HOME | E-MAIL | ENGLISH

ブルックナー/交響曲第7番 <名声への道のり>

土田 恭四郎(テューバ)


■ワーグナーとの出会いと別れ:「パルジファル」の夏
 1882年7月、ヨーゼフ・アントン・ブルックナー (1824-1896)は、バイロイトに滞在していた。リヒャ ルト・ワーグナー(1813-1883)にとって6年ぶりの新作「パルジファル」の初演(1882年7月26日)が、ヘルマン・レーヴィ(1839-1900)の指揮で祝祭劇場にて行われたのである。
 この時のワーグナーとの会見がブルックナーにとって最後となった。ワーグナーはブルックナーの手を取りながら、いつもの通り彼の全作品の演奏を 約束した。感激のあまりブルックナーは跪いて、ワーグナーの手に接吻しながら言った。「おお先生、あなたを崇拝します!」ワーグナーの「まあ落ち着いて、ブルックナー、おやすみ」という言葉が最後となった。
 このエピソードが書かれたブルックナーの書簡によれば、「パルジファル」を観ながら、あんまりうるさく手を叩いたので、後ろに座っていた先生(ワーグナー)が脅かすような仕草をされた、どうかこのことは誰にも話さぬよう、あの世へ持っていく何よりも大切な思い出なのです、と続いている。
 ブルックナーは「パルジファル」第1幕終了後、祝祭劇場の前でスリの被害にあい、所持金全部を盗られている。


 ブルックナーにとって、ワーグナーは「大家の中の大家」、憧れの巨匠であった。1865年5月18日ミュンヘンでハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)指揮「トリスタンとイゾルデ」初演の際に初めて会見、ワーグナーへの敬愛は神格化ともいえるほど深まっていく。ワーグナーの総合芸術作品に関しては終生まったく無関心であったが、「トリスタンとイゾルデ」で得た和声と作曲技法は、大きな収穫となった。 1873年9月初め、ブルックナーは祝祭劇場建設中のバイロイトを訪問、ワーグナーはこの突然の訪問者から交響曲第3番の献呈申し出を受諾する(翌 1874年5月9日付で献呈)。自分以外の作曲家にあまり興味を示さないワーグナーだが、ブルックナーは例外であった。1875年11月に「タンホイザー」上演のためワーグナーがウィーンを訪れた際も、交響曲の演奏を約束し、他の指揮者に演奏を勧めるなどかと持ち上げている。
 バイロイトはブルックナーにとって聖地となった。1876年8月には完成したばかりの祝祭劇場で「ニーベルンゲンの指輪」全曲初演を聴き、ワーグナー没後もバイロイト詣でを続けている。 1883年1月22日に交響曲第7番第2楽章アダージョのスケッチを終えたが、既にワーグナーの命はもう長くないのではないかと思いつつ、嬰ハ短調のアダージョが心に浮かび作曲の筆を進めていたという。3週間後の2月13日、ワーグナーは静養先のヴェネツィアにて69歳で死去、翌日ウィーン音楽院でブルックナーは訃報に接し、手放しで泣いた。その頃、アダージョのオーケストレーションをほぼ終え、ハ長調のクライマックス(練習記号「W」)まで筆を進めていたので、ワーグナーテューバとテューバによる35小節の コラール(練習記号「X」)を、故人となった熱愛する不滅の巨匠の思い出のために、として書き加えた。
 この葬送の音楽は、1896年10月15日カール教会でのブルックナーの葬儀の際、フェルディナント・レーヴェの編曲によりウィーン・フィル指揮者ハンス・リヒター(1843-1916)の指揮で宮廷歌劇場の金管奏者により奏せられている。


 最初のバイロイト訪問後、ブルックナーはウィーン・アカデミー・ワーグナー協会に入会、ワーグナー没後の翌年1884年1月23日に、同協会の名誉会員に指名されている。こうして当時の所謂「ワーグナー派」と「ブラームス派」の党派抗争で渦中の人となり、ブルックナーは多くの支持者を得ると同時に多くの敵をも持つことになった。
 ワーグナー批判の急先鋒はウィーン大学哲学部音楽史・音楽美学講座教授で評論家のエドゥアルト・ハンスリック(1825-1904)である。彼は美学の領域で急進的な立場をとり、著書『音楽美論』は形式美学と絶対音楽論のバイブルとなった。ハンスリック派の代表はヨハネス・ブラームス(1833-1897) だが、もともとはワーグナーとハンスリックの芸術論争に端を発している。
 ワーグナー派とブラームス派の感情的な論戦は、雑誌や新聞の批評合戦であり、実生活上では同じ町に住む同業者、ブラームスとブルックナーはウィーン楽友協会の仲間、ハンスリックとブルックナーは ウィーン大学の同僚でもある。


