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      <title>新交響楽団ホームページ</title>
      <link>http://www.shinkyo.com/</link>
      <description>　新交響楽団は、東京で活動しているアマチュアオーケストラです。会社員、教員、学生、主婦など、さまざまな職業、年令にわたる団員で自主運営され、年に4回の自主演奏会を中心に演奏活動を行っています。「いい演奏をしたい」「音楽が好きだ」という団員が集まって、熱いハートのある演奏をお届けします。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2012</copyright>
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         <title>第217回演奏会</title>
         <description>2012年4月30日（月祝）14時開演
曲目　伊福部昭／交響譚詩
　　　イベール／祝典序曲
　　　マーラー／大地の歌
指揮　飯守泰次郎
独唱　福原寿美枝（アルト）、福井 敬（テノール）
東京オペラシティコンサートホール
S席3,000円、A席2,500円、B席1,500円
（全席指定）</description>
         <link>http://www.shinkyo.com/01next/217.html</link>
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         <category>01next</category>
         <pubDate>Sun, 15 Jan 2012 01:10:41 +0900</pubDate>
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         <title>次回は4月30日(月・祝)、飯守泰次郎＝マーラー『大地の歌』!!</title>
         <description><![CDATA[第217回演奏会は、東京オペラシティにて飯守泰次郎を指揮に迎え、マーラー／大地の歌、伊福部昭／交響譚詩、イベール／祝典序曲を演奏いたします。どうぞご期待ください！詳しくは<a href="http://www.shinkyo.com/01next/">こちら</a>をご覧ください。]]></description>
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         <category>topic</category>
         <pubDate>Sun, 15 Jan 2012 00:14:08 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>2012年1月15日</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.shinkyo.com/01next/">これからの演奏会</a>を更新しました]]></description>
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         <pubDate>Sun, 15 Jan 2012 00:14:08 +0900</pubDate>
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         <title>第216回演奏会は終了致しました</title>
         <description>第216回演奏会は、1月14日東京オペラシティにて、山下一史氏を指揮に迎え、ムソルグスキー／展覧会の絵、ボロディン／交響曲第二番、リムスキー＝コルサコフ／スペイン奇想曲を演奏しました。お陰様でご盛況のうちに終了することができました。多くのお客様にご来場いただき有り難うございました。</description>
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         <category>topic</category>
         <pubDate>Sat, 14 Jan 2012 23:14:08 +0900</pubDate>
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         <title>西暦2001年の新交響楽団　＝マーラーの第５交響曲を巡るある回想＝</title>
         <description><![CDATA[<div align="right">松下　俊行（フルート）</div><br>

　10年ぶりにマーラーの第５交響曲を取上げるに当たり、前回演奏した当時の新響を振返ってみたいと思う。


<b>■選曲の「10年ルール」</b>
　演奏会が活動に於ける大きな節目である限り、どこのオーケストラでも「何をやるか？」は運営の要諦のひとつであると言って過言ではない。これを巡って団体内の意見が四分五裂して、ひとたびこじれればそれは組織の存立そのものさえ揺るがしかねない問題に発展しがちである。各奏者は自分ひとりでは解消しきれない、音楽に対する様々な欲求や見識を抱えて、オーケストラの門を敲く。そしてその一員となれば、当然そうした欲求の充足の具体的な方策を、日常の活動に従いつつ模索する事になるのである。「何故そんな事を・・・」と思われるかもしれないが、そもそもこうした欲求無しに、演奏をするという事はあり得ないのだ。

　新響ではそうした不毛且つ根源的な問題を解消するひとつの方策として<b>10年間は同じ曲を定期演奏会にかけない</b>という所謂「10年ルール」を設け、依頼した指揮者との選曲交渉の場でも、厳格に適用されるルールとして定着している（何度も新響と共演した経験のある方々には、周知戴いているほど）。
　例えば前回の定期で取上げたチャイコフスキーの交響曲第5番は30年間で３回しか公式の演奏会にかかっていない。この有名な交響曲をこの頻度でしか演奏していないアマチュアオーケストラというのは、演奏会の回数にもよるだろうが極めて珍しいのではないか？と感じている。新響の場合演奏会は年４回。１回に必ず３曲は難しいから平均して2.5曲(実情はもう少し多いと思うが)として1年に10曲、それを10年で100曲･･･つまりチャイコフスキーのような知られた作品でも、全く知られていない「隠れた名曲」であっても同等に扱われ、他の99曲を演奏した上でないと再演はされていないという事である。こうして考えると改めてこの「10年ルール」が新響の演奏活動に対してもたらしている「曲目の多彩さ」ともいう影響の大きさを痛感せざるを得ない。そしてこれだけ厳密にこのルールを運用して、同じ曲の演奏頻度を極力避けるようにしてさえ、まだまだ演奏した事が一度も無い、数々の優れた作品があるという現実･･･｢日暮れて道遠し｣の感は常につきまとっている。
　但し、このルールは伊福部氏の作品、そして芥川氏の歿後は彼の作品に対してはやや緩やかな適用にはなっている。新響が特別なつながりのあるこれら２人の作品･･･例えば『タプカーラ交響曲』や『絃楽のための三章』など･･･を、ともすると頻繁に演奏しているイメージがあるのも無理からぬ事なのである。


<b>■2001年の団内模様（ふたつの委員会）</b>
　という訳で今回の定期でマーラーの第５交響曲を取上げるのは、そのルールに厳格な運用の結果にほかならない。前回が2001年４月の第173回定期だったのでまさに10年という時が経過するのを待ち「満を持して」この大作に取組むという事になるが、これだけの時間が経過する間には、新響という組織もずい分と変化しているものだと改めて痛感する･･･というよりも、ちょうどこの10年前が、新響の大きなターンニングポイントだったと個人的には考えざるを得ない。
　当時と比較してこの団体の活動を司る諸々の運営体系を実際に運用し、団体の運営を進めてゆく個々の人々の考え方がこの2001年という年を契機として大きく変転したという事である。

　新響には活動を推進してゆく為の組織として<b>「運営委員会」</b>と<b>「演奏委員会」</b>というふたつの委員会があり、それぞれの役割分担を果たす事でこれが両輪となり、活動方針や具体的な方策が、両者によって構成される<b>「合同委員会」</b>によって決定されてゆく（重要事項については総会による承認によって決定）。かつて芥川氏が存命の時代は、<b>「音楽監督」</b>の役職があり、演奏委員会（当時は「技術委員会」名称）のメンバー選出に当たっての人事権を持っていたが、氏の歿後は常に空席であり、その空席を補うべくこうした機構が徐々に整備されて来ていた。簡単に言えば合同委員会の決定権限が強化されたという事である。また演奏委員会は演奏会に於ける団員個々の人事権に限って、握るに至っている。これが芥川氏歿後10年を経るうちに、音楽監督の空席を前提として、新響が行なった組織改革の中身である。この事は後に説明する事に深く絡んでくるのでご記憶されたい。
　この両委員会の構成メンバーの選出方法は全く異なっている。
　演奏委員会を構成するのは各パートの首席奏者に限定される。高度な演奏技量が選出の尺度となる各首席奏者は1年毎に見直され、全団員による投票から始まる一連の厳重な手続きを経て最終的に総会の信任で決まる。委員長はこのメンバーの中から演奏委員会でまず人選される事から始まり、合同委員会の推薦⇒総会の信任の手続きで最終的に決まる。この手続きはかなり煩雑であり、投票から総会まで２ヵ月近い時間もかかり、制度を管理・運営するための膨大な人の手間もかかる。が、個々の団員にとって演奏会のローテーションを管理するという謂わば音楽監督の「人事権」を代行する人々を選ぶからには、各人の「納得」を得る上でもこうした制度を長い時間をかけても、敢えて創始してきた歴史がある。このプロセスを経て首席奏者になる人の数は、当然ながら限られている。
　これに対し運営委員会のメンバーの人選は、まず運営委員長を全団員の投票によって選出する事から始まる。選挙期間が設定され告示⇒政見発表⇒投票･･･という流れで委員長が決まり、そこから委員長の意向によって各運営マネージャーが「組閣」されてゆく(総会で信任)。
　これと並行してこのオーケストラの運営に積極的に関わっていこうとする者や委員長の指名によって「運営委員」が決まる。この運営委員には特別に信任手続きを必要としない。すなわち運営委員会のメンバーは自分の「意思」さえあれば、よほどの欠格条件が無い限り、確実に委員会入りして、その運営に対して深く関わっていく事が可能なのである。
　こうした両委員会の成立ちの違いは、それぞれが果たすべき「機能」の違いに由来するものであるが、その違いが両委員会の性格の差異も決定づけていた。それは例えば構成メンバーの「流動性」に起因するものであったかも知れない。
　演奏委員会のメンバーすなわち各首席奏者の顔ぶれは、若い人材を入れるべく毎年改選を行ってもそうそう変わるものではない(例えば筆者は現時点で、23年間フルートの首席奏者を務めている)。また自パートの人事に対する責任感は、他方で内向きの関心に傾きがちで、本来負っている運営の片翼への責任に対する無自覚さを生み、団全体の運営に対する無関心へ向かっていた事は、当時の状況を振り返ってみるとその一員として、やはり認めざるを得ない。
　それは具体的には「合同委員会」への不参加という形ではっきり表れていた。これは裏を返せば<b>合同委員会の「運営委員会化」</b>という事を意味する。この風潮は新響と深く関わった最後の「部外者」である石井眞木氏との関係が切れた1994年以降強くなったように思われる。


