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貴志康一:交響組曲「日本スケッチ」

小松一彦

Ⅰ 貴志康一について
 今年は“夭折の天才”と呼ばれる関西の生んだ貴 志康一(1909~1937)の生誕百年にあたり、全国で 顕彰のイベントが催されているが、当団でも演奏・ 紹介できる運びになった事は、1983年以来貴志康一 作品の伝道師を自認し世に広めてきた私にとって大 変嬉しく、この楽団の邦人作品に対する積極的な姿 勢を改めて高く評価したい。
 さて、貴志家は元来紀州の武家であったが、祖父 が大阪の船場で財を築き、裕福で恵まれた環境の下 で康一は伸び伸びと育った。その一例が“日本人で 初めてストラディバリウスを買って国内に持ち込ん だ人”として時の人となった事であろう。これの購 入には流石に祖父もなかなか首を縦には振らなかっ たそうである。それはそうだろう、当時でなんと6 万円(現在の数億円!)もしたと言うのだから。
 しかし、その活動は“浪速のぼんぼんの道楽”で は終わらなかった。「大正モダニズムを代表する文 化人」として“祖父の財と父の智”を受け継ぎ欧州 で華々しく活躍したのも功績のひとつであり、社会 学的見地からもそこから現代人が学び「現在・未来 の日本」というものを考える、よいモデルとして彼 の研究が、音楽以外の分野でも今年始まった(東大 大学院)事は特筆されよう。

Ⅱ その音楽的バックボーンと活動について
 康一は小学校5年生の時に芦屋の別荘に移った。 その「子どもの家」と名付けられた洋館では毎週土 曜日に家庭音楽会やワーズワース(英国の詩人)の 朗読があったなどの素晴らしい家庭である。
 それには、日本が第一次世界大戦やロシア革命の 戦禍を幸いにして受けずにそこそこ富裕になったこ とが大きな要因としてあり、そのまた結果として 「習い事」も大いに促進され、それに加えて阪神間 には亡命ロシア人を初めとする多くの優れた外国人 音楽家が流れつき、定住した事が幸運であったと言 えよう。私の考えでは、「阪神間のクラシック音楽 の受容の歴史」にはスラブ系音楽・音楽家の影響が 強いという特徴があると思う。
 康一は、亡命ロシア人ヴェックスラーに師事して ヴァイオリンを本格的に、また熱狂的にさらいはじ めた。また当時宝塚交響楽団(大阪フィルはまだ存 在しない)の常任指揮者に赴任していたチェコ人の ヨゼフ・ラスカに音楽理論の手ほどきを受けた。
 そうこうしているうちに、康一は遂にヨーロッパ 留学を考えるようになる。第一次渡欧(1926)、17 歳である。スイスのジュネーブ音楽院に入学し研鑽 を積み、意気揚揚と帰国してヴァイオリンリサイタ ルなどを開く。

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        1923年 叔父良雄・ヴェックスラーと共に

 第二次の渡欧(1930)は今度はドイツのベルリン に向かう。その頃から康一はヴァイオリニストから、 作曲家・指揮者への転身を考えるようになる。又も や帰国して日本に住みついていたユダヤ人のピアニ スト、レオ・シロタ(今年「シロタ家の20世紀」と いうこのユダヤ人一族の数奇な運命を描いた、ノン フィクションドキュメンタリー映画が日本でも公開 された記憶は新しい)などとのコンビは注目と賛辞 を浴びた。

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          1930年頃 レオ・シロタと
 さていよいよ本命の第三次渡欧(1932~35 ベル リン)であるが、当時のベルリンの音楽界はかつて ない栄華を誇っていた。フルトヴェングラー率いる ベルリンフィルをはじめ、ブルーノ・ワルターの市 立歌劇場、エーリッヒ・クライバーの国立歌劇場、 そして1928年にブレヒト/ヴァイルのジャズオペラ 「三文オペラ」が初演されヨーロッパ中に一大ショ ックを与えた、クレンペラー率いるクロールオペラ 劇場などが競いあっていた夢のような時代。

