画家のカミーユ・コローやフランク・オマラ、スウェーデンの劇作家のアウグスト・ストリンドベリ、そして日本からは黒田清輝や浅井忠、美濃部達吉、梅原龍三郎、藤田嗣治などの人達が訪れています。日本人の画家で最初にグレを訪れたのは黒田清輝と思われますが、彼がこの地で描いた「読書」や「婦人図」などの作品のうち、「読書」はパリのサロンで入選しています。
 このように、この村に来た画家達はこの村の自然や前述のロワン川に架かる橋、北のフォンテーヌの森などを描きながら、お互いに影響を与え合っていました。ディーリアスの妻であるイェルカ・ローゼンも画家であり、イェルカはグレで絵を描くために家を購入します。そのため、ディーリアスもこの村で作曲活動をするようになりました。ディーリアスが移住したのはコローや黒田清輝がグレを訪れた時期よりもあとですが、この村でたくさんの芸術家と交流を持ちました。パリ時代から親しい間柄のムンクも、1903年にグレのディーリアスの家を訪れています。

 「ブリッグの定期市」もグレに移り住んでから作曲されました。イギリスの民謡をもとにした曲ですが、少なからずグレの村のディーリアス邸の庭園、村をゆるやかに流れるロワン川などの情景の影響を受けていると思われます。

~参考文献~
荒屋鋪透「グレー=シュル=ロワンに架かる橋」



ドヴォルザーク:交響曲第8番

小松篤司(ヴァイオリン)

1 生誕~ブラームスとの出会い
 アントニーン・ドヴォルザークは1841年にチェコのネラホゼヴェス村(首都プラハから30kmほどの小さな農村)にて生まれた。このチェコという国の歴史の中では、大都市ではなく田舎の農村部から優れた作曲家を輩出することが多い。(他にもスークやヤナーチェクなどが挙げられる。)ドヴォルザークもその例に漏れず、音楽好きな家族、そして音楽が盛んな土地柄にも恵まれ、幼少の頃から音楽に親しみをもち学んでいくようになった。
 もっとも、若い時分(1860年代)には作曲家としてすぐには芽が出ず、研鑽を積む日々を送った。作曲の勉強をしつつ、地元のカレル・コムザーク楽団でヴィオラ奏者として生計を立てていた。なお余談であるが、1866年からチェコ音楽界の先達、スメタナが指揮者に迎えられていた。作曲家として、そしてチェコ人の一芸術家として大成していく上で、大きな薫陶を受けたであろうことは想像に難くない。
 1870年代に入り、下積みの時代から抜け出すきっかけとしては、ブラームスの影響が非常に大きい。1875年から5年間にわたり、ドヴォルザークはオーストリア政府の国家奨学金に応募し受賞していたが、その審査会の一員としてブラームスが参加していた。ブラームスはこの若きチェコの作曲家の才能にいち早く目をつけ、その作品を自分の楽譜の出版社であるジムロック社に紹介していった。こうして出版された諸作が評価されたことから、同出版社からは「スラブ舞曲第1集」の作曲が依頼されることとなった。1878年に作曲されたこの曲は、彼の出世作(と同時に、ご存知のとおり彼の生涯の中でも代表的名作の一つ)として好評を博し、チェコ国外においてもその名が広く知れ渡るようになった。
 このように、ブラームスはドヴォルザークの国際的な名声を上げていく上で非常に重要な役割を担ったといえよう。後にドヴォルザークはブラームスとより密接に親交を深めていき、作曲技法など多くの点で影響を受けることとなった。

2 作風の確立~交響曲第8番の誕生
 さて、ドヴォルザークの活躍していた19世紀の後半、チェコはオーストリア帝国からの独立を求め、民族運動に揺れ動いていた。そういった時勢の中で、多くのチェコ人芸術家たちは民族的かつ郷土愛に満ちた作品を次々と発表し、こぞって創作の腕を競い合っていた。
 大作曲家としての道を歩み始めていた1880年代、ドヴォルザークは「民族的闘争の中で芸術家が果たすべき役割」に苦慮する日々が続いていた。ちょうどこの時期に、民族ドイツ・オペラ(内容的に、民族運動に逆行する内容と受け取られてしまう)の作曲を依頼されたことも、一因としてあったであろう。自分が進むべき道についての苦悩の果て、やがて彼も他の多くの芸術家と同様に、チェコ人として生き抜く決意に辿り着いたのである。彼は生涯にわたってチェコ国内に居を構え、作曲活動に専念した。
 ドヴォルザーク独自の作風は、こういった背景によるところが非常に大きい。彼は古典・ロマン派の伝統的な様式(=西欧的な要素)に基本的には則り、9曲の交響曲を始めとした絶対音楽に重きを置いた。この辺りは、チェコの歴史的主題等をモチーフとした標題音楽(歌劇等)を数多く残したスメタナとは、非常に対照的である。前述のブラームスとの親交の中で、その技法や構成力など多くの影響を受けたこともあったであろう。しかし、西欧の伝統的な技法に留まらず、ドヴォルザークはその枠組みの中でスラブ的・チェコ的な民族舞曲・民謡などを積極的に取り入れていったのである。
 こういった要素の集大成とも言えるのが、今回演奏する交響曲第8番(1889年作曲)である。以下、曲について簡単に紹介する。

3 曲目解説
 前述のとおり、古典派の様式の枠組みの中での構成の自由化、及び所々に見られるボヘミアの民族色、この2点を主な特徴としている。
 構成の自由化という点では、例えば1楽章の冒頭では、ト長調を主とした楽章にも関わらず、優美な旋律(第1主題)はト短調にて始まる。3楽章もスケルツォではなく、優雅で旋律的な舞曲となっている。4楽章はソナタ形式をとっているものの、全体としては主題の様々な変奏が登場していく。
 ドヴォルザーク特有の民族色も曲中で鮮やかに彩られている。ボヘミアの自然や「民衆の声」といったものがイメージされる曲である。中でもそれが顕著であるのが2楽章である。おちついた田舎を思わせるような、冒頭の弦のメロディ、小鳥の鳴き声を連想させる、木管楽器の穏やかな響き。全曲を通しても最もドヴォルザーク的であり、独創性に満ちている。他にも3楽章のトリオ(自作の喜歌劇「がんこ者たち」からの引用)や、4楽章の第1主題(スコチナー舞曲というボヘミアの民族舞踊)や中間部の原始的な響きの和音・リズムなど、ドヴォルザークらしさが随所に散りばめられている。

4 イギリスとドヴォルザーク
 さて、この交響曲第8番は、「イギリス」という副題で度々呼ばれることがあるが、これは何故であろうか?答えの前に、まずはチェコの国民的大作曲家ドヴォルザークと、エルガーやディーリアスといった、ドヴォルザークとは全く作風の異なった作曲家を生み出したイギリスという国との、意外な接点について簡単に述べておきたい。
 1880年代、イギリスでは一般的に聴衆に認知されていない作曲家の作品を積極的に取り上げ上演するなど、外国の芸術家を暖かく受け入れる土壌が整っていた。その中でドヴォルザークの作品も度々イギリス各地で演奏され、好評を得るようになっていた。1884年3月にはドヴォルザーク自ら初のロンドン訪問を行い、自作「スターバト・マーテル」を指揮した。これはロンドンの聴衆の熱狂的ともいえる大絶賛を受け、彼のそれまでの人生において最高ともいえる公的な成功となった。イギリスでの活躍は、ドヴォルザークの作曲家人生において大きなステップアップになったといえるであろう。
 またこれをきっかけに、当時のイギリスが「ドヴォルザーク贔屓」の国になったともいえる。ドヴォルザークはこの後も生涯において計9度に亘りイギリスを訪問し、その度に暖かい歓迎を受けた。国外での成功は、彼により大きな自信を与えていったことであろう。特に1885年4月にロンドンにて初演された交響曲第7番においては、イギリスの批評家に過大ともいえる好評(シューベルトの「ザ・グレート」やブラームスの4曲の交響曲と肩を並べるものと評されていたらしい。)でもって迎え入れられた。
 話を冒頭の問いに戻すと、残念ながら交響曲第8番の曲の中身そのものはイギリスとは全く関係はない。「イギリス」という副題は、むしろ出版のときの諸事情によるものである。それまでドヴォルザークの作品の出版を主に受け持ってきたベルリンのジムロック社とは金銭面などで折り合いがつかず、確執が目立つようになっていた。そこで、ロンドン訪問当時に親交を深めたイギリスの出版社ノヴェロ社に楽譜を渡したことで、「イギリス」という副題でしばしば呼ばれるようになったのである。
 そうとはいえ、これを単なる「出版社の問題」と片付けてしまうのは、少々味気ない。ドヴォルザークという作曲家を評価し、大作曲家として成長していくための土壌を提供した、イギリスという国。イギリスでの成功があってこその交響曲第8番という名曲の誕生、とまで言い切るのはさすがに乱暴すぎるかもしれない。が、少なくとも「イギリス」という副題が、この作品には中々洒落たネーミングとなっているように筆者個人としては感じられるのである。

参考文献
 有坂愛彦他「作曲家別名曲解説ライブラリー6 ドヴォルザーク」(音楽之友社)
 内藤久子「作曲家 人と作品シリーズ ドヴォルジャーク」(音楽之友社)

初演:1890年2月2日 ドヴォルザーク指揮の国民劇場管弦楽団によって行われた。

楽器編成:フルート2(2番はピッコロ持ち替え)、オーボエ2(1番はコールアングレ持ち替え)、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、弦5部

エルガー:エニグマ変奏曲

新山克三(チェロ)

 イギリス、正しくは大ブリテン王国は僕の大好きな国のひとつです。とくに田舎はすばらしい。どこに行っても汚いところはいくら探してもありません。緑がいっぱいで、家並みは美しい、羊がたくさんいて、幸せそうな丘陵地帯がどこまでも続きます。エルガーはそういった田舎のモルバーンというロンドンの西140キロのウースターのすぐ南西にある小さな町の楽器屋さんの息子として生まれました。1857年のことです。ペリーが下田に来たのが54年ですから、57年は日本では安政4年、幕末の大混乱期です。そのころイギリスは、ヴィクトリア女王時代の最盛期で、東アフリカのほとんど、インド全土(いまのパキスタンやバングラデシュを含む)マレーシア、ビルマ、オーストラリアなど広大な植民地を支配し、それら植民地から得られる豊富な資源により世界一といっていい強国でした。19世紀のイギリスは絵画では、ターナーやミレー、ホイッスラーと言った有名な画家が、また小説ではディッケンズやコナン・ドイル、オスカー・ワイルドほか多数の天才達が活躍して華やかな時代でしたが、どういうわけか音楽に関しては全くといってよいほど衰微した時期でした。そんな時現れたのがエルガーです。17世紀のパーセル以来200年ぶりのイギリス待望の作曲家として人々から喜んで迎えられたのです。(ヘンデルはドイツ人で42歳の時イギリスに帰化したので、イギリスではドイツ人の作曲家とみなされている)