<b>■事後承認とルール無視の風潮</b>
　それ以降2001年当時に至るまで、この運営委員会の主流は、<b>『日本の交響作品展’76』</b>のサントリー音楽賞受賞によって新交響楽団を世に知らしめるにあたり多大な貢献をした人々とその賛同者たちだったと言ってよい。彼らは芥川氏の謦咳にも深く触れ、その歿後は生前の言動を伝えるとともに、その路線の「一部」に過ぎなかった「邦人作品」を更に深耕させていく事で、新響というオーケストラの独自性を確立してゆく方法であるという考えだった。そこでは「演奏会企画」が重視され、選曲するとはすなわち「企画を決めること」であり、その「企画」とは<b>「どのようなテーマを持って、選曲の候補曲中に『邦人作品』を盛込むか？」</b>を考える事に変貌しつつあった。そしてこうした「企画」重視は次第に選曲の「10年ルール」を浸蝕するにまで至ったのである。
　この人々の企画立案の能力と、その実現に向けての行動力には瞠目すべきものがあった。それあってこそ自他共に新響の一時代を築いたと認められていたと言える。例えば1999年10月の第167回定期では、当時ハバロフスクの極東交響楽団芸術監督だったヴィクトール・ティーツ氏を招いているが、この実現のために彼らは文字通り東奔西走しており、それを団員も周知していた。或いは「邦人作品」企画に対する注力もそうである。費やされる時間も労力も到底他の団員の及ぶところではないレヴェルのものであったと断言できる。
　こうした状況が何をもたらしたかと言えば<b>「運営（企画）の専業化」</b>に他ならない。彼らは自負と自信を以って、新響の方向性を決め、推し進める。一方で他の団員は、彼らの行動力を目の当たりにして、「彼らに任せておかざるを得ない⇒任せておけば良い」という依存的な体質に変容した。
　これが更に進み、<b>「行動を起こした者の考えには従うべきである」</b>という風潮が蔓延し始め、団内でも公言されるに至る。「何故ならその行動は、純粋な情熱によるものだからだ（その情熱こそが、新響をアマチュアたらしめる根本である）」が理由として付け加えられた。そしてこれがさらに進行すると、こうして予め組立てられた「企画」に対し、合同委員会で異議をさしはさむ事が事実上出来なくなっていったのである。つまり莫大な予算が動くかも知れない非常に重要な案件であったとしても、誰かがその行動力によって独断専行してしまった事は、合同委員会でも「追認」するだけになってしまった。追認と言っても前述の通り、演奏委員会のメンバーは殆ど欠席で、一方の運営委員会の主流は彼らだった訳だから、こうなると殆どこのメンバーによる「壟断」と言って過言でない状態に陥っていたという事である。
　これは新響の規約が緩やかな規定にとどまり、団員個々の「良識」によって運用されるように作られている事に一因があったと考える。そのような性格の規約でなければアマチュアオーケストラは早晩立ち行かなくなるからである。だが、反面その条文の行間や間隙を突けば無限の拡大解釈も可能である事を意味する。この時点で規約はそうした危機を迎えていた。

　この体制は1996年7月に行なわれた2夜連続の演奏会(第152・153回定期)<b>『日本の交響作品展’96』</b>によって確立したと言えるかもしれない。彼らの主導によって新響創立40周年企画として行なわれたこの演奏会の掉尾を飾る作品として、諸井三郎の「交響曲第3番」が演奏されたが、その僅か3年半後の2000年1月(第168回定期)にも再演されるに至る。選曲に於ける「10年ルール」はあっけなく、いとも簡単に破られたのである。この選曲については遅くとも1999年前半には結論が出ていた筈であるが、新響内での評価も共有されていないこの作品の演奏に関して、空前絶後とも言えるルール逸脱がどのような過程を経て行なわれたのか？については、今もよく判らない。つまり極めて密室性の強い、横紙破り的な決定がなされたとの懸念を禁じ得ないのである。「壟断」の典型的な一例に敢えて挙げたい。

　実を言えば2001年のマーラーも「10年ルール」を逸脱している。前回の演奏は1992年7月（第136回定期：指揮は小泉和裕氏）だが、この2001年は、新響と「マーラーシリーズ」を完結させた指揮者　山田一雄氏の歿後10年目に当たっていた。そして同時にこの指揮者の「埋もれた」作品である『おほむたから』の再演が試みられた。つまり<b>『山田一雄歿後10年』</b>という企画のもとに、選曲のルールは譲歩を余儀なくされる結果となった訳だが、この程度は仕方ないと受け止められていた。何と言ってもこの指揮者は新響にとって大恩ある人だった。そして『おほむたから』･･･これは本来『おほみたから（「おおみたから」とよむ）』と題されたものであるが･･･は、昭和20年(1945年)の年頭に演奏されたまま、50年ぶりの蘇演という事もあり、遺族より自筆スコアを借り受けてそこから改めてスコアとパート譜を起こすという「新響らしい」手作り作業（但し、流石に作業はPC入力に置き換わっており、全員が手書きで譜面を起こすという「美談」は過去のものとなっていた）も伴った。
　だがこのマーラーの交響曲第5番が、10年を待たずして再演が決定された経緯についても、やはり不透明さは拭えないのである。


<b>■技術的衰退</b>
　こうした状況の中、新響全体の技術レヴェルは明らかに後退していたと断言できる。演奏委員会の団内に於ける影響力は相対的に低下し、技術向上のための積極的な選曲案を呈示する代わりに、降りてきた演奏会企画(すなわち選曲)に沿ってその実行に当たっての技術的具体案を練るだけの存在になっていたためである。また企画によって俎上に上る頻度が格段に増えた「邦人作品」は、団員の演奏意慾を確実に下げていた。
　そもそも新響創立40周年企画の一環として、この<b>『日本の交響作品展’96』</b>が決定するまでの経緯に於いても、「邦人作品」に対する新響内の位置づけを含め、議論が絶えなかった。それは新響の根強い成功体験となった1976年の同企画立案に際して芥川氏が提唱した新響にとっての「邦人作品」の定義である、
<b>① 旋律が明確である。
② 調性がある。
③ 戦前・戦中時代の作品である</b>
が、その後20年近い時間を経過する中で、その位置づけに変化を来たしているのではないか？との疑問に根ざしていた。日本の音楽界の実情も社会情勢も激変し、日本人の音楽作品の質も内容もおのずから変わって行く中で｢　｣付きの「邦人作品」にのみこだわる意味を見出しかねていたといえる。すなわち大半の団員は「邦人作品」への対応に倦み始めていたのである。これは今思い返しても危険極まりない兆候だった。新響に加わろうとする演奏者の殆どは、このオーケストラの技術的な力に自分を寄与させたいと考える。これは今も変わっていない。決して「邦人作品」を否定するものではないが、それが個々人の入団の「目的」とはなり難い。という訳で、企画を推進した彼らの真意は違うところにあったのかもしれないが、結果として個々の団員にとって・・・特に演奏委員会のメンバーにとって・・・<b>「技術的向上の否定」</b>と捉えられる結果を生んだ事は否定出来ない。事実2000年10月の演奏会（第171回定期）に於いて明らかな破綻となって顕れる。

　筆者はこの直後に演奏委員長となった。2001年の年明け以降、演奏委員会の活性化に努めるべく腐心する。同時にこれまで傍観気味に過ごしていた、合同委員会での劣勢だった意見に、委員会としてバックアップした。それは「選曲に対する団員としての（そして新響の技術的向上を実現する見地から演奏委員会としての）意見を一層強く提示すること」にほかならなかった。これから半年ほどの間は、合同委員会は選曲を巡る論争の場となった。両者の主張や議論の推移について、それ以前もそれ以後も見られぬほどの綿密な議事録が毎回作成され、団内への公表前には両者のチェックが必ず入った。この一事を見ても、委員会の雰囲気が量り知られようというものである。半年ほどは一進一退の状況が続いた。ギリギリまで決着がつかず、最後は運営・演奏両委員長間での妥協策が図られた事もある。こうした状況の中で4月のマーラーの第5交響曲は演奏されていた。


<b>■政策論争と転機</b>
2001年8月初旬の合同委員会で、運営委員会サイド（つまり彼ら）から突然新響の体制改革案が提示された。この日筆者は委員会を欠席する事になっており、それを見計らった電撃策だった（と今でも思っている。それまでは必ず委員長間で事前に委員会に諮る内容について連絡を取り合っていたからだ）。それは、
<b>①音楽監督を復活する（具体的な指揮者名あり）。
②音楽監督に対応する組織として、両委員会は統合する。</b>
　という事を主意としていた。その会合の出席者から晴天の霹靂というべき情報を受けて仰天すると同時に、その意味するところを考えた。

　①については具体的候補者はあるものの、打診がどの程度進んでいるのかは明らかでない。実現の可能性も判らなかった。つまり将来的な①を実現する為に、すぐにでも②の体制改革をして行こうとするプラン・・・すなわち両委員会を統合する事に主眼があり、それは取りも直さず演奏委員会を無力化する意図と読めた（今でもそうだったと信じている）。またこれを実現するためには流石に「運用」で凌ぐ訳にもいかず、大幅な「規約改正」が必要とされた。
　これが公表されると、これまで「邦人作品」路線を疑問視し、両委員会の確執を感じとっていた団員間にも考えを鮮明に表明する風潮が醸成されていった。そうした団員と筆者を含む演奏委員会のメンバーとの会合も頻繁に行われるようになる。事は選曲に端を発したこのオーケストラの「今後」の体制にまで深くかかわるものである。こうした時には様々な思惑から議論が交わされる。だがそこで最も主流になったものは、新響の<b>「演奏主体・技術の向上」</b>に対する危機感を抱く人々であったと言って良い。そして遂にはその流れの中から次期運営委員長擁立へと移っていく、というよりそうしない限り新響の本来の持ち味である「技術力」の保持は、難しいとまで我々は思いつめていたのである。新響団員である限り誰しも、「邦人作品」と向き合う事を否定しない。ただその偏重によって「技術力」が軽視される結果を招いている現状は望ましくない。技術力があればどのような企画も実現でき、且つ新たな人材も集まる。故に将来に向って団員のモチヴェーションを高揚させるべく、選曲の枠も更に拡大すべきである。という考え方である。

　この年11月末の運営委員長選挙は、両派からそれぞれの候補者が擁立され、「政策論争」が起こった。これは例年予定調和的に信任投票で収束する委員長選挙とは全く趣を異にするもので、それ以前に例はなく、その後の10年間にも無い出来事だった。それぞれが政見を述べ、団員からの質問も相次いだ。開票結果も緊迫感の中で公表され、まさに「僅差」で我々の候補者が勝った。その後の新響の方向が明確になった瞬間だったと言える。「新政権」が運営の布陣をすると並行して「選曲ワーキンググループ」を立ち上げられたのはこれまでの流れを一望すれば当然だった。そして翌2002年、彼らは新響を去り、オーケストラ・ニッポニカを設立するに至る。選挙の際は僅差だったが、結局大多数の者が新響に残った。これが「邦人作品」に対する団員の考え方の表れと考えるべきであろう。

