1998年6月維持会ニュースより


時代性を超越した創作神話『ニーベルングの指環』

新響コントラバス奏者 菊池晃子

すべて通してほぼ16時間、4日を費やして上演される舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』は、『ラインの黄金』『ワルキユーレ』『ジークフリート』『神々の黄昏』の4部からなる、音楽史上類を見ない超大作です。この台本は全てワーグナー自身によって書かれました。そして、その素材とされたのが、今から1000年以上前にゲルマン民族の間に伝わっていた神話やジークフリートを主人公とする英雄伝説です。
1847年、ワーグナーが『ローエングリン』を仕上げていた頃、世の中では「ゲルマン人の根源」を追究する風潮が高まっていました。ワーグナーも次の作品の主人公として、皇帝フリードリヒ1世、などの歴史上の英雄を想定していましたが、さらに根源的なものを求めた彼はゲルマン北欧の英雄伝説や神話に出会い、そこに創造上の束縛を受けない自由な表現を許す奥行きと広がりを見いだしました。
当時の風潮の中でゲルマン英雄伝説はワーグナーのほかの幾人かによって戯曲化されていますが、どれも原作の枠から飛躍することがなかったのに対し、ワーグナーは英雄伝説の背景である北欧神話の世界を広げ、さらにそれに独自の19世紀的世界観をとり混ぜて、独創性の高い作品を作り出しました。これは文学史において大変意義のあることだったのです。
1848年春にワーグナーは主人公をジークフリートに絞りました。そこで、まずはジークフリート伝説と指環をめぐる神話的背景をまとめた、エッセイ『ニーベルンゲン神話』が書かれ、それをもとにして3幕の英雄歌劇『ジークフリートの死』が書かれました。さらに、劇中で登場人物によって語られるのみだったジークフリートの生い立ちが描かれ、後の『ジークフリート』の前身である『若きジークフリート』が加えられました。このように作品が拡大されていく過程の中で、神話的背景の立役者であるヴォータン(神々の長、ジークフリートの祖父)の悲劇が中核的存在になっていきました。そして、ついに神話的世界が楽劇として追加され、『ラインの黄金』と『ワルキユーレ』の台本が書かれたのです。これが1851年のこと、現在の4部作へ形作られた『ニーベルングの指環』(以下『指環』)の全ての作曲が終わったのは中断をはさんで1874年、着想から実に26年が費やされたことになります。

それでは、ゲルマン英雄伝説とはどのようなものなのでしょうか。口承で伝わっていたこれらの伝説は、12、3世紀頃にライン河畔や北欧(主にアイスランド)で書き残されたいくつかの本によって現在にうかがい知ることが出来ます。その中でもワーグナーが素材として使ったであろうものは、『ニーベルンゲンの歌』(叙事詩〉、『エッダ』(歌謡集)、『ヴォルスンガ・サガ』(散文物語)です。
この3冊は、それぞれ伝えている部分にも内容にも違いがありますが、ジークフリート伝説として最も多くを伝えているのは『ヴォルスンガ・サガ』と『エッダ』で、ワーグナーは前者からより多くを取材しています。一方、『ニーベルンゲンの歌』は、その題から『指環』に最も近い内容と思われがちですが、『ヴォルスンガ・サガ』や『エッダ』の内容の1部しか伝えておらず、神話ともほぼ無関係で、神様は誰も登場しません。
歌謡集『エッダ』には英雄伝説のほかに、ゲルマンの神々の物語や神話的世界観が語られたものが収められています。『指環』でヴォータンとして登場しているのが、主神オーディンです。天上にあるワルハラ城に住む軍神で、万物の父であるとされ、その兄弟とともに人間の祖先を創ったとされていますが、ヴォータンは創造神としては描かれていません。ヴォータンの妻、結婚の神フリッカは神話におけるフリッグ、愛の女神フライアはフレイアを原型としています。
『指環』では全くの脇役として登場する雷神ドンナーにあたる雷神トールは、北欧神話ではオーディンの息子とされ、オーディンに並ぶ活躍をする神です。同じく脇役である、フライアの兄フローは、神話では豊穰と平和の神フレイです。力強い神で、民間信仰においてオーディンやトールと並んで人気がありましたが、『指環』では、神々がワルハルに入城するときに渡る虹の橋を架けるという以外の活躍はありません。
『指環』でドラマの鍵を握っている、火の神の化身ローゲは神話ではロキにあたります。ロキは巨人と神の間の子で、のちになって神族に入ったという変わり者です。火と破滅の神で、悪知恵で神々を助けたり災いをもたらしたりしますが、終末の際には軍勢を率いて神々に攻め入るという、神話の中でも一番の悪役的存在です。『指環』でもローゲはヴォータンが知恵袋として召しかかえた新参者で、直接的な悪事は働かないものの、詭弁のきく、かなりの曲者となっています。

