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魚沼市小出郷文化会館 榎本広樹氏にきく

 新響が小出郷文化会館の柿(こけら)落し公演で、ベートーヴェンの『第九』を演奏したのが1996年6月9日です。この度は、新響とのパイプ役の榎本氏に、当時のことやホール運営に関して熱く語っていただきました。


― 今日は1996年杮落し公演の時の録音したCDを持って参りました。今聴くと凄まじいものがありますが・・・(笑)。ホールのオープニングイベントでしたね。

 ええ、こうしたホールのオープンは魚沼では初めてで、プロジェクトはいろいろな企画が並行して動いていたし、誰も何もわからず大変でした。


― ところで新響を初めてお聴きになったのはいつですか。

 1988年第118回演奏会で、ヤマカズさん(故・山田一雄)が振ったマーラーの4番を新宿文化センター大ホールの2階席から聴いたのが初めてです。87・88年ごろは都内のコンサートによく通っていましたので、それで公演のチラシを見て行ったんだと思います。それまでは新響のことは知らなかったのですが、行ってみてびっくり。こんなアマチュアオーケストラがあるのかと。アマオケなら普通は年1回の演奏会なのに4回もやっていて、しかもルーティン・ワークに堕したときのプロオケより感動したクオリティの高さ。本当に驚きました。

 その後、95年4月に小出郷文化会館の開設準備室に入りました。すでに柿落しに何をするかの準備が進んでいて、住民が参加した委員会の中から地元の魚沼和太鼓と『第九』をやりたいとの声があがっていました。行政側の方ではお金が無いからプロオケは呼べないと。では近場のアマオケにという話になったので、新響の名前を出したんです。「アマオケで『第九』をやるんだったら、『新交響楽団』もオケの候補に入れていただけませんか? 私の知る限り、最高のアマオケです。」と。まさか実現するとは思わなかったんですが。


― 指揮者は大町陽一郎先生でしたが、よく来てくださいましたね。

 この話はもう時効だと思うので話しますが、魚沼在住で医師の庭山先生のご紹介で、長年のお知り合いだった東京藝術大学の日本画の大家、堀越教授にホールの緞帳(どんちょう)の原画を描いていただくことが決まっていたんです。それで、大町先生も藝大の教授でしたから、庭山先生が「大町先生を口説こう」と。藝大では年一回、美術と音楽の合同の教授会が開かれる、その直前に着くように大町先生あてに情熱に満ちた手紙を出したんです。「ホールの杮落しのとき、緞帳が開くと大町先生が指揮台に立って『第九』を振っているといいなあと、堀越先生が夢を語った。それを聞いた魚沼の若者たちは、もうすっかりその気になってしまった。私たちにはお金も何もないけれど、情熱だけはある。どうか先生から『第九』を指揮していただきたい。」というような内容です。もちろん、堀越先生はそんなこと、一言も語っていません(笑)。なのでどうにか口裏を合わせていただくようお願いをし、合同教授会の日がやってきて・・・。

 その後、大町先生ご本人から合唱団事務局をやっていた青年会議所の伊藤さんのお宅に電話がかかってきて「詳しくお話をうかがいたい。」と。それからですよ、大騒ぎになったのは(笑)。当時の私の認識では、大町先生は現役バリバリの指揮者というより、すでに名を遂げられて藝大の教授をなさっている方という程度だったのですが、私の20年くらい上の世代にとってはスターなんですね。うわさが広まると、「本当にあの大町陽一郎氏が指揮を?」との問い合わせがたくさんありまして、私の認識はまったくの誤りだったと感じました。


― 当時の合唱団の意気込みは本当に凄かった! 合唱指導の先生方も大町先生にハッパをかけられていましたね。みんなプレッシャーがあったし緊張もしていました。

 合唱団に参加した地元の人で、『第九』を歌ったことがある人はほとんどいませんでしたから、指導した講師の先生方や、合唱団事務局を引き受けた小出青年会議所の方々は、本当に大変な苦労をなさっていました。「第4楽章だけでこんなに大変なのか」とか「日本語じゃないのか」とか、とにかく皆が知らなかったからできたのでしょうね。柿落しだし大町先生は呼んでしまうしということで、降りるに降りられない状況になってしまったんです。

 大町先生は合唱団に対して三つの条件が出されました。「練習は50回以上」「暗譜」「全員が第1楽章からいること」(途中入場しない)。練習場の設営だけでも地域のあちこちで延べ百数十回あったと思います。

 本番では、高齢の方もいましたから救急車を待機させていました。何せ第1楽章から入っていますから。私は本番ではステージ・マネージャーをしていました。第4楽章の舞台裏でついに合唱団が立ち上がったとき、青年会議所の方がモニター画面をチェックして、「榎本さん、350人全員立ち上がりましたぁ!」と報告してくれたのですが、その声はもう号泣していて(笑)。まだ合唱団は一言も歌っていないのに(笑)。事務局の人たちがどれだけ精魂を傾けたかが、この一事でも伝わってくるように思います。


