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黛 敏郎:曼荼羅交響曲

松下 俊行(フルート)

■合理的非合理と非合理的合理
 先年亡くなった作曲家冨田勲に『祭りの笛』という小品がある、と聞いても知る人は少なかろう。これは『新日本紀行』の音楽の一部で、誰もが知るオープニング・テーマの直後に間奏的に配されている。
 日本の祭囃子を描写しているが、肝腎の笛の旋律は複数のピッコロに委ねられる。そして演奏に際して作曲者は敢えて楽器のピッチ(基準となる音高)をずらすように指示している。微妙にずれたピッチの笛がいちどきに鳴る時、それは未熟な演奏や稚拙な構造の笛からもたらされる結果ではない「明らかな意図」による日本的な響きをもたらす。惹き起される郷愁…そこに作曲者の意図がある。
 或いは鄙(ひな)びた山寺の堂内に老若男女が集まり、念仏を唱えるとする。声の高さや強さや抑揚はまちまちだが、それが幾層にも重なる事でもたらされるのは、決して不快な音の混沌ではなく、ある種の荘厳にほかならない。
 こうした一見無秩序ともとれる音の集積を、日本人は日常の生活の中で違和感なく受け容れ続けてきた。そこにひとつの響和を見出しているのである。
 これとは逆に西洋ではギリシア以来、如何にして純粋な調和=ハーモニーを得るかに腐心し続けた。個々の音の関係を「協和」と「不協和」に峻別し、キリスト教の調和的な世界観と相俟って、ひたすら協和した音に神の救済や恩寵を求める音楽が生み出される。やがて調性が確立されると、転調の妙を巧みに組み合わせて作品を複雑化・長大化させ、曲折の果てに協和したハーモニーで完結の充足をもたらす音楽の伽藍を築き上げてきた。その整然とした姿と比較すると日本の混沌の中の美意識は、ともすれば未開・不完全と映るかもしれない。だがこれは質ではなくあくまで拠って立つ精神的基盤の差異にほかならない。
 だが西洋音楽の均整の基盤だったハーモニーの体系は、その余りの自己肥大によって20世紀に入って完全に崩壊し、存立の危機に立たされる。代わって創始された無調や十二音の技法は、それまでの調性音楽が持っていた音の色彩と比較すると、余りに生硬で無機的なものにならざるを得なかった。それは長い協和の伝統とはかけ離れており、受け手である聴衆はもとより、送り手である作曲家も暗中模索を余儀なくされていたと言える。そうした模索の一端として、電子音楽や偶然音楽などと並んで東洋の音楽やその音律にも目が向けられるようになっていた。
 黛敏郎がパリに留学した1951年当時のヨーロッパの作曲界はそのような状況にあった。早熟な22歳の作曲家は、西洋音楽がその進化の果てに自縄自縛の状況に陥っているのを目の当たりにする。そこで彼は最新の音楽思潮や電子音楽そしてミュージック・コンクレート(具体音楽)など彼の地ならではのものを吸収すると「もはや学ぶ事無し」と1年ばかりで帰国しているが、それは当然の結果と言えた。
 ミュージック・コンクレートは、それまでの音楽を構成してきた伝統的な楽音の枠を脱し、むしろそれ以外の自然音や生活音・騒音をも素材化し、録音技術を駆使して「作品」に仕上げる。究極の調和を突き詰めた果てに、最も根本に据えて磨き続けられた楽音からさえ離れてゆく…こうした新たな潮流に肌身で接した彼は言う。
「ヨーロッパの前衛音楽は、合理的、論理的思考を極限まで推し進めることによって必然的に、(合理的非合理)ないし(論理的非論理)ともいえるような次元 に到達しようとしている」
 この言葉は否定的なニュアンスで捉えられるべきではない。帰国後の若き作曲家はこうした合理的非合理の産物というべき技法による作品を自身で多数書き、また最新の作品の紹介もしているのである。
 そしてある時期から日本の梵鐘の音に関心を向ける。1955年には創設されたばかりの「NHK電子音楽スタジオ」にこもり、ひたすらこれを科学的に分析し、成分音を拾い出す試みに日々を費やすようになる。
 黛敏郎が梵鐘の音響分析に傾倒していった背景にミュージック・コンクレートと電子音楽の基盤があった事は言うまでもない。楽音以外の素材への関心はこれらの技法によって自ずと刺戟された。彼がヨーロッパの地で体感した、合理の末に西洋音楽が行き着いた非合理。帰国後、その延長線上で日本固有の音の素材を収集するうち、冒頭に示した祭りの笛の音律や衆生の念仏に秘められた、西洋的な価値観からすればおよそ無秩序な音の集積によってもたらされる独特の響和に改めて彼は気づき、そこに日本的な美意識に根ざした混沌的調和とも云うべき解を見出したのである。更にはその調和の根源に、仏教的な世界観を見通すに至る。黛敏郎の知性と感受性を以って初めて可能となった飛躍。梵鐘はその象徴だった。

