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      <title>新交響楽団ホームページ</title>
      <link>http://www.shinkyo.com/</link>
      <description>　新交響楽団は、東京で活動しているアマチュアオーケストラです。会社員、教員、学生、主婦など、さまざまな職業、年令にわたる団員で自主運営され、年に4回の自主演奏会を中心に演奏活動を行っています。「いい演奏をしたい」「音楽が好きだ」という団員が集まって、熱いハートのある演奏をお届けします。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2012</copyright>
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         <title>第218回演奏会のご案内</title>
         <description><![CDATA[<strong>「巨人」―マーラーの青春の交響曲</strong>
　ウィーン音楽院を優秀な成績で卒業したマーラーは、20歳で指揮者としてのキャリアをスタートするとその後は引く手あまたで、各地を渡り歩いていました。交響曲第１番が作曲されたのは、歌劇場のソプラノ歌手に失恋したり、未完のオペラの補筆を依頼したウェーバーの孫の夫人との不倫騒動があった頃で、若き日のマーラーの苦悩や希望が現れています。
　元々この交響曲第１番は５曲からなる交響詩として作曲され、その時の標題が「巨人」でした。これはドイツの作家ジャン・パウルの長編小説の題名に由来し、主人公の青年がさまざまな経験を経て人格が形成され最後は王座につくというストーリーです。この交響詩の各曲には次のような副題がついていました。第１部＜青春の日々より＞　１：終わりなき春、２：花の章、３：順風に帆を上げて、第２部＜人生喜劇＞　４：座礁（カロ風の葬送行進曲）、５：地獄から天国へ。自身が4楽章の交響曲に改編した際に「花の章」を削除、標題や副題も破棄されましたが、今でもニックネームとして残っています。
　ウィーン音楽院の学友でライバルであったハンス・ロットがなくなったのもこの頃でした。ブルックナーの弟子であった彼は、自作の交響曲をブラームスに酷評され精神に変調を来たしてしまいました。ロットのこの曲はマーラーの音楽に影響を与えており、特に交響曲第１番のスケルツォはよく似ています。
　初演後に描かれた風刺画には、マーラーの吹く巨大な金管楽器から様々な動物が飛び出しており、センセーショナルであったことが覗えます。葬送行進曲の旋律を独奏コントラバスが弾いたり、最後はホルン7本が立って演奏するなど、現代でも十分に斬新な曲です。
<br>
<strong>ヴァイオリン協奏曲の王様</strong>
　ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、ブラームス、メンデルスゾーンの作品とともに「三大ヴァイオリン協奏曲」と称され、傑作の森とも呼ばれるベートーヴェン中期を代表する作品の1つです。同じ頃に作曲された交響曲第4番やピアノ協奏曲第4番と同様に明快で叙情的な曲です。曲の素晴らしさからヴァイオリン協奏曲の王様とも評されています。
　ソリストには、ニューヨークを本拠地とし、日本でも数々のオーケストラと共演している松山冴花を迎えます。昨年新響＆飯守泰次郎とブラームスの協奏曲を共演し、瑞々しく感情豊かな演奏を聴かせ、その音楽性に団員も魅了されました。
　この演奏会でまた魅力的な演奏をしてくれることを期待しています。どうぞお楽しみに！（H.O.)]]></description>
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         <category>concert</category>
         <pubDate>Wed, 16 May 2012 18:55:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第218回演奏会</title>
         <description><![CDATA[<img alt="218-small.jpg" src="http://www.shinkyo.com/concert/images/218-small.jpg" width="140" height="197" align="right">
2012年7月22日（日）14時開演
曲目　ベートーヴェン／ヴァイオリン協奏曲
　　　　マーラー／交響曲第１番「巨人」
指揮　飯守泰次郎
ヴァイオリン独奏　松山冴花
東京オペラシティコンサートホール
S席3,000円、A席2,500円、B席1,500円
（全席指定）]]></description>
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         <pubDate>Fri, 04 May 2012 20:02:38 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>次回は7月22日飯守泰次郎＝マーラー「巨人」＆ベートーヴェンVn協奏曲!!</title>
         <description><![CDATA[第218回演奏会は、東京オペラシティにて飯守泰次郎を指揮に迎え、マーラー／交響曲第一番「巨人」、ベートーヴェン／ヴァイオリン協奏曲（Vn独奏：松山冴花）を公演予定です。どうぞご期待ください！詳しくは<a href="http://www.shinkyo.com/01next/">こちら</a>をご覧ください。]]></description>
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         <category>topic</category>
         <pubDate>Tue, 01 May 2012 00:14:08 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>第217回演奏会は終了致しました</title>
         <description>第217回演奏会は、4月30日東京オペラシティにて飯守泰次郎氏を指揮に迎え、マーラー／大地の歌（At独唱：福原寿美枝、Tn独唱：福井敬）、伊福部昭／交響譚詩、イベール／祝典序曲を演奏しました。お陰様でご盛況のうちに終了することができました。多くのお客様にご来場いただき有り難うございました。</description>
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         <category>topic</category>
         <pubDate>Mon, 30 Apr 2012 23:14:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>マーラー：大地の歌</title>
         <description><![CDATA[<div align ="right">山口裕之（ホルン）</div><br>

　「大地の歌」は、マーラーの創作の過程のなかでは、1906年の夏に作曲された交響曲第８番「千人の交響曲」と1909年から1910年にかけて作曲された交響曲第９番のあいだに生み出された作品である。
　独唱つきの６つの楽章からなるこの「大地の歌」が作曲されたのは、マーラーにとって大きな転機の時期だった。マーラーがこの作品の作曲に取り組む前年、1907年の夏に彼は娘を病気で失い、また1897年以来10年間音楽監督を務めたウィーン宮廷歌劇場を事実上辞職させられている。すぐにニューヨークのメトロポリタン歌劇場での仕事が決まったために、マーラーは1907年の冬以降、妻とともにアメリカで過ごすことになる。マーラーが「大地の歌」の作曲に取り組んだのは、1908年の夏、休暇のためにヨーロッパに戻り、アルプスの自然に囲まれたトープラッハ（現イタリア・ドッビアーコ）で家族とともに過ごしていたときだった。
　「大地の歌」で用いられている詩のテクストは、1907年に出版されたハンス・ベートゲ編訳による『中国の笛』からとられている。マーラーが「大地の歌」のためにこの詩集から選び出した詩は、李白、孟浩然、王維などの詩の翻訳なのだが、それらは原作の中国語から直接訳したものではなく、他の詩人によるドイツ語の翻訳詩（さらにそれもフランス語の翻訳詩に由来する）を参考として作られたものだった。そのため、場合によってはもとの詩を特定することが難しくなるほど原作から離れている。マーラーはそういった経緯については何も知ることなく、単純にベートゲによる翻案（Nachdichtung）のうちに描き出されたオリエンタルな世界観に惹きつけられたのだろう。
　「大地の歌」は、テノールとアルト（あるいはバリトン）が６つの楽章を交互に歌うという連作歌曲の形式を持つと同時に、その副題に示されているように「一つの交響曲」でもある。連作歌曲としての性格は、なによりも「大地の歌」という作品全体の標題に収束していくようなそれぞれの詩のテクストの内容によって作り上げられているのに対して、交響曲としての特質は基本的に、管弦楽によって演奏される音楽の形式的な側面により深くかかわっている。しかし、この二つの側面は別々の特質として存在するというよりも、むしろ互いに補完し合っているように思われる。
　「大地の歌」は、詩のテクストに寄り添って作曲された比較的自由な形式をもつ作品とみなされることも多いが、作曲家・音楽評論家の諸井誠は、「大地の歌」を交響曲としてとらえる立場からこの曲の構造分析を行っている。そのような視点で見るとき、ソナタ形式で書かれた第１楽章、緩徐楽章の第２楽章（諸井によればこの楽章もソナタ形式）、そして第３楽章から第５楽章までを一つのまとまりとみなすスケルツォ風の部分、そして最後にシリアスで充実した内容を持つ最終楽章という、伝統的な４楽章構成の交響曲の姿が浮かび上がってくる。
　諸井誠はおもに音楽そのものの分析に焦点を当てているが、こういったとらえ方は詩のテクストのうえでも非常に説得力がある。この作品全体を貫いているのは、悠久の大自然のなかで「この世」（これは「大地」と訳されているErdeと同じ）の人間の生がいかにはかなく虚しいものであるかという感情である。
　第１楽章では、厳格な形式を伴いつつこの中心主題がいわば正面に据えられて歌われる。緩徐楽章としての第２楽章では、秋の寂しく枯れ果てた情景と重ね合わされた「孤独」な情感が歌われ、抒情的な性格がひときわ強い。それに対して、第３部としての第３楽章から第5楽章では、それまでの厭世的で悲観的な性格とは打って変わって、この世の楽しさ美しさ力強さが歌われている。しかし、そのような明るさは見かけのものでしかない。これらの楽章のテクストは他の楽章と比較するとき、情景描写的・物語的であり、深い情感に踏み込むことはない。そして、全曲の半分の長さを占める最終楽章では、その冒頭から「この世」の見かけの楽しさが根底から
否定される。この楽章のテクストは、さびしい夕暮れの山の情景を描く前半の部分（孟浩然の詩による）と、友との別れを描く後半の部分（王維の詩による）からなるが、全体として「この世」に疲れ「別れ」を告げる情感が漂っている。
　このように見るとき、交響曲としての楽章構成をほぼとりながら、それに対応する詩のテクストが配置されることによって、この作品全体の思想が織り込まれているのを見て取ることもできるだろう。
　以下、そういった構成をある程度念頭に置きながら、それぞれの楽章の詩と音楽について簡単にふれたい。


<b>第１楽章　この世の哀れについての酒の歌</b>
　李白「悲歌行」（悲しき歌）による。酒宴の席で酒を飲む前にうたわれる詩でありながら、そこで詠じられているのは「この世（Erde）」のつらさや虚しさである。琴を鳴らし酒を飲むという、この世の楽しみについても確かにふれられているのだが、それはこの世の虚しさを覆い隠すためのものでしかない。むしろ、「天」や「地（Erde）」の大自然は悠久の流れの中にあるのに対して、人間の存在はごくはかないものでしかないことを詠い手は強く感じて
いる。
　そして詩の終盤、突然のように、月明かりに照らされた墓場にうずくまる怪しい猿の姿が描き出される。「猿だ！ 聞いてくれ、あのかん高く耳をつんざく啼き声が／生の甘い香りのなかへと響き渡るのを。」この戦慄を覚えさせる情景と不気味な鳴き声は、まさに生の虚無の深淵のイメージに重ね合わされているといえるだろう。音楽もこの箇所が一つの頂点をなしている。


<b>第２楽章　秋に一人寂しきもの</b>
　銭起「效古秋夜長」（古（いにしへ）の〈秋夜長〉に效う（ならう））による。ただし、ベートゲの詩は原詩からかなり離れているところが多い。晩秋の寂寥とした情景が細やかにそして美しく描き出されている。しかし、ここではそのような枯れ果てた情景そのものよりも、むしろそれと重ね合わされた「孤独」な情感が詩の中心にある。そういったなかでも、「親しき憩いの場よ、お前のところに行こう」という箇所、あるいは「愛の太陽よ、おまえはもう二度と輝こうとしないのか、／私の苦い涙をやさしく乾かしてくれるために」という箇所では、マーラーらしい諦念を含んだ憧れの音楽が聞かれる。ここにはマーラーの想いがとりわけ凝縮されているのかもしれない。
　ちなみに標題に関して、日本語に訳してしまうと分からなくなるのだが、ベートゲの詩では「一人寂しきもの」は女性（die Einsame）であるのに対して、マーラーのテクストではわざわざそれが男性（der Einsame）に書き換えられている。おそらくマーラーは自分自身を重ね合わせているのだろう。


