2006年1月演奏会パンフレットより


三善 晃「交響三章」― 日本人としてのロマン主義の探求

現代日本を代表する作曲家の一人である三善 晃氏。その氏の若き日の名作「交響三章」で、新交響楽団創立50周年シリーズの幕が開きます。

今回は三善 晃氏を囲んで、桐朋学園大学時代に氏の下で学ばれた今回の演奏会の指揮者・小松一彦氏を迎え、「交響三章」の生まれた背景、そしてその魅力の本質について存分に語っていただきました。


■東京大学からパリ音楽院へ 作曲家への道のり

---小松先生は、三善先生との出会いはいつ頃だったのでしょうか。

小松 三善先生と私とのお付き合いは、桐朋学園大学で教えていただいた頃から始まります。先生の作品はその後の1972年、私が桐朋を卒業してすぐに振らせて頂きました。邦楽(尺八、2箏、十七絃箏)と弦楽四重奏のためのオクテット「トルスIV」でしたね。まだ駆け出しの私が素晴らしい曲を指揮させていただいて、本当に光栄でした。
今日の対談は先生がメインですので、私は横から三善先生と私とのふれあいから、三善先生の音楽性とかキャラクターについてちょっとしたエピソードなどを交えて、エッセンス的に、スパイス的にお話しさせて頂こうと思っております。

---三善先生は3才からピアノとソルフェージュを始められたそうですが、まず作曲家を志された経緯についておきかせください。

三善 まず当時の歳の数え方というのは今とは違うのではないかな。これは満で数えた、ということではないかしら。満で3才ということは数えだともっと大きくなりますね。いずれにしろ小さい時からピアノとかソルフェージュとかヴァイオリンなどをやっていましたが、この時の自分はただやっていただけでした。作曲家になろうという気持ちが強くなってきたのは高校3年生の時です。周りが大学受験のために勉強を始めてきたので、私も何かしなくてはいけないと思い始めたのですね。将来のことなどを決める時に「これはダメ」「これもダメ」と選択肢をどんどん削っていったら、最後まで残ったのが音楽でした。この時「自分の将来は音楽をやることなのかな」と思ったのです。小さい時からやっていたという事も大きいですね。それで次に大学を選ぶ段階になり、音楽の専門の大学を選ぶことはやめようと思ってしまったのです。もう既に自分でやっていたわけですから、これ以上大学という場所で音楽をもう一度やるのは嫌だった。

---それで東京大学の仏文科へ進まれたのでしょうか。

三善 そう、フランス語は好きだったのね。高校3年生の時、フランスからいらしたレイモン・ガロワモンブラン(注1)に師事することになりました。モンブランさんは当時2年くらい日本にいたのです。彼はヴァイオリニストで作曲家という二枚看板を持っていて、ヴァイオリンの弟子は日本にもたくさんいたのです。ところが作曲の弟子は一人もいなかった。そこである時彼が行ったテストを受けに行ったのです。その結果「教えてあげるから来てごらん」と言われて2年間彼について教わりました。そうしたら彼は2年目にフランスに帰っちゃった、私が大学1年の時です。それで彼を追ってフランスに行ったのですね。

小松 では三善先生はもともとフランス音楽がお好きということではなかったのですか。

三善 少し話しが戻りますが、終戦直後の日本では進駐軍の放出レコードをNHKのラジオで放送していましたよね。その時にシャブリエとか、フォーレはもちろんですけれども、当時の日本の中学生だった私が全く知らないものをたくさん放送してくれました。その中でアンリ・デュティユーもやっていました。そしたらモンブランさんは「自分の先輩がデュティユーだった」と言っていましたので、それではデュティユーにつながる教えを是非自分も受けてみたいと思いましたね。実際にフランスへ行ってみると、モンブランさんはものすごく力のある方でした。

---それでパリ音楽院へ進まれたのですね。

三善 フランスまで行ったらモンブランさんが「学校に入れ」と言うのです。自分がアンリ・シャランについたから、私にも薦めたのですね。
パリで最初にやったことはね、床屋へ行ったことなのですよ。モンブランさんが「この子の髪の毛を切っちゃってくれ」と、ご自分で支払いまでしてくれました。何も分からない時に、それこそ西も東も分からない時にです。当時は長髪だったのね(笑)。