　とはいえ、この後しばらくの間は、新響の「企画力」が衰えるのではないか？との懸念が団内に絶えなかったのも事実である。「選曲イコール企画」という呪縛が如何に強かったかの証左だった。だがここ10年の間に、技術的な理由や「邦人作品」定義の範疇外を理由に、それ以前には取上げられなかったあらゆる日本人作曲家の作品…例えば<b>黛敏郎・武満徹・三善晃・矢代秋雄・湯浅譲二・権代敦彦</b>等・・・の演奏を通じ、それが杞憂であった事を知っている。技術力を向上させて新たな人材を確保しつつ、広いレパートリーを聴衆に呈示する事が、聴衆・奏者双方の利益に資するという確信を得て今日を迎えている。

　選曲の持つ重要性はこれまでに見たとおりだ。「ルール」に縛られる必要はないが、団員個々の演奏に対する向上心への希求を無視しては、この組織は成立たないとの認識は、この10年間で団内に深く浸透したと確言できよう。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 13 Jan 2012 08:14:08 +0900</pubDate>
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         <title>2012年01月09日</title>
         <description><![CDATA[第216回演奏会のプログラム記事を掲載しました。事前にお読みくださると演奏をよりお楽しみいただけると思います。<a href="http://www.shinkyo.com/01next/216.html">こちら</a>です。]]></description>
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         <pubDate>Mon, 09 Jan 2012 23:55:23 +0900</pubDate>
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         <title>新響の秘密〜運営委員長就任６年目にあたって〜</title>
         <description><![CDATA[<div align="right">大原 久子（ホルン）</div><br>

　維持会員の皆様には、いつも新響をご贔屓にしていただきありがとうございます。本日は運営委員長の業務内容や新響の運営についてのお話をさせていただきたいと思います。
　私が新響に入団してから早いものでもうすぐ19年、私のホルン人生の半分を新響で過ごしている計算です。東京で入るオーケストラを探したとき、コネがないと難しかったり、ホルンは一杯だからとあまり良い顔をされない所が多い中、新響は常時全パート募集（現在一部パートはクローズしています）で、見学の対応も丁寧で練習後飲みに誘ってくれたので、新響に入ることにしました。
　実は学生の頃、参加していた室内オーケストラで、新響の名物運営委員長だった橋谷さん（故人）にエキストラで出演いただいたことがあり、楽器ができて運営もできる人はなかなかいないので、卒業後は是非東京に来て新響に入らないかと誘われたことがありました。結局卒業後しばらくは大学の医局で修行していましたが、その室内オーケストラでは立ち上げから関わってマネージャーという名前で会計と楽譜以外のほぼすべての業務を自分一人でやっていました。１人でやった方が手間暇がかからないというだけでマネジメント能力があったわけではありませんが、オケ運営のノウハウを手探りで身につけていました。
　運営委員長就任は2006年11月で現在６年目です。私の入団から運営委員長になるまでの14年間に９人運営委員長が入れ替わり、平均任期は1.56年。毎年改選があり通常２年務めて交替するのが新響のやり方と思っていましたので、長くやってることがいいかどうかはわかりませんが、おかげさまで現在新響は平和だということかと思います。<br><br>

＜運営委員長のお仕事＞
　オーケストラの運営というと、本番や練習会場の予約、宣伝活動やチケット販売、プログラム作製、楽譜や楽器の手配、演奏会の受付といった実務を思い浮かべると思います。もちろんそのような実務を取り仕切るのが運営委員長ではありますが、「新響が良い演奏活動をするためにどう運営して行くか」を考え実施するのが運営委員長の責務と考えています。ですので、具体的に運営委員長はこれをするという業務はなく、実際に前任者から何も引き継ぎはなかったし、その時々の運営委員長の考え方や状況で組織は変化します。
　プログラムに掲載する団員名簿をご覧になると運営委員の印が半分以上についていてマネージャーが10人以上いるのがわかると思います。運営業務はもっと少ない人数で管理し決定した方が効率的かもしれません。しかし企業ではなく団員に上下関係はありませんので、業務を細かく分けて多くの団員が運営業務を行い、実務をする者が自分の判断で出来るような形を取っています。私は各セクションの業務をできるだけ把握するようにし、うまく回らない箇所を自分でカバーしてしまうので、結果自分の首をしめることもありますが。
　新響には「運営委員会」ともう一つ「演奏委員会」というものがあります。演奏委員会はパート首席からなる組織で、ローテーション（誰がどの曲の何番を受持つか）やオーディション、練習内容について決定します。演奏委員会がクローズドであるのに対し、運営委員会・合同委員会は団員であれば誰でも参加し意見を述べることが出来ます。どういう指揮者や曲目になるかはアマチュアオケマンにとって最重要ポイントですが、それを首席奏者会ではなく、運営が先導して全団員が参加できる合同委員会で決めるというのが新響のこだわりです。<br><br>

＜すべては良い演奏のために＞<br><br>

　<i>やはり、新響は一番に「良い演奏」を目指さないといけない、それは過去も未来もきっと同じです。では、新響にとって良い演奏とはどんな演奏でしょうか？単に小ぎれいでそろっているだけの演奏をして「お上手ね」なんて言われても少しも嬉しくはありません。もちろん、いわゆる技術的に高いものを目指すことは当然ですが、言葉に表すのは難しいけど、気持ちのある演奏、「ああ面白いかった」と言われるような演奏をしたいと私は思います。そのために何が必要なのでしょうか。
　新響のよいところの一つは、団員の皆が新響に一所懸命関わっているところだと思います。前プロ1曲決めるにも戦いで、皆が新響の一員であることを楽しんでいたのではなかったかと思います。だから想いもあったし演奏にエネルギーが生まれた。今はどうでしょう、パワーが減って来てはいないでしょうか。ですから、運営委員長としてまずやらなければいけないと思うことは、団員全員の新響に対する興味やモチベーションをもっと上げることであり、それが「良い演奏」につながるとのだと思います。
　もう一つ新響のよいところとして、幅広い年齢層の団員が集まっている点だと思います。これについては高齢化だと憂いている人もいるかもしれませんが、私は誇りに思います。新響で演奏するという点では、団歴の長い人もそうでない人も平等です。新陳代謝は必要だけど、無理に世代交替をしようとすることはない。新響には守らなければいけないことがあり、その上で変わっていかなければならないのです。だから、団歴の長い人にも運営でもっと活躍してもらいたいし、若い人には新響がどのようになりたってきているのかを知ってもらいたい。そのための場を作り将来に伝えていくことが、委員会に今まで多く出席して運営を見て来た私の義務ではないかと考えています。</i><br><br>

　以上は、５年前に運営委員長に立候補したときの演説の一部です。当時、団員の平均年齢は上がっているのに無理に運営を若い世代に託そうとして上手く行かず、演奏技術自体は良くはなっているのになんか求心力がなく、演奏会にお客さんもあまり入らないという状況でした。このままいくと新響がつぶれるんじゃないかという危機感がありました。
　まず運営組織をフラットにし、適材適所を考え多くの団員が活躍できる場を作りました。それから団員が演奏する曲に対して興味と愛着を持てるように、例えばプログラム作成に誰もが参加できるようにし、記事は出来次第ネットで閲覧できるようにしました。それとお客さんをたくさん入れることを考えました。これが一番力を入れた点かもしれません。演奏会は、どんなに上手い演奏したとしても、お客さんが少なければ良い演奏会とは言えません。満席だと演奏する方も充実感があるしお客様にも新響って人気があるのねと思ってもらえます。細かいところでは、見学に来てくださる入団希望者の方に明るく挨拶しましょう〜というところから、新響のイメージアップをはかるようにしました。それとチラシの裏面の文章は、別に運営委員長の仕事ではありませんが、私が毎回書いています。以前は新響を語るような内容が多かったのですが、そうではなくお客さんに演奏会に行ってみたいな〜と思ってもらえるよう、企画意図と曲の魅力が伝わるようにしています。<br><br>

＜皆がいるからこそ新響＞
　新響には定年はありませんし、何年かごとの再オーディションもありません。つまり、入ってしまえば（団費演奏会参加費を払って練習に出てさえいれば）ずっと団員でいることが出来ます。オケのレベルを上げるために定年や再オーディションが必要なのではと言われたことがあります。実は私も入団したての頃、なんでやらないのかと思っていましたが、それは新響らしい演奏をするためにやらないのだと理解するようになりました。技術だけ優れている人をその時々で集めても良い演奏にはならないし、上手い人もそうでない仲間も、皆がいるから新響なのです。
　新響のローテーションには、本番の出来だけでなく練習時の演奏も評価され反映されますので、ある意味数年ごとにオーディションを受けるよりシビアかもしれません。それよりも大切なのは、団員が新響に愛着を持てるかどうかだと思います。新響には60歳を超えた団員が多数いますが、今でも進歩して素晴らしい演奏をする団員もあり、若い団員の励みや目標になっています。そして将来新響のレベルについて行けなくなったら自分から身を引く覚悟でいるのは私だけではないでしょう。
　それはそれとして、新しい団員を獲得し演奏での活躍の場を作ることも積極的にしています。それは新響が将来も新響であってほしいというのが団員の願いだからです。<br><br>

＜全団員が納得して活動をすること＞
　団員向けに新響ニュースが作成され練習時に配布されます。1964年に第1号が出されて以来、現在1255号まで発行され、練習日程や団員の情報、各委員会の議事録などが掲載されます。ほぼ毎週の時代もありましたが、今はメーリングリストでも連絡ができるため、月に１〜２回の発行となっています。合同委員会の議事録は詳細に書かれ、指揮者や曲目の決定過程などを知ることが出来ます。その議事録も書記が作成し出席者が確認して修正し、団員に伝えたいことを盛り込みます。とても手間がかかっているますが、全団員が納得して同じ方向を向いて活動をするためには必要なことなのです。
　また、ローテーションを決めるのも手間がかかっています。各首席が自分のパートの案を提出し、演奏委員会で２〜３時間かけて協議します。単に上手い順に割り当てるのではなく、各団員の適性やモチヴェーション、将来性などを考え、演奏自体および新響の活動が良い結果になるよう考えます。そのパート首席も投票を参考に決めるのですが、その手順も長年の協議を経て今に至ります。全団員が決定に関与して手順を踏んで決めるというのも、全団員が納得して演奏をするために必要なことなのです。<br><br>