<b>第３楽章　青春について</b>
　第３楽章から第５楽章までの三つの楽章に使われている詩と音楽は、ある共通した性格を帯びている。これらはいずれもこの世の楽しみを謳歌するような内容をもち、その他の楽章にみられるような虚しさや寂しさの感情はまったく現れない。そのため、抒情性ではなく、情景の描写や物語的な性格がきわだっている。それもあってか、これらの楽章ではいわゆる「中国的」な旋律がひときわ目立つ。
　第３楽章は、李白の「宴陶家亭子」（陶家（とうけ）の亭子（ていし）に宴す）による。ベートゲの詩では「陶器の園亭」。ここで描かれている「園亭」は「陶器でできている」とされているのだが、これは単に「陶家」の園亭のことであり、ベートゲが参照したドイツ語の訳詞が完全に勘違いしていたために生じた誤解だった。
　それはともかくとして、この詩では、池の中に建てられた園亭で友人たちが酒を酌み交わしながら楽しく談笑し、詩作に興じているさまが描かれている。その様子が池の水面に上下さかさまに映っているのも趣がある。マーラーはそういった情景に対して、「青春について」という標題を新たに与えている。


<b>第４楽章　美について</b>
　李白「採U曲」（Uを採るの曲）による。ベートゲの詩では「岸辺で」。川のほとりで乙女たちが蓮の花を摘んで楽しんでいる。輝く陽の光のなか、ときおり風が彼女たちの衣の裾をなびかせる様子もなまめかしい。そこに突然、馬に乗った若者たちが現れて駆け抜けてゆき、あたりの草や花は踏みしだかれる。馬上の若者たちが去った後、再び乙女たちの情景となるが、そのうちの最も美しい一人が憧れを秘めて男の子を見送る、といった話の流れだ。
　この情景の内容に応じて、音楽もABAという形式をとっている。乙女たちの細やかな様子は、例えば木管やホルンなどのトリルにも表現されている。それに対して中間部では、とりわけ金管や打楽器によって描かれる、馬に乗って駆け抜ける男たちの荒々しい若々しさが特徴的だ。ベートゲの詩では、この部分は各６行の４連の詩のうちの第３連目にあたるが、マーラーはここにかなりの加筆を行って二つの連とし、全部で11行に増やしている。もちろん音楽的にもこの部分は大きな盛り上がりを見せる。このあと再び乙女の情景となり静かに終わる。


<b>第５楽章　春に酔えるもの</b>
　李白「春日酔起言志」（春の日に酔いより起きて志を言う）による。酔ってこの世の憂さから一切解き放たれたかのように歌う。八分音符で刻まれる音形は、この男のふらついた足取りだろうか。はじめのうちは春に歌う小鳥の声に耳を澄ませているが、そのうちそのような趣さえどうでもよくなり、投げやりな楽天的明るさで終わる。


<b>第６楽章　告別</b>
孟浩然「宿業師山房待丁大不至」（業師（ごうし）の山房（さんぼう）に宿（やど）し、丁大（ていだい）を待てども至らず＝業僧の山寺に泊まって丁家の長兄を待っていたが来なかった）と王維「送別」による。それに対応するベートゲの二つの詩「友を待って」と「友の別れ」を用いて一つの楽章としているのだが、実はこの二つの詩は、ベートゲの詩集では見開き２ページのうちに隣り合って収められており、マーラーはまったくその詩集のレイ
アウトのまま、これら二つの詩をつなげて使っていることになる。ただし、ベートゲの詩では王維に基づく「友の別れ」は一人称で語られているのに対して、マーラーのテクストでは三人称の語りに変えられている。
　前の楽章とは完全に対極をなす深い虚無的な情感によって始まる。詩の第２連が終わったところで、三連符＋二連符の伴奏音形にともなわれてオーボエのソロが始まる。ここからは「憩いと眠り」への静かな憧れに満ちた美しい音楽がしばらく続くが、寂寥としたフルートのソロとともに歌われる第４連では「最後の別れを告げる」予感が支配している。続く第５連と第６連では、音楽は前に流れ、いかにもマーラー的な強い憧れに満ちた音楽となる。
　そのあと、この楽章の冒頭が今度はコールアングレとともに再現され、比較的長い器楽だけの部分が続くが、この箇所は二つめの詩（「彼は馬から降りて、男に」から始まる）へと接続していくための橋渡しとなる。後半の王維の詩は物語的な性格をもっており、アルトによる歌も語り的である。「この世では、私に幸せは恵まれなかった！」というところでは、オーボエのグリッサンドによる深い嘆息も聞かれる。
　しかし、詩の最後の部分で、そういった静かで寂しげな語りは一転する。三連符の伴奏音形にともなわれたヴァイオリン、フルート、アルトによる美しい音楽が現れ、静かな高まりを見せていくが、この箇所ではベートゲの詩をマーラーが大きく書き換えている。とりわけ、最後の一連はほぼマーラーの創作といってもよい（ベートゲの詩では「大地はいずこも同じもの／そして白い雲が永遠に、永遠にある…」の二行だけ）。「いとしいこの大地は」という歌詞とともに歌われるこの最後の一連の音楽は、全曲のなかでもひときわ美しい。ちなみに、オーケスト
ラが次第にe（「ミ」）の音へと収束していくことによって、この最後の情感が導き出される。ここでは、人間の生の営みとは無関係に永遠に続いていく「大地」への憧れが「永遠に（ewig）」という言葉とともに歌われている。しかし、それと同時にマーラーは、ここで「大地」に対比される人間という存在のはかなさを静かな諦念をともなって受け入れているのだろう。


　このように「大地の歌（Das Lied von der Erde）」という作品全体を見渡したあとで、この曲の標題でいわれているErdeとは何かということをもう一度考えてみたい。最初にもふれたように、「この世」のはかなさ・虚しさ・つらさ・寂しさに対する感情がこの作品全体の底に流れている。その意味では、「この世についての歌」といったほうがふさわしいのかもしれない。
　ただし、ここでの「この世」とはキリスト教的な価値観での「あの世」（＝神の国）に対比されるもの（「現世」）ではなく、その対極には悠久の大自然が想定されている。しかし、この悠久の大自然も、第６楽章の最後で歌われているように、まさに「大地」なのである。つまり、同じErdeという言葉によって「この世」と「大地」という両極的なものが意味されていることになる。とはいえ、全曲の最後で、永遠の「大地」のなかでの「憩いと眠り」（それはもちろん死に通じる）に想いを馳せるとき、「この世」の悲しみや苦しみへの嘆きはいわば乗り越えられている。そのように考えるとき、「大地の歌」という従来から用いられている日本語の標題も、やはりこれはこれでもっともなものであるとあらためて感じた。


初　　演：1911年11月20日、ミュンヒェン、ブルーノ・ヴァルター指揮


楽器編成：ピッコロ、フルート3（3番ピッコロ持ち替え）、オーボエ3（3番コールアングレ持ち替え）、クラリネット3、小クラリネット、バスクラリネット、ファゴット3（3番コントラファゴット持ち替え）、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、グロッケンシュピール、トライアングル、シンバル、タムタム、タンバリン、大太鼓、ハープ2、チェレスタ、マンドリン、弦五部


参考文献
『グスタフ・マーラー　全作品解説辞典』長木誠司著（立風書房）
『交響曲の聴きどころ』諸井誠著（音楽之友社）
『グスタフ・マーラー』柴田南雄著（岩波新書）
『マーラー　愛と苦悩の回想』アルマ・マーラー著、石井宏訳（音楽之友社）
Hans Bethge, Die chinesische Flöte. Leipzig： Inselverlag, 1922（1907）
Das Lied von der Erde：The Literary Changes
（The Mahler Archives）
http://www.mahlerarchives.net/DLvDE/DLvDE.htm]]></description>
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         <category>concert</category>
         <pubDate>Sun, 22 Apr 2012 23:50:28 +0900</pubDate>
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         <title>2012年04月22日</title>
         <description>第217回演奏会でお配りするプログラムに掲載する曲目解説をアップしました。事前にお読みいただけるとより演奏をお楽しみいただけると思います。</description>
         <link>http://www.shinkyo.com/new/20120422.html</link>
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         <pubDate>Sun, 22 Apr 2012 18:28:45 +0900</pubDate>
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         <title>イベール：祝典序曲＜伝統的洗練と古典性＞</title>
         <description><![CDATA[<div align ="right">土田恭四郎（テューバ）</div><br>

　淡い雲海の中を抜けると、まるで３Ｄのように突然雄大な大地が目の前に広がり、そして歓喜に沸く大勢の人々が上空を穏やかに飛ぶ飛行機に搭乗している私たちに手を振って迎えてくれる。まるで映画のごとき情景が飛び込んでくるような、それでいて厳粛な雰囲気に満ちた曲は、ジャック・イベール（1890－1962）にとって意味のある作品と言えよう。


■イベールという人物
　鋭く豊かな才気に満ち、緻密なデッサンと生命感にあふれる現代的な感覚で詩情と機知に富んだ作品を創作したイベールは、フランス近代楽派の重鎮としてラヴェル亡き後のフランス楽壇にて重要な役割を果たしている。フランスを代表する要職や仕事を要請されながら、燦々と降り注ぐような洗練と個性は時に炸裂し、数多くの作品を幅広い分野に書き残している。


　パリで生まれ、コンセルヴァトワール（国立音楽院）に入学。1919年に「ローマ大賞」を受賞して翌年から３年間ローマに留学、その時に書いた曲が、新響の第202回演奏会で取り上げた代表作の交響組曲「寄港地」であり、その作品は彼の名を一躍全ヨーロッパに広めていった。1925年、管弦楽法についての総合的な教本を書くという重要な仕事を任せられているが、それはローマ留学によって身に付けた技法の確かさの証明であり、1937年から、かつての留学先として滞在したローマのフランス・アカデミーであるヴィラ・メディチ（Vila Medici）の館長という要職に就いている。その時にフランス政府より、1940年に紀元2600年を迎える日本のために祝典序曲の作曲を依頼されたのである。


■紀元二千六百年奉祝楽曲発表演奏会
　1940年（昭和15年）、当時の大日本帝国は、幕末以降皇紀として数えられていた紀元2600年として国民意識高揚を狙い、音楽界でも様々な参画があったが、中でも政府と音楽界を挙げての奉祝行事として奉祝楽曲発表演奏会が1939年より企画された。盟邦諸国に奉祝楽曲の献納を依頼、ドイツのＲ.シュトラウス、イタリアのピツェッティ、ハンガリーのヴェレッシュ、イギリスのブリテン、フランスのイベールによる作品が送られた。演奏会に際して企画・楽譜出版・連絡のため委員会が組織され、さらに当時の主たる演奏団体が合同し、大編成による管弦楽団が
結成されて、結局はブリテンを除く４曲が1940年12月に延べで６回の演奏会（東京と大阪）にて披露されたのである。


