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時間・色彩・言語

土田 恭四郎(テューバ)

 5月連休の穏やかな某日、とても小さな自宅の庭に、次女が生まれた時に植えた金木犀の枝が電線に届くほど大きく生い茂ってきたので、ミステリアスな樹の中に自ら鋏を持って潜り込み、剪定作業に没頭した。静寂な時間の経過とともに、枝を切り落としていくにつれて差し込む木洩れ日の色彩が変化していくたびに、大好きなヨハン・セバスチャン・バッハの平均律クラヴィーア曲集やカンタータ、ブルックナーの合唱曲や弦楽五重奏、中世から現代までの合唱作品など、精緻で美しい響きが心の中で響いてくる。
 その日の午後、家族と一緒に小石川後楽園を散歩した時も同様な感覚に浸った。幾何学的な西洋庭園ではなく、移動しながら景色の変化を伴う回遊式庭園の中、自在な景色から音楽が「音色」として心の中に入り込む。西洋的な色彩の強い音楽景観を考えると、イメージは異なるのかもしれないが、武満徹『グリーン』『ガーデン・レイン』を景色として鑑賞した気分であった。「音色」とは、音楽の要素のひとつであり、「音」と「色」の融合と見れば、心に響く「色彩」そのものであろう。音楽の発展は「言葉」と「言語」によって生み出された記号:記譜法の確立によるもので、楽譜は作曲者と演奏者を結ぶ最小限の絆でしかなく、そこから生み出される音楽の音色は、時間の流れにより常に変化していくもの、と考えていた。


 最近、「音色」や「言葉」に関して、いろいろと考えを巡らすことが多い。例えば、テューバの持つ演奏表現の概念としての“B to C“、2009年7月「新交響楽団第206回演奏会」のプログラム冊子で、「ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」<音楽史上の革命性>」と題する解説には未だに思い入れがある。(以下引用)
“B to C”から“B to B”へ
 バッハは「バッハ」(小川)ではなくて、「メーア」(大海)という名であるべきであった、という言葉は、バッハの音楽の果てしない広大さと深さをたとえたものとして、ベートーヴェンの有名なしゃれといわれている。(中略) 長年テューバを演奏している筆者にとって、テューバはベートーヴェンの死後に開発された新しい楽器とはいえ、バッハ(Bach)から現代(Contemporary)へというテューバの持つレパートリーの広さと演奏表現の可能性としての概念を認識しているが、時代を超越した精神世界の奥深くへいざなう音楽の流れとして、バッハ(Bachからベートーヴェン(Beethoven)という大きな概念を感じている。(後略)

http://www.shinkyo.com/concert/p206-3.html

 人間は「言葉」を持つことで「知識」を蓄え、自己の存在と生き方を考えるようになった。精神世界への探求のひとつとして「芸術」が存在しているのであれば、“B to C“は、バッハ(Bach)から現代(Contemporary)から拡大し、“B to B”も含むBC”西暦紀元前(Before Christ)から現代(Contemporary)へという概念と考え直している。18世紀まで西洋音楽はどちらかというと声楽がメインであり、音楽は始めに言葉ありき、とすれば、いつの時代でも言葉は常に音楽と関連しているので、古典から現代までの音楽を解釈するためには、言葉による音楽語法の違いや共通点を常に意識することが重要である。すなわち「言語」というパラダイムの中で音楽をより深く見ていると、創造や解釈にいろいろな違いがあること、答えは一つではなく、創造の選択肢を増やしていくことが、音楽を嗜むことの醍醐味と言える。
 「平穏」「歓喜」「情念」「快楽」「法悦」「祈り」「強靭」「死」「鎮魂」「悶絶」「暴力」「狂気」「抑圧」「抵抗」「闘争」「復讐」「殺戮」「差別」「凄惨」「絶望」「慟哭」「憤怒」など、通常コミュニケーションの手段としてストレートに使用することも経験することも憚られるような「文言」、演奏者は、解釈の一つとして、個人的な妄想としてではなく、音楽作品を通して、このようなイメージを聴き手の心に印象づけることが重要で面白い。バレエは踊りで。演劇は演技で。全て同じことといえよう。