 エドワード・エルガーの父親は教会のオルガン奏者だったことから音楽の才能があったようですが、貧しい楽器屋で、エドワードに専門的な音楽教育をうけさせることはできませんでした。それでもエドワードはピアノやヴァイオリンが上手で独学で作曲もできるようになりました。13歳のころ教会のオルガン奏者になり教会音楽を作曲しています。また仲間たちと始めたアンサンブルのためにも何曲か作曲しました。彼が大作曲家としてイギリス中に知られるようになるのは40歳を過ぎてからですが、それまで彼はピアノとヴァイオリンの個人教師として生活していました。そんな彼のところにアリス・ロバーツという女性が弟子になったのが1886年で2年後の1889年に二人は結婚します。アリスはその時40歳。エドワードは32歳。その1年前に婚約のお祝いとしてアリスに捧げたのがあの有名な『愛の挨拶』です。最近の若者は彼女の前でギターをジャラジャラ弾きながら愛の告白をするらしいですが、彼女ははなはだ迷惑ですよね。でも『愛の挨拶』みたいな曲だったら誰でもいちころではないでしょうか。名曲だと思います。じつは僕も昔(若い頃ですよ)彼女を家に連れてきてこの曲をチェロで弾いたことがあります。いま考えてみるとご迷惑をかけたのかも。
 僕は今度の定期にエルガーのエニグマをやると聞いたとき、「へーそうなの。でもエルガーは新響で初めてやるのになぜ『謎』をやらないの?」と思いました。でもエニグマとは謎のことと判明して納得。謎なら有名なのにエニグマとは聞いたことがないなと思ったのは僕だけでしょうか?(そうだ、お前だけだ)

 ある日、エルガーがピアノにむかってなにげなく指を動かして適当なメロディーを弾いていた時、そばを通りかかったアリスが「なーにいまのメロディー?」と聞いた。エルガーは「たいしたものじゃないよ。でも、これでなにかできるかも」と言って、そのメロディーをもとに親しい友人達を思い浮かべながら「彼はこんな感じ、彼女ならこうだね」といいながらいろいろな変奏を作ってみたのがこの曲ができたきっかけでした。エルガーはそれを主題と14の変奏曲にまとめ、各変奏曲に友人達のイニシアルをつけて、かつ全体を『エニグマ』と命名して発表しました。なにが謎なのかというと、第一にイニシアルが誰を指すのかということですが、これはエルガーが詮索好きの友人達によって問い詰められた結果、第13変奏を除いて解明されてしまいました。しかしこの曲には第二のもっと大きな謎があるらしい。エルガーによると「曲全体をより大きな主題が貫いているのだが、その主題は決して演奏されることはなく、その後の展開においても登場することはなく、主要な性格は表舞台には現れることはない。これはメーテルリンクの『闖入者』や『7人の王女』の主役が決して舞台上に現れないのと同じである」といっています。(メーテルリンクの戯曲は明治から大正にかけて日本でも非常に多く上演されていたが、昭和にはいって突然上演されなくなった。いまでは、青い鳥という童話の作者としてわずかに記憶されるに過ぎない)この第二の謎については、多くの研究がなされ、英国国歌が隠されているのではないか、いやAuld lang syne(蛍の光)だとか、英国愛唱歌のルールブリタニアだ、などいろいろな説がありますが結局いまだに解明されておらず、現在ではあきらめられているようです。エニグマが初演されたのは1899年ロンドンのセント・ジェームズ・ホールでハンス・リヒター(当時の一流指揮者で後にエルガーの擁護者となる、当時56歳)の指揮で行われ大成功をおさめました。曲としての完成度もさることながら、成功の鍵はやはりその題名とエピソードによるところが大であったと思われます。第14変奏の終曲は初演のときはもっと短かったらしいが、エルガーの親友であり後援者であり、また第9変奏の主人公である楽譜出版社の編集者だったJaegerのアドバイスにより100小節が書き足されました。この追加部分にはオルガンが参加しますが、スコアーには「ad lib」(随意)すなわち、無しでもいいと書いてあります。今日は無しです。
 エニグマの成功に気をよくしたエルガーは1900年にオラトリオ『ゲロンティアスの夢』1901年に彼の代表作である軍隊行進曲『威風堂々』を発表する。即位したばかりの英国王エドワード7世は威風堂々がすっかり気に入り、「世界中の人に愛されるメロディーになるだろう」といい、翌年の戴冠式の頌歌に引用されることになりました。エルガーはこの功績により1904年にナイトの称号を送られ一生の生活が保証されることになったのです。ちなみに、日本は1902年に日英同盟を結び、それを支えに1904年日露戦争に突入しました。
 エルガーは数多くの名曲を残しましたが、彼の最高傑作(私見)であるチェロ協奏曲は1919年彼が62歳の時の作品です。翌20年に妻アリスを亡くし、彼自身は1934年(昭和9年)に76歳で亡くなりました。

主題
 ヴァイオリンによって奏される第一主題とクラリネットによって奏される第二主題で構成されるが、たったの17小節と短くすぐ第一変奏にはいる。
第一変奏:「C.A.E.」 Caroline Alice Elgar
 最愛の妻アリス。主題から同じテンポで入るので、いつ始まったのか気をつける必要がある。ゆったりしたAdagioで、やさしさが表現されている。エルガーは「この変奏は主題の延長であり、ロマンティックで繊細な要素を加えたかった。C.A.E.を知っている人なら誰だかわかるだろう」といっている。
第二変奏:「H.D.S.-P.」Hew David Stewart-Powell
 アマチュアのピアニストでエルガーの室内楽仲間の一人。彼が演奏の前に音階練習をする様子をパロディー化している。
第三変奏:「R.B.T.」 Richard Baxter Townsend
 アマチュアの俳優でパントマイムも得意だった。声域や声質を自由に変える特技があり、それがこの変奏の主流となっている。
第四変奏:「W.M.B.」 William Meath Baker
 ハスフィールドの大地主で育ちがよく学のある人。この変奏は彼がパーティーの準備のため紙片を手に当日の準備事項を力をこめて読み上げると、扉をバタンと閉めてあわてて出てゆくところを描写している。 第五変奏:「R.P.A.」 Richard P. Arnold
 1888年に没した詩人Matthew Arnold の三男、父親譲りの文芸家だが音楽好きでもありピアノを独習していた。ヴァイオリンのG線で奏されるゆったりしたメロディーから彼の穏やかで重厚な性格が想像される。真面目に話していたかと思えば、突然奇抜でしゃれたことを口にする、笑い声がオーボエで奏される。
第六変奏:「Ysobel」 Isabel Fitton
 ウースターに住む音楽一家の令嬢で、アリスとエドワードを結んだ恩人でもある。エルガーにヴィオラを習っていた。だから、この変奏はヴィオラが主役で、初心者が苦心する移弦の練習のパロディーである。 第七変奏:「Troyte」 Arther Troyte Griffith
 モルバーンに住む建築家。エルガーの遊び友達で凧あげやハイキングをして楽しみ、一生を通じて親交があった。また、エルガーにピアノを習っていたが、下手だったらしい。プレストの指示があり非常に早いテンポで奏されるところから、かなり早口でせっかちだったと思われる。
第八変奏:「W.N.」 Winifred Norbury
 ウースターフィルハーモニー協会の事務員だった彼女は、モルバーンの北にあるシェリッジという18世紀に建てられた古い邸宅に住んでいた。この曲はその邸宅と彼女ののんびりした笑い声を表している。 第九変奏:「Nimrod」 August Johannes Jaeger
 楽譜出版社ノヴェロの編集者でエルガーの擁護者でありかつ親友だった。エニグマの楽譜の初版は当然ノヴェロ社から発行された。彼がベートーヴェンの緩徐楽章についてエルガーと話し合っている様子を表すといわれている。エルガーは3歳年下の彼を尊敬していたらしく、この変奏曲は非常に荘厳な感じになっている。よほど世話になったらしい。
第十変奏:「Dorabella」Dora Penny
 第四変奏に登場するウイリアムベーカーの姪でエルガーにたいへん可愛がられていた。彼女は後に第二変奏のスチュアートパウエルと結婚することになる。おとなしくて控えめな女性で少しどもるくせがあったらしい。それが全曲に表れている。
第十一変奏:「G.R.S.」George Robertson Sinclair
 友人が「G.R.S.というのはヘレフォード大聖堂のオルガン奏者のジョージのことだろう?」と聞くとエルガーは「その通り。でもこの曲は大聖堂やオルガンとは関係なく、彼が飼っているダンというブルドッグが散歩の途中ワイ河におっこち、流れに逆らって必死に泳いで岸にだどりつき、うれしそうに吠えるところを表しているんだ」と言った。大変ユーモラスな曲である。ちなみに「ユーモア」はイギリス紳士の大事な条件のひとつです。
    elgar.jpg
     前列左から、第11変奏のシンクレア、河に落ちたダン、エルガー
第十二変奏:「B.G.N.」Basil G. Nevinson
 パウエルとともにエルガーの室内楽仲間でチェリスト。チェロが主役でメロディーを奏するがヴィオラがそれを助ける。
第十三変奏:「***」
 問題の第十三変奏である。エルガーの初稿ではL.M.L.とされていたが、それを消して***となった。L.M.L.はLady Mary Lygonで当初は彼女を念頭に置いていたことは間違いなさそうだ。彼女はその時オーストラリアに向けて航海中で、曲は船のエンジンの音や波のうねる様子を表しているように聞こえる。また、メンデルスゾーンの序曲「静かな海と楽しい航海」のメロディーがクラリネットで奏される。彼女は1869年生まれで当時30歳、航海の目的はなんだったのだろう。当時のオーストラリアはまだイギリスの「流刑地」という印象が強く、殖民が始まっていたとはいえ、エルガーの周囲の友人達のような階級の人が殖民するとは思えず、単なる観光旅行ではありえない。イニシアルを消してしまった理由はいまだに解明されていない。また、この曲はエルガーが1883/4年に婚約していたHelen Weaverだという説をとなえる人もいる。彼女は婚約が破れてライプツィヒに行ってしまった。
第十四変奏:「E.D.U.」Edward Elger
 妻アリスは彼女の年下の夫をエドゥーと呼んでいた。すなわちこの曲はエルガーの自画像である。しかしこの変奏は具体的にはなにを表しているというものではなく、自由奔放に作曲されており、全曲を通して一番エルガーらしさがでている。図らずして、まさにE.D.U.になっている。

参考文献
『エルガー/エニグマ変奏曲(独創主題による変奏曲「謎」)(ポケット・スコア )』(日本楽譜出版社)
日本エルガー協会公式HP

初演:1899年 ハンス・リヒター指揮ハレ管弦楽団 ロンドンのセント・ジェームズ・ホールにて

楽器編成:フルート2(2番はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、小太鼓、トライアングル、大太鼓、シンバル、オルガン(任意)、弦5部

