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芥川也寸志:オーケストラのためのラプソディー

滑川 友人(ヴァイオリン)


●芥川先生の遺されたもの
 私は今から36年前に生まれ、12年前に新響へ入団した。これは「情熱と愛情を持って新響を30余年導いて下さった芥川先生」に接することを不幸にして得ず、「テレビの中の芥川先生」を生で見ることもほぼ叶わなかった、いわばポスト芥川世代であることを意味する。
 「アーさん」については、先ず、「棒が決して得意ではなく、だいぶん苦労した」という昔話をよく聞いた。これについては後年、芥川先生が「岩城に棒さばきを褒められた」と嬉しそうに話されていたと聞く。今回調べたところ、それは新響113回演奏会(創立30周年記念、オール芥川也寸志プログラム)当日のことであった。岩城宏之氏の芥川先生追悼記事によると、文化会館の練習室で東京都交響楽団を指揮してのリハーサルを終え、「大ホールで芥川さんが指揮をしている」と聞いて舞台袖で《交響管弦楽のための音楽》の指揮を見、「その見事なタクト捌きに僕は驚嘆して、褒めちぎった」そうである。
 その他、OB、OG、年の離れた友人たちからは、「練習では厳しく、時には一人ずつ弾かされた」、「練習の時間配分が悪く、1回も音を出さずに終わる団員もいた」等の苦情めいたものから、「一緒にレストランに行ったものの、何を頼めば良いか心配していたら、皆の気持ちを汲み取って(安価な)カレーライス!と真っ先に叫んで下さったので、安心して好きなものを注文できた」「自慢の愛車シトロエンでのドライブに交代で連れて行ってもらった」「アベックが多数いちゃついていることで有名な某所を愛車のヘッドライトで照らす悪戯を披露された」等の心温まるものまで、数々の伝説を伺ってきているが、直接存じ上げないこともあり、以下の拙稿においては、「ハイカラで気品があったイケメンの音楽家」で、「音楽の勉強のために冷戦時代のソ連へほぼ無一文で密入国し、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、カバレフスキー等の錚々たる音楽家に認められた熱いハートの大作曲家」で、「悲しい叫び声にも似た響きをあげていた当団体を、30歳から晩年まで日本全国どこからでも練習に駆けつけ、無給で育て続けて下さった偉大な指導者」、としてのみ扱わざるを得ない。昔話をご期待頂いた方々にはお詫び申し上げる。
 先生がご尽力くださった30余年と、その後の30年を経て、新響も代替わりが進み、先生にご指導頂いた経験のある団員はおよそ4分の1にまで減った。昭和から平成を経て「令和」へ至るとともに、黒電話はショルダーフォンを経てスマホへと進化し、神器とまで言われた白黒テレビはカラー化を経て一部では顧みられない無用の長物へと変わり、「モーレツ社員」が賛美された日本社会で「働き方改革」が叫ばれるに至る等、取り巻く環境は大きく変化した。こんな中、新響が唯一変わっていないのは、音楽を熱烈に愛する団員が幸運にも集まり続けている、ということだろう。
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 入団当時に私が心を打たれたのは、芥川先生の遺されたアマチュアリズムに関する言葉であった。世代を超えて受け継いでいきたい、新響のアイデンティティである。
 ――Webster大辞典によると、“Amateur”の第一義には“Love”とある。(略)代償を求めず、ただひたすら音楽を愛し、それに没入していく心、それがアマチュアの中身であり、魂でもあろう。(略)ただひたすらに愛することの出来る人たち、それが素晴らしくないはずがない。(略)これからも新交響楽団は、今と同じように美しく、愛に満ちあふれた素晴らしい存在であってほしい。――(第113回演奏会パンフレットより)