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        1931年3月30日フルトヴェングラー宅での記念撮影

 康一は持ち前の社交性も武器に先ず作曲家のヒン デミット、そして指揮者の近衛秀麿を通じてフルト ヴェングラーとも知遇を得て活動の基礎を築いて 行く。
 しかし1933年、ヒトラー・ナチスが政権を握ると 悪名高い「ユダヤ人の迫害」が始まり、フルトヴェ ングラー以外のユダヤ人指揮者そしてユダヤ人音楽 家は皆いなくなってしまう。康一はそれを横目に見 ながら活動を続け、1934年にまず映画のウーファ交 響楽団、そして遂にベルリンフィルの指揮台に登場 し、テレフンケンレコードに自作自演をベルリンフ ィルで録音してレコードを作るという快挙までやっ てのけたのであった。

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  1934年11月18日ベルリンフィルを指揮し、「日曜コンサート」を開催

 1935年に帰国した康一は、先ず宝塚交響楽団を指 揮して関西デビュー、次いで東京に進出してNHK 交響楽団を指揮してベートーヴェン「第九」演奏会 や、初来日した巨匠ピアニスト、ウィルヘルム・ケ ンプなどと共演し話題と人気を攫(さら)ったが、1936年6 月、病を得て僅か28歳でこの世を去った。  華麗にしかし束の間で活動を閉じた生き様はあま りにも哀しく、「彗星の音楽家」と呼んで冥福を祈 りたい。

Ⅲ 交響組曲「日本スケッチ」と貴志の音楽について
 貴志康一の音楽は一言で表現するなら「旧くて新 しい」。毎回、演奏者の心をときめかせてくれるエ ネルギーを持っているのが素晴らしいのだ。「スラ ブ民族も羨む情熱」とベルリンで評された、指揮台 の上狭しと動きまわるエネルギッシュな指揮振りや 少年のような心の憧れをもつ瑞瑞しい感受性と抒情 性は、彼の作曲にそのままフィードバックされてい る。

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        1936年 帰国後、W.ケンプと共演

 それに加えて管弦楽法の師であり、大きくアドヴァイスを受けたモーリス譲りのオーケストレーショ ンが何といっても素晴らしい。
 日本的な古謡・俗謡・民謡などを素材に使うのは 「ヨーロッパの人々に日本の心・文化を『分かり易く 伝える』」ためであり、その上に優れた管弦楽法の中、 ヨーロッパの近代音楽(フランス近代音楽やヒンデ ミットの新音楽)のエッセンスがスパイスとして振 り撒かれているのである。

第1楽章「市場」
 先ず市場の賑いが描かれ、その後人が絶えた気怠(けだる) さをサキソフォンが奏するのが、フランス近代音楽 やジャズの影響を感じさせ先進的で新鮮。
第2楽章「夜曲」
 導入部と結びに昭和初期大流行した歌謡曲「君恋 し」の旋律と歌詞が使われており、これは「夕闇が 迫ってきたからこれから夜曲を聞きましょう」とい う貴志康一一流の洒落である。主部の旋律はメラン コリックで切ないもの。
第3楽章「面」
 この時代には珍しい変拍子で、おどけた「お面」 を表現する。中間部は対照的に、神秘的な「能面」 を表す。
第4楽章「祭」
 この曲を私が持参し、世界中で受けに受けた貴志 らしいエネルギッシュな楽章。中間部では、再び登 場するサックスの豪快さとオーボエやヴァイオリン の繊細な独奏などが心地よいコントラストを形造る。 再び遠くから祭りが戻ってきて最後は華やかに曲 を結ぶ。

写  真:学校法人甲南学園(貴志記念室)所蔵資料

初  演:1934年11月18日 作曲者指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
楽器編成:フルート3、ピッコロ、オーボエ2、クラリネット2、 バスクラリネット、アルトサックス、ファゴット2(2 番はコントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トラ ンペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、 小太鼓、大太鼓、シンバル、カスタネット、トライ アングル、タンブリン、鞭、ウッドブロック、鉄琴、 木琴、弦5部
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