■交響曲の世界
 ブルックナーは、1855年7月から6年間にわたり、ウィーン音楽院教授で音楽理論の大家ジーモン・ゼヒター(1788-1867)から厳格な指導を受け、伝統的な音楽理論(和声学、対位法、カノンとフーガ)を完全にマスターした。ゼヒターとの通信教育のやりとり、各課程の修了証明書、ゼヒター著『作曲法 の基礎』にある多数の書き込みが基礎的な勉学を証 明している。その間、1856年4月25日リンツ大聖堂オルガニストに就任、宗教音楽界の最重要ポストの一員としてリンツの名士となる。
 1861年3月26日をもってゼヒターからの勉学を終了後、今度はリンツ州立劇場首席指揮者オットー・キツラー(1843-1915)に師事する。ドレスデン出身のキツラーは、ブルックナーより10歳若く、チェリストとして各地で豊富な経験を積み、実践的かつ進歩的な音楽家であった。すでに第1級の和声理論家となったブルックナーは、キツラーから古典派、ロマン派、後期ロマン派の和声法と管弦楽法を教わり、ワーグナーの作品から斬新で大胆な和声法と管弦楽法を知ることになる。
 また教科書として、19世紀ドイツ楽式論を代表するA.B.マルクス著『作曲論』、E.F.リヒター著『音楽形式』、J.Ch.ローベ著『作曲の手引』が主に用いられ、楽式論の基本原理として、終生ブルックナーの作曲手順の規範となった。具体的には、交響曲におけるソナタ形式の枠組みを独自な原理のもとに固持し、楽節の基本単位が8小節、あるいは偶数小節であることを頑なに守り、交響曲の自筆総譜の下に、楽節構造を示す数字を記入するようになっていった。勉学の成果は、練習課題帳と管弦楽曲、具体的には、弦楽四重奏曲、行進曲、管弦楽曲、序曲、交響曲の他、多数の未出版の歌曲や舞曲が残されている。
 1863年7月、2年のカリキュラムを19か月で修了し、ほどなくしてキツラーはリンツを去り、後任としてウィーン宮廷歌劇場のヴァイオリン奏者イグナーツ・ドルン(1836-1872)が赴任する。ドルンは、ベルリオーズ、ワーグナー、加えてリストの音楽の信奉者であり、ブルックナーは当時の前衛的な作品として標題音楽や交響詩の世界を知ることになる。その後、ドルンはブルノに異動するが、酒におぼれ、 最後には錯乱して1872年に精神病院にて急死する。
 ブルックナーは、ゼヒターとの理論学習を盤石な土台として、キツラーから自由作曲法の基礎を学び なおし独自の確個とした楽式を構築していった。