＜曲目はどのようにして決まるか＞
　例えば団員にどんな曲を演奏したいかアンケートをとって上位の曲を中心にプログラミングするというアマチュアオーケストラは多いのではないかと思いますが、新響はそれはしません。個人の演奏したいしたくない、好き嫌いという気持ちでは議論にならないからです。新響にとって演奏する意義があるかどうかを考えます。
　昔から「10年ルール」という不文律があって、一度演奏会で取り上げたら10年間は演奏しないことになっています。レパートリーが偏らないためですが、この曲には当分会えない（もしかしてこれで最後）気持ちで、大切に演奏することができるのではないかと思います。
　新響の場合は、まず指揮者が決まってから曲を考えるのですが、指揮者の意向をかなり尊重します。曲を決めるために指揮者を囲んで食事会をすることもあります。もちろんまず新響としてこれをやりたいという意思表示をしますが、曲や組み合わせにはこだわりを強く持つ指揮者もあり、協議に長い期間かかることもあります。指揮者に面白いと思って振っていただいた方が、結果的に良い演奏になるし、また新響と共演したいと思ってもらえるのではないかと考えています。
　規模の大きいアマチュアオーケストラでは、どうしても大編成の曲ばかりになってしまいがちです。新響の場合、管打楽器は３管編成の倍の人数を定員としており、優秀な人があれば定員オーバーでも入団いただくので、毎回全員出演できるプログラムを組むのは難しいです。できるだけ全員が活躍できるようにしたいが、たまには編成の小さい古典派のような曲もやることもオケにとっては必要です。基本的には定員分の席の数を揃えるのが原則だが、そのプログラムが新響にとって意義があれば出演できない団員があっても納得してもらう。しかし、前後の演奏会でバランスをとるようにしています。
　難易度や経費なども考慮しますが、余程でない限りこれらでは制約しないので、結果的に手間もお金もかかる企画になり、新響らしい（無茶な？）プログラムになることが多いです。その時には維持会費を使わせていただいており、維持会があるからこそ実現できるプログラムも少なくありません。特に来年は、経費のかかる企画が並びますので、どうか楽しみにしていてください！！<br><br>

＜運営上の悩み事＞
　その他にも、団員三大義務（＝練習参加、団費演奏会参加費納入、集客：練習出席率と滞納金とチケット販売枚数は集計され団内に公表されます）、託児の会など新響の運営で紹介することはたくさんありますが、きりがありませんので、最後に「新響総括図」を掲載したいと思います。これは大昔からあるもので、年に１度の総会で配布される総会資料の最後のページに必ず載せているものです。新響の運営の基本的な考え方は、これに集約されていると言ってもよいです。
　しかし、すべてがうまく行っている訳ではありませんし、いつも問題点はあります。新響が通常演奏会場にしている池袋の芸術劇場が改修工事で６回使えず、特に今度の演奏会は、元々15日の日曜にミューザ川崎で行う予定でしたが、震災の影響で使用できなくなり、何とかホールを確保しましたが、土曜夜というイレギュラーな演奏会となり、維持会員の皆様にはご迷惑をおかけします。また、20年間メインの練習会場として慣れ親しみ現在は楽器庫としても使用している労音十条会館が、来年道路拡張のために取壊される予定で、倉庫の移転と練習会場の確保が課題であります。
　あとは合同委員会（平日の夜に行っています）の出席者が少ない。何か揉め事や刺激的な議題があると20人近く参加するのですが、任せておいてもそう変な事にはならないという安心感があるのか少なくて困っています。驚くような企画を提案するしかないでしょうか。AKB48のように年に１回じゃんけん大会でトップやパートを決めて演奏会をしよう・・・とか。<br><br>

＜アマチュアである誇り＞
　このような私たちの活動も、見方によっては音楽遊びを大真面目にやっているに過ぎず、単なる自己満足かもしれません。その活動に意味を持たせてくださるのが、聴いてくださるお客様であり、特に維持会の皆様には財政面だけでなく精神的な支えになっていただいており、感謝しています。
　もう一つ私たちの活動を支えているのは、アマチュアとしての誇りなのではないかと思います。アマチュアとは音楽を愛すること。音楽はみんなのもの、音楽にはプロもアマチュアもない。でもアマチュアらしい新響にしか出来ない演奏をしよう〜という気持ちで取り組んでいます。<br><br>

　今回の演奏会ではロシア５人組の作品をプログラミングしましたが、彼らはアマチュア作曲家でした。５人組の指導者的な役割であったバラキレフは音楽の仕事をしていましたが（大学では数学専攻）、リムスキー＝コルサコフは海軍軍人（のちにペテルブルグ音楽院の教授となる）、ボロディンは化学者（医学部教授）、ムソルグスキーは文官、キュイは陸軍軍人として余技の作曲活動を行っていました。当時ペテルブルグ音楽院が設立され西洋音楽を教え音楽を専門の職業とするための場であったのに対抗し、無料音楽学校を設立するなどロシア国民楽派といわれる活動を行いました。
　もちろんアマチュアと言っても、ボロディンは作曲家として社会的責任を意識して活動をしていたということですし、私たちが新響で楽器を演奏するのとは次元が違うでしょう。以前新響でロシアから指揮者のティーツ先生をお呼びしたとき、あまりに厳しかったのですが、どうも日本で言うところのアマチュア演奏家という概念がないということがわかり、厳しいのも納得でした。しかしながら、同じ「非職業」で音楽に接し、自国の作品を取り上げようと取り組んでいる私たちにとって、非常に親近感がありますし、アマチュアの本分である「音楽を心から楽しむ」ことを実感できる演奏会にしたいと考えています。
　３曲とも楽しくリラックスして聴けるプログラムです。ホールも木の温かい響きのする東京オペラシティですので、是非ご来場ください。

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         <category>concert</category>
         <pubDate>Mon, 09 Jan 2012 23:33:08 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>ムソルグスキー／ラヴェル：組曲「展覧会の絵」</title>
         <description><![CDATA[<div align ="right">志村　努（トロンボーン）</div><br>

<strong>●少年時代から展覧会の絵作曲まで</strong>
　モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーは1839年にロシア、プスコフ県トロペツ郡カレヴォというロシア最西部の小村に生まれた。西へ100kmほどで現在のベラルーシとの国境である。ムソルグスキー家は由緒ある貴族の家系であり、小村と言ってもその領地は広大であった。母親も音楽に優れた人だったが、ピアノと音楽に対する息子の非凡な才能にいち早く気づき、７歳から音楽の専門家の家庭教師をつけた。当時のロシア貴族は、幼少時は家庭で教育されるのが常であり、音楽以外の学科もこの家庭教師が教えた。
　カレヴォ時代は自家の農奴や近くのトロペツの町の人々とも接し、ロシアの民話、歌、故郷の歴史等に親しんだ。後の民族的、民衆的音楽への志向は、この時代の環境が少なからず影響していると思われる。
　10歳になると、これまた当時のロシア貴族の子弟の常として、ペテルブルクの寄宿学校に入り、13歳で近衛士官養成学校に入学したが、並行して当時人気の音楽教師ゲルケからピアノと音楽の教育も受けた。この時期はピアニストとして成長著しく、学内やサロンでしばしば演奏していたようである。士官学校での成績も一貫して優秀で、17歳で当時の花形部隊に配属された。
　軍勤務の中でも音楽活動は継続していた。その中で1857年にバラキレフと出会う。バラキレフはムソルグスキーの音楽の師であると同時に、経験不足を理由にしり込みする弟子たちに、積極的に作曲活動を進めるよう扇動する役も担っていた。
　バラキレフの周りには、彼の強烈な指導力の下、音楽家を中心としたサークルが形成されていた。メンバーには音楽家だけでなく、音楽以外の芸術家、学者なども含まれていた。その中に以後ムソルグスキーと深く関わりを持つ人物がいた。考古学者、芸術史家、芸術評論家のスターソフである。彼は生涯にわたって多方面からムソルグスキーの音楽活動を支えた。このサークルの作曲家たちを「力強い一団（仲間）」と呼んだのもスターソフである。ロシア国内では５人組というより、こちらの呼称の方が一般的であるらしい。
「力強い一団」は1860年代の10年で大きく成長し、様々な紆余曲折はあったもののロシア音楽界での評価を高めていった。しかし個々の作曲家が力をつけ自立していった結果、バラキレフの指導力は低下し、サークルは徐々に解体し、ムソルグスキーはメンバーとも疎遠になっていった。
　わずかな例外の一人がスターソフで、ムソルグスキーは頻々と彼の家を訪ねていた。スターソフ家では多くの人々と知り合ったが、その中の一人にハルトマン（ロシア語の発音ではガルトマン）という建築家がいた。ハルトマンは1834年ペテルブルクの生まれで、画家でもある。二人はたちまち親しくなり、そこから親交が始まった。しかし出会って３年後の1873年、ハルトマンは動脈瘤の破裂により急死してしまう。
　翌年1874年の２月から３月にかけて、スターソフらにより、故ハルトマンの遺作展が開かれた。会場はハルトマンの母校であるペテルブルク美術アカデミーである。遺作展では水彩画、建築デザイン、舞台装置や衣装のデッサン等の他、工芸品なども展示された。その中には、お伽噺のバーバ・ヤガーの家の形の暖炉時計もあり、作品総数は400点にのぼった。
　この遺作展を見たムソルグスキーは、これらの作品にちなんだピアノ組曲を書くことを思いついた。
ある種興奮状態にあった彼は、1874年６月にこの曲をわずか３週間で完成させた。筆の遅いムソルグスキーには異例の速さである。<br><br>