上品なイギリス音楽と人間愛に満ちたドヴォルザーク

小松一彦

 我が愛する新響と、イギリス音楽とドヴォルザークを初めて共演する喜びを胸に本日の指揮台に上ろう。
 あのバロックのヘンリー・パーセル以来、長らく不毛であったイギリスの芸術音楽作曲を200年の眠りから目覚めさせた、対照的な両雄ディーリアスとエルガー。近代イギリス音楽作品の代表作であり、初の国際的評価を確立した曲と謳われるエルガーの「エニグマ変奏曲」。一方、今年丁度初演百年を迎えるディーリアスの「ブリッグの定期市」。二人の作風は全く異なるが、共通するのは“上品さ”。そして二人共独学に近いというから恐れ入る才能だ。
 そのディーリアス(実は北部イギリスで生れ育ったドイツ人)は、実は私の最も好きな作曲家の一人なのだが、日本では十分に理解されているとは言い難いのでその特徴を少々述べておきたい。
 フランスのドビュッシーとモネをそれぞれのジャンルの典型的な“印象派”とするなら、イギリスのディーリアスとターナーは“印象派の先駆”あるいは“印象派的ロマン詩人”と私は位置づけている。ドビュッシーの“放置された(・・・・・)和音のひびきの美しさ”(それは後の武満徹につながって行くのだが)に対して、ディーリアスの音楽は、最終的には和音の“連結(カデンツァ)”により“解決(・・)”に向う。それが私をしてディーリアスを“印象派的ロマン派”と呼ばせる理由である。ターナーの絵と同じようにディーリアスの音楽を正しく味わうためには、聞き手に“大気・靄(もや)・蒸気”などの密やか(・・・)な(・)息遣い(・・・)を感じとれる繊細な感受性が必要とされる。それらが瑞瑞しさや、半音階進行によるデリケートでセンシティヴな“水彩画的色彩のグラデーション的変化の妙”となって表現される音楽故に、通俗的なポピュラリティを得る事は無い宿命を持つ。今後もディーリアスの音楽は、繊細で豊かな音楽性を持つ人間だけに扉を開いてくれるのであろうし、しかしその素晴らしさを知った者には至福の時間を与えてくれるであろう。
 さて、今回のドヴォルザークでは、新響から“音楽性に溢れた演奏”を引き出してみたい。音楽をするには何より“感受性豊かで強い表現意欲を持つ音楽性”が大事な事の再認識であり、それが特にドヴォルザークのような“人懐こく温かいアナログ的良さ”と“土のついた野菜の持つ力強さと香り・味わいの深さ・濃さを享受する喜び”に喩えられる音楽の魅力を引き出し、聞き手に伝える基となるからである。
 乞う御期待!

ディーリアス:ブリッグの定期市

山口奏子(オーボエ)


        delius.JPG
Delius in 1912 Jelka Delius (ディーリアス公式HPより)

 それは8月5日のことだった
 天気はすばらしく晴れていた
 ぼくはいとしい恋人に逢うために
 ブリッグの定期市に出かけていった

 ディーリアスの作曲した<ブリッグの定期市>は、同名のイギリス民謡をテーマとする変奏曲ですが、その民謡は、こんな歌詞で始まる優しくて柔らかい歌です。< br>  ディーリアスはイングランド北部ヨークシャー州ブラッドフォードの生まれ。ブリッグ(Brigg)という街からおよそ70㎞西北西という近さから、幼い頃に耳にした民謡をモチーフとして取り上げて作曲したのかな?と思ってしまうのですが、彼がこの素敵な旋律に出会えたのは、グレインジャー(Percy Grainger, 1882~1961)という優れたピアニスト&作曲家がいたからでした。
 オーストラリア(当時イギリス領)出身のグレインジャーは、ノルウェーに晩年のグリーグを訪ね、民俗音楽に関心を持つようになります。そして、イギリス各地で民謡を収集して回り、エジソン発明の蝋管蓄音器を用いて数多くの歌を記録しました。このため、集めた歌の一つである民謡<ブリッグの定期市>も、幸いなことに地元の老農夫ジョゼフ・テイラー(Josef Taylor)の艶やかな声による録音が残っています。グレインジャーはこの民謡に和声づけし、合唱曲にアレンジして発表しました。
 1906年、グレインジャーとディーリアスは病床にあったグリーグの紹介で知り合い、親交を深めるようになります。ディーリアスがグレインジャーを自宅に招いた際に、グレインジャーが<ブリッグの定期市>を弾いて聴かせたところ、ディーリアスはすっかり魅了され、この旋律を作曲に使う許可を求めました。翌年、書き上げられた<ブリッグの定期市>はバーゼルの音楽祭で初演され、好評を博します。この頃から、イギリス人指揮者のビーチャム(Sir Thomas Beecham, 1879~1961)がディーリアスの才能に惚れ込み、イギリスで彼の作品を盛んに演奏したため、彼の音楽が母国で高く評価されるようになりました。
 ちなみに、グレインジャーは、ジョゼフ・テイラーが歌の第2節までしか覚えていなかったため、他のイギリス民謡("Low down in the broom" と"The Merry King"の2曲)から歌詞を取り、付け加えました。その後録音された民謡<ブリッグの定期市>には様々なバージョンがありますが、グレインジャーがまとめたのは次のバージョンだといわれています。

It was on the fifth of August, the weather fine and fair,
Unto Brigg Fair I did repair, for love I was inclined.

I rose up with the lark in the morning, with my heart so full of glee,
Of thinking there to meet my dear, long time I'd wished to see.

I took hold of her lily-white hand, O and merrily was her heart:
"And now we're met together, I hope we ne'er shall part".

For it's meeting is a pleasure, and parting is a grief,
But an unconstant lover is worse than any thief.

The green leaves they shall wither and the branches they shall die
If ever I prove false to her, to the girl that loves me.

(第2節以降の日本語訳(例))
ぼくはよろこびに胸をふくらませて
朝早くひばりとともに起きた
ずっと逢いたいと願っていた
あの娘に逢えるのだと思って

ぼくは彼女の白百合のような手をとった
すると彼女の心もときめいていた
「ようやく逢えたのね
もう決して離れたくないわ」

逢っているときは楽しくて
離れているときは悲しい
けれども心変わりするような恋人は
どんな盗人よりもひどいもの
緑の葉はしおれ
枝は枯れてしまう
もしぼくを愛してくれる恋人を
ぼくが裏切ったりしたら

 ところで、ブリッグは、イングランド中東部リンカンシャー州北部の、海辺から約20㎞離れた場所にあるほんとうに小さな街です。英国政府観光庁の説明によると、ブリッグはグレインジャーとディーリアスにより有名になった街とのこと。古くから、聖ジェイムズの祝祭日(旧暦7月20日)から数えて5日間、定期市(縁日)が開かれていました。暦が変わり開催日が8月5日に移りましたが、いずれにしても年に1回しかない催し物だったわけです。定期市に行かないと逢えない恋人だったのでしょうか…。なお、現在も、8月5日に夏祭りのようなBrigg Fairが開催されており、ダンスショーや手工芸品や美術品の店といった出し物があるようです。

 この辺でディーリアスについても少し触れておきたいと思います。彼は裕福なイギリスの羊毛商人の家庭に育ち、ロンドンのカレッジ卒業後、一旦は父親に従い家業の羊毛会社に入りました。しかし、幼い頃からヴァイオリンやピアノを習い音楽に親しんでいた彼は、どうしても音楽の道に進みたかったため、当時盛んになっていたフロリダ州でのオレンジ栽培を口実にして父親を説得し、自由と資金を獲得します。案の定オレンジ栽培は放ったらかし。彼は音楽の勉強や作曲に積極的に取り組み始めました。農園で働く黒人労働者たちの音楽にも夢中になったといいます。
 そのうち父親が諦めてライプツィヒ音楽院入学を許可し、1886年、晴れて音楽の道に。在学中に出会ったグリーグからは、音楽的に強い影響を受けただけでなく、卒業後もグリーグの口添えによりパリで作曲活動を続けられることになるなど随分と世話になりました。
 1897年、ディーリアスは女流画家のイェルカ・ローゼンとともに、パリ近郊の村、グレ=シュール=ロワンに移り住み、結婚します。グレでの生活は、家の庭やすぐ近くを流れるロワン河など、その後のディーリアスの楽想を刺激するものに満ち溢れており、アメリカで触れた黒人音楽や、パリで出会ったゴーギャンやムンクといった後期印象派あるいは象徴主義と呼ばれる画家たちとの交流などとともに、彼の作品に大きな影響を与えました。
 ディーリアスの音楽は、他の誰とも違う、独特の個性を持っているといわれています。19世紀後半の後期ロマン派に属しているものの、自由にしなやかに移ろうハーモニーの変化が、ディーリアスらしさを表しています。
 また、音楽が絵画に喩えられることがよくありますが、ディーリアスはイギリス史上最も偉大な画家と呼ばれるターナー(Joseph Mallord William Turner, 1775~1851)に喩えられることが多いようです。ターナーは、特に水彩画の分野で高い業績を残したロマン主義の風景画家です。絵の多くは明るく透明感のある微妙な色彩で満たされており、物の輪郭ははっきりしていません。霧の中のような、まるで風景のなかの空気が描かれているように見えるのです。ディーリアスの描くハーモニーの移ろいは微妙で、ちょうどターナーのとらえた光や色彩の変化を想い起させるようです。

■序奏(ゆっくり、牧歌的に)
 フルートがハープのアルペジオに乗って牧歌的な旋律を奏でる。夏の朝、まだ靄がかかる頃の田舎の空気の感じ。湿度や温度さえ肌に感じられるような美しい旋律である。
■主題(軽く楽な速さで)
 オーボエがクラリネットとファゴットの作る独特の和声の上で、イングランド民謡<ブリッグの定期市>の主題をやわらかく歌う。
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 この旋律が和声、リズム、テクスチュアを変化させながら各楽器へと受け継がれる。木管楽器、弦楽器からホルン、そして最後にトランペットへ。トランペットによる第六変奏の頃にはだいぶ盛り上がってくるので、大きな楽器編成にも納得いただける…と思う。
■間奏(ゆっくりときわめて静かに)
 フルートが序奏の旋律を回想し、弱音器をつけたヴァイオリンが美しい旋律を歌う。少し悲しげな旋律はコールアングレやホルンに引き継がれていく。
■第七変奏~(やや速く、しかし慌てずに)
 少しだけ速度があがり、クラリネットやフルートが主題の変奏を奏でる。
■第九変奏~(ゆるやかなテンポで)
 木管楽器の変奏に対してヴァイオリンが副主題を奏でる。この副主題は少しワーグナーを想起させる旋律。
■第十一変奏~(ゆっくり荘厳に)
 トランペットとトロンボーンが荘厳な主題の変奏を奏した後、木管楽器とホルンに旋律が受け継がれ、周りで様々な楽器が八分音符の後打ちを入れ、めまぐるしくハーモニーを変化させながら曲が進む。この曲の中で一番混沌としている箇所。市の雑踏を複数のカメラで撮影し、素早く切り替えながら見せ、所々恋人たちの映像がちりばめられているような感じ。
■第十三変奏~(陽気に)
 フルートとクラリネットによる変奏。恋人たちの楽しげな様子。さまざまな楽器による変奏が続き、曲は最高潮に。打楽器が明るい色彩感を与える。
■コーダ(きわめて静かに)
 オーボエが再び静かに主題を奏で、ゆっくりと消え入るように終わる。