■交響曲の傑作
 交響曲第7番は、「対位法の傑作」交響曲第5番、規模や内容の充実度において交響曲と比肩する弦楽五重奏曲、簡明で抒情性と明快さを持った交響曲第 6番と続く傑作のひとつであり、人気の高い作品である。ブルックナーは60歳にして交響曲の作曲家としての名声を確立し、生前第2楽章のみの演奏を含め31回演奏されている。
 それまでのブルックナーは、どちらかというと、宮廷礼拝堂で上演のため宮内省から委託された「ミサ曲ヘ短調」の1872年6月16日初演の成功により、教会音楽の作曲家として認められるようにはなっていたがまだ無名で、作曲家としては理解されず冷遇されていた存在であった。
 長大な音楽、「杓子定規」的なソナタ形式、提示部の3つの主題、ゼクエンツ(反復進行)を活用した和声進行、独特なユニゾン、音楽がどこへ行くのかわからない即興性、自由でファンタスティックな旋律は、ブルックナー独自の造形感覚である。個性は残しつつ、初期の交響曲にみられるような独創的で桁外れ、頑固なまでの厳格さと強引さ、唐突な場面転換の音楽は身を潜め、作曲技法も洗練されて聴きやすく自然な音楽の流れがこの曲で確立されている。同時期の作品で、ウィーンでの幾多の苦難を耐え忍ぶことができたことを神に感謝するために作曲した教会音楽の大作「テ・デウム」と関連があり、主題として最終楽句「non confundar in aeternum(わが望みはとこしえに空しからまじ)」を用いていることでも知られている。
 交響曲第6番完成の2週間後にあたる1881年9月23日に第1楽章から作曲を開始、1882年10月16日に第3 楽章が先に完成した。同年12月29日第1楽章、第2楽章は1883年4日21日、そして第4楽章は何度かの点検を経て1883年9月5日に聖フローリアン修道院にて完成した。
 全曲の完成に先立って、ウィーンでまずはピアノ連弾にて私的な場ではあるが紹介されている。1883年2月に第1楽章と第3楽章、全曲が完成した後に1884年2月27日のワーグナー協会の催しで、ブルックナーの名誉会員推挙を受けてとの名目でベーゼンドルファー・ホールにてまずは全曲初演が行われた。
 この作品初演を成功裏に導いたのはウィーン音楽院の教え子たちで、特に「ブルックナー3使徒」と呼ばれた音楽家である。ピアニストのヨーゼフ・シャルク(1857-1911)、その弟で指揮者のフランツ・シャルク(1863-1931)、指揮者のフェルディナント・レーヴェ(1865-1925)は、その生涯をブルックナーの交響曲普及のために捧げ、大きな役割を果たしている。
 ピアノ連弾での初演者であるヨーゼフ・シャルクは、1883年末にピアノ連弾スコアを携えてライプツィヒを訪れ、演奏の可能性を探っていた。結局、ウィーン音楽院の同窓生で当時ライプツィヒ市立劇場の指揮者だったアルトゥール・ニキシュ(1855-1922)に打診、連弾を通して若き指揮者はオーケストラ初演を約束する。ニキシュは、ブルックナーと手紙や電報で何度も連絡を取り、批評家たちを招いてピアノによるレクチャーを行うなど周到に準備、オーケストラともリハーサルを5回実施、最後の2回にはブルックナーも同席し、その場でも指揮者の立場から部分的な手直しを提案している。このような万全の態勢で1884年12月30日、ゲヴァントハウス管弦楽団により行われた歴史的な初演は喝采に包まれた。
 1885年3月10日のミュンヘン宮廷楽長ヘルマン・レーヴィ指揮によるミュンヘン初演は、ライプツィヒを凌ぐ大成功となり、作品の評価は決定的なものとなった。その後、カールスルーエ、ケルン、ハンブルクでも演奏、オーストリア国内では、グラーツにてブルックナーの弟子カール・ムック(1859-1940)によって初演されたが、ムックは14回もリハを重ねている。オーストリアでの初演の意向に関しては、グラーツよりウィーン・フィルの方が先だったが、 ウィーンではハンスリック派が優勢であり、ドイツでの成功に水を差すことを恐れたブルックナーは断ってしまう。結局1886年3月21日、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルによりウィーンで初演され、熱狂的な反響を呼んでいる。その年のうちにニューヨー ク、シカゴ、ボストン、アムステルダムでも演奏され、 ブルックナーの名声は、ゆるぎないものとなった。
 ヘルマン・レーヴィの尽力により、この曲はバイエルン王ルートヴィヒ2世(1845-1886)に献呈されている。1886年3月、革装献呈スコアは宮廷書記官によってホーエンシュヴァンガウ滞在中の国王に届けられた。しかし国王はその3か月後、廃位宣告を受けて幽閉され、シュタルンベルク湖にて変死している。


