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ショスタコーヴィチ:交響曲第12番「1917年」

内田 智子 (ヴァイオリン)

十月革命について
 最初に、この曲の標題となっている「1917年」に起こったソ連の十月革命とその主導者レーニンについて、歴史的な背景とともに触れておきたい。以下にロシア革命に関する簡単な年表を記す。

1905年 血の日曜日事件: 交響曲第11番の題材、ペテルブルクで労働者の請願に対して軍隊が発砲。 第1次ロシア革命勃発。
1917年2月 ※グレゴリオ暦では3月にあたる 二月革命: ロシア帝政の終焉。ブルジョワ立憲主義者を中心とした臨時政府と各地の労働者・兵士のソヴィエト(評議会)が成立する二重権力状態へ。
1917年10月 ※グレゴリオ暦では11月にあたる 十月革命: 臨時政府消滅。史上初の社会主義国家であるソヴィエト政権樹立。

 若き日のレーニンは社会主義革命の実現を目指すべく活動していたが、厳しく弾圧され国外に亡命していた。二月革命後の1917年4月に亡命先のスイスから帰国すると、ペトログラード(のちのレニングラード、現サンクトペテルブルク)で「4月テーゼ」を発表し「すべての権力をソヴィエトへ」という指針を提起した。その後、ロシア社会民主労働党のボリシェヴィキ派の指導者として兵士や労働者の支持を獲得し、1917年10月25日、ペトログラードの主な輸送機関や通信機関などを武力で制圧。さらに、臨時政府が置かれていた冬宮殿を占領して権力を掌握することに成功した。のちに全ロシア=ソヴィエト会議を開催し、臨時政府打倒とソヴィエト政権の樹立を宣言する。
補足になるが、ショスタコーヴィチの生きたソ連時代の社会主義体制にとって1917年の十月革命とは1991年まで続いた体制の発端であり、きわめて神聖にして汚すことのできない一種の「建国神話」だった。革命後、芸術のプロパガンダ的機能が重視されたこともあって、十月革命はソ連時代には芸術のテーマとして繰り返し用いられることとなる。ショスタコーヴィチも革命10周年を記念して交響曲第2番『十月革命に捧げる』(1927年)を作曲している。


作曲の経緯
 十月革命が起きたときショスタコーヴィチは11歳だった。革命を導いたレーニンが亡命先からペトログラードに到着したときに行った演説を幼い作曲家が聞いたともいわれているが、真偽を巡っては今も議論が続いている。
この曲の構想が練られたのは古く、ショスタコーヴィチは1930年代には「レーニンに捧げる交響曲」を書きたいと発信していた。作曲の背景については諸説あるが、1960年の共産党入党が関連していると考えられる。
 無論、作曲家自身が入党を望んだのではなく、党官僚の執拗な勧誘にやむなく屈した形だが、その忠誠の証にレーニンに捧げる交響曲の作曲を余儀なくされたというわけである。ショスタコーヴィチが1960年10月にラジオ放送にて発表した内容は以下の通りである。
 「第1楽章では、1917年4月のウラジーミル・レーニンのペトログラード到着、苛酷な労働に従事する労働者階級との出会いを、音楽で表現するつもりです。第2楽章では、11月7日の歴史的事件を再現します。第3楽章では国内戦、第4楽章では大十月社会主義革命の勝利を描きます」
 初演当時、入党したばかりの世界的な作曲家が十月革命とその主導者であるレーニンについての交響曲を書いたということで、聴衆の期待は高まり、大々的に宣伝された。しかし、ソ連の最高国家賞のレーニン賞を受賞した前作と比較して標題も抽象的だったせいか、初演時の評価はあまり芳しくなかった。


 交響曲第11番(1957年作曲)との共通点は多い。作曲年代が近いこと、全楽章がAttaccaで切れ目なく演奏されること、革命の歴史と深く関連があり、ともに標題を持っていることなどである。
 この2曲の大きな違いは時間的・編成的な規模にある。第11番は60分程度であるが、第12番は40分程度と短い。また、第11番は特殊楽器が多く使われている(ハープ、シロフォン、チェレスタ等)が、第12番はそのような特殊楽器は一切使われておらず、比較的編成は小さい方である。一見ブラームスかと思われるほど地味な編成のため、ショスタコーヴィチ特有の反骨精神に満ちた音が聴こえないのはかえって不気味な感じでもある。
 交響曲第12番は、表向きには十月革命を記念しレーニンの偉業を称える交響曲であるということになっている。そのため,かつて西側諸国では,ショスタコーヴィチが体制に擦り寄って書いた駄作(!)という評価が支配的だった。音楽学者のレベディンスキーによれば、ショスタコーヴィチはこの曲をレーニンのパロディとして作曲していたが、直前になって考え直し、急いで書き直した結果、不本意な妥協作が出来上がってしまったという。作曲経緯については事実と虚構が入り混じって伝えられてきており、作曲家本人の真意が見えにくい状態である以上、解釈が分かれてしまうのもやむを得ないと考える。
 これに対し「ショスタコーヴィチが体制に迎合する交響曲を書いた」ということを認めないファン心理が無意識に働かなくもないが、この曲は当初の作曲家の構想通り、レーニンの社会主義革命によってもたらされる「人類の夜明け」までを一息に描く、実は何の裏もない曲なのではないかと考えることもできる。