短かい杖   芥川也寸志
 現代の音楽は、今や大きな過渡期に入っている。一つの音楽の歴史は終り、一つの新しい歴史の出発を求めて、われわれはいま、模索の時代に生きている。
 現代音楽の一種の混乱は、栄光ある過去何世紀にもわたるヨーロッパ音楽の、大きな流れの中心的存在であった調性の崩壊にもとづいていることは明らかだ。バロック以前の作曲家たちにとっては、いかに調性をわがものとし、自由に扱うかが、それ以後の作曲家たち、ことにドイツ古典派の作曲家たちにとっては、確立された調性の機能をどう拡大させるかが、ロマン派の作曲家たちにとっては、調性の束縛のなかでどのように自由たりうるか、いかに支配しうるかが、それぞれ課題であった。そしてドビッシーは、技法的に調性と対決し、それを崩壊に導く手がかりをつくり、シェーンベルクは十二音技法をもって、さらに徹底した挑戦を行なった。
 このように、ヨーロッパ音楽は調性を中心にして動いてきたのであり、歴代の作曲家たちは、調性を杖にして道を歩いてきた格好だともいえる。そして現代では、このような古典的な意味での調性は、すでに崩壊してしまっている。それでは過去何世紀にもわたる、大きな音楽の流れの中心であった、調性にかわるべきものは何か。現代における調性とは何か。
 この問いに対する現代作曲家の答えは、それぞれまちまちであろう。少し大げさにいえば、”オーケストラのためのラプソディー”は、私なりの、一つの、パロディー風なそれへの答えである。ふるさとの歌――オスティナート――そして短い杖をふりまわす――。
 明るく、少しおかしく、楽しげに響くことを期待している。(初演プログラムより)
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●作風の変遷とオスティナートについて
 芥川氏の作風は、以下の3期に分けることができる。
 第1期(〜32歳頃):律動的なメロディの執拗な反復(オスティナート)と、甘く叙情的なメロディを融合させた作曲スタイルを確立。前者は伊福部昭、後者は橋本國彦に強い影響を受けたとされる。二人は芥川氏の師であった。
 第2期(〜42歳頃):新しい音楽手法の模索。巨大な岩塊をくり抜いて造られたインド・エローラ石窟の体験から強い刺激を受け、何もないところから音を積み上げていく従来型の作曲法ではなく、全ての音が鳴っているところから音を削っていく「マイナス音楽」の探求を思い立つ。また、世界的な前衛音楽志向や、これを取り入れた友人の黛敏郎にも影響を受けた可能性があり、当時の流行であった無調・微分音・クラスター(群音)手法の採用も見られる。
 第3期(〜晩年):第1期へ回帰して「オスティナート」にこだわり、限られた動機を執拗に反復する単一楽章形式の楽曲を多く残した。第2期で獲得した前衛的な手法の採用が見られるものもある。本日演奏する「ラプソディー」はこの時期(46歳)に書かれた作品である。
 オスティナートへのこだわりについて、以下のような言葉が残っている。
 ――食事の前に心臓音をとっておいてテープで回してわりと大きく増幅して、食事のあと聴いてごらんなさい。一分以内に完全に同じ心臓になりますよ。(略)それをスライダクターで回転を速め、少しずつスピードを上げていって、ある速さに達したらテープを止めておいて、心臓音を聴いてごらんなさい。(略)止まりはしないけれども、猛烈なショックを受けることは確かだ。音楽というのは、そういうところにつながってないとウソだと思うんだな。(略)だから、本来の古い音楽の形では、オスティナートというのは音楽そのものだったと思うんですよね。(略)緻密な精神的な知能的な喜びじゃなくて、肉体的な喜びとして働きかける。おそらくいまの作曲家は大部分、それは音楽の堕落だというだろうけれども、僕はそこをむしろ高めるというか、音楽の高まりだと思うんだ。――(出版刊行委員会編『芥川也寸志 その芸術と行動』東京新聞出版局 1990年より)