参考文献
「ディーリアス<ブリッグの定期市>(ポケット・スコア)」日本楽譜出版社
「ディーリアス管弦楽曲集 バルビローリ指揮 ロンドン交響楽団」CD曲目解説
ディーリアス公式HP、英国政府観光庁HP

初演:1907年10月23日、バーゼルにて。指揮はズーター(Hermann Suter, 1870~1926)。イギリスでの初演は翌年1月11日、リヴァプールにて。バントック(Granville Bantock, 1868~1946)指揮。

楽器編成:フルート3、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット3、バスクラリネット、ファゴット3、コントラファゴット、ホルン6、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、チューブラベルズ(チャイム)、トライアングル、ハープ、弦5部

第203回演奏会ローテーション

  ディーリアス エルガー ドヴォルザーク
フルート1st 岡田澪 岡田充 松下
2nd 藤井 吉田(Picc) 丸尾(Picc)
3rd 丸尾 - -
オーボエ1st 山口 亀井淳 堀内(C.A.)
2nd 亀井優 岩城 横田
コールアングレ 桜井 - -
クラリネット1st 高梨 品田 中條
2nd 進藤 大藪 末村
3rd 末村 - -
BsCl 石綿 - -
ファゴット1st 田川 長谷川
2nd 田川 古川
3rd 長谷川 - -
コントラファゴット 古川 古川 -
ホルン1st 比護 園原 箭田
2nd 山口 大内 山口
3rd 大原 大原 鵜飼
4th 箭田 市川 比護
5th 大内 - -
6th 園原 - -
トランペット1st 倉田 小出 野崎
2nd 北村 北村 青木
3rd 中川 中川 -
トロンボーン1st 武田 小倉 志村
2nd 武田
3rd 岡田 岡田 大内
テューバ 足立 足立 足立
ティンパニ 桑形 桑形 中川
大太鼓 桜井 桜井 -
シンバル - 中川 -
トライアングル 田中 今尾 -
小太鼓 - 今尾 -
今尾 - -
ハープ 堀米(*) - -
1stヴァイオリン 堀内(岸野) 堀内(岸野) 前田(岸野)
2ndヴァイオリン 大隈(笠川) 大隈(笠川) 大隈(田川)
ヴィオラ 柳澤(石井) 柳澤(石井) 石井(柳澤)
チェロ 柳部容(安田) 柳部容(安田) 光野(日高)
コントラバス 中野(加賀) 中野(加賀) 加賀(中野)
(*)はエキストラ

第203回演奏会のご案内

●今回は小松氏の十八番
 新響の定期演奏会において小松一彦氏の登場は9回目となりますが、創立50周年記念シリーズや第200回演奏会といった節目での共演を経て、新響との関係を深めています。今回は、プラハ交響楽団の常任客演指揮者として度々チェコで演奏をしている小松氏が、得意中の得意とするチェコの大作曲家ドヴォルザーク交響曲第8番をプログラムしました。

●エルガー=イギリス近代音楽の父
 前半にはイギリスの作曲家の作品を2曲を演奏します。
 「Brigg Fair(ブリッグの定期市)」とは、イギリスのリンカーンシャー州北部のブリッグに伝わる民謡のことです。羊毛業の後継ぎであったディーリアスの生まれたヨークシャーとブリッグは近く、フランスに移り住んだディーリアスは故郷を懐かしみこのラプソディーを作曲したのでしょうか、郷愁を感じる美しい曲です。
 もう一曲はエルガーの出世作、エニグマ変奏曲です。“エニグマ”とは謎あるいは謎解きという意味で、元々の題名は「創作主題による変奏曲」でしたが、スコアの1ページ目に”Enigma”と印刷されていたのでこう呼ばれるようになりました。この曲は主題と14の変奏曲からなり、各変奏曲にイニシャルまたはニックネームがつけられていて14人のエルガーの友人たちの特徴が表現されていますが、それらが誰なのかというのが1つ目の謎。しかしこれは現在解明されています。もう一つ、全曲を通じての大きな主題が隠れているがそれは何でしょう、というのが2つ目の謎で、諸説あるがこれは未だに謎のようです。「愛の挨拶」で知られるエルガーは愛妻家で、この曲も妻のリクエストに応じてピアノを弾いていて生まれました。ちなみに1番目の変奏曲はエルガー夫人で、最後がエルガー自身です。

●ドヴォルザーク「イギリス」交響曲
 ドヴォルザークの交響曲第8番には「イギリス」という副題が付くことがありますが、イギリスの出版社から楽譜が出版されたというだけの理由で、イギリスというよりボヘミアののどかな風景を想像させ、ドヴォルザークの田園交響曲とも言われます。ドヴォルザークのそれまでの交響曲はワーグナーやブラームスの影響を残していますが、この第8番はまさにチェコの音楽であり、有名な第9番「新世界より」にアメリカの要素が入っていることを考えると、この第8番は国民楽派ドヴォルザークの真の代表作なのかもしれません。この曲は譜面が比較的簡単なためか学生オーケストラで演奏されることが多いのですが、その音符からは豊かな自然と人間の感情が湧き出てきます。小松氏のタクトに導かれる新響の熱い演奏にご期待ください!


ドビュッシー/交響詩「海」

星剛(ファゴット)

   クロード・アシル・ドビュッシーは、1862年パリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レーにて生まれた。小さな陶器店を営む家庭内に、特別な音楽的環境は用意されていなかった。彼にとって初めての音楽体験は、伯母クレマンティーヌの住む南仏カンヌに一時身を寄せていた際であるが、彼はイタリア人のヴァイオリニストにピアノの手ほどきを受けた。この8歳でのカンヌの滞在は彼に鮮烈な印象を残した。約40年後、楽譜出版業者ジャック・デュランに宛てた手紙で当時を回想している。

 「私は家の前の鉄道と地平線の奥の海を思い出しますが、それは、時として、鉄道が海から出てくる、あるいはそこに入ってく(あなたの好きな方を選んで下さい)ように思われたものでした。
 それから、また、アンティーブの街道、そこにはたくさんのバラが咲き乱れていましたが、私の生涯を通じて、私は一度にあれだけたくさんのバラを見たことはけっしてありません。あの街道の香りはたしかに陶然とさせるものでした・・朝から晩まで歌-ひょっとしてグリーグの歌?-を歌っていたノルウェー人の大工を含めて・・」

 この少年時代の美しい思い出は、詩的で感受性の強い作曲家の片鱗を感じさせる。また彼にとっての最初の「海」の記憶かもしれない。そして彼の父親マニュエルは、息子の将来を船乗りにと考えていたが―おそらく父親が若い頃海兵隊に勤務していたことに起因する―、カンヌでのレッスンの結果、次第に音楽家にしたいと考え始めた。パリに戻り本格的なレッスンを受けたドビュッシーは、1972年若干10歳にしてパリ国立高等音楽院に入学。彼は後年次のようにも語っている。同世代の作曲家であり指揮者のアンドレ・メサジェに宛てた手紙である。

 「おそらくあなたは、私が船乗りとしての素晴らしいキャリアを約束されていたこと、そして生活上の様々な偶然が私の進路を変えさせたにすぎないことをご存じないでしょう。それでも、私は彼女(=海)に対する情熱を持ちつづけてきました。」

 「海 三つの交響的素描」は1903年から作曲され、1905年3月5日に完成された。前作のオペラ「ペレアスとメリザンド」が賛否両論あったもののひとまずの成功に終わり、音楽家として社会的地位を得てからの最初の重要な作品がこの「海」であった。彼の他の管弦楽曲に比べて完成まで1年半という非常に短い期間で書かれた作品であるが(「夜想曲」は約5年、「映像」3部作に至っては7年を要する)、この期間彼はその人生の中でも最も辛い苦境の中にいた。1899年にリリー・テクシエと結婚するが、3年も経つと下町娘的であった彼女とうまくいかなくなり、1903年頃には自らの生徒の母親エンマ・バルダックとの関係が始まっていた。彼女は社交界でも有名な歌い手であり、リリーとは対照的な教養を身に付けた女性であった。夫婦仲は冷めていたものの、ついに彼に別れ話を切り出されたリリーは、絶望しピストルで自らの胸を撃ってしまう。幸い未遂に終わったが、エンマが裕福な未亡人であったことが、金目当てに伴侶の許を去ったというゴシップを増幅させ、騒動はパリ中が注目する一大スキャンダルに発展した。リリーとの離婚調停は結局1905年8月まで続き、このことは彼に多大な疲弊と孤独をもたらしたが、このような状況下でも「海」のオーケストレーションは続けられた。
 作曲家は「海」という作品について多くを打ち明けてくれてはいない。故に完成から1世紀が経過した今でも、多様な解釈を可能にしている。ここで再度アンドレ・メサジェに宛てた手紙を取り上げよう。

 「あなたは前述の作品(=「海」)に関連して、大西洋は必ずしもブルゴーニュの丘に打ち寄せはしないと私におっしゃるでしょう!・・そして、それはまさに(画家の)アトリエで書かれた風景画に似たようなものだと!でも私には無数の思い出があります。私の考えでは、そちらの方が現実よりましです。」

 また固有の作品について述べられたものではないが、1911年のある談話は「海」を理解する上で参考になるだろうか。

 「誰が音楽創造の秘密を知るだろうか?海のざわめき。海と空とをへだてる曲線。葉陰をゆく風。鳥の鳴き声。こういったすべてが私たちのうちに多様な印象をもたらします。そして突然、こちらの思いとはおよそなんのかかわりもなしに、それらの記憶のひとつが私たちの外にひろがり、音楽としてきこえてくるのです。それは、おのれのうちにみずからの和声をひめています。」

 もう一つ重要な事実がある。ドビュッシー本人の希望により、「海」の初版の表紙に葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」(「富獄三十六景」の第二十八景)が採用されたのである。当時、主にフランスの芸術界に広がっていたオリエンタリズム、ジャポニズムへの関心―ドビュッシーの自室には「海」のスコアの表紙と同じ絵が飾られていた。彼のピアノ作品「映像」第2集の3曲目「金色の魚」は、同じく自室にあった日本風の蒔絵の箱の蓋に描かれた、柳の下を泳ぐ鯉から霊感を得たと言われている。しかしながら、ドビュッシー自身の口から日本美術の影響について具体的に語られたことはなく、これらの情報は、確実に無関係ではないだろうが、北斎の浮世絵が「海」という作品の内部にまで影響を与えている証明にはならない。同じく画家からの影響という意味では、イギリスの画家ターナーについて次のような逸話もある。同時代のピアニスト、リカルド・ビニェスの1903年6月13日の日記である。