■「祝典序曲」解説
　自信に満ちた稀にみる精巧なオーケストレーションは、活気と色彩があり、交差しながら追いかけていくような楽器間のバランスによって更に際立っている。具体的には、フランスの伝統的洗練と古典性をもって声部間の交差を多用し緊密さを獲得して、楽器群同士の重複を避けながら、響きの明るさを生み出す澄んだ音を選びとっている。


　アレグロ・モデラート、４分の４拍子にて短い序奏から祭典の期待が高まり、喜びが高らかに告げられる。続いて８分の６拍子にて低弦から歓喜に満ち溌溂とした第１主題が提示され、次第にフーガのように高まりをみせていく。


　クラリネットにより何かを暗示させる旋律を経て、４分の３拍子にて、まるで大都会の夜景の如く、煌びやかな全管楽器によるコラールが、第２主題としてハープとトランペットの主導によりfffでジャズ風に鳴り響き、弦楽器も加えて頂点を極めていく。そして静まっていくと、トロンボーンとテューバによる荘厳な雰囲気が準備されて、バスク
ラリネットとアルトサクソフォーンが４分の４拍子にて奏する厳かで且つ抒情的なテーマが第３主題として登場する。


　宗教的な聖なる高まりを感じさせるがごとく、まるで天から燦々と降り注ぐ眩い光の中を上昇していくように、楽器を替えてその霊的な興奮を高めていき、８分の６拍子にて第１主題の動機とリズムが更に加えられ、fffにて第１主題と第３主題が一緒になって登場、更に４の３拍子で第２主題も現れて各主題が交錯、８分の６拍子から歓喜の情が一つにまとまって高らかに第３主題が歌いあげられ、炸裂した祝福と共に賛歌が響き渡っていく。


　とにかく大成功を収めた日本の初演時における評価として、音楽評論の草分けとして著名な太田黒元雄の「祝典序曲」に対する批評は注目に値する。


<i>荘重な「祝典序曲」奏祝演奏会
　歌舞伎座における紀元二千六百年奉祝楽曲発表演奏会の曲目を飾った四つの曲のなかではフランスのイベールの「祝典序曲」が最も引き締まった印象を与えた。殊に旋律的な穏やかな部分には荘重な美しさがある。以下略。</i>


■「祝典序曲」の真意
　「祝典序曲」が、当時の日本の国策として紀元2600年を祝う演奏会のために、フランス楽壇を代表して作曲・演奏されたことは歴史的事実ではあるが、作品自体は日本的なものとは無縁であることは紛れもない。


　この作品が創作された時代は、ドイツを中心として国際緊張が高まり、作曲された前年1939年にドイツ軍がポーランドに侵攻、第２次世界大戦に突入した政情不安のときである。
　1940年６月にドイツ軍がパリへ入城し、フランスが対独降伏をした時代、イベールはフランスに帰国する際に自筆譜が紛失、再度楽譜を書きなおして手を加えている。ドイツ軍のパリ占領に伴いフランス初演はすぐには実現せず、1942年１月18日にパリ音楽院管弦楽団／シャルル・ミュンシュ指揮にて行われた（このコンサートは大成功を収め、当時南仏アンティーブに避難していたイベールに精神上の慰めを与えた）。
　1944年８月20日にパリが解放され、８月26日にシャルル・ドゴールがシャンゼリゼを行進、ドイツ軍残党による銃声の中、ノートルダム教会でミサを挙げて全世界にパリが解放されたことを告げた。解放後のパリ音楽院演奏協会のコンサートは、シャルル・ミュンシュ指揮のもと、同年10月22日にこの「祝典序曲」と、オネゲルの「解放の歌」（初演）が演奏されている。


　因みに同時代の日本で「交響譚詩」を1943年春に脱稿した伊福部昭は、アレキサンドル・ニコライエヴィチ・チェレプニンによる日本人を対象とした作曲賞「チェレプニン賞」を1935年に受賞したが、「チェレプニン賞」の審査員としてイベールは係わっていた。伊福部の作品に紛れもない民族の生活に根差した日本の国民音楽を見出したチェレプニンは1936年に横浜にて作曲法や管弦楽法を伊福部昭に対して示唆に富んだ個人授業をしている。


　イベールの「祝典序曲」は、伊福部作品に共通する国民音楽と同様なもの、言い換えれば創作活動の根本理念として国民音楽的な精神が内在しており、それは「紀元二千六百年奉祝」という日本の国策とは全く関係なく、当時の国際情勢の中でのフランスの解放を示唆しているのではないだろうか。


初　　演：1940年12月7日　山田耕筰指揮　
紀元二千六百年奉祝交響楽団
楽器編成：フルート3（3番ピッコロ持ち替え）、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、バスクラリネット、アルトサクソフォーン、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット4、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンバル、タムタム（低音）、グロッケンシュピール、ハープ2、弦五部


参考文献
『受容史ではない　近現代日本の音楽史
一九〇〇～一九六〇年代へ』
（現代日本の作曲家, 別冊3）小宮多美江著（音楽の世界社）]]></description>
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         <category>concert</category>
         <pubDate>Sun, 22 Apr 2012 00:10:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>伊福部昭：交響譚詩</title>
         <description><![CDATA[<div align ="right">桜井哲雄（オーボエ）</div><br>

　伊福部昭はこの曲の表題を「交響譚詩―亡兄に捧ぐ―」とした。兄の勲氏は北海道帝国大学時代にリサイタルを開いた程のギターの名手であったが、1942年に蛍光塗料研究中の放射線障害により30歳の若さでこの世を去った。その次の年、太平洋戦争の戦況が悪くなり始めた1943年に、日本音響株式会社（日本ビクター）主催の「ビクター管絃楽コンテスト」に応募すべくこの曲は作られた。審査の結果第1位となり、その年の9月にSPレコード化、そのレコードが翌年の文部大臣賞を受けた。
　この曲は二つの譚詩（バラード）から出来ている。第１譚詩は元気に遊び回った子供時代の思い出をイ短調で音楽にしている。速度記号の中に“capriccioso”とあるが、これは「奇想的な」という意味である。後述するチェレプニン（ロシアの作曲家、ピアニスト）が７年前の1836年に「写譜して勉強しなさい」と伊福部に渡した最初のスコアが、リムスキー＝コルサコフの「スペイン奇想曲」であった。それに学んだというよりは、チェレプニンが伊福部音楽の中に奇想曲的なものを感じたのだろうか、興味はつきない。
　第２譚詩はハ短調で別れの悲しみを歌う。曲の最後の11小節はコールアングレのソロで、ト短調の別れの歌とそれに続く長い祈りのイ音で、聴く者を静寂の中に導く。「第２次大戦中、蛍光物質の研究に斃れた（たおれた）兄のために起稿し、昭和18年春に脱稿したものです。戦争が烈しくなり、大きな編成を採ることが困難な時代だったので、２管持ち替えの小さなものとしました」と、スコアのあとがきに伊福部は書いている。
　その８年前の1935年、伊福部はボストン交響楽団のレコード演奏を聴いて指揮者のセヴィツキーに手紙を出した。そのセヴィツキーから返事が来て「作品を見たいのでなにか送れ」という。伊福部は作曲中のヴァイオリン協奏曲を３楽章の管弦楽曲に直して送ったところ絶賛された。この曲を「チェレプニン賞作曲コンクール」に出すことにしたのだが、条件が「演奏時間10分以内」であった。そこで第１楽章をカットして第２、第３楽章の２曲を「日本狂詩曲」として応募したところ、見事「一等賞賞金参百円」であった。この時カットされた第１楽章の「じょんがら舞曲」が８年後、「交響譚詩」の第２譚詩に一部使われることになる。この当時は兄の勲氏もまだ元気で、よく写譜を手伝ってもらっていた。そういう懐かしい感謝の思い出もこの曲にはこもっている。
　伊福部は音楽学校には行っていない。札幌二中からヴァイオリンを始めた。後に北海道帝国大学農学部林学実科に入る。今の北海道大学であるが、入学するとすぐに学内の「文武会管弦学部」でコンサートマスターを任される。作曲も中学から始めているが先生についたことはない。唯一習ったのは前述のチェレプニンからのみである。チェレプニンがコンクールの翌年の1936年に来日して横浜にいた時で、伊福部は就職１年目だった。「是非とも出て来い」と言われて、厚岸（あっけし）から上京し、宿代まで出してもらって作曲法と管弦楽法を１ヶ月間習っただけなのだが、そのチェレプニンが伊福部に音楽家になるように勧めた。酒が強かったことも気に入られた理由だったようである。後に東京音楽大学の学長まで務めた。
　伊福部は子供の頃からアイヌの音楽に深く触れていた。父親が十勝の音更（おとふけ）村長でアイヌ集落も管轄していた上、大層尊敬され好かれてもいたので、「和人」には見せないコタンの行事も見せてもらっていた。何かにつけて集まると歌と踊りになるのだが、詩も含めた全てが即興的だった。これは勉強以上のことだったと思われる。全ての音楽の原点は民族の生活から生まれた民族音楽なのだが、記譜法が発明されてユニバーサルになった分失ったものも多い。伊福部はそういう時代の中でアイヌ音楽に接していたのである。
　さて私事で恐縮だが30年程前、私は新響が先生からお借りしていたスコアを返すべく尾山台の伊福部邸をお尋ねしたことがある。玄関に入るなり奥様に三つ指をついて迎えられて大慌てのところへ、先生も出てこられて「上がっていけ」と仰る。もちろん固辞した。だいたい大作曲家とセカンド・オーボエ奏者とで何を話すというのだ！ だが結局私は先生の書斎に上がり込んでしまった。
　部屋いっぱいの民族楽器に囲まれての１時間、先生の旺盛な好奇心に乗せられて私もずいぶんと話をした。居心地の良い部屋と、それにも増して先生の大きさと暖かさに、今でも思い出してはジーンとこみ上げるものがある。話も終わってご夫妻に丁重にお礼を申し上げて、いい気持ちで下り坂を多摩川に向かって歩いた。しばらく歩いてふと振り返ると驚愕。奥様がこちらを向いて道路に立っておられるではないか。慌てて三拝九拝、曲がり角までの道のりのなんと長かったことか。もう一度最敬礼をして伊福部邸を辞した。
　その出来事の少し前の1980年の春、新響は芥川也寸志の指揮で伊福部の「タプカーラ交響曲」を練習していた。第１楽章の練習番号の22まで来た時、芥川先生が隣で座って聞いていた伊福部先生に「この全員休みの８分休符は２つにした方が良いと思いますが」と言うのである。驚いた。そんな事を言われたら普通は怒って席を蹴って帰ると思うのだが、伊福部先生は顔色ひとつ変えず「お好きなようにしてください」と答えられた。この優しい言葉の後ろには、揺るがない自信みたいなものが感じられる。「そんなことで伊福部音楽は変わらないよ」と言っているようだ。新響所有の譜面は当時のままで、全てこの箇所に鉛筆で８分休符が書き加えられている。そんな歴史のあるちょっと見にくい手書きのこの譜面を長く使い続けて欲しいと思う（現在の巷の新版はきちんと８分の２拍子になっている）。
　2002年５月19日、新響主催で「伊福部昭米寿記念演奏会」を紀尾井ホールで開いた。先生の弟子達、というよりは音楽界の重鎮達が大勢集まって祝賀会も大変な盛り上がりであった。故芥川也寸志夫人の芥川眞澄さんが挨拶に立たれ次のようなエピソードを紹介された。