第1楽章 アレグロ・モデラート
 ホ長調、2/2拍子。ソナタ形式。3つの主題と各々の転回形が巧みに絡み合い、淀みのない音の奔流が魅力となっている。ホルンとチェロを主体とする冒頭の第1主題(譜例1)は、あらゆる交響曲の中でも 美しいものの一つといえよう。ホ長調の自然倍音による2オクターブにわたる分散和音の上昇と冒頭ら22小節という長さは、無限の広がりと可能性を示している。ハンス・リヒターがブルックナーに尋ねたところ、イグナーツ・ドルンが夢に現れ口笛でこの主題を吹き、成功を掴むだろうと言った、そこですぐに起きてロウソクに火を灯し、急いで書き留めた、とのこと。ワーグナーが「ニーベルングの指輪」 序夜「ラインの黄金」の作曲に際して、夢遊病状態での体験から原始の響きとして変ホ長調主三和音のホルンによる自然倍音の上昇音型「生成の動機」を創作したという話を彷彿とさせる。どちらも夢の中でというのが象徴的である。ここではホ長調に半音階上がることで、愛と幸福に満ちた情景に包まれ、ホ長調-ハ長調-ロ長調-ホ長調-嬰へ長調-ロ長調と続く和声進行により醸し出されるロマン性は、ブルックナーの内面からあるがままに噴出された感情を表現しているのだろうか。
 続いて抒情的な第2主題(譜例2)、軽妙な第3主題 (譜例3)が各々ロ短調で提示されていくが、目まぐるしい転調を伴う和声進行と展開を伴って次第に興奮を高めてクライマックスを形成していくプロセスが続く。
展開部では、まず第1主題が転回形で用いられ、 続いてチェロによる第2主題の転回形が深い抒情性を醸し出し、ところどころに第3主題も登場していく。後半はハ短調にてまずは第1主題の転回形が強奏され、続いてニ短調で第1主題がダイナミックに進み、ホ長調で再現部に入る。再現部は、提示部とは異なるプロセスでいくつものクライマックスを築いていき、やがてバスのホ音によるオルゲルプンクト(持続低音)の上に第1主 題後半のモティーフが「非常に厳かに」形成されていく。ここで初めて登場するティンパニが効果的に使用されている。
 コーダは第1主題による勝利の音楽として輝かしく展開し、最高潮のうちに閉じられる。


第2楽章 アダージョ、極めて厳かに、そして非常にゆっくりと
 嬰ハ短調、4/4拍子。第1主題と第2主題によるA1-B1-A2-B2-A3の5部形式。前作の交響曲第6番の柔和で気品のある美しい音楽に満ちたアダージョより更に深みを増し、ブルックナーの心象を表現しているような厳粛且つ荘厳な音楽。第1主題の前半 (譜例4)はワーグナーテューバを主体とするコラール。ワーグナーテューバは、ホルンと同様に移調楽器のため実音で記載されず、この交響曲の調性では シャープの数が多い。嬰ハ短調は、ワーグナーの「指輪」にある「黄昏の動機」の調性であり、ワーグナーへの想いであろうか。後半は「テ・デウム」の最終 楽句(前述)が引用されている。
 第2主題(譜例5)は、モデラートとなり嬰へ長調 3/4拍子にて弦楽器で呈示、ベートーヴェンの交響曲第9番第3楽章を彷彿とさせる音楽。第1主題によるA2への帰還は、その後転調を伴い高調し、ハ長調から発展してト長調にて金管の輝かしい響きにより最初の頂点に進む。次のB2では、第2主題がB1よりも現実性を帯びて変イ長調にて再現、この楽章のクライマックスとなるA3を導いていく。A3は第 1主題が弦楽器の装飾を伴いつつ厳かに再現、「テ・デウム」最終楽句のコラール楽句を用い音階的上昇音形でA2よりも壮大に発展していく。このような和声的な音階は、ブルックナーの特徴ともいえる方法であり、特別な強い訴えを持って密度の濃い感情を噴出させながらハ長調の頂点に到達する。この時に、ノヴァーク版ではティンパニ、トライアングル、シンバルが加えられている。収束とともに奇跡とも思える変二長調へ移行、その後、前述したワーグナーテューバとテューバによる葬送の音楽が嬰ハ短調で厳粛に登場する。最後は魂の安らぎを願うような、諦念の境地を暗示するような嬰ハ長調の静かな響きで締めくくられる。


第3楽章 スケルツォ:非常に速く トリオ:幾分遅く
 イ短調、3/4拍子。三部形式。弦楽器の初動とトランペットによる主題(譜例6)で構成されている。交響曲第6番のスケルツォとは異なり、前楽章の緊張を解放するような野性的で快活な雰囲気。それでいて硬直せずに転調を繰り返し、4小節単位にて進展する。最初の終止はハ短調、その後の中間部はブルックナーの特徴として、初動と主題の転回形が用 いられ、主調のドミナントとなって再現部に入り、イ短調で終結する。
 トリオは、ヘ長調で田園的な主題(譜例7)が穏やかに転調と転回を繰り返しながら進み、平易に終わってスケルツォに帰還する。


