第160回演奏会(1998年1月)維持会ニュースより


祝祭と鎮魂と---紀元2600年を巡る二つの作品---

新響フルート奏者 松下俊行

神武天皇の即位の年代
 山田和男作曲『大管絃樂の為めの交響的《木曾》』の自筆スコアの表紙には「東京・11月10日・1939(2599)」と作品の完成日時が記されている。西暦1939年に並んで( )内に皇紀である2599という数字が記されている処にひとつの時代を感じ取る事が出来るが、同じ時期「記紀」研究の泰斗であった津田左右吉の『神代史の研究』をはじめ4冊の著書が発禁処分を受けている。これは翌年に迫った「祝典」への周到な布石であった(発禁処分は1940年2月とする説もある)。
 明くる西暦1940年(昭和15年)は神武天皇の即位より2600年目。所謂「紀元2600年」である。年頭より世相は奉祝気分に湧いてはいたが、ここではひとまず措く。この皇紀(神武紀元)の元年は西暦何年に当たるかというところから入って行きたい。
 1940年が2600年目なのだから1940-2600=-660という単純計算によって 紀元前660年が求められる。実際には事態はそれほど単純ではないのだが、取り敢えず正解ではある。但しこの年代が計算の上で正しいからといっても問題は残るだろう。現代の我々は今から2600年以上前の当時の日本の社会がどのような姿であったかをおぼろげながら想起する事ができよう。残念ながらこの時代の日本に全国的な統一を果たした王朝が実在したという証拠は見つけ得ない。神武天皇の即位を「歴史」の観点から捉えれば、今日では荒唐無稽と言わざるを得ない。更には「記紀」研究の進歩に伴って、この初代の天皇の実在性に関する疑問は一層明確なものとなってきている。
 ただここで考えるべきは、神話と歴史との関係だろう。各々の民族が伝える伝承には当然の事ながら彼等固有の歴史が反映する。しかしそれが無限に流れる時間の或る一点に特定される事はむしろ稀な場合が多い。祖先から脈々と伝えられてきた「記憶」が濃厚であればあるだけ、客観的な実際の時間の経過は意識されなくなる。そこに合理性は必要とはされない。日本の場合も本来そうであった。

なぜ紀元前660年か
 ではなぜこの西暦紀元前660年が神武即位の年に当たるとされたかが疑問となってこよう。
 『日本書紀』神武紀は、その即位を「辛酉(かのととり)年」の春正月朔すなわち1月1日の事と記す。この「辛酉」とは何か。それには干支の仕組を知らねばならない。
 「干支」と書いてエトと読み、年末が近くなれば来年の干支が何かが話題にもなるが、この場合十干十二支=十の幹と十二の枝=のうち十二支のみが取り上げられることがほとんどである。本来は甲子(きのえね)や丙午(ひのえうま)の様に十干の部分(甲乙丙丁・・・)との60通りの組合せで年(及び日)を表す。十干は万物を形成する元素とも言える五行(木火土金水)を兄(え)と弟(おと)に各々分化したものである。即ち「木の兄(きのえ)=甲」「木の弟(きのと)=乙」の様になる。これを順番に十二支(子丑寅卯・・・)と並べる事によって出来る60通りを組合せをさして干支という。干支の発祥は勿論古代中国だが歴史は古く、殷虚から出土される甲骨文に既に現れており、中国の史書はこの干支が必ず明示されるから年代が特定できるのである。
 紙数の関係で詳しい説明は省かざるを得ないが、この干支のうち「辛酉為革命、甲子為革令」即ち辛酉の年に王朝が変わり甲子の年に法律が変わると考え、また例えばこの辛酉から次の辛酉までの60年間を1元とし、21元=1260年を以て1蔀(ぼう)とよび、この1蔀毎に世界的な変革が起きるという思想=讖緯(しんい)説は日本にも6世紀には伝来していた。辛酉と甲子の2つの干支は重要視された。日本では10世紀以降この2つの干支の年には必ず改元(年号を改める)が行なわれ、それは1862年(辛酉)まで続いている。

『日本書紀』編纂者の姿勢
 『日本書紀』の編纂(7世紀後半〜8世紀)は中国の史書に倣った日本初の修史事業というべきものであり、「歴史」ゆえの合理性がそこには当然求められることになった。この合理性とはとりも直さず膨大な伝承を時間の座標軸にはめ込んでゆき、整理する作業をともなう。勿論それまでにも干支による記録は各氏族間に点在していたには違いが、全てを天皇家の国家統一に関する伝承を中心に据えた形での時間の再構築が必要となったある。その原点が神武天皇の即位の年代決定であった。
 この困難な作業に従事した人々は、西暦601年(推古天皇9年)が辛酉の年であった事に着目した。この年には聖徳太子によって斑鳩(いかるが)に都が移されている。因みに12年(甲子)には十七条憲法が定められる。これも上記の「甲子為革令」に基づくと思われる。変革の時代であった。
 この推古天皇9年から上記の1蔀=1260年を遡った辛酉の年を神武天皇の即位の年と定めたと考えられている。これによって神武紀元の元年が西暦紀元前660年となる訳である。但し、この1260年間に即位した天皇の数は決まっているから一代当たりの在位期間が引き伸ばされ、それに伴って恐ろしく長寿の天皇を数多く産み出す結果となった。(例えば神武の崩御は127歳。これを初めとして以後崩年がいずれも100歳を超える天皇が続く)一見荒唐無稽な年代の確定はこうした彼らなりの必然性のある作業の結果であった。
 我々はこうした結果だけを見てこれを嗤(わら)う事はたやすい。だが遠き祖(おや)から伝えられてきた伝承に合理性を見い出すために彼等が用いた方法は、当時としては至上の知識であり技術であった。讖緯思想は歴史に対する哲学(史観)であると同時に暦法に由来する科学でもあった。また編纂者達は古代中国の歴代王朝の史書は勿論、百済の文献にも当たり日本の記録との整合性に腐心している。この思想と実証とを伴う姿勢は極めて客観的であり誠意あるものと評価するべきだろう。 