<strong>●リムスキー＝コルサコフによる改訂と出版</strong>
　このピアノ組曲は彼の生前には演奏されることなく埋もれていた。長年のアルコール摂取過多が原因で1880年に42歳の若さでムソルグスキーが亡くなると、使命感に駆られたリムスキー=コルサコフが、未出版あるいは未完の楽譜の整理と校訂を行った。作業は２年間にわたり、その間、自分の作曲活動を縮小してまで精力的に行った。展覧会の絵も、改訂を経て1886年に出版された（通称リムスキー＝コルサコフ版、以下RK版と略す）。
　バラキレフのサークルでも年少で、年齢が近いことからこの二人は特に仲が良く、1872年から約１年間は、リムスキー＝コルサコフの結婚まで、同居生活を送っていた。夜ごと音楽議論を戦わせていたようで、その点からも彼は自分がムソルグスキーの音楽の最大の理解者であると自負していたのではないだろうか。
　この改訂作業は、今となっては作品本来の力強さや独創性を損なうものとして批判的に捉えられる傾向がある。だがリムスキー＝コルサコフの目には作品の多くは未完成であると写り、これらを完成させる使命を自らに感じたのであり、また、この作業により多くの曲が出版され、世の知るところとなったゆえに、自筆譜までさかのぼって調べようという音楽家が現れたわけで、その意味で彼の貢献は多大であると言える。<br><br>

<strong>●ラヴェルによるオーケストラ編曲版</strong>
　ピアノ曲としての展覧会の絵は、楽譜出版後もほとんど演奏されることはなかった。この曲が一気に有名になるのは1922年にラヴェルによるオーケストラ編曲版が初演されてからである。ラヴェルに編曲を依頼したのは指揮者のクーセヴィツキーで、このオーケストラ編曲版の成功により逆にピアノの原曲が注目されるようになった。ただし使用された楽譜は、まずはRK版で、ムソルグスキーの自筆譜に基づくいわゆる原典版が演奏され始めるのはさらに後の事である。
　ラヴェルがベースにしたのもRK版であり、その時点で原典版から和音、ダイナミクス等の若干の変更がある。有名な違いは、第４曲ビドロの冒頭で、原典版ではffで始まるのに対し、RK版ではppとなっている点と、もうひとつ、第６曲サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレの最後が、原典版ではC-D♭-B♭-B♭であるのに対し、RK版ではC-D♭-C-B♭となっている点である。ラヴェル版もこの２点はRK版と同じである。加えてラヴェルは第６曲の後のプロムナードを割愛している。<br><br>

<strong>●曲とハルトマンの絵の関係</strong>
　展覧会の絵という曲は、ハルトマンの絵をそのまま音で描写した、というものではない。事実、曲から感じられる壮大さ、強烈さからすると、対応すると言われている実在の絵のサイズは驚くほど小さい。小さいものはハガキ大、大きくてもA2サイズ程度である。
　絵を見る限り「展覧会の絵」の各曲がそれらを直接に音で表現したものとはとても思えない。象徴的なのは第６曲で、２人のユダヤ人の絵は、実は別々の２枚の小さな絵なのである。どちらが金持ちとも貧乏人ともわからないし、会話をしているわけでもない。ムソルグスキーはこの２人に性格をつけ、会話する絵を頭の中に作り上げ、それを曲にしたのである。
　要するに、この曲は「音によるハルトマン回顧展」なのである。もちろん、実際の回顧展の出品作品からインスピレーションを受けたことは間違いないが、直接知るハルトマンの人となり、思想などからムソルグスキーが作り上げた架空のハルトマンの絵を、音で表現したものなのではないだろうか。<br><br>

<strong>●曲の構成</strong>
<strong>Promenade プロムナード</strong>
　まずは有名なトランペットソロで始まるプロムナードである。回顧展に足を踏み入れたムソルグスキーの、作品たちへの期待、故人を偲ぶ気持ち、などがないまぜになった心持ち、というところか。<br><br>

<strong>I.Gnomus グノムス</strong>
<div align="center"><img src="http://www.shinkyo.com/216/216-9.jpg"></div><br>

　地の底に住むという、伝説の小人の妖怪である。悪賢くていたずら好きだが、ロシアの人々には愛されているという。速く細かい動き、静止、ゆっくりした動き、の繰り返しが、小さい妖怪の動作なのか。<br><br>

<strong>Promenade プロムナード</strong>
　一つ見て、次の絵に進むムソルグスキーの心持は、やや穏やかになったようである。<br><br>

<strong>II. Vecchio Castello 古城</strong>
　題名はイタリア語だが、一貫してロシア的な雰囲気のこの曲からすると、ムソルグスキーの思い描いたのはロシアの城かもしれない。薄暗い感じなのは天気が悪いせいか、夕暮れなのか。<br><br>

<strong>Promenade プロムナード</strong>
　暗い絵の後だが、なぜか元気が出てきた。振る手もちょっと大きい感じだ。<br><br>

<strong>III.Tuileries チュイルリー</strong>
　チュイルリーはルーブル美術館に隣接する公園。現存する。ピアノ版には遊びの後の子供たちの喧嘩という注釈がある。公園の絵は無いが、喧嘩する子供たちのデッサンはいくつかある。<br><br>

<strong>IV.Bydlo ビドロ</strong>
　ビドロとは牛の曳く荷車のことである。この曲の解釈は最も議論が多い。圧政に苦しむポーランドの人々を牛車に喩たとえた、という説もある。苦役にあえぐロシアの農奴かもしれない。ppで始まるラヴェル版、RK版だと目の前を通り過ぎる牛車の傍観者の視点、ffで始まる原典版は重い荷を引く当事者の視点、という解釈が一般的になっているようだ。<br><br>

<strong>Promenade プロムナード</strong>
　ちょっと心が冷えてしまったようだ。歩く速度も心なしか遅い。<br><br>

<strong>V.Ballet des poussins dans leurs coques 殻をつけたひよこの踊り</strong>
<div align="center"><img src="http://www.shinkyo.com/216/216-10.jpg"></div><br>

　ちょこまか動く、まだ殻をつけたままのひよこたち。絵はジュリアス・ゲルバーのバレエ「トリルビー」のための衣装デッサン。<br><br>

<strong>VI.Samuel Goldenberg und Schmuyle サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ</strong><br>
<div align="center"><img src="http://www.shinkyo.com/216/216-11.jpg"></div>

　金持ちと貧乏人という設定はスターソフが生前のムソルグスキーから聞いていたようで、出版譜の解説に書かれている。高圧的な金持ちと、卑屈でなにやら言い訳している貧乏人。<br><br>

（Promenade）
　ピアノ版にはあるこのプロムナードはラヴェル版では割愛されている。<br><br>

<strong>VII.Limoges - Le marchè リモージュ：市場</strong>
　リモージュはフランス中部やや西よりの陶器で有名な都市。数年前に筆者は訪れたことがある。早速市場に行ったが、今は屋根がついて薄暗い感じで、屋台や小さな店が並んでいた。曲の感じからして当時は青空市場だったに違いない。自筆譜には女が取っ組み合いをしている、と書かれた文字が線で消されているという。<br><br>

<strong>VIII.Catacombae - Sepulchrum Romanum, Cum mortuis in lingua mortua
カタコンベ：ローマの墓地、死者たちと共に死せる言葉で</strong>
<div align="center"><img src="http://www.shinkyo.com/216/216-12.jpg"></div>

　骸骨が壁一面に積み上げられた地下墓地である。この曲は２つに分かれている。前半は金管主体でカタコンベの雰囲気を表し、途中からヴァイオリンの高音のひそやかなトレモロが始まる。ここからが「使者たちと共に死せる言葉で」に相当する。闇になれた目に映る骸骨が燐光を放っている。<br><br>

<strong>IX.La cabane sur des pattes de poule（Baba Yaga）
鶏の足の上に建つ小屋（バーバ・ヤガー）</strong>
<div align="center"><img src="http://www.shinkyo.com/216/216-13.jpg"></div><br>

　森にすむ骨と皮だけにやせこけた老婆の妖怪、バーバ・ヤガーの住む小屋である。臼に乗って移動し、その跡をほうきで消すという。曲の感じでは、かなり激しく動き回っているように思える。中間部では神秘的な森の様子も描かれている。<br><br>

<strong>X.La grande porte de Kiev キエフの大きな門</strong>
　キエフはモスクワ遷都以前のロシアの中心であり、その時代の栄光を象徴する壮麗な凱旋門があったが、老朽化していた。この門を再建するための建築コンペがあり、ハルトマンもこれに応募した。結局門は再建されなかったが、ムソルグスキーはそのハルトマン設計の門をこの曲で音として構築し、曲の最後に据えることにより、ハルトマンの業績と人物を讃えた。途中挿入されるロシア聖歌は故人を悼むためとも考えられる。ハルトマンと共にロシアの栄光も讃えるような、壮大なフィナーレは、大伽藍が目の前に現れたかのようである。<br>
<div align="center"><img src="http://www.shinkyo.com/216/216-14.jpg"></div><br><br>

ピアノ版初演：不明
ラヴェル編曲版初演：1922年10月19日、セルゲイ・クーセヴィツキー指揮、パリオペラ座にて
楽器編成：フルート3（うちピッコロ持替）、オーボエ3（うちコールアングレ持替）クラリネット2、バスクラリネット、アルトサックス、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、グロッケンシュピール、鐘、木琴、トライアングル、ガラガラ、ムチ、小太鼓、大太鼓、シンバル、タムタム、ハープ2、チェレスタ、弦五部
参考文献
『ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー＝コルサコフ―嵐の時代をのりこえた「力強い仲間」（作曲家の物語シリーズ）』ひのまどか（リブリオ出版）
『追跡ムソルグスキー「展覧会の絵」』團伊玖磨、NHK取材班（NHK出版）
『ムソルグスキーその作品と生涯』アビゾワ（伊集院俊隆訳）（新読書社）
『ムソルグスキー、「展覧会の絵」の真実』一柳富美子（東洋書店）]]></description>
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         <category>concert</category>
         <pubDate>Mon, 09 Jan 2012 22:37:45 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ボロディン：交響曲第２番</title>
         <description><![CDATA[<div align ="right">常住裕一（ヴィオラ）</div><br>