 新響は、クラシック音楽というジャンルの中で、世間一般に「有名」と言われる作品に限らず、我々が持つ演奏可能な技術の範囲内で、様々な音楽の創造にチャレンジしてきている。個々の作品には、古典と現代、国の違いを問わず、各々の言葉によるパラダイムのもと、アカデミックで論理的な構築と凝縮度の高い洗練された作風があり、音楽空間でのテンションの適切な変化のもと、作品の持つ鋭さ・厳しさ・優しさをライブで体験することは、楽しみの一つといえるだろう。
 コンテンポラリーな作品は、当初まったく訳が分からず、変拍子や不協和な響きとか音程の動きが読みとれずに疑心暗鬼となってくが、練習を重ねていくうちに、諸和音の進行や旋律から、統一原理のようなものとして主題やメロディが次第に見えてきて、曲の全体の構造と秩序感が見えてくると、機能的で論理的な作品への関心と創造の感性が磨かれる。練習をすればするほど、緊迫感と共に演奏のテンションが高まり研ぎ澄まされ、立体的で拡がりのある時間と空間、不均衡や伸縮、異なる方向性を持つ多層的な展開の中で、混在しあって自由自在に展開していく音楽創造の面白さに気が付くことがある。新響が、従来の「邦人作品」をも含め、例えば、別宮貞雄『管弦楽のための<二つの祈り>』 三善晃『管弦楽のための協奏曲』といった近現代の日本人の作品を積極的に取り入れているのは、従来の音楽創造の幅をさらに広げるものを直接体感できることの面白さに気が付いてきたことの表れといえよう。


 音楽の全体像を掴むためには、演奏に必要な時間を費やさなければならないが、視覚に訴える美術・絵画は一瞬の時間で全体像を把握することができる。時間芸術と呼ばれる音楽は、過ぎ去る時間に音を絡ませて聴き手の心象に主題・旋律・響きを明晰に刻印し、記憶の襞に印象を摺り込ませていくことであり、音楽空間と音楽風景の中には、時間の変化と共に近景と遠景が入混じり、そして奥行きのある立体的な空間が大切といえる。歴史・国・ジャンルを問わず「名曲」といわれる音楽には、このような要素が明確に存在しているに違いない。


 指揮者の矢崎彦太郎先生は、以前、練習で下記のようなお話をされた。
・譜面は音楽ではない、楽譜上に書かれた音符や記号を響きとして解き放つ行為が演奏で、そこから建てられるもの、すなわち音楽は毎回違うものである。それが嫌だったら音楽をやらない方がよい。

・リハーサルは何のためにあるのか。本番でどういうことが起きてもいいようにシミュレートするためで「ここはこう決まったから」と事前に決められた手順通りに行うというものではない。音楽は毎回違うのだから、決して人のせいにしない。言い訳もしてはいけない。その時に周りの景色を見て聴いて、何が起きてどうなっているのかが大事で、それが面白いからオーケストラをやる。それがしんどいと思うのであれば、一人で楽器を弾いていればよい。演奏とはそれだけの覚悟が必要である。

・みんな聴いている。演奏者だけとか指揮者だけがその時の成り行きで演奏を変えなければならないのではなく、全員が一つの立場であり、作曲家の作品の前では、指揮者も演奏家も我々は全く同じ立場。「アマチュアだからいいだろう」ということは一切なく、だれが演奏しようが同じレベルを望まなければ、作曲家に対して失礼だし、お客様に対してもの失礼だし、何よりも自分自身に対して失礼なのだ。


 世に名曲と言われるクラシックの音楽といえども、感動することもあれば、まったく理解できずに関心を失うこともある。有名無名にかかわらず、音楽の素晴らしさや価値に気付かされることの一例として、新響が常に意識してなければならない矜持が、明確に存在している。
 「時間」というカンヴァスに音という絵具で描かれた楽譜を「言語」というパラダイムで読み解き、緊迫感とテンションを持って演奏することで「色彩」として解き放つこと。現在の新響の演奏プログラムにはそのことが反映され、常に新響は新たな出会いを求めて挑戦し、未来を創っていることを確信している。


追伸:
10年前の「創立50周年シリーズ・1」第192回演奏会(2006年1月22日)、三善晃先生の「交響三章」を小松一彦先生の指揮で演奏した。プログラム掲載のため2005年11月7日小松先生同席にて三善晃先生とのインタビューは未だに忘れることができない。題して「日本人としてのロマン主義の探求」。お二人とも既に故人となられた。今でも原稿を読むと胸が熱くなる。
http://www.shinkyo.com/concerts/p192-1.html

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