<i>主人は、昭和21年に音楽学校で先生にお目にかかって、その日の内に日光にある先生のお宅まで押しかけて三日三晩居候して、それから弟子にさせて頂いたという話はもう有名にございますけど、その後もついに尾山台にある先生のお宅の近くに家族ごと引っ越してしまって家族ぐるみで奥様にも先生にも大変お世話になりましたことを何度も繰り返し申しておりました。</i>


　この時写真と録音の係だった私が、何かのことで先生に近づいた折「耳が遠いので皆の話がほとんど分からないのですよ」とそっと告げられた。ええっ、なのにあの笑顔で祝賀会を２時間も過ごされているなんて。ひょっとして尾山台での私の話も我慢して聞いてくれたのだろうか。この時の録音を文章化したのだが、渡し損なってしまった。そのうちあの世で謝ろうと思う。
　1989年２月の寒い日、芥川先生のお葬式の帰りに成城の道路を歩きながら作曲について聞いた。先生は「新しいものを作るのは大変でね、どうしても何かに似てくるんですよ」と真顔で仰っていた。どのように返事をしたらよいのか分からず恐縮してしまったのだが、その伊福部昭先生も2006年２月８日に目黒の病院で亡くなられた。91歳であった。「弟子達よりも長生きして申し訳ない」と何回も話されていたが。
　初演は1943年11月20日、山田和男指揮、東京交響楽団、日比谷公会堂で行われた。録音の初演は同年９月４日に同じ演奏者で既に行われている。


初　　演：1943年11月20日　山田和男指揮東京交響楽団
楽器編成：フルート2（2番ピッコロ持ち替え)、オーボエ2（2番コールアングレ持ち替え）、クラリネット2（2番バスクラリネット持ち替え）、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、ハープ、弦五部


参考文献
『伊福部昭・音楽家の誕生』木部与巴仁著（新潮社）
『芥川也寸志・その芸術と行動』出版刊行委員会編（東京新聞出版局）
『私のなかの歴史北の譜』北海道新聞夕刊1985年3月28日から4月8日まで掲載
（伊福部昭公式ホームページより）
『伊福部昭交響譚詩』ポケットスコアOGT-302（音楽之友社）]]></description>
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         <category>concert</category>
         <pubDate>Sat, 21 Apr 2012 23:39:11 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>喜びをもとめて</title>
         <description><![CDATA[<div align="right">大庭　美和子（チェロ）</div><br>

　維持会の皆さま、いつもご支援どうもありがとうございます。<br><br>

　月日は本当に信じられないスピードで駆け抜け、私、、今年で新響に入団して10年目となりました。心臓がクチから飛び出しそうなくらいに緊張したオーディションのこと、その100倍？！憂鬱だった合宿での新人宴会芸（第二次オーディション？）のことは未だ懐かしむことができませんが、憧れだったオケに入団してからの10年を振り返り、10年前の私とリンクするような？本を読みましたのでご紹介したいと思います。<br><br>

◎『オケ老人！』（小学館文庫/荒木源著）<br><br>

　新響内でも出回って？いるそうで、既に読まれている人も多いと思いますが、あらすじは･･･。<br><br>

　30代の主人公がたまたま立ち寄った市民オケの演奏会に感動し、入団希望の連絡をしたところオーディションもなく入団OK！これはラッキーと10年以上もケースの中で眠っていたヴァイオリンを取り出し練習に駆けつけてみると、そこは、あの感動したオケとは別世界？の世界最高齢のアマオケ。その街には紛らわしい名前の「エリートオケ」と「老人（ばかりの）オケ」があり、どこでどう勘違いしたのか老人ばかりのガタガタの楽団に入団してしまったのです。もちろん、そこでは主人公が最年少で期待の星？であった訳なのですが、本当に入団したかったのは「エリートオケ」の方。その後「エリートオケ」のオーディションに辛うじて合格し、2つのオケを行き来することになり、アレやコレやいろんなことがあり、最後は、めでたしめでたし･･･と、かなり端折りましたが、楽しさテンコ盛りのお話です。<br><br>

　「エリートオケ」に入団して必死に追いつこうと努力している主人公は、まさに私？！<br><br> 

　ちょっと違うのは、今まで雲の上だった人達が一緒にいることにドキドキし、練習中に飛び出したり、ヘンな音を出しませんようにとビクビクしながら「頑張ってついて行きますので宜しくお願いします」と小さな声（初々しかった？）での挨拶（お願い？）に「ついて来るんじゃなくて一緒に弾こうよ」と優しく嬉しい言葉をかけてもらえて、温かく受け入れてもらえた（と思っております！）こと。
　この言葉は今でも私の「やる気」の素！「音楽っていいな！！」と思える瞬間をたくさん運んできてくれて、それからの10年、新響は私の生活の一部となりました。それまでとは確実に心の意識が変わったと思います。<br><br>

　ちなみに、、『オケ老人！』の書評を書いている藤谷治さんの『船に乗れ！』（ポプラ社）も私を睡眠不足にしてくれました。藤谷さんといえば、盗まれた「あのチェロ」がどうなったのか、ずーっと気になっていたのですが･･･『船上でチェロを弾く』（マガジンハウス）の中で、その顛末が詳細に述べられているらしいです。そうとは知らず乗り遅れてしまった私、、さっそく読んでみようと思います。<br><br>

　今回ご指導下さる飯守先生は、技術だけで解決しない音程は友情や愛情であり、誰が合っている・間違っているではなく思いやりなのです。思いやりの精神で響きを作るのです。とおっしゃっています。<br><br>

　シゴトが忙しくて自分の時間をつくれない日々もツライけれど、ひとりっきりで楽器と向き合う練習は、もっと（精神的に）キツく、「あぁ～～できないよ～つらいよ～」という日がくるのですが、泣きながらでも、もがいていると「あっ！わかってきた」という日がやってきて、この喜びを感じたくて弾いているようなもの？！<br><br>

　これからも喜びを求めて、思いやりの精神を忘れずに、あきらめずに、いい音楽を目指していこう。<br><br>

　雛祭りの日、私に（が？）ソックリな伯母が77歳になりました。何事にも一生懸命でアクティブなその伯母を見ていると、私も30年？は楽しいことがいっぱいありそうです。<br><br>

【おまけ】
　演奏会を聴きにいらしたお客さまの書いて下さったアンケートの内容はすべて、団員向けに作成される『新響ニュース』に掲載され、団員全員の手に渡るのですが、新響での私、そのお客さまのナマの声をタイプするシゴトもしております。活動するのは年4回と裏方の地味～なシゴトですが、誰よりも早くアンケートを読める役得感や、私だけ？が見ることのできる紙面の風景のことなど、つぶやかせていただきます。<br><br>

　演奏会で回収されるアンケートは毎回100～130枚ですが、邦人作品、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチなどインパクト大！（ストレスいっぱい？）の演目の時ほど反響（枚数）が多く、最高記録は155枚！213回の飯守泰次郎先生（指揮）・松山冴花さん（Vn独奏）をお迎えした時でした。<br><br>

　タイプするにあたっての一番の苦労は、躍動感溢れる？個性豊かな文字たちの解読です。この作業さえクリアできれば99％は終わったようなもの？！初シゴトの時は37枚でしたが解読できたのは、たったの10枚。あとの残りは何が書いてあるのかサッパリわからず、練習場で皆に聞きまくりましたっけ。それから大先輩方のお知恵を盗むこと9年、今では文字を見ただけで誰が書いたものかわかるほどに（ホントです！）どんな文字でも翻訳？できるようになりました・・と思います。でも・・判読可能な文字！大歓迎デス。<br><br>

　文字だけでなく絵も書いてある、黒ペンではなくカラーペンなど多色使いのアンケートも増えています。初めて住所・氏名・メールアドレスの印鑑が押されているものを見た時はビックリ仰天でした。（いつも持ち歩いているのでしょうか？？確かに、間違いなく次回のご案内を郵送させていただきます。）こういったものはニュースに掲載することができないため、私一人で楽しませてもらうのですが（団員の皆さまゴメンなさい。。）、小学生の子供たちの鉛筆で書いてくれた全部ひらがな！の感想や絵などは本当に微笑ましく、「そのトランペットのピストンは多すぎるでしょう」とか「バヨリン（←と書いてあるのです）の弦は4本だよ」とか「○○パートのオジさん（あっ、スミマセン。。）、そんなにカッコよかったっけ？」とかツッコミを入れたりしながら元気をもらっています。ちなみに、高校生になると、キラキラペン率9割！句読点の代わりに絵文字が書かれていることが多く、「へぇ～～コレって、こういう時に使うのねぇ･･･」と感心しながら、これまた勉強させてもらってます。<br><br>

　もう時効？！だと思うので告白してしまうと、最近の若い人は（小学生までも！）、どんな時も、場面に関係なく「ヤバイ」と言うようなのです。美味しくても「ヤバイ」、感動しても「ヤバイ」・・私、あまり若くないので理解に苦しみますが・・そうとは知らなかった2年前、「私は学校で○○を吹いているのですが、『未完成』の○○のソロが超～～ヤバかった！！！」というアンケートに言葉を失いました。「えっ？！私は、あの素晴らしいソロにうっとりしたけど・・でも、、もし、そんなにヤバかった？のだとしたら、他人に言われるまでもなく、本人が一番そう感じているわけだし・・」その時は、どうしてもタイプすることができずに胸の中にしまい込んでしまったのですが、それは私の大きな勘違いで「超～～素晴らしかった！！！」という意味だったのですね。あぁ～まだまだ修行が足りないかも。今更ですが○○さんには、こっそりお詫びしなくては。<br><br>

　今までに対面したアンケート数、約4000枚！
タイプしようか困ってしまうようなイジワル？な内容に心が痛むこともあるにはあるのですが･･･。<br><br>

　使われている文字の多くがデジタルに置き換えられて、表情をなくしてしまった今、文章として書かれている内容とともに、筆圧・文字の大きさ・乱れ具合などによって書いている人の感情を察することのできる手書き文字を、たくさん（過ぎる？）見ることのできる喜びも感じています。<br><br>

　ところで、もし「超感情移入型」のマーラーさんが会場にいらしてアンケートを書いて下さったとしたら･･･きっと私の手には負えないなぁ。。<br><br>

　今回も皆さまからのナマの声！心をこめてタイプさせていただきます。]]></description>
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         <category>concert</category>
         <pubDate>Mon, 09 Apr 2012 16:04:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「紀元2600年」祝典再考=イベール『祝典序曲』によせる雑感= </title>
         <description><![CDATA[<div align="right">松下　俊行（フルート）</div><br>