 「ドビュッシーの家に行った。彼は新たにピアノのための新作(=「版画」)を聞かせてくれた・・何たる偶然か、それらの曲はターナーの絵を思わせると彼に言うと、自分はまさに、それらを作曲する前、ロンドンのターナーの間で長時間過ごしたんだ、と彼は私に答えた!」

 1905年10月15日、ベートーヴェンの交響曲第7番、ダンディ、ベルリオーズの作品と共に「海」は初演された。ドビュッシーが「猛獣使い」と酷評したシュヴィヤールの指揮に責任の一端があることに疑いの余地はないが、それにしても好意的な批評や作品の独創性を認めるそれはわずかであった。ドビュッシー研究の第一人者フランソワ・ルシュール曰く、

 「このスコアの特殊性が読み取れるようになるには、数世代必要だった。それほど、「海」のスコアは、伝統的な分析には捉え難いのだ。1905年には、革新に最も注意を払っている聴衆にとってですら、「海」は「ペレアス」よりもはるかに途方に暮れてしまう作品だった。」

 批評家ピエール・ラロは「海」の初演直後に出た『ル・タン」紙の批評欄で、次のように評した。

 「はじめて、ドビュッシーの絵画的な作品に耳を傾けながら、私は、自然を前にでは全然なく、自然の複製を前にしているという印象を持った。素晴らしく繊細な、創意に富み、器用に細工された複製だが、それでも複製に変わりない・・・。私には海が見えず、聞こえず、感じられない。」

 ドビュッシーは反論する。

 「私は海を愛していて、海に払うべき情熱的な畏敬の念を以て、海に耳を傾けてきました。海が私に書き取らせるものを私が下手に書き写したとしても、私たち相互のどちらにも関係のないことです。そして、すべての耳が同じように知覚しないということでは、あなたは私たちの意見に同意なさるでしょう。」

 ―すべての耳が同じように知覚しない―ドビュッシーが我々に与えた、僅かであるが必要十分な情報 をガイドに、思い思いの「海」を感じていただければ幸いである。また彼が言った「自分にとってパンとぶどう酒の代わりとなる、つねに一層先に進みたいという、欲望」の下、強固な意志を以って、自らの芸術的な理想を追い求めた姿に思いを馳せていただきたい。

 曲は3つの楽章から成る。
  1.海の夜明けから正午まで
  2.波の戯れ
  3.風と海との対話

参考文献
『伝記 クロード・ドビュッシー』フランソワ・ルシュール著 笠羽映子訳(音楽之友社)
『ドビュッシー書簡集1884-1918』フランソワ・ルシュール編 笠羽映子訳(音楽之友社)
『作曲家◎人と作品シリーズ ドビュッシー』松橋麻利著(音楽之友社)
『作曲家別名曲解説ライブラリー ドビュッシー』(音楽之友社)
『ジャポニズム入門 ジャポニズム学会編』(思文閣出版)
『ジャポネズリー研究学会会報2』

初  演:1905年10月15日カミーユ・ジュヴィヤール指揮コンセール・ラムルー管弦楽団

楽器編成:フルート2、ピッコロ、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、ファゴット3、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、コルネット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、トライアング ル、シンバル、タムタム、グロッケンシュピーゲル(またはチェレスタ)、ハープ2、弦5部

イベール/交響組曲「寄港地」

倉田京弥(トランペット)

■海と作曲家
 「海」は作曲家にとって特別な存在のようです。時には穏やかに時には激しく荒れ狂い、人間と言う存在の小ささと自然の偉大さを思い知らされます。そこは、生命の源であり、神秘的な青い星を形作る 源として、古くから芸術家の心を捉えて放しませんでした。
 この時代、海に魅せられた作曲家はとても多く、有名なところでは12歳で海軍兵学校に入ったリムスキー=コルサコフ(後に「シェヘラザード」で波の情景を見事に描写した)や、「作曲家になれなかったら船乗りになっていただろう」と語ったドビュッシー(結局彼は船乗りにはなれず「海」や「小船にて」などの曲を書いた)などが挙げられます。生粋のパリジャンであるイベールも、大海原に対する憧れはひとしおで、パリ音楽院在学中に勃発した第一次世界大戦に乗じて、自ら志願して海軍に入り、地中海各地の港を巡り異国の印象を心に刻むこととなります。
 また、バレエ組曲「三角帽子」などで有名な、スペインの作曲家ファリャはイベールのいとこで、時々、イベールはマドリッドのファリャの家を訪れています。この旅行の際に、海沿いのバレンシアに立ち寄った可能性も大いにあります。多くの国の港に立ち寄った経験のあるイベールにとって、「寄港地」とは単なる港町や陸地というよりも、もっともっと深い意味を持つ言葉だったのでしょう。
 交響組曲「寄港地」の原題が「Escales...」と意味深な「...」が付いていることからも、寄港地に対す る彼の特別な思いを察することができます。

■パリからローマへ、そして各地へ
 イベールが「寄港地」を作曲したのは30歳~32歳の頃。1919年に29歳でローマ大賞を受賞し、その副賞として翌年から3年間、住み慣れたパリからローマ音楽院へ留学していた時期でした。この頃のイベールの作品には学校への提出用の課題やデッサンなどが多数含まれており、「寄港地」もその中の作品の一つです。
 ローマ留学中、イベールは地中海各地を旅行し、さまざまな異国の印象をスケッチに残します。以前、海軍士官として各地の航行した経験とあいまって、地中海のきらびやかな印象と異国情緒あふれる風景を美しく鮮明に記した作品ができあがりました。

■日本とイベールの意外な関係
 ところで余談ですが、日本とイベールには意外な関係があります。昭和15年に開催された「紀元二千六百年記念行事」のための祝典曲を、日本政府は欧米の6カ国に依頼しました。このうちフランス、ドイツ、ハンガリー、イタリアの4ヶ国から奉祝曲が寄せられましたが(イギリスのブリテンの作品は「レクイエム」だったため日本政府が受け取りを拒否)、その時フランス政府が国を代表する作曲家として選任したのがイベールでした。
 当時、イベールは50歳。ローマのフランスアカデミーの院長であるとともに、後のフランス国立歌劇場連盟総長候補としてフランス随一の実力と人気を博しており、友人のミヨー、オネゲルを差し置いての抜擢でした。
 ちなみに、この時寄せられたイベールの「祝典序曲」は、昭和15年12月に東京歌舞伎座で山田耕筰指揮により演奏されています。

■交響組曲「寄港地」
 さて、今回演奏する「寄港地」には「三つの交響的絵画」と副題が設けられ、それぞれの曲に地名が 付いていますが、これは後にイベール自身が付け足したものです。しかし、イベールの曲に寄せる思い を感じるための重要なヒントになっています。

第1曲 ローマ―パレルモ
 ローマからパレルモに至るティレニア海は、今も昔も穏やかで豊かな、真っ青な海が広がっています。パレルモは、シチリア島北部にある港町で、古くから貿易による富と太陽に恵まれて、ギリシャ、ローマ文化が栄え、特にイベールが立ち寄った20世紀初頭は国際都市として栄華を極めた時期でした。
 曲は、6/8拍子の穏やかなフルートに始まりますが、次第に沖合いに出てうねりも高まり、パレルモが近づくと、シチリアの陽気な舞曲タランテラがトランペットと打楽器により描かれます。シチリアに降り立つと南国の喧騒と情熱的なリズムに包まれますが、それも次第に静まり、冒頭の穏やかな海の情景が戻ってきます。(ちなみに毒グモの「タランチュラ」は、噛まれるとタランテラを狂ったように踊り続けるという伝説から名づけられたそうです。)

第2曲 チュニス―ネフタ
 チュニスは古代ローマ時代のカルタゴの衛星都市として栄えた、古代遺跡が今になお残る、人口80万人あまりの都市です。16世紀にはオスマントルコに支配されたものの、19世紀にはフランス領となるなど、さまざまな文化が融合した街で、メディナと呼ばれる旧市街地はユネスコの世界遺産にも登録されています。
 ネフタは、北アフリカの砂漠のオアシスの街で、古くからの観光名所です。イスラムの影響を強く受けたネフタはヨーロッパの人々にとって特に異国情緒を感じられる場所で、映画「インディージョーンズ」のロケ地にも使われました。そう言えば写真の市場の風景にはどこか見覚えがありませんか?   4/4拍子と3/4拍子を組み合わせた7拍子の曲で、チェロのリズムに乗って、オーボエがアラビア風のエキゾチックな旋律を奏でます。長い砂漠の旅の先にあるオアシスは、水と食料が待つだけでなく、酒と女と金と、さまざまな欲望の渦巻く土地でもあります。さて、今日のオーボエはどれほど妖しい響きを奏でるのでしょうか。

第3曲 バレンシア
 3曲目は、スペインの東側に位置する港町バレンシアの「火祭り」をテーマにした楽章です。バレンシアの火祭りは、毎年3月1日~19日の間繰り広げられる伝統的な祭りで、数百のファラス(木と布でできた張りぼて人形)が街中を練り歩きます。祭りの最大の見所は3月15日から19日のハイライトで、大きなファラスに火が放たれ、メラメラと盛大に燃え上がるとともに大きな花火が街中で上がります。この祭は別名「サン・ホセの祭り」とも呼ばれます。マリアの夫であるヨセフ(スベイン語でサン・ホセ)の職業が大工であったことから、昔からこの地方の大工の間ではサン・ホセの日に木屑などを燃やして焚き火をする習慣がありましたが、いつの間にか飾り付けが派手になり、人形を燃やすようになりました。
 3/8拍子の活気あふれるリズムにより、スペイン舞曲セギディーリャが始まります。カスタネットの軽快な響きに乗って時には洒落た踊りをみせ、また5/8拍子の緩やかな旋律を経て、次第に祭りは盛り上がり、打楽器を加えて曲は佳境へと展開していきます。
 さまざまな主題が交錯しながら興奮は最高潮に達し、スペインの熱い夜を象徴するかのような管楽器の盛り上がりと激しいリズムのうちに幕を閉じます。

参考文献
『ファリャ生涯と作品』興津憲作著(音楽之友社)
『最新名曲解説全集7 管弦楽曲IV』(音楽之友社)
『バレンシア観光協会ホームページ』

初  演:1924年1月6日ポール・パレー指揮コンセール・ラムルー管弦楽団

楽器編成:ピッコロ、フルート2(1番は第2ピッコロ持ち替え)、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、ファゴット3、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、シンバル、大太鼓、小太鼓、 タンブリン、カスタネット、ドラ、トライアングル、木琴、チェレスタ、ハープ2、弦5部

ニールセン/交響曲第2番「四つの気質」

常住裕一(ヴィオラ)