■キオ、キラと呼びあった仲 矢代秋雄との出会い

---矢代秋雄さんとはパリでお会いしたのでしょうか。

三善 そうです、パリで彼に会いました。凄い人でした。彼の部屋は5階で、そこに行くには傾いだ階段を登っていくのだけれど、その下宿に連れて行ってくれたの。で彼自身がお米を研いでくれてね、「5回水洗いする」とか呟きながら。それで今でも覚えているのだけれども「シャトー・ヌフ・デュ・パプ(教皇の新しい城)」という葡萄酒の赤をビフテキとお米のご飯と一緒に出してくれました。
あとね、忘れられない彼の言葉として「コンセルヴァトワールの特徴って何?」という私の問いに対して「目配りが完璧だ、決して素人ではない」と言ったことですね。でも彼こそ本当の意味でプロではないかしら。とにかく知識が凄かった。百科全書というよりもっとすごい、図書館みたいな感じ、まさに生きている図書館でしたね。

---矢代先生の「交響曲」は最近新響で演奏させていただきました(第190回演奏会2005年7月)。難曲で大変でしたが素晴らしい経験を得ることができました。とにかくがっちりとして重厚で綿密で隙がない、という印象があります。

三善 そう、そうでしょう。それ、わかる。

---一方、矢代先生からみても三善先生は凄い存在だったのではないでしょうか。例えば先生が尾高賞を受賞された時のNHK交響楽団「フィルハーモニー」1963年3月号に、矢代先生が「告白的三善晃論」を寄稿されております。その冒頭に「『諸君、脱帽し給え。天才が現れた!』思わず私は呟いた。」とありますね。

小松 シューマンがショパンの自作自演を初めて聴いた時に絶賛した時の、有名なエピソードの引用ですよね。

三善 矢代さんのその言い方は返上してね、私からのオマージュを心から捧げたいです。

---あと、「音楽芸術」1963年9月号にも矢代先生の著作で「三善晃/交響三章・総譜」という文章がありまして、作品そのものに関しては絶賛されておられますが、面白いのは印刷された総譜の書き方について欠点を指摘なさっていますね。拝見しますとお二人の友情をすごく感じます。

三善 総譜の書き方の欠点をあちこち指摘しているでしょう(笑)。記譜方とか誤記とかをいろいろと。でもそういう友達というのはなかなかいないですよ。彼の気性として不秩序が許せなかったのでしょう、だからいろいろと言ってくれるのです。こういう人はありがたいですよ、すごく。
あとね、矢代さんが秋雄でアキオでしょ、私が晃でアキラでしょ。だからお互いのことを「キオ」と「キラ」というように呼び合っていたのですよ。「ねえ、キオ」「なに、キラ」というようにね。矢代さんのご両親がパリにいらした時に一緒に食事をしたのですけれども、この「キオ」「キラ」の意味がわからなくてね、「キラって誰?」とおっしゃった。だから「目の前にいるじゃない」って(笑)。
とにかく、パリでは2年間一緒で矢代さんの方が先に来て先に帰りました。彼の第2作目に「2本のフルートとピアノのためのソナタ」という曲がありますけれど、それを作曲されていた時はものすごくナーバスになられていました。芸術家にとっての第2作目というのは勝負どころなんだ、と言っていました。

■日本人にとってのロマン主義とは 交響三章への思い

---さて今回演奏する「交響三章」ですが、初期の集大成と考えてよろしいのでしょうか。

三善 そうですね、現在その上に立っているという事では根っこのような作品です。
留学中に学んだこと全部を交響三章の中に入れようと思いました。全部を注ぎ込んだという、そういう感じです。それまでに「交響的変容」や放送詩劇「オンディーヌ」などを書いていましたのでオーケストラの曲としては2、3曲目になるのですけれども、ここであらためて整理しようと考えました。
これを書く時はいろいろな事を考えました。ひとつは矢代さんの「交響曲」が「日本フィル・シリーズ」(注2)の第一作で、私の「交響三章」がそれに続く作品でしたから、すごいプレッシャーがありました。矢代さんの「交響曲」は凄い曲ですからね。実際に仕上がるのが遅れまして、日フィルに謝ったのです。半年遅れましたね。
それともうひとつは、日本人のロマン主義って何だろうと思ったのです。例えばシェーンベルクの初期のロマン的な作品、体系、体験を日本人として知って、それがやがて十二音音列とかセリエルな技法(注3)に必然的に行くという、その道のりは何だろう、と考えたのです。ロマン主義については日本人にもいないことはないとは思うのですよ。例えば尾高尚忠さんとか、山田耕筰さんがヨーロッパに行っている間とか、その辺りはロマン主義だったと思います。でもその後本当にセリエルな現代の畑に向かっていないから、自分ではわからないのですね、日本人として。だから「交響三章」を書くにあたって自分でその道のりを経験してみよう、と思いました。それでまず「日本人のロマン主義とは何だろう」ということを考えましたね。