紀元2600年のレクイエム
 それに比べると1940年の日本人は情ない。冒頭に挙げた「記紀」研究書の発禁処分によって、実証的な研究と批判精神は封じられ、以後紀元2600年は自明の事として受容を余儀なくされたのである。ここにはもはや偏狭な狂信性しかない。
 この年の11月に行なわれた祝典への一環として海外の4人の作曲家に奉祝の為の作品が委嘱された事は割合有名ではあるが、今日知られているのはR.シュトラウスの作品ぐらいだろう。J.イベールも作品を寄せ山田耕筰の指揮により演奏されているのだが、僕は不勉強故未だ聴かぬままに過ごしている。実は作品を委嘱された作曲家はもう1人いた。それがB.ブリテンである。そしていち早く作品を日本政府に届けていた。但しその作品はレクイエムであった。祝祭に対する鎮魂の音楽。この事は様々な想像をかき立てるが、とにかくこれが為に日本では日の目を見ず、葬られてしまった。
 公式的には、現在でも作品の到着が締切に間に合わなかったため演奏されなかったという事で処理されている筈だ。また何故作曲者が祝典にふさわしからぬ鎮魂曲を書いたかについても、彼の反戦的な思想の表われとか、戦争の犠牲者(既に中国での戦線は伸びきり、膠着化していた)の為に書いたとか一見尤もらしい解説がなされている。が本稿を書くに当たり集めた、限りある文献の中でひとつだけこの理由について興味ある記事にぶつかった。

 イギリスのベンジャミン・ブリテン氏は、曲を提供することを承諾しましたが、日本からの委託の手紙の文面が理解に苦しむ英語で書かれており、そのどこにもこの催しが祝事であるということがほのめかされていなかったために、彼は故天皇をしのぶ曲を作るように委託されたと思ったのでした。当然の成り行きとして、ブリテン氏は哀歌を作曲しました。

「ジョン・モリスの戦中ニッポン滞在記」より

 こういうことは有り得る情勢だったかもしれない。内輪にのみ通じる言葉による独善的な論理と周囲への押し付け。狂信的な集団の祝典に有りがちな茶番といってもよい。当人たちが懸命であればあるだけより一層嘲笑の対象となり、哀れささえ漂う。元来祝典の音楽には何処か茶番の臭いが付きまとう。この時期には内外を問わずこうした奉祝の為の音楽が40曲以上も作られたが、以後の歴史の中でほぼ全て淘汰されてしまった。それは戦後の変換した価値観から捉えた紀元2600年奉祝、という条件を割り引いて見ても、である。何故なら全般に祝典の音楽の本質には必ず阿(おもね)りと追従(ついしょう)があるからだ。更にこの場合それらの強要が背後にあった事は想像に難くない。だから深井史郎の『創造』もそうした淘汰の例外たり得なかった。
 鎮魂の精神はそれとは比べるべくもない。人間全てが共有する死という宿命を悼む真摯さには余分な思想の入る余地はない筈だ。だからブリテンが上記の引用の様に「誤解」に基づいて天皇の為に哀歌を作曲したのだとすれば、その心に曇りはなかったと信じたい。少なくとも巷間したり顔で言われる前述の反戦思想の表象或いはわずか5年後に迫っていた帝国の崩壊への予言的な解釈-----深井史郎の作品に対してもこのような解説を耳にすることがあり、正直言ってウンザリしてしまう-----云々よりは数段高い精神だと僕は考える。
 紀元2600年の祝典は4年以上をかけて周到に準備された国家事業であったが、終わって見ればわずかな歌謡と記念の建造物を残した程度で、急速に人々の記憶から消え去った。こうして見るとこの祝典の最良の産物はブリテンのSINFONIA DA REQUIEMだったのかもしれない。ただ、結果的にこの作品は神国日本への挽歌となった。

 日本人がこの厳粛な音楽に対峙するまでには、狂信と茶番の果てに更に多くのものを失わねばならなかったのである。


本稿の内容を詳述してあり、且つ現在入手容易な参考図書の一部を以下に挙げておきます。
・藪内 清著「歴史はいつ始まったか」中公新書590
・坂本太郎他校注「日本書紀」岩波書店(日本古典文學体系)
・坂本太郎著「六国史」吉川弘文館(日本歴史叢書)
・ジョン・モリス著、鈴木理恵子訳「ジョン・モリスの戦中ニッポン滞在記」小学館
・山中 恒著「ボクラ小国民」辺境社

    


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