　イベールの『祝典序曲』は日本の「紀元2600年」の祝典に寄せられた作品で、同時に贈られた他国の数曲と共に、二千六百年奉祝交響楽団によって昭和15年（1940年）に初演されている。
　現代に生きる日本人は、ともするとこの時代に対して「暗黒」「統制」「支配」･･･ネガティヴなイメージ以外のものが抱けず、故にこの祝典の性格も同じようなものとして漠然と捉えるばかりで、今もって関連する一連の作品群と真摯に向合う気力に欠けているように思える。
　『祝典序曲』を演奏する機会を得たいま、改めて作品に横溢する「自由な」精神から、祝典の性格や当時の日本社会の実態の見直しを試みる事は、決して無駄ではなかろう。それは我々の視点を改める事に通じるからである。<br>
■干支の話<br>
　ベートーヴェンの没年である西暦1827年は、日本では文政10年に当たる。その盛夏の事である。『南総里見八犬伝』を執筆途上だった曲亭（瀧澤）馬琴はある日、最後まで残っていた１本の歯を失った。明和４年（1767年）生まれの彼はこの時61歳（数え年）。既に10年近く前から入れ歯の世話になっていたが、流石に全ての歯を失くした事は一大事だった。日記に彼は書く。
　<strong>予(われ)、今茲(ここ)に六十一歳にして歯牙皆脱了。故(もと)に復(かえ)るの義か。自笑に堪(た)えたり。（『馬琴日記』文政十年六月三日の条）</strong>
　ここにあるのは、生まれ変わるべき「還暦」の年に歯を全て失い、本当に生まれたての赤ん坊のようになってしまったわが身を哄笑する老人の姿である。以後、入れ歯との苦闘が前にも増して日記に頻繁に現れるようになる。
　だが彼には数年後に始まる眼疾（白内障と言われる）によって、遂には失明に至る運命が待ち受けていた。28年に亘って書き継がれた『八犬伝』の晦渋極まりない文章のうち、その最後の5年分ほどについては、光に閉ざされた苛立ちと絶望に隣り合わせた記憶を頼りの口述によっていた。全ての歯を失ったこの日は、その長い苦難の初段階に過ぎなかったのだ。<br>

　改めて断るほどの事でもないのかもしれないが、還暦とは自分の生まれ年の干支に「還る」年の事を指す。
　「干支」と書いて「えと」と読み（因みにこれは訓読み。音読みなら｢カンシ｣）、毎年末年始には新たな年の干支が話題にもなるが、この場合十干(じっかん)十二支(じゅうにし)＝十の幹と十二の枝＝のうち十二支のみが取り上げられることがほとんどである。本来は甲子(きのえね)や丙午(ひのえうま)の様に十干の部分（甲乙丙丁･･）との60通りの組合せで年（及び日）を表す。十干は万物を形成する元素とも言える五行(ぎょう)（木(き)火(ひ)土金(つちかね)水(みず)）を兄(え)と弟(おと)に各々分化したものである。即ち「木の兄（きのえ）＝甲」「木の弟（きのと）＝乙」の様になる。これを順番に十二支（子丑寅卯･･）と並べる事によって出来る60通りの組合せを指して干支という。つまり干支を「えと」と読むのは十干を構成する「兄弟」の古訓に由来するという事になる。
　馬琴に話を戻せば、生年の明和4年は「丁(ひのと)亥(い)」の年だった。61年目に当たる件の文政10年に再びこの干支が巡って来て、飛んだ「再生」の年となった。<br>

　干支の発祥は勿論古代中国だが歴史は古く、殷虚から出土される甲骨文に既に現れていると言われるがこれは当然というべきで、司馬遷が『史記』を著すに当たって歩猟したであろう、今は失われた様々な文献には、悉くこの干支が明示されていたからこそ、彼は最古の王朝（夏王朝）に出現した歴代の王に関わる詳細な年代までを特定出来ている。『史記』の完成によって、中国に於ける国家としての歴史とその記述のスタイルは確立したと言って良い。そして歴史を記述するという行為とその編纂のスタイルは、干支による年代の表示と共に文明をもつ社会の証として、周辺の地域にも伝播していく。
　詳しい説明は省かざるを得ないが、時代を経るうちに、干支に対して「辛酉為革命、甲子為革令」･･･即ち辛酉(かのととり)の年に王朝が変わり、甲子の年には法律が変わるとの考えが現れるようになる。また、この辛酉から次の辛酉までの60年間を１元とし、21元＝1260年（これを１蔀(ぼう)とよぶ）毎に世界的な大変革が起きるという思想＝讖緯(しんい)説にも発展した。それは遅くとも６世紀には日本にも伝来していた。こうして特に辛酉と甲子の２つの干支は重要視されるに至り、日本では７世紀以降この２つの干支の年には必ず改元（年号を改める）が行なわれている。
　甲子は60通りの干支の筆頭だが、辛酉は58番目。するとこの年に改元された元号は僅か４年で甲子の年を迎えて再び改元される事になる。こうした慣習は西暦661年（斉明天皇７年・辛酉）から1864年（元治元年・甲子）まで1200年に亘って連綿と続いていた。それほどにこの思想が浸透していたという証左というべきだろう。<br><br>

■神武天皇即位の年代確定<br>
　『史記』の完成から800年近くを経て、日本もようやく国家としての体裁を整えるべく、歴史の記述に取組む事となった。『日本書紀』の編纂（7世紀後半～8世紀）がそれである。これは中国の史書に倣った日本初の修史事業というべきものであり、「歴史」ゆえの合理性がそこには当然求められることになった。この合理性とはとりも直さず膨大な伝承を、かの国の史書と共通する時間の座標軸にはめ込んでゆき、整理する作業をともなう。勿論それまでにも干支による記録は各氏族間に点在していたには違いが、全てを天皇家の国家統一に関する伝承を中心に据えた形での時間の再構築が必要となったのである。その原点が神武天皇の即位の年代決定であった。
　この困難な作業に従事した人々は、西暦601年（推古天皇9年）が辛酉の年であった事に着目し、重視した。この年には聖徳太子によって斑鳩(いかるが)に都が移されている。因みに12年（甲子）には十七条憲法が定められる。これも上記の「甲子為革令」の確証となったであろう。仏教伝来直後の当時は革新の時代でもあった。
　この推古天皇9年を起点として上記の１蔀＝1260年を遡った辛酉の年を神武天皇の即位の年と定めたと考えられている。これによって神武紀元の元年が西暦紀元前660年となる訳である。但し、この1260年間に即位した天皇の数は既知のものとなっており、増やす事も出来ないから一代当たりの在位期間が引き伸ばされ、それに伴って恐ろしく長寿の天皇を数多く産み出す結果となった（例えば神武の崩御は127歳。これを初めとして以後崩年がいずれも100歳を超える天皇が続く）。が、その様な不自然さはむしろ初期の天皇を超人化させる一助にさえなった。
　現代の我々には荒唐無稽と見えるこうした事象や、考古学的には裏づけのしようのない年代の確定は、讖緯思想に基づいた彼らなりの必然性のある作業の結果だったのである。<br><br>

■紀元2600年の日本<br>
　さて、昭和15年がその神武天皇即位から2600年目に当たる事に着目した日本政府は、この記念事業企画を昭和10年から行なっていた。紀元2600年という区切りそのものには積極的な意味はないし、この年は甲子でも辛酉とも関係はない。だがこの区切りの良い年に、海外に「神国日本」肇国の悠遠をアピールし、国内にあっては他国に勝る歴史ある日本文化の優越を知らしめて国威と民心の発揚を図る必要が、為政者の側にあった。
　そして同年11月10日には内閣主催の奉祝会開催を中心として、各地で様々な行事･･･勤労奉仕や観艦式・記念碑の建造などを含む･･･が行われる。万国博覧会の開催やオリンピック（夏季のみならず冬季のそれも）誘致も計画された。
　その一環として海外にも奉祝の為の楽曲を委嘱しようとの計画が立案される。「恩賜財団紀元二千六百年奉祝会」と「内閣二千六百年記念祝典事務局」とがこの計画を実際に推進してゆき、次の５曲が日本政府に対して贈られる結果となった。このうち今我々に余りなじみの無いピエッティはイタリア、ヴェレシュはハンガリーの作曲家である。<br><br>

<strong>・イベール：『祝典序曲』
・ピエッティ：『交響曲イ長調』
・R.シュトラウス：『日本建国2600年祝典曲』
・ヴェレシュ：『交響曲』
・ブリテン：『シンフォニア・ダ・レクイエム』</strong><br><br>

　その他３人の「著名な」人々のうち、R.シュトラウスはまだしも、イギリスやフランスのような国々からも作品が寄せられている事と、この祝典の背景となる「戦時の日本」のイメージが容易に重ならないかも知れない。
　だが実際にイベールの『祝典序曲』は1940年6月に日本に到着しており、同年12月に歌舞伎座に於いて山田耕筰の指揮により初演されている（ブリテン以外の作品も、指揮者こそそれぞれ異なるが同日に演奏）。その山田耕筰もこの時、歌劇『黒船（夜明け）』を奉祝曲として書いている。同じ目的で創作された中で有名なのは信時潔の交声曲『海道東征』だろうか。菅原明朗は『紀元二六○○年の譜　交声曲-時宗-』を残す。その他歌謡や舞踏の為の作品を含め、数多の楽曲がこの年の為に作られているのである。
　『祝典序曲』を耳にする人は、そうした日本国内の様々な思惑や意図とは無縁の、「自由」な感情の発露を感じ取る筈だ。大規模なオーケストレーションと華やかな響き、そしてジャズのフレーズまで登場する音楽的なスケールの大きさ･･･このような音楽が、昭和15年の日本で響いたという事実には、ある種の意外感や違和感が伴う。少なくとも個人的にはそうだった。
　そして海外から寄せられたこれらの曲と比較すると、日本人の手になる様々な作品（それは決して音楽に限らない）に対し、いささか狭量な印象が拭えないのは残念というほかはないが、我々が現在抱いている「軍国主義」や「暗黒時代」のイメージにはきっちりはまるように思える。となればその象徴とも謂うべきものが「紀元2600年」祝典であり、これを契機にこの国は更なる暗黒に突き進んでゆく･･･これが戦後日本の一貫した歴史観のように思える。
　確かに当時の日本という国家が陥りつつあった国際的な孤立とそれに伴う独善は進行していたし、また祝典と同時期には天皇制の真の「歴史」に関する書籍の発禁措置もとられている。<br><br>

■祝典の本質<br>
　だが最も肝腎な事は、この紀元2600年=昭和15年の時点の日本は、大多数の日本人にとっていまだ「暗黒」の時代ではなかったという点だ。
　近年（2010年）に出版された『紀元二千六百年=消費と観光のナショナリズム=』（ケネス・ルオフ著/木村剛久訳　朝日選書872）は、ともすれば「戦後史観」によって、紀元2600年祝典を含めたこの時代に対して現代の日本人が犯しがちな断定や評価に関し、意外とも思える事実をいくつも挙げて反証している。
　著者（1966年生まれ）はポートランド州立大学教授で英語圏に於ける天皇制研究の第一人者の評価があるアメリカ人。彼はこの祝典が、民間のあらゆる企業のビジネスチャンスを引出し、特に出版や百貨店や観光（この年だけで1800万人もの人が訪れた国内の皇室ゆかりの地や神社ばかりではなく、当時の日本の植民地へのツアーまで企画され、万単位の民間人が海外各地に出たという）などの興隆を引き出した事実を、史料の裏付けを以って記述する。その上で言う。<br>
　<q>率直にいって、多くの日本人がアジア・太平洋戦争中もいつも通り暮らしていたという見方、あるいはナチ政権が非道な犯罪に手を染めていた時もドイツ人が国内旅行を楽しんでいたという見方は、日本人やドイツ人がこの暗い時期にずっと苦しんでいたというとらえ方に比べて、不愉快かもしれないし、そんな事があってもいいのかと思えるかもしれない。同じように、アジア・太平洋戦争が消費主義を抑えるのではなく、それを加速し、消費主義がナショナリズム感情をあおり、ナショナリズム感情が日本人にいっそうの消費を促すといったフィードバック関係が生じていたという事実も、当惑をもたらすかもしれない。だからといって、「戦時の暗い谷間」において、日本では消費主義は押さえつけられ、人々は観光旅行を計画するどころではなく、ぎりぎりの生活を強いられていたという神話を受け入れれば、それで満足できるというものではないのである。</q><br><br>