【序奏】
　ボロディンという作曲家は、クラシックを好きな人にとってもさほど馴染みはないのではないかと思うが、私個人にとっては、誕生日（11月12日）が同じということから始まって、色々と身近に感じて来た作曲家の一人である。私が初めて経験したオーケストラの演奏は、中学校のオーケストラ部だったが、その時の曲目の中に、彼の交響詩｢中央アジアの草原にて｣があった。ちょうど授業で国民楽派とかロシア五人組などを習った頃でもあり、それまで知っていたクラシックの名曲とは雰囲気が大きくかけ離れていて深い印象を持った。またその頃、NHKの深夜ラジオ番組のテーマ音楽に有名なノクターン（弦楽四重奏曲第２番第３楽章）が使われており、父がかけっぱなしにしていたラジオから流れて来る甘美なメロディーと癖のある和音進行によく耳を傾けたものだった。その後数え切れないほど彼の曲を演奏したが、彼の生涯を思い起こす度に、よくこれだけの宝を残してくれたと、心から尊敬せずにはいられない。<br><br>

【主題提示部】
　1833年、サンクトペテルブルグでアレクサンドル・ポルフィリエヴィチ・ボロディンは大貴族の私生児として生まれた。当時の習慣に従い、父のもとで働く農奴の嫡出子として届け出がなされ、母親や実父、義父に大切にされて育ち、化学と音楽の両方の才能を存分に伸ばし、17歳でペテルブルク医科大学に入学した。ヨーロッパ留学から帰った1862年から1887年までの25年間、この大学で化学者、医者として勤務した。彼の留学先はドイツのハイデルベルク大学で、ここではブンセン、キルヒホッフ、ヘルムホルツといったそうそうたる学者たちに学び、また同期の留学生にはメンデレエフが在籍しており、ボロディンが化学の分野でも世界第一線で活躍した人物であることが分かる。化学者としての業績で代表的なものは、ボロディン反応（ハンスディッカー反応）の発見である。この反応はハロゲン化アルキルの合成法であると同時に、ラジカル反応の例として現代の有機化学の教科書にも出てくる。また、求核付加反応の一つであるアルドール反応を発見した。
<div align="center"><img src="http://www.shinkyo.com/216/216-6.jpg"></div><br>

　ボロディンは、この留学中に優れたピアニストであるエカテリーナ・プロトポポーヴァと出会い、彼女を通じてシューマン、リスト、ワーグナーの音楽を知る。そして彼女は生涯の伴侶となった。
<div align="center"><img src="http://www.shinkyo.com/216/216-7.jpg"></div><br>

　ロシアに戻って間もなくバラキレフと出会い、彼のグループ『力強い仲間』（日本ではロシア五人組と呼ばれている）に加わる。バラキレフの影響と指導の下、彼は交響曲第１番を書き始め、約５年をかけて完成した。1869年から交響曲第２番を書き始めるのであるが、この年彼はオペラの作曲に意欲を持ち、｢イーゴリ公｣に取りかかり始める。「イーゴリ公」はこの後度々作曲を中断し、結局20年近くかけて半分しか完成しなかったが、文字通り彼のライフワークとなる。中断中に「イーゴリ公」のための音楽の多くが交響曲第２番に転用され、「イーゴリ公」に盛られている東洋的な情緒、勇壮で英雄的な楽想は交響曲第２番にも同様に流れている。
　1872年、ボロディンはロシア初の女子のための医学課程開設の責任者となり、1875年には化学科の主任教授となる。プライベートでも妻の転地療養に付き添い、また養女を迎えるなど一段と多忙になり落ち着く暇もなかった。その忙しい仕事の合間を縫って、１曲１曲を極めて長い期間をかけて作曲し続けた彼は自分のことを日曜日の作曲家と語っていたが、実際には夏休みの作曲家と呼ぶのがふさわしいくらいだった。そんな彼を励まし続けたバラキレフグループの仲間たちの存在や、当時の音楽界の巨匠リストがボロディンの音楽を絶賛し自ら指揮をして演奏したことが、かろうじて彼を音楽の世界に繋ぎ止めていた。毎週末の夜はリムスキー＝コルサコフと楽器の研究を続け、楽器の知識や管弦楽法を身に着けていった。そんな時、たまたま足に火傷を負いひと月大学を休む羽目になったため、交響曲第２番を無事に完成することが出来た。
　1887年の２月、大学主催の舞踏会の席で彼は突然倒れ、そのまま息を引き取った。心臓発作であった。医者である彼は死期を悟り、それを誰にも語らず秘かに身辺の整理をしていたという。<br><br>

【展開部】
　ボロディンはいわゆるアマチュアだったわけだが、思わぬところでそれを認識させられたことがあった。学生時代作曲の師匠からドミナントをひと通り教わり、次に各種サブドミナントを習い始めると、準固有和音やらドッペルドミナントなど様々な表情を持った綺羅星のごとき和音を沢山知ることが出来た。そして、喜び勇んでそれらを駆使したソプラノ課題などを作って持っていき、師匠からお叱りを受けるということが度々あった。師匠…つまり作曲のプロ…の言葉を要約すると以下のようになる。
　<i>和声進行の基本はトニックとドミナント。極時々、ちょっとした色の変化を付けるためにサブドミナントを混ぜる。サブドミナントを多様するのはいかにもアマチュア。それらは砂糖を入れ過ぎた珈琲のようなもの。甘ったるくてすぐに飽きが来る。</i>
　ところでそのサブドミナントが連なる和声進行は、まさにボロディンの「ノクターン」や「中央アジアの草原にて」の中で、彼の個性と言っていいほど、度々使われているのである。しかもそれは何と甘く心をくすぐり、うっとりとさせる響きであろうか！なるほど確かに彼はアマチュアだが、間違いなく極上のアマチュアだった。もちろんボロディンはアマチュアという立場に甘んじることなく一人の音楽家として世界に討って出たのだと思うが、もしかしてプロとしての縛りとか、常套手段からは比較的自由であったため、このような個性的な音楽が書けたのかもしれない。<br><br>

【再現部】
　1869年、交響曲第２番は第１番が初演された直後に着手するが、いつものごとく時間を要し、最終的に完成したのは1876年だった。初演は成功とは言えなかったが、リムスキー＝コルサコフやリストが行ったその後の演奏は成功し、ボロディンの名声は国際的に広まりつつあった。なおこの曲の出版の準備段階でボロディンが亡くなったため、リムスキー＝コルサコフがグラズノフの協力を得て校訂したが、出版の際に校訂者として彼らの名前が入り、ボロディンの楽譜に手を加えたかのような誤解を与えてしまっている。実際にはメトロノーム記号を加えたり、テンポの指定をしたのみでリズム、旋律、和声にはいっさい手を加えていない。
　第１楽章は、叙事詩的な雰囲気に石のような強さと簡潔さが加えられている。第２楽章スケルツォでは、巧みな管弦楽法とシンコペーションが見事な成果を上げる一方、トリオは東洋風のもの憂い静けさを醸し出す。第３楽章の緩徐楽章は、自由なロンド形式で詩情豊かなムードに包まれ、そして直接祝祭的な第４楽章フィナーレへとつなげられている。全体を通じて東洋風の素朴で勇壮な主題が、前述の彼独特の和声法である多様なサブドミナントや柔らかいドミナント（Ⅲの和音など）で味付けされ、変拍子の使用によってロシア的な抑揚も付け加えられている。まさに「ロシアの誇り」とでも呼びたいところだ。時間をかけた分この曲への愛情は強く、やりたいことを全部詰め込んだ印象を受ける。自信作だったことだろう。<br><br>

【コーダ】
　ボロディンは妻への手紙の中で、自分のことを「同時に、音楽家であり、公務員であり、化学者、管理者、芸術家、官吏、慈善家、他人の子供の父親、医者、そして病人…であることの難しさ。ついには最後に上げたものとして終わる」と語っている。音楽家としてだけではなく化学者としても超一流で、しかも温厚で優しい人柄から色々厄介なことを自ら引き受け、多忙を極めた生活の中に一生懸命時間を作って作曲を続けたボロディン。しかもそれらはごく少ない曲数であるが当時も多くの名声を集め、そして後世にも残って皆から愛され、こうして演奏され続けている。同じアマチュアとして音楽に取り組んでいる我々にとって、大いなる目標であり、また駄目な自分を叱咤激励する存在であり、文字通り「アマチュアの鑑」である。
<div align="center"><img src="http://www.shinkyo.com/216/216-8.jpg"></div><br>

初演：1877年3月10日、エドゥアルド・ナープラヴニーク指揮、サンクト・ペテルブルクにて
楽器編成：ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、トライアングル、タンブリン、シンバル、大太鼓、ハープ、弦五部
参考文献
『ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー＝コルサコフ～嵐の時代をのりこえた「力強い仲間」』
ひのまどか著（ニューグローブ音楽事典）]]></description>
         <link>http://www.shinkyo.com/concert/p216-2.html</link>
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         <category>concert</category>
         <pubDate>Mon, 09 Jan 2012 22:21:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>リムスキー=コルサコフ：スペイン奇想曲</title>
         <description><![CDATA[<div align ="right">品田博之（クラリネット）</div><br>

　この曲、曲目解説などという面倒なものを読む必要のない底抜けに楽しくわかりやすい曲です。何の予備知識もなしで楽しめますので難しいことを考えずに楽しんでください。難しい顔して粗探ししながら聴いてはダメですよ（笑）。解説終わり
　というわけにもいかないので、“ロシア五人組”やリムスキー=コルサコフ、そしてスペイン奇想曲について簡単にご紹介します。<br><br>

<strong>1.“ロシア五人組”のこと</strong>
　本日はいわゆる“ロシア五人組”の中で名曲を残した三人の作曲家の代表的なオーケストラ曲を揃えました。皆様は残りの二人の名前を思い出せますか？“研究家やロシア音楽愛好家以外にはあまりなじみのない二人”ですが、せっかくですからその二人のことにも触れてみます。
　ロシア的な西欧音楽を書いて最初に成功した作曲家はグリンカ（1804－1857）だと言われています。その業績を発展させてロシアならではの音楽を創造し普及させようとしたのがロシア五人組です。グリンカの音楽は、ロシア国外での高評価にもかかわらずロシア国内ではあまり取り上げられなかったようです。そんな現状を変えようとグリンカの弟子バラキレフは、キュイ、ムソルグスキーさらにリムスキー＝コルサコフ、ボロディンを仲間に迎え、お互い切磋琢磨してグリンカの精神を受け継いだ多くのロシア的な曲を産み出したのでした。そう、残りの二人はバラキレフとキュイという作曲家です。
　バラキレフ（1837－1910）は才能豊かだが独善的な人だったようです。アカデミックな作曲技法を身に着けていたのですが、そのようなものはロシア音楽の本来の力を損なうとでも思っていたようで五人組の後輩たちにはそれらを習得させませんでした。あげく音楽界と衝突して失踪してしまいます。数年後に復帰しますが五人組を組織した頃の勢いは戻らないまま生涯を閉じました。
　一方、キュイ（1835－1918）は辛らつな批評家でもありました。ラフマニノフが第１交響曲初演時に悪意ある批評を受けてノイローゼになったというのは有名な話ですがその批評を書いたのがキュイなのです。たくさんのオペラを作曲したのですが忘れられ、一部のピアノ曲だけが演奏されています。<br><br>