小松 日本人としてロマンティシズムを探求してみようという作曲の姿勢は、いつ頃まで続くのでしょうか。

三善 その後、私は表現主義に近づいているのですね。一番接近した時代がその後に来るのです。私なりにロマンティシズムの道を踏んで、その上で表現主義に彷徨(さまよ)っていったという事だと思います。彷徨うという意味ではもう一度戻ったり、また先へ踏み込んだりという時代もありました。
一方、形式の面から「三善の協奏曲の時代」と人が言うのですけれど、協奏曲をたくさん書いた時期があります。ピアノ協奏曲(1962年)、ヴァイオリン協奏曲(1965年)、マリンバと弦楽合奏のための協奏曲(1969年)、チェロ協奏曲第1番(1974年)などです。そういう「協奏」という形に託して、今言ったロマンティシズムとその後自分が踏み迷っていく音楽の奥行きみたいなものを探っている、そういう時代もありましたね。

---ところで先生は合唱曲も多いのですが、作曲に際して器楽曲と何か分けて考えておられているのでしょうか。

三善 結果的に合唱曲は多いですね。合唱曲はもともと言葉の音楽で、日本語の音楽です。それは器楽曲を書く時も同じなのです。まったく変わらないですね。つまり器楽曲で日本語を書いている、という事がいえると思います。この「交響三章」でも最初と最後に出てくるのは日本語そのものなのです。日本語というパラダイム(理論的な枠組み)の中で仕事をしているということが言えると思います。ベートーヴェンはドイツ語で書いている、例えばそれがピアノ・ソナタであれドイツ語で音楽を書いています。またドビュッシーはフランス語で書いている。同じ意味で私自身も日本語で書いています。日本語の持っている目には見えない体系とか水脈とかパラダイムとかが、私達の中に根ざしているように思えるのです。

小松 三善先生の初期の合唱曲「嫁ぐ娘に」とか「三つの叙情」(両作品とも1962年)を最初に聴いたときのショックは今でも忘れられないです。日本人の作曲家でこんなに洗練された、また突き詰めた響きを書く作曲家がいるのかと驚きました。まだ私が中学生か高校生の頃で音楽体験がまだそんなに多くはなかった頃ですが、今までの音楽体験とはまったく違うものを感じました。こんな響きは今まで聴いた事がなかった。それこそワーグナーの「トリスタン和音」にショックを受けるというのと同じくらい、私にとっては大変なカルチャーショックでした。     
今回の演奏会ではショスタコーヴィチと一緒にやらせていただくわけですが、三善先生とショスタコーヴィチに共通しているのは、音を非常に切り詰めて選んで曲を書いていらっしゃる、音の選び方が素晴らしいということです。そしてテンション(緊張感)が高い。三善先生の音楽の持つ情熱をショパンで例えると「バラード第4番ヘ短調」を真っ先に思い浮かべます。ヘ短調という調性の持つ色と熱っぽいキャラクターを感じます。

三善 シェーンベルクの初期の作品に「管弦楽のための5つの小品(Op.16)」という曲がありますが、その3曲目の「色」、その総譜をデュティユーが見てね、「綺麗ですね、三善さん」と言われたのね。もう音なんかいらない、見ているだけで綺麗、そして音を出したらなおさら綺麗だ、と言っていたことを思い出します。

小松 ロマン主義からその後の表現主義へと移る過程にシェーンベルクの影響もあるのでしょうか。三善先生とシェーンベルクは今まで結びつかなかったのですが。

三善 ありますね。この前、朝日カルチャーセンターで「三善 晃が影響を受けた作曲家」というテーマで解説するという企画がありまして、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、デュティユーなどを取り上げました。

小松 バルトークとの共通性はすごくあるなと思っていました。例えば「青髭公の城」などある意味では色を追求しているし、シュールレアリスム(超現実主義)まで音楽の中に入っています。先ほど先生の音楽の素晴らしいサウンドの新鮮さについて申し上げましたが、それともうひとつ、それまでの日本人の作曲家でこれほどリズムが鋭いというか、複雑な変拍子も含めてリズム的な要素がこれだけ精密で高度な作品はなかったと思います。それも私の驚きのひとつです。本日三善先生からストラヴィンスキー、バルトークなどリズムの強い作曲家たちの名前をお伺いして、私の中で先生の音楽性の全貌がかなり明らかになってきました。そういう要素もあいまって三善先生の作品はとても演奏が難しい、と言われていますよね。

---今回の「交響三章」はやればやるほど研ぎ澄まされていくように思います。

小松 やっぱりそういう緊迫感がないと三善先生の作品の演奏はだめですね。音楽だから音の集合体なのだけれど、特にライブでは音楽空間でのテンションの適切な変化が命ですからね。先生の作品は高いテンションが保てないといけないし、それがまたライブで聴く喜びの大きなものだと思います。もちろん音楽の中身は録音でも聴けるのですけれど。