　勿論これはひとつの見方であって、拘泥する必要はない。だがその主張は傾聴には値しよう。
　この論の前提は、日本人の圧倒的大多数が、「戦中」というと、戦局が本当に悪化した昭和17年（1942年）後半以降の、真に暗黒だった時代のイメージを全体に敷衍させてしまい、消費活動も普通に行えて自由だった、直前までの時代をも暗闇に覆ったままでおり、その視点からのみ紀元2600年式典も捉えている、という事にある。
　戦後生まれの外国人に改めて指摘されてみれば確かに思い当たるところが無いでもない。現代の日本人たる我々はこの祝典の実態を殆ど知らず、せいぜい初代の天皇即位を国家の成り立ちとしてそれを祝う事を利用した、為政者による恣意的な「今ある体制とその行為に対する無条件の肯定と賛美」の押しつけ･･･程度に捉えてそれで済ませている。つまりショスタコーヴィチがいう、スターリンによる「強制された歓喜」や21世紀のこんにちに至るも「泣き女」や「喜び組」が演出する独裁者の為の祭典と同一視しているという事である。それ故に祝典に寄せられた多くの音楽作品に対しても、創作者の意向も全く無視された体制側の強制の反映として拒絶するか、或いはショスタコーヴィチの作品のように、その背後にあるものを読み取ろうと試み、徒労を繰返しているかだ。そして祝典から5年後に訪れた帝国の滅亡も相俟って戦後は急速に忘れ去られ、音楽作品に関しては滅多に演奏される事もない事が拍車をかける。
　白状すれば筆者も長くそうしたイメージにとらわれ、この祝典に向けられた前述のブリテンの作品や深井史郎の『創造』を新響が取り上げた15年ほど前の演奏会の際（第160回定期1998年1月）、このニュース上にそうした見解を前提とした原稿を書いた事があった（<a href="http://www.shinkyo.com/concerts/i160-1.html">『祝祭と鎮魂と--紀元2600年を巡る二つの作品--』</a>この文中の干支や紀元についての説明は、その際の原稿を一部流用している）。
　だが、その祝典が民間の自主的な消費行動を刺激し、況してや海外を含めた旅行熱を現出させた、謂わば絶大な「経済効果」をもたらした一大イヴェントであったとなれば、その位置づけは大きく異なって来よう。そもそも自由な海外渡航（移住も！）を国民に認めている国が、独裁的な体制を維持できるだろうか？我々はこの時代の実態を知ろうとも努めず、考えようともしていない。<br>

　こうした当時の体制と社会の「明るさ」とを背景にすると、イベールの『祝典序曲』の持つ自由闊達さが初めてよく理解できるものとなるように思う。そして当時の日本人もまたこれを違和感なく受容できるほどに、個人も社会もまだまだ自由であった事を思うべきだろう。これは日本人の手による同時期の作品だけを耳にし、あの時代に対する固定化したイメージを払拭しない限り、まず読み取る事ができない性格のものである。
　是非この作品を真摯に聴いてみて戴きたい。残念ながら前述の通り、実演は滅多に耳に出来ないのだから。<br>

　但し、この後の日本が辿った道を我々はさすがに熟知している。本当の暗黒があり、神国日本の滅亡があった。国家としての独善と孤立は滅亡を見るまで自ら止む事は無かったのである。そこには個々の人間の一生と同じく、国家なり社会なりの、人間が形成する限り逃れよう・逆らいようのない盛衰の周期があるように思えてくる。
　明治維新から神国日本の崩壊に至るまでの時間は77年。更にその再生から今年2012年まで67年が経過している。馬琴は齢(満)60にして「歯無し」となった。いまこの年齢で全ての歯を失くす人は殆どいないだろう。人の寿命も延びている。だがその人の世の変転や、大は国家から小は数人の組織の消長・栄枯盛衰を見渡してみると、60年で一巡する干支と、その循環の中に再生を求める人間の思考と営みは、個人と集団とを問わず、実は変わっていないのではないかと思えてくる。今年で創立56年を迎えたわがオーケストラとて例外ではないと、自省すべきなのかも知れない。
　「紀元2600年」は残念ながら再生とは逆に、帝国の「終わりの始まり」直前の、最後の光芒だったように思える。終末が本当に訪れるその瞬間まで、人はすがるべき何かを求めて、事さらに明るくあろうとするものなのか？･･･『祝典序曲』が現代の我々に訴えかけるものを改めて噛みしめたい。]]></description>
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         <category>concert</category>
         <pubDate>Mon, 09 Apr 2012 15:45:25 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第217回演奏会のご案内</title>
         <description><![CDATA[<strong>西洋のなかの東洋</strong>
　ドイツで長年活動し現在は日本を代表するマエストロとして幅広い活躍をしている飯守泰次郎を指揮に迎え、東洋が見え隠れするクラシック曲をプログラミングしました。<br>
<strong>９番目の交響曲～生は暗く死もまた暗い</strong>
　後期ロマン派の作曲家マーラーは、歌劇は残しませんでしたが、多くの歌曲を作り歌劇的な交響曲を書きました。「大地の歌」は歌を愛したマーラーが最後に書いた独唱を伴う交響作品で、研ぎ澄まされた美しい曲です。交響曲として位置付けられていますが連作歌曲としての性格を強く持っています。本来交響曲第９番となる曲でしたが、ベートーヴェンやブルックナーが第９交響曲を書いてこの世を去っていることを意識したマーラーは、番号を与えずに単に「大地の歌」としました。
　この曲の歌詞は、ドイツの詩人ベートゲが李白らの唐詩を自由に翻訳編集した詩集「中国の笛」をマーラー自身が適宜改変したもので、実際の唐詩と一致してはいませんが、共鳴して音楽の拠りどころとしています。マーラーがボヘミアに生まれたユダヤ人であること、この「中国の笛」に出会った1907年に長女を亡くし自らは心疾患の宣告を受け、ウィーン宮廷歌劇場を辞任し渡米するという転機を迎えていたことが、東洋的な無常感や自然への礼賛に共感させたのでしょう。最後は「永遠に、永遠に」と現世に別れを告げます。<br>
<strong>交響譚詩～踊りと詩の音楽</strong>
　伊福部昭は映画「ゴジラ」の音楽でも知られる作曲家です。新響ではその作品を度々取り上げ大切に演奏をしてきました。1942年に伊福部の次兄が急逝しその追悼曲として作曲されたのが交響譚詩です。譚詩はバラードの日本語訳で、音楽と舞踏が分離せず渾然一体となった状態をさしています。力強く躍動感のある第一譚詩と寂しげな第二譚詩からなるこの曲は２管の小さめの編成で書かれ、ビクター主催の懸賞で第１位となりすぐにレコード化されたこともあり、もっとも頻繁に演奏される代表曲となりました。
　北海道帝国大学で林学を学び森林事務所に勤務していた伊福部が世に出たのは、チェレプニン賞（日本人を対象としたコンクールでパリで審査された）で「日本狂詩曲」が第１位入賞したことがきっかけでした。応募に合わせるためカットされた幻の日本狂詩曲第１楽章「じょんがら舞曲」が、第二譚詩に組み込まれています。ロシアの作曲家チェレプニンは「ナショナルであることこそがインターナショナルである」と指導し、伊福部の民族的な作風の原点となりました。<br>
<strong>イベールが日本のために作曲した名曲</strong>
　イベールは「寄港地」で知られるフランスの作曲家で、チェレプニン大賞の審査員の一人でもありました。日本政府は1940年の「紀元二千六百年祭」のための祝典音楽を同盟国に依頼し、フランス政府はイベールに作曲を要請しました。神武天皇が即位してから2600年目にあたるとして、大日本帝国の国威発揚のため様々な記念行事が行われ、この年の12月に８回にわたって開催された奉祝演奏会でもっとも評判の良かったのがこの祝典序曲でした。輝かしく壮大でエスプリもあるこの曲は、戦争色とは関係なくお楽しみいただけるでしょう。
　どうぞお楽しみに！（H.O.)]]></description>
         <link>http://www.shinkyo.com/concert/c217.html</link>
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         <category>concert</category>
         <pubDate>Tue, 21 Feb 2012 19:15:47 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第217回ローテーション</title>
         <description><![CDATA[<table border bordercolor="#000000" cellspacing="0" cellpadding="1">
<tr>
<td>&nbsp;</td>
<td>交響譚詩</td>
<td>祝典序曲</td>
<td>大地の歌</td>
</tr>
<tr>
<td>フルート1st</td>
<td>藤井</td>
<td>岡田</td>
<td>松下</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>丸尾(+picc)</td>
<td>吉田</td>
<td>新井</td>
</tr>
<tr>
<td>3rd</td>
<td>-</td>
<td>兼子(+picc)</td>
<td>吉田(+picc)</td>
</tr>
<tr>
<td>Picc</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>兼子</td>
</tr>
<tr>
<td>オーボエ1st</td>
<td>宮内</td>
<td>亀井(淳)</td>
<td>堀内</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>堀内(+C.A.)</td>
<td>亀井(優)</td>
<td>岩城</td>
</tr>
<tr>
<td>3rd</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>山口(+C.A.)</td>
</tr>
<tr>
<td>C.A.</td>
<td>-</td>
<td>桜井</td>
<td>-</td>
</tr>
<tr>
<td>クラリネット1st</td>
<td>末村</td>
<td>末村</td>
<td>品田</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>石綿(+B.Cl.)</td>
<td>大藪</td>
<td>進藤</td>
</tr>
<tr>
<td>3rd</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>石綿</td>
</tr>
<tr>
<td>Es.Cl.</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>大藪</td>
</tr>
<tr>
<td>B.Cl.</td>
<td>-</td>
<td>高梨</td>
<td>高梨</td>
</tr>
<tr>
<td>Alto Sax</td>
<td>-</td>
<td>進藤</td>
<td>-</td>
</tr>
<tr>
<td>ファゴット1st</td>
<td>浦</td>
<td>斎藤</td>
<td>田川</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>田川</td>
<td>浦</td>
<td>長谷川</td>
</tr>
<tr>
<td>3rd</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>斎藤(+C.Fg)</td>
</tr>
<tr>
<td>C.Fg</td>
<td>-</td>
<td>長谷川</td>
<td>-</td>
</tr>
<tr>
<td>ホルン1st</td>
<td>大原</td>
<td>森</td>
<td>箭田</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>市川</td>
<td>兪</td>
<td>兪</td>
</tr>
<tr>
<td>3rd</td>
<td>鵜飼</td>
<td>大原</td>
<td>山口</td>
</tr>
<tr>
<td>4th</td>
<td>山口</td>
<td>市川</td>
<td>鵜飼</td>
</tr>
<tr>
<td>トランペット1st</td>
<td>北村</td>
<td>小出(Assi.野崎)</td>
<td>野崎</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>中川</td>
<td>北村</td>
<td>小出</td>
</tr>
<tr>
<td>3rd</td>
<td>-</td>
<td>倉田</td>
<td>倉田</td>
</tr>
<tr>
<td>4th</td>
<td>-</td>
<td>中川</td>
<td>-</td>
</tr>
<tr>
<td>トロンボーン1st</td>
<td>志村</td>
<td>武田</td>
<td>武田</td>
</tr>
<tr>
<td>2nd</td>
<td>小倉</td>
<td>志村</td>
<td>志村</td>
</tr>
<tr>
<td>3rd</td>
<td>岡田</td>
<td>岡田</td>
<td>岡田</td>
</tr>
<tr>
<td>テューバ</td>
<td>土田</td>
<td>土田</td>
<td>土田</td>
</tr>
<tr>
<td>ティンパニ</td>
<td>桑形</td>
<td>古関</td>
<td>皆月</td>
</tr>
<tr>
<td>パーカッション</td>
<td>-</td>
<td>小太鼓/今尾<br>大太鼓・タムタム/浦辺<br>シンバル/桜井<br>ｸﾞﾛｯｹﾝｼｭﾋﾟｰﾙ/皆月</td>
<td>大太鼓/桑形<br>シンバル/中川<br>ﾄﾗｲｱﾝｸﾞﾙ･ﾀﾝﾌﾞﾘﾝ/今尾<br>ｸﾞﾛｯｹﾝｼｭﾋﾟｰﾙ/古関<br>タムタム/田中</td>
</tr>
<tr>
<td>マンドリン</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>(*)</td>
</tr>
<tr>
<td>チェレスタ</td>
<td>-</td>
<td>-</td>
<td>藤井</td>
</tr>
<tr>
<td>ハープ1</td>
<td>(*)</td>
<td>(*)</td>
<td>(*)</td>
</tr>
<tr>
<td>ハープ2</td>
<td>-</td>
<td>(*)</td>
<td>(*)</td>
</tr>
<tr>
<td>1stヴァイオリン</td>
<td>堀内(小松)</td>
<td>堀内(小松)</td>
<td>堀内(小松)</td>
</tr>
<tr>
<td>2ndヴァイオリン</td>
<td>大隈(田川)</td>
<td>大隈(田川)</td>
<td>大隈(滑川)</td>
</tr>
<tr>
<td>ヴィオラ</td>
<td>柳沢(田口)</td>
<td>柳沢(田口)</td>
<td>柳沢(石坂)</td>
</tr>
<tr>
<td>チェロ</td>
<td>柳部容(光野)</td>
<td>柳部容(光野)</td>
<td>光野(柳部容)</td>
</tr>
<tr>
<td>コントラバス</td>
<td>中野(加賀)</td>
<td>中野(加賀)</td>
<td>中野(加賀)</td>
</tr>
</table>

