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『悲劇的』日本初演考

土田恭四郎(テューバ)

 新響でマーラーといえば、故・山田一雄の指揮で交響曲全曲に挑戦したことが歴史に刻まれている。今回マーラーのパート譜を受け取ったとき、そういえば、と、以前に東京芸大在職の兄から交響曲第6番日本初演時のプログラム資料をさらっと見せてもらったことを思い出した。確かヤマカズが打楽器で参加していたはず。早速兄に連絡したところ、『東京芸術大学百年史』という本に掲載されている、とのこと。調べてみた。

 東京音楽学校管弦楽部第70回定期演奏会にて指揮はクラウス・プリングスハイム、昭和9年(1934年)2月17日(土)日比谷公会堂で初演したプログラム資料の内容が『東京芸術大学百年史 演奏会編 第二巻』にそのまま掲載されている。曲目は、マーレル作曲『大管絃樂のための第六交響曲』1曲のみ。演奏者のリストを視ていると、なんと!打楽器「テイーフエグロッケ」に当時の名前「山田和男」とあるではないか。また出演者にはこれまた錚々たるメンバーが掲載されている。ざっとみただけでも、ヴァイオリンにはトップに作曲の橋本國彦、教本でおなじみ兎束龍夫、ヴィオラに元武蔵野音大学長の福井直弘、チェロに作曲の呉泰次郎と安部幸明、ハープには声楽家として高名でハーピストでも活躍した荻野綾子、ファゴットにのちの芸大指揮科教授の金子登、ティンパニに戦前の新響から戦後のN響まで長年活躍した名物団員“ハゲドン”こと小森宗太郎、などなど。きっと音楽学校の先生や生徒で当時あるいは後世著名になっておられる多くの方々が奏者としてこの初演を体験されたに違いない。
 山田一雄『一音百態』(音楽之友社)によれば、当時、山田一雄は東京音楽学校に入学2年目の昭和7年2月、マーラー交響曲第5番初演に接して深い感銘を受け、プリングスハイム先生に傾倒し個人授業を通して計り知れない影響を受けたとのこと。いろいろと調べてみると、昭和9年10月第72回定期演奏会では、R.シュトラウス70周年記念で『ツァラトゥストラはかく語りき』や『アルプス交響曲』のプログラムでチェレスタ、昭和10年2月第74回定期演奏会マーラー交響曲第3番初演でハープ、同年6月第75回定期演奏会ではバッハ生誕250年記念として『ブランデンブルグ協奏曲』やカンタータの他シェーンベルク編曲の『前奏曲とフーガ 変ホ長調』でチェレスタ等々、音楽学校でプリングスハイムの指揮にて多くの演奏を経験されたことがその後の音楽人生に多大な影響を与えたにちがいない。(因みに昭和9年12月第73回定期演奏会で東京音楽学校はヴェルディの『レクイエム』を演奏しているが、バスのソリストとして増永丈夫、後の藤山一郎が出演している。当時東京音楽学校を首席で卒業、クラシック(バリトン・増永丈夫)と流行歌(テノール・藤山一郎)で活動していた。)
 演奏者のリストで他に注目されるのは、東京音楽学校の先生や生徒、卒業生はもちろんのこと、海軍軍楽隊から弦楽器を習いに毎週来ていたとのことで、コントラバスや管打楽器には海軍軍楽隊の奏者をフルに導入している。当時はプロのオーケストラとして現N響の新響が発足した頃であり、演奏技術も含め音楽の環境が現在とはかけ離れたものであることは言うまでもない。
 メンバー表以外にもいくつか興味深いことがあるので列挙してみよう。当時の初演の写真が掲載されているが、「対向配置」であり、演奏者も多く未曾有の大編成にて舞台が狭いのか指揮者の目の前に木管楽器が配置されている。それと、曲目解説に『悲劇的』という記述がすでに散見されること。作者の『悲劇的』心境としてその特性と思われる点として、動機上:長から短への三和音、音色上:意欲と現実、孤独と物質の対立、その克服は音色的象徴として「畜群の鈴」と「槌」としていること。この曲目解説が詳細に亘っているが、どうも当時の研究書に基づいていろいろな説を取り込み、日本語に訳しているのではないかと思われる。それと楽式上通例として二部に分けて観られるとしていること。前の3楽章を第1部とする説と、プリングスハイムの説として第1楽章のみを第1部とする説を紹介しており、休憩が第1楽章の後に入っている。それと最も興味深いのは、第2楽章がアンダンテとなっていること。これはマーラーの直弟子ともいえるプリングスハイムの考えが顕著に現れているといえよう。
 当時の高名な音楽評論及び作曲家による批評をまとめてみると(今回紹介の資料に掲載されている)、確かに欧州でも聴けないマーラーを上演することは音楽学校としては意義があるが、オケの音が不揃いで殆ど聴くに耐えず、最後の1楽章を残して退出、音楽学校だからまずくても差し支えないと思うが一般に公開しない方が得策、とか、面白くなかった(というよりわからなかったという方が良いかも知れない)、ベートーヴェン以上の大交響曲の建築ができると思ったマーラーの自負心による誤算ではないだろうか、とか、結構辛辣である。演奏技術もさることながら、マーラーの音楽が当時の音楽界では未だ特殊な存在であったと思われる。音楽評論で若き山根銀二が、こういう企ては非常に結構だと思う、とだけ言っているのはどういう真意であろうか、興味がある。

 今から70年も前、現在とは比較にならないほど貧弱だった日本の「洋楽」の未だ黎明期という時代、このような編成が膨大で難解な大曲を初演するこの情熱は計り知れないものがあったに違いない。山田一雄が昭和12年(1937年)東京音楽学校研究科を修了する年まで続いたプリングスハイムの献身的とも熱狂的ともいえるマーラーの交響曲の連続初演は、東京音楽学校の「洋楽」への取り組みとして実に大変なものだったに違いない。このエネルギーの大波は戦争という社会情勢で中断はされるものの、その後の日本の洋楽発展に多大な貢献をしたことは間違いないだろう。

■参考文献:
『東京芸術大学百年史 演奏会編 第二巻』(音楽之友社)
『一音百態』山田一雄 (音楽之友社)


 

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