第4楽章 フィナーレ 動きをもって、しかし速くなく
 ホ長調、2/2拍子。自由なソナタ形式。当初この楽章は周囲から理解不能ということで批判の的となった。ソナタ形式の再現部において、提示部の3 つの主題による構成要素を再現部では全て逆転させて再現するという、古典的なソナタ形式の規範からみれば理解不能で混乱を招く構成となっている。 個々の構成要素を対比させ、小節数やディナーミク (強弱法)も調節することで、伝統的な構成要素を熟知しているがゆえの自由な形式の中で、即興演奏のごとく各主題を動的に処理している自己完結型の楽章といえる。
 第1主題(譜例8)は、第1楽章第1主題を用いて快 活に進み、第2主題(譜例9)は一転して変イ長調のコラール風、そして第3主題(譜例10)はイ短調で第1主題を発展させた激烈な旋律にて、各々転調を多く含みながら提示部を構築している。展開部は、第1主題と第2主題の転回形が縦横無尽に転調しながら進み、再現部では第3主題がロ短調で回帰、第2 主題、第1主題とますます幅広く、より大きな輝きをもってオルガンの即興演奏のように展開していく(ブルックナーにとってオルガン演奏は徹頭徹尾、即興演奏の芸術であった)。そして強烈なカデンツから、第1楽章冒頭主題が回帰し、巨大なコーダとなって歓喜のうちに終わりを告げる。


■交響曲
 ワーグナーは、亡くなる前に、妻コジマとの会話の中で、ベートーヴェンの交響曲と他の器楽作品との本質的な違いについて思いを巡らし、ソナタや弦楽四重奏曲ではベートーヴェンが音楽を奏でている が、交響曲では世界全体が彼を通じて音楽を奏でている、と語ったとされている。
 18世紀までの音楽美学では、交響曲は副次的な重 要性しか持たない曲種だったが、19世紀に入る前後の短期間で最高の曲種と位置づけられるようになった。ベートーヴェンの登場により、交響曲は、共同 体の理念の最高の音楽表現と位置づけられるようになる。芸術擁護や演奏の場の時代的な変化もあるが、大規模な楽器編成による対照的な音色の統合、音響的多様性と長大化、高い作曲技術の要求により、作曲家と聴衆の双方に多くの負担を求めるようになってきた。
 楽式論の成文化が始まり、多くの人々が音楽の形式をめぐって論戦を行った。そして作曲家はベートーヴェンの残した交響曲の巨大な影と格闘することになる。 芸術とりわけ音楽が、政治的社会的変革の媒体として働き得るという信念に基づき、ワーグナーは、 交響曲の領域におけるベートーヴェンの至高性を認識したうえで、ベートーヴェン自身が交響曲第9番によって交響曲の終焉を告知したものと断言し、さらに偉大な全包括的な芸術作品、ワーグナー曰く「総合芸術作品」の究極的な実現を公言する。このような姿勢は、伝統主義者の激しい反応を呼び起こし、「ワーグナー派」と「ブラームス派」の党派抗争へとつながっていった。


 19世紀は個性の時代であり、ブラームスもブルックナーも同時代に生きた作曲家として、自らの道を切り開き、独自の世界を築いていったのである。


■ハース版とノヴァーク版
 作品の発展過程のうえで、作曲家自身によってなされた変更は重要なものである。「スケッチ」「草稿」から始まり「原稿」に署名と日付が入ると「第1稿」という流れがある。ここに「改作」「改定」が入り、「第2稿」「改定版」となってまたいくつかの状況が生まれてくる。更に「初版」の印刷が入り、そのための「初版稿」とか、各々の過程で更に変更や追加が加えられていく可能性もある。
 ブルックナーの場合、ややこしいのは、自らの意思による「改良」に加えて、周囲からの助言に伴う「改良」があり、特に「ブルックナー3使徒」による短縮やおびただしい改定が、師からの承諾の有無にかかわらず「改定版」として存在することで、現代の目からは「改竄」と表現すべき状況にもなっている。 交響曲第7番には、「初版」(1885)、国際ブルックナー協会による「原典版」として「ハース版」(第 1次全集版1944)と「ノヴァーク版」(第2次全集版1954)が出版されており、残された自筆譜や資料の解釈により、いくつかの相違が散見されている。2 つの「原典版」の違いに関しては、ブルックナーの最終判断と最終意図に関することであり、その判断には困難が伴うが、大きな相違として知られているのは第2楽章の打楽器の有無があげられる。