ゲルマン英雄伝説は、黄金をめぐる争いを中心とし、「妬み」からくる闘争が復讐に次ぐ復讐へと展開する物語です。ワーグナーもそこに権力志向の呼ぶ悲劇という自らの劇のテーマを見つけ出し、「妬み」が生み出す原作のドラマの流れをそのまま『指環』に活かしつつ、独自の世界を展開させています。大筋において墓調となっているジークフリート伝説に、ある時は大きな、ある時は小さな変更を加え、さらに本来無関係であった神話のエピソードを切り貼りして巧みに関連づけて、全体としていわばワーグナーの創作神話というべきものをつくりだしたのです。
『指環』とその原作を比較して変更の痕跡をたどると、ワーグナーのオリジナリティーが浮き彫りにされてきます。ワーグナーの加えた最も大きく重大な変更は、ドラマの結末を愛による救済としたことです。愛による救済はワーグナーの常套手段ですが、復讐が復讐を呼ぶドラマを中心とするゲルマン伝説とははっきり主旨を異にしたのです。

ワーグナーのオリジナリティーは『指環』の世界観にも表われています。
北欧神話において世界樹を中心とする「地底、地上、天上」という垂直の3層構造をそのまま受け継ぎながら、ワーグナーはもう1つ、北欧神話にはない概念である原初の水の世界として、ライン河を付け加えています。神話では、世界は宇宙の中心にあった大きな奈落から生まれた巨人の死体から出来たとされていますが、この古代的な発想を全く取り入れていないことがわかります。
生命の源が水であることは、我々にとってはすでに常識となっていますが、ダーウィンの「種の起源」(1859年)も発表されていなかった当時、しかも土に還る発想が一般的であったキリスト教世界のヨーロッパでは斬新な発想だったと言えるのではないでしょうか。
さらにワーグナーはこの垂直的世界の構造に19世紀的な階層社会の構造をも描いています。それは地下に住む小人族と、おそらく人間界に住む巨人族が肉体労働に従事しているのに対し、天上に住む神々が契約という制度で他人を支配しようとしていることに象徴される、労働者階級と非生産的な知的階級の対立構造です。
また、階層に関係なく対立しているのが、愛情志向と権力志向です。指環の権力を手に入れるために「愛」を断念しなければならないのがその象徴といえるでしょう。この対立は、人間や愛すらも商品となって金銭でやりとりする資本主義への反発とも結びついているものです。この2つの志向は女性原理と男性原理に言い換えることができますが、結局は権力志向の男性社会が崩壊し、ブリュンヒルデの愛が指環の呪いを浄化して女性原理が最終的な勝利を得るのです。

最終的には世界は終末を迎えることになりますが、それをもたらすのは指環の引き起こす争いという直接的な原因のみではありません。
「冬が3年続き、貪欲から激しい戦争が始まる。太陽は狼に呑み込まれ、星は落ち、山は崩れ、海は怒涛となって押し寄せる。ロキの軍勢やその他の怪物が攻め入り、神々と相討ちとなる。その後、火の国の番人スルトが大地に火を投げて全世界を焼き尽くす。」北欧神話でラグナレク(ラグナロク)と呼ばれるこの様な世界の終末は、神々の倫理観の低下によってもたらされたことが暗示されています。『指環』でも同じ埋由による神々の弱体化が終末への過程に存在するのです。
弱体化を招いたものの1つはヴォータンの支配体制が自然破壊の上に成り立っていることの矛盾です。彼はその昔、世界樹の幹を切り取って槍を作り、世界支配の拠り所としました。そのため世界樹は少しずつ枯れていきますが、そういった自然破壊を気にもかけない程、自らの支配体制つまり文明社会の絶対性を過信していたのです。結局ワルハルは炎上し、地上はラインの水に押し流されて、自然に還っていくわけですが、そこにワーグナーの自然破壊への批判と自然回帰の願望が表されていると言えるでしょう。
神々の弱体化を招いたもう1つのものは、契約を世界統治のよすがとすることの限界です。そして、ヴォータンの契約不履行のかげの立役者であるローゲは、同時に自身が神々を滅ぽすものとなります。かつてヴォータンはローゲを神々の仲間に入れることで束縛しましたが、自由であった本来の形を歪めて利用しようとした結果、手に負えなくなりそれによって滅ぼされることとなるのです。古代から火は脅威であり、北欧神話の世界の滅亡も火によるものでしたが、『指環』における神々の姿は、文明の発達によって自然界にはありえない火を作り出し、支配しているつもりになっている現代の我々の姿でもあるのではないでしようか。また、歪められた火に遺伝子組替植物や化学物質、最近問題のダイオキシンなどが重なって見えて来たりもします。それらが現代の我々にとってのローゲであるのかも知れません。


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