<strong>2.リムスキー＝コルサコフのこと</strong>
　リムスキー＝コルサコフは、バラキレフやムソルグスキーとは対照的で人格者として多くの人から尊敬された生涯を送りました。13歳でロシア海軍兵学校に入学、卒業後海軍に入隊し18歳で遠洋航海にも出ています。一方で音楽的才能にも恵まれ、趣味で作曲していました。18歳でバラキレフに出会ってその強烈な個性にひかれてそのグループに参加します。そこでいきなり交響曲の作曲を勧められ四苦八苦しながら完成させています。ただ、若き天才作曲家だったのではなく、バラキレフの無謀な要求に逆らえずなんとか仕上げた素人仕事だったのだと本人が後に述懐しています。
　彼はバラキレフたちのもとで体系的な作曲技法を身につけないまま作曲を続けます。徐々に才能を開花させ、交響曲第２番「アンタール」や歌劇「プスコフの娘」などを作曲し評判となります。するとどういうことかペテルブルク音楽院から教授として招かれてしまうのです。いざ教授になってみたら自分が体系だった作曲技法の知識を持っていないことに気づき、愕然としたとのことです。そこで猛勉強をして和声学や対位法などを身に付けたのでした。教授就任時まだ27歳で海軍に所属したままだったというのですからペテルブルク音楽院もずいぶんと思い切ったことをしたものです。
　リムスキー＝コルサコフはムソルグスキーやボロディンの未完成に近い曲の補作を精力的に行ったことでも有名です。「はげ山の一夜」、「ボリスゴドゥノフ」、「ホヴァンシチーナ」「イーゴリ公」などの名曲は彼が補筆完成させなければ埋もれたままだったかもしれません。
　さて、彼の晩年は20世紀初頭ロシア革命前夜の不穏な時代でした。ペテルブルク音楽院も無期限ストライキのような状況になり、彼は教授として学生たちの説得に当たりますが学生たちの妥当な要求には理解を示したために逆に音楽院を追われてしまいます。ところが、多くの理解者の働きかけにより反動的な音楽院院長が解雇され彼は復職を果たすのです。このことからも彼が多くの人から尊敬されるリベラルな考えの持ち主であったことが推察できます。<br><br>

<strong>3.スペイン奇想曲のこと
「ECOS DE ESPANA（スペインからの響）」</strong>
　５つの部分が切れ目なく演奏されます。一度聴いたら忘れられないエキゾチックな旋律そしてヴァイオリン、クラリネット、フルート、ホルン、ハープなどの派手なソロと華麗なオーケストレーションが魅力です。実はこの旋律たちはリムスキー＝コルサコフのオリジナルではなく、JOSE INZENGAというスペインの作曲家がまとめたスペイン民謡集「ECOS DE ESPANA（スペインからの響）」に掲載されているものなのです。この民謡集の譜例を使って各曲を簡単に紹介しましょう。
<div align="center">
<img src="http://www.shinkyo.com/216/216-1.jpg"><br>
ECOS DE ESPANA（スペインからの響）の表紙</div><br><br>

<strong>１）アルボラーダ【Alborada】</strong>
<div align="center"><img src="http://www.shinkyo.com/216/216-2.jpg"></div><br>

　アルボラーダの直訳は「夜明け」で、たとえばラヴェルの「道化師の朝の歌（Alborada del gracioso）」では「朝帰りの歌」を意味します。ただ、ここは底抜けに明るい少々おバカな曲で、そういった意味はないようです。<br><br>

<strong>２）変奏曲【Danza prima】</strong>
　一転して優雅な主題をホルンが奏で、いろいろな楽器の組み合わせで変奏していきます。
<div align="center"><img src="http://www.shinkyo.com/216/216-3.jpg"></div><br><br>

<strong>３）アルボラーダ【Alborada】</strong>
　１曲目と同じ主題が半音上の変ロ長調で再現されます。オーケストレーションも１曲目より派手になっています。<br><br>

<strong>４）シェーナとジプシーの歌【Canto gitano】</strong>
<div align="center"><img src="http://www.shinkyo.com/216/216-4.jpg"></div><br>

　金管のファンファーレで始まり、各楽器のソロが聴きものです。情熱を内に秘めたしかし躍動的な旋律が魅力です。<br><br>

<strong>５）アストゥリア地方のファンダンゴ【Fandango Asturiano】</strong>
<div align="center"><img src="http://www.shinkyo.com/216/216-5.jpg"></div><br>

　開放的でさらに躍動的な「これぞスペイン！」とでもいいたくなるような旋律がカスタネットのリズムを伴ってどんどん盛り上がっていきます。最後はアルボラーダが高速で再現し限界まで加速して終わります。<br><br>