 また、この曲の第1楽章の後半で暗示的に示され、第4楽章の終わりで反復されるEs(ミ♭)→B(シ♭)→C(ド)の音型についても諸説ある。これは終盤にベートーヴェンのごとく執拗に果てしなく繰り返され、そのたびに音楽が止まるため、演奏する側には体力と気力のコントロールが求められるものでもある。
 ロシア音楽研究者の一柳富美子氏は、この音型がヨシフ・ヴィサリオーノヴィチ・スターリン(Иосиф Виссарионович Сталин)のイニシャルであるとの説を提唱している。また、ロシア文学者の亀山郁夫氏の解釈はさらに興味深い。
 スターリンのEBのイニシャル、このラテン文字をキリル文字に置き換えたとき、EB(イョーブ)!—「糞食らえ、スターリン」の罵倒語になるというものだ。もしそうであるなら、やはりショスタコーヴィチは「二重言語」の作曲家であった、と妙に安心するような気持ちも生まれてくる。


楽曲解説
 4楽章がそれぞれ標題をもち切れ目なく演奏される。


第1楽章 革命のペトログラード モデラート ニ短調 
 序奏部つきのソナタ形式。序奏部はモデラートで、悲壮感をたたえた低弦のユニゾンから始まる。やがてファゴットがアレグロで、発達した序奏旋律を出す(第1主題)。第2主題はベートーヴェンの「歓喜の歌」にも似て、低弦から各声部に歌い継がれていく。終盤で弦楽器のピッツィカートにより、新しい3音の動機(Es(ミ♭)→B(シ♭)→C(ド))が紛れ込んできて、交響曲の最後に重要な役割を果たす。


第2楽章 ラズリーフ  アダージョ 
 三部形式。「ラズリーフ」はロシア語で「氾濫」という意味であり、レーニンがスイスから帰国後、革命のプランを練るべく潜んでいたといわれる近郊の湖の名前である。主部には、オスティナート風の旋律でショスタコーヴィチの音名象徴に基づく動機が現れる。弦楽器の澄んだ響きで始まる中間部の旋律は、将来の革命を暗示するかのように次の第3楽章の主題を先取りしている。


第3楽章 アヴローラ  アレグロ 
 三部形式。巡洋艦「アヴローラ(オーロラ)」はネヴァ河から空砲で革命の合図を送ったと言われる。弦楽器のピッツィカートで奏でるのは「アヴローラの主題」である。それは描写音楽のようで、川面のさざ波を思わせる弦と打楽器のppをバックに第1楽章第2主題が現れ、アヴローラ号が人々の前にその姿をあらわす。音楽がfffのクライマックスを形作るとき打楽器が刻むリズムはアヴローラの号砲であり、ここからアヴローラのテーマの展開による力強い前進が始まる。


第4楽章 人類の夜明け リステッソ・テンポ ー アレグレット 
 まずホルンの燦々たる第1主題で始まる。これまでの主要主題がメドレーのように回想されるが、悲劇的な第1楽章の第1主題によって断ち切られる。フィナーレでは交響曲の主要なテーマが終極的には一つの多声合唱のようになり、朗々たる展開のなか、華やかに楽章を終える。


 今回の演奏会は、録音や演奏機会のさほど多くない交響曲第12番を含めオールショスタコーヴィチで揃えられており、演奏者から見てもまたとないプログラムと感じている。この原稿を書いている8月9日(ショスタコーヴィチの命日である)時点ではまだ指揮者練習は行われていないが、新進気鋭の坂入氏がどのようなアプローチでこの3曲に向き合うのか、それによってどのような音楽が生まれるのか、今から大変楽しみにしている。


初演:
世界初演:1961年10月1日 エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮 
レニングラード・フィルハーモニー交響楽団
日本初演:1962年4月12日 上田仁指揮 東京交響楽団


楽器編成:
フルート2、ピッコロ(3番フルート持ち替え)、オーボエ3、クラリネット3、ファゴット3(3番はコントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ1、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンバル、タムタム、トライアングル、弦五部


参考文献:
亀山郁夫『ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』岩波書店2018年
梅津紀雄『ショスタコーヴィチとロシア革命 ― 作曲家の生涯と創作をめぐる神話と現実 ―』総合文化研究所年報 第18号 2011年
梅津紀雄『ショスタコーヴィチ(作曲家別名曲解説ライブラリー)』音楽之友社 2005年
千葉潤『作曲家◎人と作品 ショスタコーヴィチ』音楽之友社 2005年

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