■3つの領域-矛盾からの告解と感謝
 ブルックナーの生涯には、「オルガニスト」、「音楽理論教師」、「作曲家」という各々異なる領域が存在し、それぞれに彼は業績を残している。
 「オルガニスト」としては、聖フローリアン修道院オルガニスト、リンツ大聖堂オルガニスト、ウィーン宮廷礼拝堂オルガニストを歴任、1869年4月~5 月にナンシー・パリ旅行、1871年7月~8月のロンドン旅行にオルガニストとして派遣され、空前の成功を収め国際的に名を高めている。
 「音楽理論教師」としては、寒村ヴィントハークでの国民学校助教師、聖フローリアン修道院付属学校助教師から始まり、ウィーン音楽院和声法対位法オルガン演奏講師、ウィーン大学哲学部和声法対位法講師に上り詰める。そしてブルックナーが長年主張してきた音楽と学問との深い絆をウィーン大学が認め、1891年11月7日ウィーン大学哲学部名誉博士 という栄誉ある称号が与えられた。
 「作曲家」としては、周知のとおり厳しい論争にさらされながらも、ウィーン古典様式とシューベルトのロマンティシズムを手中にしながら、3曲のミサ曲を経て教会音楽「テ・デウム」で、また交響曲では第7番で国際的な地位を確立する。そして1886 年7月9日フランツ・ヨーゼフ騎士十字勲章を授与され、皇帝から経済的援助も得られるようになった。


 この3つの領域が交錯したブルックナーの生涯に は多くの矛盾と対立があり、ブルックナー自身の風変わりな服装や奇癖と共に、混乱が生じていた。
 ブルックナーは、全生涯にわたり熱烈かつ真剣なカトリック教徒であり続け、毎日の祈祷記録と共に、その信心深さは全ての音楽に潜在している。教会音楽のみならず、交響作品には、荘厳で祈りに満ちた本質が表れている。
 「神との対話」のための教会音楽と、「人間との対話」のための交響曲が、ブルックナーの特異な個性の中ではあくまでもひとつのものであり、交響曲第7番は、「テ・デウム」と共に、ブルックナーの告解と感謝、そして対話が融合したものとして、私たちに心情を直接語りかけているのである。


(譜例準備中)


初演:
1884年12月30日 アルトゥール・ニキシュ指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団


楽器編成:
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、ワーグナーテューバ4、テューバ、ティンパニ、トライアングル、シンバル、弦五部


参考文献:
土田英三郎『ブルックナー ―カラー版作曲家の生涯―』新潮社 1988年
『作曲家別名曲解説ライブラリー⑤ ブルックナー』音楽之友社 2006年
田代櫂『アントン・ブルックナー 魂の山嶺』春秋社 2005年
マーク・エヴァン・ボンズ(近藤譲・井上登喜子訳)『「聴くこと」 の革命 ベートーヴェンの時代の耳は「交響曲」をどう聴いたか』 アルテスパブリッシング 2015年
マーク・エヴァン・ボンズ(土田英三郎訳)『ソナタ形式の修辞学 古典派の音楽形式論』音楽之友社 2018年
レオポルト・ノヴァーク(樋口隆一訳)『ブルックナー研究』音楽之友社 2018年
新交響楽団第209回演奏会プログラム『ブルックナー:交響曲第9番<永遠のゲネラル・パウゼ>』2010年
新交響楽団第220回演奏会プログラム『ブルックナー:交響曲第5番<真のブルックナー:厳格な技法とファンタジーの融合>』 2013年
新交響楽団第226回演奏会プログラム『ブルックナー:交響曲第6番<ブロック様式からロマン派様式への転換>』2014年
(新交響楽団ホームページから「過去の演奏会」より第209回、第220回、第226回の各演奏会詳細) http://www.shinkyo.com

このぺージのトップへ