 クラシック音楽にある程度詳しい方でも、ニールセンという作曲家は、名前は聞いたことはあるけれどもあまり馴染みはなく曲も知らない、という人が多いのではないだろうか。かくいう私もニールセンの曲は過去1曲、それも30年近く前に演奏したことがあるだけであり、交響曲は初めての経験である。ここでは知られざる巨匠ニールセンをまずは近代音楽史の中に置いてみることから始めてみたい。
 この交響曲第2番が初演された1902年、ニールセンは37歳、同じ年齢のシベリウスは有名な交響曲第2番を作曲、ドビュッシーは40歳で、歌劇「ペレアスとメリザンド」の完成間近、同じく40歳のマーラーは交響曲第5番をこの年に発表、R.シュトラウスは38歳、名だたる交響詩を書き終わり、これからオペラを書こうという時期、ラヴェルは27歳で初期のピアノ曲「水の戯れ」以外まだ有名な曲は書いていない。28歳のシェーンベルクは前回の定期演奏会で新響が取り上げた交響詩「ペレアスとメリザンド」を執筆中であった。ストラヴィンスキーやバルトークはまだ20歳前の若者で、ロマン派の巨匠たちの中ではサン=サーンスが67歳で健在であった。まさにロマン派音楽の終焉を間近に控え、新しい音楽がこれから生まれようとしているときである。ニールセンの音楽は、今名前を挙げた同時代の作曲家たちのいずれのものとも似ていない。だが彼もまた、何か新しい音楽を模索し、生み出そうとしていたのである。
 ニールセンの音楽の印象は、重厚でごつごつした感じがあり、当時の主流であった半音階的な書法や 色彩的な和声を駆使した音楽とは趣がかなり異なる。後期ロマン派特有の仄暗いところは全く見られず、筋肉質で力強く前進していく音楽である。初めて接した時は耳慣れない転調やリズムが非常に耳に付くが、それらはニールセン独自の理論に基づくものであり、やがて3番以降の交響曲をはじめとする彼の代表的な作品の中で花開いていくこととなる。

■生涯
 カール・ニールセンは1865年6月9日に、デンマークのノーレ・リュンデルセという農村地帯に生ま れた。父はペンキ職人で、子沢山ゆえ大変貧しい生活だったが、ヴァイオリンとコルネットをたしなみ、 村の楽隊を組織して結婚式やお祭りで演奏をし、評判となっていた。ニールセンは6歳から父の手ほど きでヴァイオリンを始め、やがて父のバンドに入って村の行事などで弾くようになった。14歳のとき、故郷から7マイルほどの小都市オーデンセの軍楽隊に入り、ホルンとコルネットを担当し、4年間務めた。1884年にコペンハーゲン音楽院に入学し、音楽史、音楽理論、作曲法、ヴァイオリン奏法等を本格的に学んだ。この時期の作品はヴァイオリンソナタ、弦楽四重奏曲など、すべて弦楽器を使った習作である。1889年から王立劇場オーケストラの第2ヴァイオリン奏者となり、彼の作曲も管弦楽へと向かっていく。1890―1891年に政府から奨学金を得てドイツ、フランス、イタリアへ遊学、ワーグナーの「指環」の上演を見た。また、デンマーク人の女性彫刻家アンネ・マリー・ブロデルセンと会い結婚。この旅行の翌年に交響曲第1番が完成し、交響曲作家としてのニールセンのスタートが切られた。そして、1901年からオペラ「サウルとダヴィデ」と平行して交響曲第2番「四つの気質」が書き始められ、1902年に完成した。1908年から6年間王立劇場の音楽監督を務め、この間に声楽入りの交響曲第3番「広がり」、ヴァイオリン協奏曲が書かれた。1914―1918年は第1次世界大戦下であるが、彼は1915年から音楽協会と王立音楽院での教育の仕事に精力を傾けた。交響曲の方も1916年に第4番「滅ぼし得ざるもの」、1922年には代表作第5番、1925年に最後の交響曲である第6番「シンプル」と傑作が生み出された。晩年にはフルート協奏曲、クラリネット協奏曲がある。1930年王立音楽院院長に就任。1931年心臓発作のため66歳で死去。
 彼はあらゆるジャンルに多くの作品を残したが、とりわけ交響曲と、デンマーク語による素朴な歌曲 が高い評価を得ている。
 なおわが国では一般的に「ニールセン」と表記されることが多いが、デンマーク語の発音は「ネルセ ン」に近い。

■「四つの気質」という標題について
 この標題がついていることがこの曲を非常にユニークなものにしているといえる。この発想はニールセンが田舎の居酒屋で壁にかかっていたコミカルな絵を目撃したことによる。その絵は4部からなり、人間の4つの気質、すなわち胆汁質、粘液質、憂鬱質、多血質の人間をそれぞれ描いていた。この分類は古代ギリシャのヒポクラテスやガレノスに由来し、血液型発見以前はこの分類が西洋では一般的通念であった。これらの絵に描かれている人間の気質、性格への興味が作曲のきっかけになったのだが、曲は伝統的な交響曲の形式で手堅く書かれ、単なる描写音楽ではない。

■各楽章の解説
 普通であれば、ここで音楽形式を中心にお話しするところであるが、ここではニールセンが各楽章に割り当てた気質と音楽の関係に注目してお話ししたい。

第1楽章 アレグロ・コレリーコ
 「コレリーコ」とは胆汁質で怒りっぽい、という意味で使われている。胆汁質とは、愛憎が激しくて怒りっぽく、誠実で決断力に富み、明晰な概念付けを行うことを好み、結論を出したがる、という気質である。冒頭で示されるテーマ(譜例1)がこの胆汁質の象徴として示される。これに対して第2主題(譜例2)はテンポを落として穏やかに歌われるが、転調を繰り返し、その移りやすい性格を暗示する。

譜例1
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譜例2
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第2楽章 アレグロ・コモド・エ・フレマティコ
 粘液質を表す。「鈍く、そして冷静に」という発想で、穏やかな落ち着いた音楽である。粘液質の特徴は、慎重で好き嫌いを表に現さず、思考力があり冷静、滅多にやる気を起こさない、というものである。この楽章も、とりとめもない伴奏音型に、あまり主題らしくない主題(譜例3)が乗り、最後はとりとめもなく消えていく。

譜例3
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第3楽章 アンダンテ・マリンコーリコ
 「憂鬱なアンダンテ」という意味で、憂鬱質を表している。憂鬱質の人は独創性豊かで探究心が強いが懐疑的で固定観念にとらわれがち、非社交的で孤独な性格といわれる。第2楽章と同様のモティーフで始まる主題(譜例4)をもち、短調と長調の間を浮遊してメランコリックな気分をかもし出すが、やがて劇的で起伏に富んだ音楽となっていく。

譜例4
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第4楽章 アレグロ・サングイネオ
 サングイネオとは「血」を意味する言葉から転じた形容詞で、「多血質」を表している。
 多血質の特徴は、明るくユーモアを持ち、思いつきで行動し、気分や印象に左右されやすいが、感じがよく優しい人が多い、というもので、この楽章も最初の主題(譜例5)から明るく飛び跳ねるような活気に満ちたものである。平和で穏やかな中間部をはさんで曲は行進曲風に盛り上がって熱烈なクライマックスを築く。

譜例5
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 ニールセンについての印象を何人かの団員に聞いてみたところ、なかなか具体的な答えが返ってこなかった。やはり、皆私と同様に馴染みがなく分類しにくい個人様式に戸惑っていたのかもしれない。ただし、練習を重ねるうちにだんだん好きになった、という人がほとんどであった。人間の気質も音楽の内容も簡単に分類できるものではなく、奥深いものだが、真摯に付き合い愛情を持って接することで新しい地平が開けるのだと、今回この曲に取り組んであらためて感じた。そういった歓びを皆様に伝えることが出来れば幸いである。

参考文献
『作曲家別名曲解説ライブラリー2「北欧の巨匠」』より
「ニールセン」菅野浩和著(音楽之友社)
『最新名曲解説全集 補巻第1巻
「交響曲 管弦楽曲 協奏曲」』より
『ニールセン 交響曲第2番』菅野浩和著(音楽之友社)
『ニューグローブ世界音楽大辞典』(講談社1996)

初  演:1902年12月1日、コペンハーゲンにて。デンマーク・コンサート協会主催のコンサートにおいて、作曲者自身の指揮によって行われた。

楽器編成:フルート3、オーボエ2(2番はコールアングレ持ち替え)、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、弦5部

4つの気質と体液病理学 ~自分の気質を知ろう~

大原久子(Hr)

 ニールセン(1865-1931年)はデンマークの作曲家です。シベリウスの次くらいに有名な北欧の作曲家なのですが、意外と演奏機会が少なく新響は初めての挑戦となります。なぜ今回の演奏会でニールセンかというと、指揮の山下氏は若い頃にデンマークの指揮者コンクールで優勝しており、その縁で振ったヘルシンボリ交響楽団(スウェーデンの南部ほとんどデンマークの近く)ではニールセン交響曲全曲を演奏しているのです。ニールセンを全部やったことのある(しかも北欧で!)日本人の指揮者はそうはいませんから。
 ニールセンの交響曲は6番までありますが、山下氏によれば1番は習作に近いし2番が一番ニールセンらしいんじゃないかということで、比較的メジャーな「不滅」ではなくまずこの曲に取り組むことになりました。
 さて、この交響曲第2番には「四つの気質」という標題がついています。1楽章:胆汁質、2楽章:粘液質、3楽章:憂鬱質、4楽章:多血質といった具合に、各楽章がそれぞれの気質を表現しています。
 名曲解説辞典によれば『「四つの気質」という表題の所以は、彼がゼーランド(デンマークを構成する島の一つでコペンハーゲンもその上にある)の田舎を訪れたとき、ある所で「気質」をテーマとした水彩画を見て感興を覚え、やがてこの交響曲を作曲したことによる。しかし彼は音楽をもって水彩画をなぞったのでもなく、特定の人物の性格を描写したものでもない。水彩画に描かれている人間の気質、性格への興味が、このような作品を書かせるに至ったものである』とあります。

●体液病理学について
 この「水彩画」というのがはたしてどんな物だったのかわかりませんが、気質に関してこのような図を見つけました。
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 体液病理学は古代ギリシャ時代から19世紀にいたるまで信じられてきました。「人間の体液は血液、粘液、黄色胆汁、黒色胆汁からなり、その体液のバランスによって病気が引き起こされる」というものです。(病理学とは文字通り病気の原因やメカニズムを解明する学問のことです。)ギリシャ哲学では4元素(空気、水、火、土)、4元性(冷、熱、乾、湿)であり、これらとの類似性で4体液が考えられたのです。空気のように温かく湿った血液、火のように温かく乾いている黄胆汁、水のように冷たく湿っている粘液、土のように冷たく乾いている黒胆汁、4つの体液が正常に混和していれば健康で、そのバランスが失調すると病気になる、というわけです。
 古代ギリシャでは、体液病理学のほかに固体病理学(病気の所在は身体の固体部分、つまり臓器にある)の学派がありましたが、ヒポクラテス(紀元前400年頃)のいたコス派の体液説の方が大勢だったようです。この頃の治療は瀉血(皮膚を切開して毛細血管から血液を抜く)や下剤によって悪い体液を排出することが中心でした。方法学(体内の空隙の緊張と弛緩により病気が起こる)中心であった古代ローマにもガレノス(紀元130-200年)によって体液病理学が伝えられました。こうして体液病理学は17世紀までヨーロッパ医学に影響を与えました。
 18世紀になってモルガーニ(1682-1771年)によりようやく体液病理学の4体液説が論破され固体病理学の基礎が固まり臓器病理学へと発展します。顕微鏡が発明され18世紀後半には病理学に使用されるようになりました。その後ロキタンスキー(1804-1878年:当時の高名な病理学者)が体液病理学を復活させますが、現代病理学の父といわれるウィルヒョウ(1821-1902年)によって細胞病理学(病気は細胞の質的・量的変化によって生じる)が誕生し、体液病理学の幕は閉じます。
 ちなみに、モーツァルトが35歳の若さで病死したのはご存知と思いますが、当時主流であった体液病理学の医師によりモーツァルトの治療に瀉血が行われました。ウィーンのモーツァルトハウスには同時代に用いられていた瀉血の器具が展示されています。瀉血のしすぎで体力が弱ったのが死因ではないかという説もあるようです。