初演：1887年10月31日、ペテルブルクにおいて作曲者自身の指揮、マリインスキー劇場管弦楽団
楽器編成：ピッコロ、フルート2、オーボエ2（うちコールアングレ持替）、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、小太鼓、大太鼓、トライアングル、シンバル、タンブリン、カスタネット、ハープ、弦五部
参考文献
JOSE INZENGA『ECOS DE ESPANA』
Biblioteca Digital Hispánica
http://www.bne.es/es/Catalogos/BibliotecaDigital
『ボロディン／リムスキー＝コルサコフ』井上和男（音楽之友社）
『ロシア音楽史』フランシス・マース（森田稔・梅津典雄・中田朱美［訳］）（春秋社）]]></description>
         <link>http://www.shinkyo.com/concert/p216-1.html</link>
         <guid>http://www.shinkyo.com/concert/p216-1.html</guid>
         <category>concert</category>
         <pubDate>Mon, 09 Jan 2012 21:18:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>団員名簿</title>
         <description><![CDATA[2012年1月現在<br>
<strong>ヴァイオリン(Vn)</strong>
秋山初瀬　　　朝倉　優　　　池澤佳子　　内田明美子　　江守章子
大隈美樹　　　笠川　淳　　　鎌田綾　　　　鎌田和祥　　　橘谷英俊
小出高明　　小松篤司　　　齋藤茂樹　　　　佐藤真里絵　　佐藤　楽
塩塚真理子　　　田川暁子　　　陳 宇　　　　中條知子　　長沼茂太
中村　彩　　　名倉由起司　　　滑川友人　　福永舞子　　堀内真実
前田知加子　　　前　仁美　　　渡辺　基<br>
<strong>ヴィオラ(Va)</strong>
石坂優紀子　　内田吉彦　　佐々木健　  　櫻井ちひろ　  　関田雅彦
田口朱美　　都河和彦　　　常住裕一　  　村原雄二　　　柳澤秀悟<br>
<strong>チェロ(Vc)</strong>
安藤彰朗　　大庭美和子　　佐々木直子　　白土菜穂　　新山克三
光野　篤　　　　安田俊之　　柳部太一朗　　柳部容子<br>
<strong>コントラバス(Cb)</strong>
植木信勝　　加賀雅典　　木田　直　　小林美子　　　関口卓也
中野博行　　萩原香織　　亘理誠夫　　渡辺才一<br>
<strong>フルート(Fl)</strong>
新井純子　　岡田充子　　兼子尚美　　藤井章太郎　　　松下俊行
丸尾啓子　　吉田仁美<br>
<strong>オーボエ(Ob)</strong>
岩城正昭　　亀井淳一　　亀井優子　　桜井哲雄　　堀内俊宏　　
山口奏子　　横田尚子<br>
<strong>クラリネット(Cl)</strong>
石綿義一　　大薮言子　　品田博之　　進藤秋子　　末村洋子
高梨健太郎<br>
<strong>ファゴット(Fg)</strong>
浦　美昭　　齊藤　桃　　田川接也　　長谷川敦<br>
<strong>ホルン(Hr)</strong>
市川良平　 　鵜飼哲夫　　大原久子　　森　幹也　　　箭田昌美
山口裕之　　兪　貞順<br>
<strong>トランペット(Tp)</strong>
青木美和　　北村和弘　　倉田京弥　　小出一樹　　手塚泰司
中川隆之　　野崎一弘<br>
<strong>トロンボーン(Tb)</strong>
岡田明彦　　小倉啓美　　志村　努　　武田浩司　　牧洋太朗<br>
<strong>テューバ(Tu)</strong>
足立昭夫　　土田恭四郎<br>
<strong>パーカッション(Per)</strong>
今尾恵介　　浦辺靖子　　桑形和宏　　古関和典　　桜井　健
田中　司　　中川自通　　皆月佑美<br>
<strong>ピアノ(Pf)</strong>
藤井　泉]]></description>
         <link>http://www.shinkyo.com/05member/post_25.html</link>
         <guid>http://www.shinkyo.com/05member/post_25.html</guid>
         <category>05member</category>
         <pubDate>Sun, 01 Jan 2012 15:33:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>団員紹介コーナー</title>
         <description><![CDATA[<table>
新響メンバーの一端をご紹介させて頂きます。<br>
■1996〜2000年発行 維持会ニュースより抜粋
<p>
<tr>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/akiyama.html">秋山初瀬</A>(Vn)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/niiyama.html">新山克三</A>(Vc)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/tsugawa.html">都河和彦</A>(現在Va)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/koike.html">柳沢秀悟</A>(Va)</td>
</tr>
<tr>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/nozaki.html">野崎一弘</A>(Tp)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/ukai.html">鵜飼哲夫</A>(Hr)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/suemura.html">末村洋子</A>(Cl)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/sakurai.html">桜井哲雄</A>(Ob)</td>
</tr>
<tr>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/matsust.html">松下俊行</A>(Fl)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/j-arai.html">新井純子</A>(Fl)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/fujii.html">藤井章太郎</A>(Fl)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/tagawa.html">田川接也</A>(Fg)</td>
</tr>
<tr>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/kuwagata.html">桑形和宏</A>(Per)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/imao.html">今尾恵介</A>(Per)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/tanaka.html">田中司</A>(Per)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/izumi.html">藤井泉</A>(Pf)</td>
</tr>
<tr>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/mitsuno.html">光野篤</A>(Vc)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/h-uchida.html">内田明美子</A>(Vn)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/kitsuya.html">橘谷英俊</A>(Vn)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/endo.html">遠藤真実</A>(Vn)</td>
</tr>
<tr>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/shimura.html">志村努</A>(Tb)</td>
<td><A HREF="http://www.shinkyo.com/members/kurata2.html">倉田京弥</A>(Tp)</td>
</tr>
</table>
※データは全て記載当時（1996〜2000年）のものとなっています]]></description>
         <link>http://www.shinkyo.com/05member/post_19.html</link>
         <guid>http://www.shinkyo.com/05member/post_19.html</guid>
         <category>05member</category>
         <pubDate>Sat, 31 Dec 2011 14:44:59 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第216回演奏会のご案内</title>
         <description><![CDATA[<strong>ロシア5人組</strong>
　19世紀中頃から、自国の民謡や民族音楽の語法や形式を取り入れた国民楽派と呼ばれる作曲家が活躍しました。ロシアにおいては、歌劇『ルスランとリュドミュラ』で知られる作曲家グリンカがイタリアで音楽を学んだ後、ロシア的な作品を書き『ロシア音楽の父』と呼ばれました。そのグリンカの愛弟子のバラキレフを中心としたグループが『ロシア5人組』です。
　その頃設立されたペテルブルク音楽院が西欧音楽の伝統を教え、音楽を専門の職業とするための場であったのに対し、国民楽派の5人組はバラキレフ以外は他に本職を持つ非職業作曲家であり、無料音楽学校を開設するライバル関係にありました。今回の演奏会は、5人組のうちリムスキー＝コルサコフ、ボロディン、ムソルグスキーの代表作をプログラミングしました。<br>
<strong>非職業作曲家たち</strong>
　リムスキー＝コルサコフは海軍の軍人でした。12歳で海軍士官学校に入学し、在学中の17歳で5人組に参加しました。海軍士官として世界各国を訪れており、異国情緒ある曲多く書いています。『スペイン奇想曲』はその一つで、スペイン民謡を主題に多くの独奏楽器が活躍する華やかな楽しい作品に仕上げています。才能を認められ27歳でペテルブルク音楽院の教授に招聘され、多数の弟子を育てた管弦楽法の大家として名を残しています。
　ボロディンは医科大学の教授でした。アルデヒドの研究で高名な化学者で、『日曜音楽家』だったため遺した作品数は多くありませんが、5人組では唯一交響曲で成功した作曲家でした。交響曲第2番は作曲家が『勇士』と名付けており、ロシアの広大な風景と人々の生活が豊かな響きで表されています。<br>
<strong>「展覧会の絵」への思い</strong>
　ムソルグスキーは軍人でしたが、その後文官となり、残念ながら晩年はアルコール依存症になり職を追われました。親交のあった建築家でデザイナーのハルトマンが急死し、その遺作展に着想を得たのが組曲『展覧会の絵』です。ハルトマンの絵を表わす10曲の合間に、絵の間をムソルグスキーが歩く様子を表わす「プロムナード」（フランス語で散歩という意味）が6回挿入されています。終曲の有名な「キエフの大門」は実在の建物ではなく、当時建築予定だった凱旋門のデザインコンペに出品されたもので、「卵の殻をつけた雛の踊り」はバレエの舞台衣装のデザイン画でした。人付き合いの苦手だったムソルグスキーにとって、仲の良い友人のハルトマンの死は大きなショックだったでしょう。この曲には亡き親友への想いが込められています。
　原曲はピアノ独奏曲ですが、生前には演奏も出版もされませんでした。リムスキー＝コルサコフが遺稿を整理して出版され、世の中に出ます。ピアノ曲としてはかなり難曲ですが、多くの作曲家が管弦楽への編曲を行いました。中でも最も演奏されているのが、オーケストラの魔術師といわれるラヴェルによる編曲の版です。色彩豊かな壮大な曲となっています。
　どうぞお楽しみに！]]></description>
         <link>http://www.shinkyo.com/concert/c216.html</link>
         <guid>http://www.shinkyo.com/concert/c216.html</guid>
         <category>concert</category>
         <pubDate>Wed, 23 Nov 2011 22:20:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第216回ローテーション</title>
         <description><![CDATA[<table border bordercolor="#000000" cellspacing="0" cellpadding="1">
<tr>
<td>&nbsp;</td>
<td>スペイン奇想曲</td>
<td>ボロディン2番</td>
<td>展覧会の絵</td>
</tr>
<tr>
<td>フルート1st</td>
<td>松下</td>
<td>岡田</td>
<td>吉田</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>新井</td>
<td>松下</td>
<td>藤井(+picc)</td>
</tr>
<tr>
<td>3rd</td>
<td>-</td>
<td>兼子(+picc)</td>
<td>兼子(+Picc)</td>
</tr>
<tr>
<td>Picc</td>
<td>丸尾</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
</tr>
<tr>
<td>オーボエ1st</td>
<td>山口</td>
<td>亀井(淳)</td>
<td>堀内</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>桜井(+C.A.)</td>
<td>亀井(優)(+C.A.)</td>
<td>宮内</td>
</tr>
<tr>
<td>3rd</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>岩城(+C.A.)</td>
</tr>
<tr>
<td>クラリネット1st</td>
<td>品田</td>
<td>品田</td>
<td>高梨</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>石綿</td>
<td>進藤</td>
<td>末村</td>
</tr>
<tr>
<td>B.Cl.</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>大薮</td>
</tr>
<tr>
<td>Alto Sax</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>進藤</td>
</tr>
<tr>
<td>ファゴット1st</td>
<td>長谷川</td>
<td>田川</td>
<td>浦</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>浦</td>
<td>齊藤</td>
<td>長谷川</td>
</tr>
<tr>
<td>C.Fg</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>田川</td>
</tr>
<tr>
<td>ホルン1st</td>
<td>森</td>
<td>箭田</td>
<td>山口</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>山口</td>
<td>市川</td>
<td>兪</td>
</tr>
<tr>
<td>3rd</td>
<td>大原</td>
<td>森</td>
<td>箭田</td>
</tr>
<tr>
<td>4th</td>
<td>市川</td>
<td>大原</td>
<td>鵜飼</td>
</tr>
<tr>
<td>トランペット1st</td>
<td>倉田</td>
<td>小出</td>
<td>野崎(Assi.北村)</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>北村</td>
<td>中川</td>
<td>青木</td>
</tr>
<tr>
<td>3rd</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>手塚</td>
</tr>
<tr>
<td>トロンボーン1st</td>
<td>武田</td>
<td>武田</td>
<td>志村</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>志村</td>
<td>志村</td>
<td>小倉</td>
</tr>
<tr>
<td>3rd</td>
<td>岡田</td>
<td>岡田</td>
<td>岡田</td>
</tr>
<tr>
<td>テューバ</td>
<td>土田</td>
<td>土田</td>
<td>土田</td>
</tr>
<tr>
<td>ティンパニ</td>
<td>桑形</td>
<td>桑形</td>
<td>古関</td>
</tr>
<tr>
<td>パーカッション</td>
<td>大太鼓/中川<br>シンバル/古関<br>小太鼓/今尾<br>ﾀﾝﾊﾞﾘﾝ+ｶｽﾀﾈｯﾄ/皆月<br>トライアングル/浦辺</td>
<td>大太鼓/中川<br>シンバル/古関<br>タンバリン/皆月<br>トライアングル/今尾</td>
<td>大太鼓/中川<br>シンバル/桜井<br>小太鼓+鞭/皆月<br>トライアングル/浦辺<br>ｸﾞﾛｯｹﾝｼｭﾋﾟｰﾙ+木琴/今尾<br>チューブラーベル/桑形<br>タムタム+ラチェット/田中</td>
</tr>
<tr>
<td>チェレスタ</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>藤井</td>
</tr>
<tr>
<td>ハープ1</td>
<td>(*)</td>
<td>(*)</td>
<td>(*)</td>
</tr>
<tr>
<td>ハープ2</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>(*)</td>
</tr>
<tr>
<td>1stヴァイオリン</td>
<td>堀内(長沼)</td>
<td>堀内(長沼)</td>
<td>前田(佐藤真)</td>
</tr>
<tr>
<td>2ndヴァイオリン</td>
<td>小松(田川)</td>
<td>小松(田川)</td>
<td>小松(田川)</td>
</tr>
<tr>
<td>ヴィオラ</td>
<td>常住(石坂)</td>
<td>常住(石坂)</td>
<td>常住(田口)</td>
</tr>
<tr>
<td>チェロ</td>
<td>光野(柳部)</td>
<td>光野(柳部)</td>
<td>柳部(光野)</td>
</tr>
<tr>
<td>コントラバス</td>
<td>中野(植木)</td>
<td>中野(植木)</td>
<td>中野(植木)</td>
</tr>
</table>

(*)はエキストラ]]></description>
         <link>http://www.shinkyo.com/concert/rot216.html</link>
         <guid>http://www.shinkyo.com/concert/rot216.html</guid>
         <category>concert</category>
         <pubDate>Tue, 22 Nov 2011 12:22:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第216回演奏会</title>
         <description><![CDATA[<img alt="216-small.jpg" src="http://www.shinkyo.com/concert/images/216-small.jpg" width="140" height="197"  align="right">
2012年1月14日（土）19時開演
曲目　リムスキー＝コルサコフ/スペイン奇想曲
　　　　ボロディン／交響曲第２番
　　　　ムソルグスキー／組曲『展覧会の絵』
指揮　山下 一史
東京オペラシティコンサートホール]]></description>
         <link>http://www.shinkyo.com/02past/216.html</link>
         <guid>http://www.shinkyo.com/02past/216.html</guid>
         <category>02past</category>
         <pubDate>Sun, 06 Nov 2011 09:55:10 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
</rss>