(*)はエキストラ]]></description>
         <link>http://www.shinkyo.com/concert/rot217.html</link>
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         <category>concert</category>
         <pubDate>Tue, 21 Feb 2012 17:45:47 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第217回演奏会</title>
         <description><![CDATA[<img alt="217-small.jpg" src="http://www.shinkyo.com/concert/images/217-small.jpg" width="140" height="198"  align="right">
2012年4月30日（月休）東京オペラシティコンサートホール
曲目　伊福部昭／交響譚詩
　　　　イベール／祝典序曲
　　　　マーラー／大地の歌
指揮　飯守泰次郎
独唱　福原寿美枝（アルト）、福井 敬（テノール）]]></description>
         <link>http://www.shinkyo.com/02past/217.html</link>
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         <category>02past</category>
         <pubDate>Sun, 15 Jan 2012 01:10:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>2012年1月15日</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.shinkyo.com/01next/">これからの演奏会</a>を更新しました]]></description>
         <link>http://www.shinkyo.com/new/2011116.html</link>
         <guid>http://www.shinkyo.com/new/2011116.html</guid>
         <category>new</category>
         <pubDate>Sun, 15 Jan 2012 00:14:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>西暦2001年の新交響楽団　＝マーラーの第５交響曲を巡るある回想＝</title>
         <description><![CDATA[<div align="right">松下　俊行（フルート）</div><br>

　10年ぶりにマーラーの第５交響曲を取上げるに当たり、前回演奏した当時の新響を振返ってみたいと思う。


<b>■選曲の「10年ルール」</b>
　演奏会が活動に於ける大きな節目である限り、どこのオーケストラでも「何をやるか？」は運営の要諦のひとつであると言って過言ではない。これを巡って団体内の意見が四分五裂して、ひとたびこじれればそれは組織の存立そのものさえ揺るがしかねない問題に発展しがちである。各奏者は自分ひとりでは解消しきれない、音楽に対する様々な欲求や見識を抱えて、オーケストラの門を敲く。そしてその一員となれば、当然そうした欲求の充足の具体的な方策を、日常の活動に従いつつ模索する事になるのである。「何故そんな事を・・・」と思われるかもしれないが、そもそもこうした欲求無しに、演奏をするという事はあり得ないのだ。

　新響ではそうした不毛且つ根源的な問題を解消するひとつの方策として<b>10年間は同じ曲を定期演奏会にかけない</b>という所謂「10年ルール」を設け、依頼した指揮者との選曲交渉の場でも、厳格に適用されるルールとして定着している（何度も新響と共演した経験のある方々には、周知戴いているほど）。
　例えば前回の定期で取上げたチャイコフスキーの交響曲第5番は30年間で３回しか公式の演奏会にかかっていない。この有名な交響曲をこの頻度でしか演奏していないアマチュアオーケストラというのは、演奏会の回数にもよるだろうが極めて珍しいのではないか？と感じている。新響の場合演奏会は年４回。１回に必ず３曲は難しいから平均して2.5曲(実情はもう少し多いと思うが)として1年に10曲、それを10年で100曲･･･つまりチャイコフスキーのような知られた作品でも、全く知られていない「隠れた名曲」であっても同等に扱われ、他の99曲を演奏した上でないと再演はされていないという事である。こうして考えると改めてこの「10年ルール」が新響の演奏活動に対してもたらしている「曲目の多彩さ」ともいう影響の大きさを痛感せざるを得ない。そしてこれだけ厳密にこのルールを運用して、同じ曲の演奏頻度を極力避けるようにしてさえ、まだまだ演奏した事が一度も無い、数々の優れた作品があるという現実･･･｢日暮れて道遠し｣の感は常につきまとっている。
　但し、このルールは伊福部氏の作品、そして芥川氏の歿後は彼の作品に対してはやや緩やかな適用にはなっている。新響が特別なつながりのあるこれら２人の作品･･･例えば『タプカーラ交響曲』や『絃楽のための三章』など･･･を、ともすると頻繁に演奏しているイメージがあるのも無理からぬ事なのである。


<b>■2001年の団内模様（ふたつの委員会）</b>
　という訳で今回の定期でマーラーの第５交響曲を取上げるのは、そのルールに厳格な運用の結果にほかならない。前回が2001年４月の第173回定期だったのでまさに10年という時が経過するのを待ち「満を持して」この大作に取組むという事になるが、これだけの時間が経過する間には、新響という組織もずい分と変化しているものだと改めて痛感する･･･というよりも、ちょうどこの10年前が、新響の大きなターンニングポイントだったと個人的には考えざるを得ない。
　当時と比較してこの団体の活動を司る諸々の運営体系を実際に運用し、団体の運営を進めてゆく個々の人々の考え方がこの2001年という年を契機として大きく変転したという事である。

　新響には活動を推進してゆく為の組織として<b>「運営委員会」</b>と<b>「演奏委員会」</b>というふたつの委員会があり、それぞれの役割分担を果たす事でこれが両輪となり、活動方針や具体的な方策が、両者によって構成される<b>「合同委員会」</b>によって決定されてゆく（重要事項については総会による承認によって決定）。かつて芥川氏が存命の時代は、<b>「音楽監督」</b>の役職があり、演奏委員会（当時は「技術委員会」名称）のメンバー選出に当たっての人事権を持っていたが、氏の歿後は常に空席であり、その空席を補うべくこうした機構が徐々に整備されて来ていた。簡単に言えば合同委員会の決定権限が強化されたという事である。また演奏委員会は演奏会に於ける団員個々の人事権に限って、握るに至っている。これが芥川氏歿後10年を経るうちに、音楽監督の空席を前提として、新響が行なった組織改革の中身である。この事は後に説明する事に深く絡んでくるのでご記憶されたい。
　この両委員会の構成メンバーの選出方法は全く異なっている。
　演奏委員会を構成するのは各パートの首席奏者に限定される。高度な演奏技量が選出の尺度となる各首席奏者は1年毎に見直され、全団員による投票から始まる一連の厳重な手続きを経て最終的に総会の信任で決まる。委員長はこのメンバーの中から演奏委員会でまず人選される事から始まり、合同委員会の推薦⇒総会の信任の手続きで最終的に決まる。この手続きはかなり煩雑であり、投票から総会まで２ヵ月近い時間もかかり、制度を管理・運営するための膨大な人の手間もかかる。が、個々の団員にとって演奏会のローテーションを管理するという謂わば音楽監督の「人事権」を代行する人々を選ぶからには、各人の「納得」を得る上でもこうした制度を長い時間をかけても、敢えて創始してきた歴史がある。このプロセスを経て首席奏者になる人の数は、当然ながら限られている。
　これに対し運営委員会のメンバーの人選は、まず運営委員長を全団員の投票によって選出する事から始まる。選挙期間が設定され告示⇒政見発表⇒投票･･･という流れで委員長が決まり、そこから委員長の意向によって各運営マネージャーが「組閣」されてゆく(総会で信任)。
　これと並行してこのオーケストラの運営に積極的に関わっていこうとする者や委員長の指名によって「運営委員」が決まる。この運営委員には特別に信任手続きを必要としない。すなわち運営委員会のメンバーは自分の「意思」さえあれば、よほどの欠格条件が無い限り、確実に委員会入りして、その運営に対して深く関わっていく事が可能なのである。
　こうした両委員会の成立ちの違いは、それぞれが果たすべき「機能」の違いに由来するものであるが、その違いが両委員会の性格の差異も決定づけていた。それは例えば構成メンバーの「流動性」に起因するものであったかも知れない。
　演奏委員会のメンバーすなわち各首席奏者の顔ぶれは、若い人材を入れるべく毎年改選を行ってもそうそう変わるものではない(例えば筆者は現時点で、23年間フルートの首席奏者を務めている)。また自パートの人事に対する責任感は、他方で内向きの関心に傾きがちで、本来負っている運営の片翼への責任に対する無自覚さを生み、団全体の運営に対する無関心へ向かっていた事は、当時の状況を振り返ってみるとその一員として、やはり認めざるを得ない。
　それは具体的には「合同委員会」への不参加という形ではっきり表れていた。これは裏を返せば<b>合同委員会の「運営委員会化」</b>という事を意味する。この風潮は新響と深く関わった最後の「部外者」である石井眞木氏との関係が切れた1994年以降強くなったように思われる。