三善 そうね、特に空間性についてはCDでは絶対に出ないし拾えない。私はCD化する事に対しては全部お断りしています。奥行きや遠近法などがライブと録音とではまるで違います。あと空気を伝わってくる速度感も違ってきますね。例えばどういう音色がどこから出てくるのか、という立体性がライブにはありますが、CDはそれを全部おしなべてフラットにしてしまいます。むしろレコーディングの技術が上がれば上がるほど逆に平面化してしまう、と言ってよいかもしれません。人間が吹いている息を感じる事ができなくなってしまうのですね。

■30年の時空を超えて 

小松 新交響楽団は日本人の作品に意欲的に取り組んでいるオーケストラですし、私自身も同じポリシーを持っておりますから、新響との接点のひとつに邦人作品が大きなファクターとなっています。三善先生の作品は新響では初めて取り上げるので、それでしたらまず「交響三章」をやらせていただきたい、とお願いしました。頑張らなくてはいけないのですけれど。

三善 今回も矢代さんの「交響曲」の後だから、なんだか恥ずかしいなぁ。

小松 それもちょうどよかったのではないでしょうか、「日フィル・シリーズ」で続けて演奏したものをまたあらためて45年経って続けて聴けるというのは、新響のお客様にとっても嬉しいことではないかと思います。
実は私は大学時代「理論ピアノ」というレッスンで三善先生からピアノを教えて頂いて、そこでショパンなども習っていたのです。当時私は先生に対して「鋭く静的な人」というイメージを抱いておりました。ですからレッスンの時に「小松さん、ここはもっと熱っぽく演奏しなさい!」とおっしゃった驚きは今でもよく覚えています。当時の学生は誰でも皆「三善先生は鋭くてクールだ」というイメージを持っていましたから、そういうディオニュソス的(注4)なキャラクターにふれて本当にびっくりしました。先ほど先生からロマンティシズムを探求してみようという作曲の姿勢について伺い、ロマンティシズムからひたむきな情熱の強さに通ずるところがあるのかなと思いました。

三善 でもね、今の話は小松さんだから言ったの。相手をみて、小松さんならこの言葉はわかってもらえるなと思って言ったの。学校にはたくさんの生徒がいますよね。例えば東京湾で飼っておかなければならないという生徒もいる。けれどもこの生徒は東京湾に囲っておいてはいけない、外洋に出して世界一周させた方がよい、という生徒もいるのです。後者のタイプですよ、小松さんは。それで例えば一年くらい後に戻ってきますよね。傷ついたりしているかもしれない。「良い傷を負ったね」とかける言葉も、小松さんならわかってもらえる、と。
だから最近小松さんの棒を見て、最後のカーテンコールで拍手をするでしょ。その時「良かったね」という気持ちはありますよね。小松さんの練習の現場というものを見てみたいなぁ。

---ぜひお願いします。練習日程をお知らせしますのでぜひいらして下さい

小松 先生は私の桐朋時代の恩師ですから、きっといつもの「ディオニュソス小松」が「アポロ小松」に豹変するのではないかと(笑)。借りてきた猫のようにアポロ的に練習を進めてしまうかもしれません。「今日の小松はどうしたのだろう」とオーケストラの皆が不思議に思うかもしれませんね(笑)。

---小松先生は新響ではいつもディオニュソス的ですが、三善先生の方がもっとディオニュソス的なのかもしれませんね。

小松 三善先生がロマンティシズムを追及なさったということと、先ほどお話したショパンの「この部分をもっと熱っぽく」とおっしゃったあの情熱が、私の中で30年の時空を超えて必然として今ここに結びついたのです。今日は先生と久しぶりにいろいろとお話させていただいて、大変幸せでした。本番は全力で頑張ります!

注1)1918〜1994年、作曲家兼ヴァイオリニスト。パリ音楽院の院長を務め、ここの改革者として知られている。

注2)日本フィルハーモニー交響楽団創設期より始められた邦人作品の委嘱シリーズで、1958年の第1作(矢代秋雄「交響曲」)以来、演奏会での初演を前提とした委嘱制度として現在まで続けられている。

注3)12音の理念をさらに尖鋭化し,一定の秩序で配列された音列にしたがって音高を選択する音列作法を,さらに全音楽ファクター(音価・音勢・音色・アタックなど)に適用した作曲法を指す。

注4)ニーチェが「悲劇の誕生」で説いた芸術衝動の一つで、陶酔的、創造的、激情的などの特徴をもつさま。アポロ的とは対概念となる。

2005年11月7日 
司会・進行 土田恭四郎(テューバ)
まとめ・構成 藤井 泉(ピアノ)


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