●シュタイナーによる「4つの気質」
 現在の病理学では4体液説は誤ったものとして認識されていますが、教育学の世界ではシュタイナー(1861-1925年:思想家、哲学者)の教育論により4つの気質について知られているようです。子供や教師、親を4つの気質で分類し教育に活かそうというものです。
 日本では血液型による性格分析がもてはやされていますが、血液型は骨髄移植でもしない限り一生変わらないのに対し、誰もが4つの気質をすべて持っていてどれが強く出るか状況や年齢により変化するとされています。シュタイナー教育で各気質がどういう傾向ととらえられているかまとめてみましょう(この表は大人の場合です)。

  外へ 内へ
多血質 はつらつ、感じがいい、好印象、積極的、行動的、外向的、幅広い、気軽、気さく、親しみやすい、人付き合いがよい、社交的、柔軟、思いつく、アイディアがある、発想の転換が出来る、偏見がない、他人の考えを理解、自由な感じ、開放的 思いつき、軽い、深まらない、広く浅い、表面的、軽薄、軽率、移り気、当てにならない、責任を持たない、中途半端、持続・長続きしない、完成が苦手、くよくよしない、落ち込まない、楽天的、楽観的、おめでたい
胆汁質 積極的、行動的、活動的、エネルギッシュ、自己主張する、自己顕示欲が強い、騒々しい、自信に満ちている、指導者、他人に押し付ける、高圧的、反発を受けやすい、攻撃的、横暴、暴力 意思が強固、信念を持つ、不屈、剛穀、理論的、論理的、論理明晰、素早い判断、決断が早い、やさしさ・思いやり・気配りに欠ける、感情の細やかさ・繊細さに欠ける
粘液質 ふくよか、動作が遅い、緩慢、受身的、消極的、控えめ、無関心、怠惰、怠け者、穏やか、温厚、円満、信頼される、せっかちでなく待てる、激しない、大らか、包容力がある、些細なことに動じない 鈍い、鈍感、やり続ける、やり抜く、粘り強い、伸張、熟考、正確、確実、着実、几帳面、意志が強い、屈強、芯が強い、柔軟性・融通性に欠ける、頑固、固執する、執念深い、繊細でない、平静、冷静、自制的
憂鬱質 小心、臆病、心配性、非外交的、非社交的、控えめ、遠慮がち、無口、寡黙、懐疑的、否定的、悲観的、たまに別人のように活発 敏感、神経質、気難しい、不機嫌、内向的、ふさぎ込む、洞察力がある、語学力、美的センス、芸術的、理想や真実に従う、思慮深い、慎重、冷静、思い込みが激しい、柔軟性に欠ける、頑固、厳格、固定観念、自己中心的、被害者意識が強い

●健康を支配するもの
 細胞病理学から発展した現在の医学は、いわゆる対症療法が中心です。発熱や痛み、かゆみといった不快症状があれば消炎鎮痛剤やステロイド、副交感神経遮断剤などで症状を抑えますが、それらの症状は生体の治癒反応であるのにそれを阻害しさらに血行を悪くして症状を悪化させてしまうこともあるのです。数多くの患者をこなし薬を処方しないと成り立たない現在の医療制度ではしかたがないのかもしれませんが、最近免疫力や東洋医学が注目されているのは、そういう治療に疑問を感じるようになったからでしょうか。
 免疫の立場から病気をとらえると、白血球(防御系)、自律神経(調節系)、体温(循環系)がキーポイントのようです。
 血液中の白血球は、主に細菌や真菌を処理する顆粒球とウィルスなどの微小異物を処理するリンパ球からなり、顆粒球が54-60%、リンパ球が35-41%でバランスがとれているのを免疫力が高い状態といいます。免疫は自律神経(生体調整機能を制御する神経でそれぞれの臓器に対し交感神経と副交感神経が拮抗して働く)と連動しており、活発な生き方をすると交感神経が優位となり顆粒球が増加し、おだやかな生き方をすると副交感神経が優位となりリンパ球が増加します。年齢によっても変化し、子供時代はリンパ球が多いのですが15-20歳で逆転し加齢により顆粒球が増加していきます。また、ストレスや心の悩みで顆粒球が増加し甘い物の食べ過ぎや運動不足でリンパ球が増加します。顆粒球過多では胃腸炎といった組織破壊の病気に、リンパ球過多ではアレルギー性疾患になることが多いのです。
 体温もまた自律神経と関係があります。健康な人は体温(平熱)が36度以上ありますが、体温が十分ある人でも、活発な人は高め体を動かさない人は低めになります。しかし交感神経が過度に緊張すれば血管が収縮して体温は低下し、不整脈、高血圧、高血糖、筋緊張、便秘といった症状が出てきます。逆に副交感神経過剰優位でも活動量や代謝が低下して低体温となり、徐脈、低血圧、低血糖、疲れやすい、むくみといった症状が出てきます。
 鍼灸治療の作用機序は自律神経を整え血行をよくすることですし、有名なにんじんジュース断食は老廃物を排泄し免疫力を高めるのが狙いです。ヒポクラテスの時代に排泄と自己治癒力が重視されたことを考えると、体液病理学的な考えと共通しています。

●本当に4体液説は間違っているのか
 それでは白血球、自律神経、体温で4つの気質を考えてみるとどうなるでしょうか。縦軸に体温は4体液の図と同様ですから、横軸を自律神経と白血球にして同じように気質を当てはめることができます。
 多血質:体温が高く副交感神経優位の人は行動的でおだやか、血行がいいから多血質ですね。
 胆汁質:体温が高く交感神経優位だと活動的で激しい。肉を多く食べると交感神経優位になるのでこういった人は消化のために胆汁が多く出るのでしょう。
 粘液質:体温が低く副交感神経優位の人はあまり動かず穏やか、さらに副交感神経過剰優位になると疲れやすくアレルギー性疾患になりやすい。4体液説の白色粘液は脳を取巻く髄腔から流れるとされ、骨髄で作られるリンパ球による炎症反応で生じる粘液と考えれば当たっています。
 憂鬱質:体温が低く交感神経優位だと行動的でなく敏感、さらに交感神経が緊張するとイライラして神経質になり血管収縮や組織破壊性疾患を起こしやすい。4体液説の黒色胆汁は脾臓にあって粘調で黒褐色といわれ現在でも正体不明。顆粒球による炎症反応で膿が生じ血液が混ざって赤黒くなったものかと想像するのですが、顆粒球は骨髄で作られますし脾臓はリンパ球の産生と古くなった赤血球の破壊を行う所なので残念ながら該当しません。しかし黒色胆汁は災いの原因としてはもっとも強力とされており現在は多くの病気(7割)が交感神経緊張側で起こると考えられているので、その辺は共通しています。
 以上を図にすると次のようになります(私の説なので信憑性はありません)。
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 体液病理学には2000年もの歴史があります。誤りはありますが考え方には学ぶことも多いはずです。「4つの気質」は迷信ではなく、実は医学的な根拠があるのだと思います。自分の「気質」が何かを知ることは、生き方を見直し健康に過ごせる機会になるかもしれません。

<参考文献>
・西洋医学史ハンドブック ディーター・ジェッター著 山本俊一訳 朝倉書店
・病理学の歴史 エズモンド R.ロング著 難波紘二訳 西村書店
・気質でわかる子どもの心 シュタイナー教育のすすめ 広瀬牧子著 共同通信社
・免疫進化論 安保徹著 河出書房新社
(安保徹先生の著作には一般向けの物も多いです。どんな生き方をすれば免疫力が高くなるか興味のある方は読んでみてください。)



行き着く先を実感したい ― 飯守泰次郎氏にきく

 2006年の新交響楽団・創立50周年シリーズにおいて、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」で圧倒的な音楽性と指導力でもって演奏会を大成功に導いた飯守先生。あれから約1年半ぶりの登場となります。飯守先生と共演したシューマンの交響曲では4度目で今回最後になる第1番「春」と、初挑戦で更なる新境地を開拓されるシェーンベルク「ペレアスとメリザンド」について、その魅力を中心にお伺いしました。

-まずはシューマンの交響曲の魅力についてお伺いします。

飯守 シューマンの本質をはっきりと言い切ることは出来ませんが、彼のパーソナリティから考えるとシンフォニーを作曲するには向かない作曲家だったと思います。ご存知のようにシューマンの場合は「ピアノの年」「歌曲の年」「室内楽の年」など、年代よって同じジャンルの作品を大量に集中して作曲していく傾向がありました。まず最初にピアノ曲から始まるのですが、次の歌曲まではとても素晴らしかったのです。その次に1841年の「交響曲の年」へと続きます。とはいっても第4番は既に第1番の時に作曲され、第2番は1846年、第3番は1850年というように、4つのシンフォニーはいくつかの年に分散して作曲されています。また草稿もいくつか残されていています。ヘ短調とかト短調、ハ短調、イ短調など、いろいろと修作の跡があるのです。ではなぜそのように試したかと言うと、彼はものすごく苦労していたんですね。やはりシンフォニーには向かない作曲家だったと思うのです。ピアノ曲や歌曲に向いていた、そういうパーソナリティなのだと思います。
 ところが彼はドイツの作曲家としてバッハをとても研究し、次にベートーヴェンも研究しています。その結果、自分はこれらの偉業を継承する責任があると覚悟し、全身全霊を傾けてシンフォニーに取り組んだのです。ですからシューマンのシンフォニーの最大の魅力は、向いていないジャンルに本気で取り組み、苦労して作り上げ練り上げたところにあると思います。だけれどもその中にちょっとした未完成な部分や、出来の悪さが見受けられる、そこにもものすごく魅力があると思うのです。ちょっと良くない言葉ですが歪んだ魅力というか、苦労の跡がうかがえる魅力と言ってもよいでしょう。例えばベートーヴェンとかブラームスはもう完璧なわけです。同時代のメンデルスゾーンにしても同じです。ただシューマンの場合にはその中にちょっと無理がある。たとえばオーケストレーションひとつとっても何かそこに苦労の跡が見られて、もう少し違うやり方が出来たのではないかなと思うことがあるのです。弦楽器がなぜあれだけ細かい音符を刻まなければならないのだろうかとか、管楽器が浮き立ってこないなど。ただしその音楽性や音楽的発想が、本当に素晴らしいんですよ。