<b>■事後承認とルール無視の風潮</b>
　それ以降2001年当時に至るまで、この運営委員会の主流は、<b>『日本の交響作品展’76』</b>のサントリー音楽賞受賞によって新交響楽団を世に知らしめるにあたり多大な貢献をした人々とその賛同者たちだったと言ってよい。彼らは芥川氏の謦咳にも深く触れ、その歿後は生前の言動を伝えるとともに、その路線の「一部」に過ぎなかった「邦人作品」を更に深耕させていく事で、新響というオーケストラの独自性を確立してゆく方法であるという考えだった。そこでは「演奏会企画」が重視され、選曲するとはすなわち「企画を決めること」であり、その「企画」とは<b>「どのようなテーマを持って、選曲の候補曲中に『邦人作品』を盛込むか？」</b>を考える事に変貌しつつあった。そしてこうした「企画」重視は次第に選曲の「10年ルール」を浸蝕するにまで至ったのである。
　この人々の企画立案の能力と、その実現に向けての行動力には瞠目すべきものがあった。それあってこそ自他共に新響の一時代を築いたと認められていたと言える。例えば1999年10月の第167回定期では、当時ハバロフスクの極東交響楽団芸術監督だったヴィクトール・ティーツ氏を招いているが、この実現のために彼らは文字通り東奔西走しており、それを団員も周知していた。或いは「邦人作品」企画に対する注力もそうである。費やされる時間も労力も到底他の団員の及ぶところではないレヴェルのものであったと断言できる。
　こうした状況が何をもたらしたかと言えば<b>「運営（企画）の専業化」</b>に他ならない。彼らは自負と自信を以って、新響の方向性を決め、推し進める。一方で他の団員は、彼らの行動力を目の当たりにして、「彼らに任せておかざるを得ない⇒任せておけば良い」という依存的な体質に変容した。
　これが更に進み、<b>「行動を起こした者の考えには従うべきである」</b>という風潮が蔓延し始め、団内でも公言されるに至る。「何故ならその行動は、純粋な情熱によるものだからだ（その情熱こそが、新響をアマチュアたらしめる根本である）」が理由として付け加えられた。そしてこれがさらに進行すると、こうして予め組立てられた「企画」に対し、合同委員会で異議をさしはさむ事が事実上出来なくなっていったのである。つまり莫大な予算が動くかも知れない非常に重要な案件であったとしても、誰かがその行動力によって独断専行してしまった事は、合同委員会でも「追認」するだけになってしまった。追認と言っても前述の通り、演奏委員会のメンバーは殆ど欠席で、一方の運営委員会の主流は彼らだった訳だから、こうなると殆どこのメンバーによる「壟断」と言って過言でない状態に陥っていたという事である。
　これは新響の規約が緩やかな規定にとどまり、団員個々の「良識」によって運用されるように作られている事に一因があったと考える。そのような性格の規約でなければアマチュアオーケストラは早晩立ち行かなくなるからである。だが、反面その条文の行間や間隙を突けば無限の拡大解釈も可能である事を意味する。この時点で規約はそうした危機を迎えていた。

　この体制は1996年7月に行なわれた2夜連続の演奏会(第152・153回定期)<b>『日本の交響作品展’96』</b>によって確立したと言えるかもしれない。彼らの主導によって新響創立40周年企画として行なわれたこの演奏会の掉尾を飾る作品として、諸井三郎の「交響曲第3番」が演奏されたが、その僅か3年半後の2000年1月(第168回定期)にも再演されるに至る。選曲に於ける「10年ルール」はあっけなく、いとも簡単に破られたのである。この選曲については遅くとも1999年前半には結論が出ていた筈であるが、新響内での評価も共有されていないこの作品の演奏に関して、空前絶後とも言えるルール逸脱がどのような過程を経て行なわれたのか？については、今もよく判らない。つまり極めて密室性の強い、横紙破り的な決定がなされたとの懸念を禁じ得ないのである。「壟断」の典型的な一例に敢えて挙げたい。

　実を言えば2001年のマーラーも「10年ルール」を逸脱している。前回の演奏は1992年7月（第136回定期：指揮は小泉和裕氏）だが、この2001年は、新響と「マーラーシリーズ」を完結させた指揮者　山田一雄氏の歿後10年目に当たっていた。そして同時にこの指揮者の「埋もれた」作品である『おほむたから』の再演が試みられた。つまり<b>『山田一雄歿後10年』</b>という企画のもとに、選曲のルールは譲歩を余儀なくされる結果となった訳だが、この程度は仕方ないと受け止められていた。何と言ってもこの指揮者は新響にとって大恩ある人だった。そして『おほむたから』･･･これは本来『おほみたから（「おおみたから」とよむ）』と題されたものであるが･･･は、昭和20年(1945年)の年頭に演奏されたまま、50年ぶりの蘇演という事もあり、遺族より自筆スコアを借り受けてそこから改めてスコアとパート譜を起こすという「新響らしい」手作り作業（但し、流石に作業はPC入力に置き換わっており、全員が手書きで譜面を起こすという「美談」は過去のものとなっていた）も伴った。
　だがこのマーラーの交響曲第5番が、10年を待たずして再演が決定された経緯についても、やはり不透明さは拭えないのである。


<b>■技術的衰退</b>
　こうした状況の中、新響全体の技術レヴェルは明らかに後退していたと断言できる。演奏委員会の団内に於ける影響力は相対的に低下し、技術向上のための積極的な選曲案を呈示する代わりに、降りてきた演奏会企画(すなわち選曲)に沿ってその実行に当たっての技術的具体案を練るだけの存在になっていたためである。また企画によって俎上に上る頻度が格段に増えた「邦人作品」は、団員の演奏意慾を確実に下げていた。
　そもそも新響創立40周年企画の一環として、この<b>『日本の交響作品展’96』</b>が決定するまでの経緯に於いても、「邦人作品」に対する新響内の位置づけを含め、議論が絶えなかった。それは新響の根強い成功体験となった1976年の同企画立案に際して芥川氏が提唱した新響にとっての「邦人作品」の定義である、
<b>① 旋律が明確である。
② 調性がある。
③ 戦前・戦中時代の作品である</b>
が、その後20年近い時間を経過する中で、その位置づけに変化を来たしているのではないか？との疑問に根ざしていた。日本の音楽界の実情も社会情勢も激変し、日本人の音楽作品の質も内容もおのずから変わって行く中で｢　｣付きの「邦人作品」にのみこだわる意味を見出しかねていたといえる。すなわち大半の団員は「邦人作品」への対応に倦み始めていたのである。これは今思い返しても危険極まりない兆候だった。新響に加わろうとする演奏者の殆どは、このオーケストラの技術的な力に自分を寄与させたいと考える。これは今も変わっていない。決して「邦人作品」を否定するものではないが、それが個々人の入団の「目的」とはなり難い。という訳で、企画を推進した彼らの真意は違うところにあったのかもしれないが、結果として個々の団員にとって・・・特に演奏委員会のメンバーにとって・・・<b>「技術的向上の否定」</b>と捉えられる結果を生んだ事は否定出来ない。事実2000年10月の演奏会（第171回定期）に於いて明らかな破綻となって顕れる。

　筆者はこの直後に演奏委員長となった。2001年の年明け以降、演奏委員会の活性化に努めるべく腐心する。同時にこれまで傍観気味に過ごしていた、合同委員会での劣勢だった意見に、委員会としてバックアップした。それは「選曲に対する団員としての（そして新響の技術的向上を実現する見地から演奏委員会としての）意見を一層強く提示すること」にほかならなかった。これから半年ほどの間は、合同委員会は選曲を巡る論争の場となった。両者の主張や議論の推移について、それ以前もそれ以後も見られぬほどの綿密な議事録が毎回作成され、団内への公表前には両者のチェックが必ず入った。この一事を見ても、委員会の雰囲気が量り知られようというものである。半年ほどは一進一退の状況が続いた。ギリギリまで決着がつかず、最後は運営・演奏両委員長間での妥協策が図られた事もある。こうした状況の中で4月のマーラーの第5交響曲は演奏されていた。


<b>■政策論争と転機</b>
2001年8月初旬の合同委員会で、運営委員会サイド（つまり彼ら）から突然新響の体制改革案が提示された。この日筆者は委員会を欠席する事になっており、それを見計らった電撃策だった（と今でも思っている。それまでは必ず委員長間で事前に委員会に諮る内容について連絡を取り合っていたからだ）。それは、
<b>①音楽監督を復活する（具体的な指揮者名あり）。
②音楽監督に対応する組織として、両委員会は統合する。</b>
　という事を主意としていた。その会合の出席者から晴天の霹靂というべき情報を受けて仰天すると同時に、その意味するところを考えた。

　①については具体的候補者はあるものの、打診がどの程度進んでいるのかは明らかでない。実現の可能性も判らなかった。つまり将来的な①を実現する為に、すぐにでも②の体制改革をして行こうとするプラン・・・すなわち両委員会を統合する事に主眼があり、それは取りも直さず演奏委員会を無力化する意図と読めた（今でもそうだったと信じている）。またこれを実現するためには流石に「運用」で凌ぐ訳にもいかず、大幅な「規約改正」が必要とされた。
　これが公表されると、これまで「邦人作品」路線を疑問視し、両委員会の確執を感じとっていた団員間にも考えを鮮明に表明する風潮が醸成されていった。そうした団員と筆者を含む演奏委員会のメンバーとの会合も頻繁に行われるようになる。事は選曲に端を発したこのオーケストラの「今後」の体制にまで深くかかわるものである。こうした時には様々な思惑から議論が交わされる。だがそこで最も主流になったものは、新響の<b>「演奏主体・技術の向上」</b>に対する危機感を抱く人々であったと言って良い。そして遂にはその流れの中から次期運営委員長擁立へと移っていく、というよりそうしない限り新響の本来の持ち味である「技術力」の保持は、難しいとまで我々は思いつめていたのである。新響団員である限り誰しも、「邦人作品」と向き合う事を否定しない。ただその偏重によって「技術力」が軽視される結果を招いている現状は望ましくない。技術力があればどのような企画も実現でき、且つ新たな人材も集まる。故に将来に向って団員のモチヴェーションを高揚させるべく、選曲の枠も更に拡大すべきである。という考え方である。

　この年11月末の運営委員長選挙は、両派からそれぞれの候補者が擁立され、「政策論争」が起こった。これは例年予定調和的に信任投票で収束する委員長選挙とは全く趣を異にするもので、それ以前に例はなく、その後の10年間にも無い出来事だった。それぞれが政見を述べ、団員からの質問も相次いだ。開票結果も緊迫感の中で公表され、まさに「僅差」で我々の候補者が勝った。その後の新響の方向が明確になった瞬間だったと言える。「新政権」が運営の布陣をすると並行して「選曲ワーキンググループ」を立ち上げられたのはこれまでの流れを一望すれば当然だった。そして翌2002年、彼らは新響を去り、オーケストラ・ニッポニカを設立するに至る。選挙の際は僅差だったが、結局大多数の者が新響に残った。これが「邦人作品」に対する団員の考え方の表れと考えるべきであろう。

　とはいえ、この後しばらくの間は、新響の「企画力」が衰えるのではないか？との懸念が団内に絶えなかったのも事実である。「選曲イコール企画」という呪縛が如何に強かったかの証左だった。だがここ10年の間に、技術的な理由や「邦人作品」定義の範疇外を理由に、それ以前には取上げられなかったあらゆる日本人作曲家の作品…例えば<b>黛敏郎・武満徹・三善晃・矢代秋雄・湯浅譲二・権代敦彦</b>等・・・の演奏を通じ、それが杞憂であった事を知っている。技術力を向上させて新たな人材を確保しつつ、広いレパートリーを聴衆に呈示する事が、聴衆・奏者双方の利益に資するという確信を得て今日を迎えている。

　選曲の持つ重要性はこれまでに見たとおりだ。「ルール」に縛られる必要はないが、団員個々の演奏に対する向上心への希求を無視しては、この組織は成立たないとの認識は、この10年間で団内に深く浸透したと確言できよう。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 13 Jan 2012 08:14:08 +0900</pubDate>
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