●作曲ノートの解説のようなもの
 クラシック音楽として最も知られる「ラプソディー」は恐らく「ラプソディー・イン・ブルー(ガーシュイン、1924年)」であろう。市井においては「ボヘミアン・ラプソディ(クイーン、1975年)」であろうか。一般に「即興的なキャラクターを持った、非定形で、民族的あるいは叙事的な楽曲」だと解されており、本曲の冒頭はその特徴をよく表している。
 曲はホルンの咆哮で始まるが、すぐにtuttiの打撃的な強奏で中断される。ヴァイオリン・ヴィオラが提示する躍動的な1つ目の動機が発展した後、再びホルンが咆哮し静寂が訪れる。ついで「馬子唄のように」と指定された、五音音階からなる民俗音楽的で叙情的な2つ目の動機がヴィオラにより提示される。やがてこの動機は、即興的なキャラクターを持つ「ほぼカデンツァのように」と指定されたヴァイオリン・ヴィオラによる強奏で中断される。
 ところで、この2つ目の動機を構成する五音音階(Ges/H/C/Des/E)は、日本の伝統的な五音音階(四七或いは二六抜き音階)とは構成音がやや異なっており、むしろDesを除いては六音の琉球音階((A)/H/Des/(D)/E/Ges)と一致する。本曲が完成した1971年9月は沖縄返還協定調印後3ヶ月足らずの時期である。芥川氏の何がしかの想いをそれとなく反映させた、と見るのは飛躍しすぎだろうか。
 話を戻そう。曲はやがて、金管群とハープによる呪文のような3つ目の動機を経て、躍動的なテーマを執拗に反復するアレグロ・オスティナートに突入していく。このテーマは、芥川氏が大変気に入っていたもので、後々サインにも添えられる程であった。
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 曲全体を通して調性感は希薄であるが、調性の持つ力学のようなものを薄く残している。調性を確定するにはカデンツ進行が必要であるが、この曲では、その進行の途中で当該調性とは異なる音、具体的には半音ずらされた音が多用されている。これは、調性を確定できるか曖昧な楽句、即ち調性という杖として体を支えるには短すぎる楽句が多用されている(=ふりまわされている)、と見ることができる。作曲ノートを乱暴に意訳し、まとめとする。「この曲は、西洋音楽の中心であった調性に変わるべきものは何か?現代における調性とは何か?という問いへの1つの答えとして、民族音楽的なもの、律動的メロディの執拗な反復、そして薄い調性感を利用して書いたものである。」


初演:文化庁が委嘱し、1971年 9月12日に完成。同年10月4日、文化庁芸術祭「管弦楽の夕べ」にてNHK交響楽団(森正指揮)が初演。尚、この演奏会では、本曲の他にモーツァルトのハ短調ミサが演奏された。

楽器編成:フルート4(各奏者ピッコロ持ち替え)、オーボエ2、コールアングレ1、クラリネット2、バスクラリネット1、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ1、ティンパニ1、パーカッション4(第1奏者:カバサ、ギロ、シンバル、グロッケンシュピール/第2奏者:ギロ、カバサ、マラカス、グロッケンシュピール/第3奏者:ギロ、カバサ、グロッケンシュピール、ムチ、大太鼓、ボンゴ、マラカス/第4奏者:カバサ、ギロ、小太鼓、テナードラム、タムタム)、弦五部

参考文献:
出版刊行委員会編『芥川也寸志 その芸術と行動』東京新聞出版局1990年
芥川眞澄監修 新・3人の会著『日本の音楽を知るシリーズ 芥川也寸志 昭和を生き抜いた大作曲家』(株)ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス発行
NAXOS 芥川也寸志:オーケストラのためのラプソディ/エローラ交響曲/交響三章(ニュージーランド響/湯浅卓雄指揮)CDのリーフレット
新交響楽団創立10周年記念特別演奏会BEETHOVEN CYCLES(1966年9月、10月、11月、12月)プログラム
新交響楽団創立20周年記念第73、74回演奏会 日本の交響作品展 昭和8年〜18年(1976年9月、10月)プログラム
新交響楽団第100回演奏会(1983年6月)プログラム
新交響楽団第113回演奏会「新響と30年 芥川也寸志」(1986年11月)プログラム
昭和46年度文化庁芸術祭「管弦楽の夕べ」(1971年10月4日)森正指揮、NHK交響楽団 演奏会プログラム
NHK交響楽団HPより1971〜1980年演奏会記録https://www.nhkso.or.jp/data/document/library/archive/kiroku1971_1980.pdf

ご協力:芥川眞澄様、株式会社スリーシエルズ 西耕一様、株式会社木之下晃アーカイブス 木之下貴子様、新交響楽団OB、OGの皆様

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