-初演当時のホルン奏者は当時の楽器では冒頭の部分を吹けなかったそうですね。 

飯守 あの頃のオーケストラの実力というのは今では知る由もないですが、当時の交響曲の初演というのはかなり貧弱なものだったらしいです。またドヴォルザークあたりまではとても小さなオーケストラで演奏していたようです。随分前に聞いたシューマンのオーケストレーションの話ですが、当時のセカンドヴァイオリンが上手く弾けなかったため、その部分を管楽器で補ったそうです。それでどんどん楽器が重なってしまったとか、聞いたことがあります。ところどころに変な部分があるのは、弾けない箇所を補って書かなければならなかった当時の事情があったのかもしれません。

-交響曲第1番を作曲したときはちょうどクララと結婚した時になりますね。

飯守 彼が一番幸せな時です。

-その一方シューマンの音楽の中には精神的な悩みのようなものを常に感じます。 

飯守 そのとおりです。またシューマンの精神的な悩みというのは、シューマンの魅力と見事に直結していると思います。それはピアノ曲や歌曲のとても幸せな曲の中にも出ています。例えば交響曲第1番の冒頭ではホルンとトランペットが春の到来を告げます。それはまだ発病していない時の幸せに満ちているのだけれども、オーケストラ全体で繰り返した後、急にニ短調になってハ短調になってしまう。そうすると単なる幸せな春の到来ではなくなり、その先のシューマンの鬱がもうすでに表れているような気がするのです。彼の音楽的な魅力は、彼の血の中に存在する精神病的な不安定さにあると思います。

-またシューマンは批評活動を通して新しいものを次々と紹介していきました。彼の活動には休むことを知らないという感を受けます。 

飯守 ショパンの才能をいち早く告げた有名な言葉「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」などの論評活動が有名ですね。しかしこれまた彼のパーソナリティから考えると雑誌の編集者なんて出来るわけが無いんです。なのにそれらを自分の任務だと思ってやっている。論評活動は彼にとってはものすごく負担だったと思います。そして先ほど申し上げたドイツの作曲家としてシンフォニーを継承するという責務を感じていたわけで、まさに苦しみの連続でした。それで精神的にだんだんひどくなっていきます。そういった苦しみがシューマンの作品には常にあり、またそこが魅力の一つだと思うのです。こういう傾向は他の作曲家にはあまり無いです。
 一方そういった病的な魅力はマーラーの作品の中にもあります。ただマーラーの場合は見事なまでに現代人の精神的矛盾まで繋がっていきます。例えば「やがて自分の時代が来る」と言っているように、もう予測してやっているわけです。マーラーは自らそこに入り込んでいって、ある意味「苦しみの特権階級」みたいに自分をしてしまったのです。だけどシューマンの場合は違います。そこから必死に抜け出そうとする、あがく苦しさが見えてくるのです。必死にもがき苦しんでいる魅力といってもよいでしょう。

 -クララとの結婚も大変でしたね。例えば夫婦でロシアへ演奏旅行した際、クララの成功がものすごかったのに対して彼は全然認められていなくて、「クララのご主人」と言われていたそうですが。 

飯守 そうですね。そのロシアへの演奏旅行の後でだんだんと彼は落ち込んでいくわけです。まずもともと血の中にあった精神病的なもの、次にはクララの父親を含めた問題がありました。クララの父親は最初から彼の本質を見抜いていたのです。そして夫婦としてのキャリアのぶつかり合いですね、まあこれはよくある問題ですが。
 それからもう一つ大事なことは、若きブラームスの登場です。シューマン自身「新しい道」という表題でその若者を強く賞賛して音楽界に迎え入れて、家庭にまでも迎え入れて友人として付き合っていたのだけれど、クララと非常に親しくなっていきました。逆にシューマンが入院してしまった時など、ブラームスが家族の面倒などもみています。そのあたりが精神的な病を早めた、ひどくしたのではないかとも考えられます。ラインに身を投げる前に結婚指輪を投げたりしていますね。クララとブラームスの間では300通を超える手紙のやりとりがあったそうですが、そのうちのかなりの部分が削除されたり、破棄されたので本当のところはよくわかりません。

-シューマンは一番正直に自分の病気に悩んだ人だといえるのでしょうか。 

飯守 作曲家が悩み始めたと頃というのは、ちょうど作曲家が教会や王侯貴族などから独立し始めた頃から始まります。例えばハイドンやモーツアルトは貴族に仕えていたけれども、ベートーヴェンは完全にそこから抜け出して自立しました。そういったしがらみから抜け出したあたり、だいたい1800年くらいから個人の悩みや苦しみというものをぶつけて、それらを材料として作曲していくという動きが出てきました。もちろんハイドンだって勝手をやっているし、バッハだって随分ときかん坊でわがままで好き放題やっていたらしいけれども、一応社会人としての枠の中には収まっていたわけです。それがモーツアルトやベートーヴェンあたりから収まらなくなってきました。シューベルトなどもそうです。一方メンデルスゾーンは病弱でお金持ちだったこともありきちんとした社会人だったようですが、これは例外だと思います。シューマンになると完全に精神病の傾向が顕著になってきます。
 そして音楽の中にもロマン性と同時にちょっとづつ毒が入ってきました。ワーグナーやリヒャルト・シュトラウス、そしてマーラーなどはその毒を非常に上手く利用した作曲家だといえます。逆にシューマンの場合は違います。だから彼の場合よくぞ交響曲を4曲も作曲できたと思うのです。しかも4曲とも名曲で後世まできちんと残っている。一種の奇跡ともいえます。よく勉強した上で、自分の性格に反してまでも懸命に取り組んだこともありますが、やはり音楽的な発想というのが素晴らしかったのだと思います。

-さてシェーンベルクへ移ります。まずテキストとなったメーテルランクの戯曲「ペレアスとメリザンド」はリヒャルト・シュトラウスが勧めたときいていますが。 

飯守 シュトラウスはシェーンベルクに仕事が無くて娘も生まれて困窮していた頃、写譜の仕事などもあげたりしていました。そしてメーテルランクの戯曲を勧めたのですね。

-まったく同時期にフォーレやドビュッシー、シベリウスなどがこの戯曲を取り上げたというのも面白いと思うのですが如何でしょう。 

飯守 流行とでもいいますか、象徴派(注1)の詩人がものすごく魅力を引きつけた、ちょうどそういう時代だったのです。

-世紀末という時代背景も関係するのでしょうか。この後に第一次世界大戦が勃発し、いままでの価値観が崩れ去った時代といえます。 

飯守 もちろんです。世紀末というのは毎世紀あるわけですけれど、あの世紀末はもの凄かった。政治的にもそうですが、例えばシェーンベルクやマーラーなどの作曲家をはじめ、画家、建築家なども含めてその退廃の度合いが凄まじい。もう今後もあれ程まで行くことはないでしょう。本当に大変な時代でした。我々現代人はそれを通り抜けてきたから達観したところがありますが、あの頃はどろどろと燃えたぎっていました。それであまりに生々しくなってしまったので、ベルギーやフランスなどは象徴主義や印象主義などへすっと脱却していったのです。

-メーテルランクはこの頃のどろどろしたものを浄化しようとして作った戯曲なのだけれども、シェーンベルクはこれを使ってどろどろの極致を開拓したということでしょうか。

飯守 それはあたっていますね、どろどろを引き戻してしまったというやつです(笑)。

-他の作曲家はメルヘンのような綺麗な仕上がりですが、シェーンベルクはなぜこのような音楽をつけたのか、ちょっと理解しがたいのですが。 

飯守 そうですね、他の作曲家の表現は大人か子供かわからないような神秘性に包まれているところがあるわけですよね。ところがシェーンベルクの作品だけはぐんと熱い。ペレアスが殺されるところなど凄いではないですか。フォルティッシモの打楽器と金管楽器でもってあんな殺し方ですよ。また冒頭の陰鬱な森のテーマは非常に「トリスタンとイゾルデ」的ですし、その他にもいたる所に「トリスタンとイゾルデ」を思わせる響きを見つけることができます。
 その一方シェーンベルク自身が劇音楽として忠実に書いたと言っているように、メーテルランクの書いてある筋とおりに音楽は進行していきます。この作品の面白いところは、まず言葉が無いこと、そしてアクションもない、けれども戯曲に起きていることがかなり忠実に描写してあることです。あともう一つの特徴としては、示導動機(注2)と言ってもよいくらいに多くの動機が張り巡らされていることです。

-この作品についてアルバン・ベルクがアナリーゼ(楽曲分析)をしていますが。 

飯守 シェーンベルク自身の解説によると、ペレアスとメリザンド、ゴローとあと運命などの動機は意識しているけれども、あくまで劇音楽として忠実に書いたとなっています。けれどもベルクがよくよくアナリーゼしてみたら、思っていた以上の示導動機が出てきたのです。またこれによると楽章などのシンフォニックでクラシカルなフォームまできちんと入っています。一方ワーグナーはそこまではやっていないわけで、それがとても面白いと思います。
 シェーンベルクはこの作品の中で、非常に抽象的な美観の中にクラシックの要素を入れています。ベルクの解説はちょっとこじつけくさいところもありますが、確かに彼の構造の中に存在するのです。逆にシェーンベルクはあまり意識していなかったようだけれども、ベルクはそれを完全に掘りおこしています。最初に示導動機を提示したところが第1楽章、そして第2楽章がスケルツォ、中間部のゆっくりしたところが緩徐楽章で、そしてペレアスが殺された後冒頭に戻ってくるところがフィナーレになっていく、という具合にです。そう言われれば確かにそうなっています。この点は演奏する側は知っておいてもよいかと思います。

-シェーンベルクはきちんとした音楽の勉強はしたことがない、と伝記等に書かれています。ですがこれだけ数学的に作曲出来て、なおかつ大変ロマンティックです。どこで勉強したのでしょうか。 

飯守 ツェムリンスキー(1871年~1942年 オーストリアの作曲家)がシェーンベルクに対位法の指導を行なっていますが、これがシェーンベルクの受けた唯一の音楽教育と言われています。またこの時代にツェムリンスキーも同じ努力をしていたわけですが、あくまでも調性から離れなかった、そして不幸な死を迎えてしまいました。逆にシェーンベルクの場合はもう完全に調性に行き詰ってしまったのです。そして改革してしまった。

 -この作品の魅力は何でしょうか。 

飯守 私が「ペレアスとメリザンド」をやりたくて仕方がなかった理由の一つとして、調性のある曲としてはシェーンベルクの最後の作品になることです。次の作品からは12音技法などの新ウィーン楽派に移行します。「グレの歌」は作品番号では後になりますが、実はこの前に書かれています。
 調性の崩壊についてですが、例えばワーグナーでいうと「トリスタンと