― こちらも打合せの時など、事務局の皆さんからいつも熱いものを感じておりました。

 ホールオープン5周年のとき、数人のホール関係者にお集まりいただいて、座談会を行ったんです。そこで『第九』の合唱に参加していた年配の方が、「先人たち、私の父母も、この魚沼でずっと泥だらけになって働いてきた。私は今、こうしてこのステージの上でベートーヴェンを歌っている。私はこの喜びを、彼らに聴かせてあげたいと思った。これが私の歓喜よ! と。」と語っていました。地域に根ざしたアクティブな活動をしていこうという文化ホールとして、このようなスタートが切れたことは本当に幸福なことだったと思います。

 客席誘導のスタッフや「友の会」、資金応援団体「サポーターズクラブ」などがいずれも市民が自主運営する団体としてその後に誕生していくのですが、それらの全ての起点が1996年6月9日(オープンした日)に行き着くんです。『96.6.9』がなかったら今のホールの姿はなかったと思います。


― 魚沼は当時地方にできたホールのトップモデルとして、いまだに独自の活動を続けているからすばらしいですね。ホームページを拝見して驚きましたが、ロビースタッフだけでなく、ステージスタッフとして照明や音響もボランティアでなさっているんですね。

 ただ、開館して13年たち、これまでずっと関わってきた人と、そうでない人との温度差がはっきりしてきてしまった部分があります。地方のホールの成功例として、市民と行政のパートナーシップを美談のように語られていますが、実際はいつもギリギリでやってきて、今も瀬戸際の綱渡りが続いていると思います。


― 魚沼の皆さんの活動をみて、ボランティアの本当の意味を強く実感しました。とかくボランティアは「無償で行う」方を見られがちですけれども、語源の通り「自分の意志で動く」ことなのだと。本当に熱心で、新響のメンバーはそういうことに敏感ですから、合唱団との練習の時すぐに感じました。

 全てを掌握しているプロデューサーというのがいなくて、オケや指揮者などいろいろなことが後から決まっていきました。今から考えると、失敗する企画の典型例なんですけど(笑)。関わっている人たちは自分で自分を追い詰めた形になってしまい、どんどん必死にならざるを得なかったんですね(笑)。青年会議所の方々は本業もそっちのけで朝な夕なに集まっていました。


― ところで、2004年の新潟県中越地震の影響はいかがでしたか。

 ホールはいたるところでかなり傷みました。館長は早く直してほしいと行政に要望し、当時の行政トップが大変理解のある方で、そのおかげもありほぼ1ヶ月で復旧して11月末にはコンサートを開くことができました。

 ただ、現在は表面的には回復しましたが、魚沼市に限らず震災がひどかった地区の人口は、半数程度しか戻ってきていません。天災とは地域をこうして急激に衰退させるものなのだなぁ、と感じました。

 また、ホールは、今もたくさんの市民の皆様が屋台骨となってくださっていますが、マネジメントとしてはたくさんの失敗をしてきました。これからは、もっと全体を見据えた中で、さらに多くの方々が情熱をかたむけてくださるようなホールになっていけるかが課題だと思っています。


― そうですね同感です。私たち新響もこの13年間にいろいろなことがありましたが、演奏や運営の質的レベルは確実に上がったと思います。

 ところで、今回は最近取り上げた曲を同じ指揮者で演奏します。新響では同じ曲は原則として10年は演奏しないという暗黙のルールがあるのですが、一つの曲を何度もやることによる積み上げ感・ステップアップが経験できるのも事実です。ですから魚沼と新潟の「りゅーとぴあ」での二回の演奏会はとても楽しみです。


 「りゅーとぴあ」は素晴らしいホールです。ハード的にもそうですが、マネジメントが素晴らしい。舞台芸術の愛好家を増やしていくところから始める、というホールとしてのあり方がはっきりしています。ジュニアのオケや合唱団、邦楽、演劇団体がありますし、ホール専属のダンスカンパニーがあるのは全国で唯一です。公立ホールでは間違いなく日本のトップランナーのひとつだと思います。

 以前、ある公演をこのホールで拝見したのですが、お客様の熱狂ぶりはそれまでの新潟にはなかったもので、ああ、このホールは新潟の劇場文化を変えたのだなあと思いました。


― 魚沼の演奏会は新響主催であると同時にホール主催になっています。

 ホール主催のシンフォニーオーケストラ公演は柿落し以来なんですよ。やはり演奏旅行で楽団が主催をするというのは大変でしょうから、ホールが主催することにより集客面などのお手伝いができれば、と思っています。

 あと最後にひとつ。新潟のお客様は、東京と違ってとってもあったかいですよ

(2009年7月22日)。


聞き手:土田恭四郎(テューバ)

まとめ:田川暁子(ヴァイオリン)

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