■涅槃から曼荼羅へ=非合理的合理による解=
 彼はこの梵鐘の分析を「カンパノロジー(*注1)」と名付け、最終的には複雑極まりない構成音を、西洋音楽の基盤である12の音のいずれかの枠に割り付けていった。1959年に発表された『涅槃交響曲』(*注2)はその分析と再構成の作業の所産にほかならない。
 この作品では冒頭から西洋の音の文脈の中で再構築された「梵鐘」がオーケストラによって響く。男性コーラスによる「読経」部分では、ユニゾンから開始した詠唱がやがて12の声部に分かたれ、半音程で全ての声がぶつかりながら音楽が進んで最高潮を迎える。両肘をピアノの鍵盤に押し付けて1オクターブ内の全ての音を同時に出すのと同じで、当然濁った灰色の響きになる筈だが、それが読経の声塊として迫ると、不協和の音の集積からある種荘厳で不可思議な響和がもたらされるのである。こうして黛敏郎はヨーロッパの音楽が必然的に陥っていた「合理的非合理」を、仏教的(そして日本的)な「非合理的合理」の音響世界の中で初めて打開し得た。『涅槃交響曲』の真価のひとつは蓋けだしここに求められるべきだろう。
 2年を経て『曼荼羅交響曲』に至る。この間に作曲者の「カンパノロジー」は完成を見ている。それまでに彼は、日本各地にある歴史的な名鐘の音の分析を終えていた。ある基音を定めて他の成分の音を出現頻度(鐘の不規則な響きによって、各音の強弱や有無が生じるという事なのだろう)順に並べる。するとその上には半音差で二種類の「陽旋法」が見出せるという。彼はこのような音律を無意識的に鐘の組成として落とし込んだ先人らの智慧と美意識に感じ入り、これらの音を素材(音列)として活用して、新たな交響曲の骨格とした。
 表題の「曼荼羅」とはサンスクリット語の"mandala"を音写したもので、本来は「本質・中心・精髄などを持つもの」の意。仏教では「仏の悟りとその世界」を意味する。インドに於いては、修法に及んで邪物の侵入を防ぐために地面に引いた円を指したと言われるが、中国に渡るとそれは仏教世界の宇宙を、図絵として示したものをいうようになった。
 日本へは平安時代の初期に弘法大師がもたらしている。ここで生半可な解説をする事は敢えて避けよう。数ある曼荼羅の代表として金剛界・胎蔵界の両曼荼羅があり、寺院にあっては聖なる空間を構成する法具と位置付けられる。その上で前者が「智」を、後者が「情」を表すという対称を成しているとの理解があれば充分である。黛敏郎は音楽に於いてその対称を現出させる事を企図する。
 第一部の『金剛界曼荼羅』は素材の音列の個々の音がより際立つように書かれ、その目的からテンポも柔軟なものになっている。打楽器を含め金属的な響きも多く全体としては鋭さの際立つ部分に満ちている。
 続く『胎蔵界曼荼羅』の第二部は冒頭から「梵鐘」の名残りを見出せはするので『涅槃交響曲』の系譜を引く事は、第一部に比較して理解はしやすい。とはいえこれとて極めて抽象的で、結局のところ聴く者は直面する響きを受け容れ、享受する以外になす術はない。ふたつの楽章はそれぞれ独自の個性を持つが、いずれも末尾は同じ音に集束してゆく。
 「曼荼羅」の表題に惑わされがちだが、作品として仏教に関わるメッセージや具体的なドラマが表現されているわけではない(これは例の読経を含んだ『涅槃交響曲』でさえ同様である)。この新たな交響曲では「梵鐘」を更に抽象化し、両界曼荼羅によって示されている仏教的宇宙を、言葉や声さえ排除して「音のみによって表現する(初演時の作曲者の言葉)」姿勢に徹している。これはもはや外からは窺うかがいようのない黛敏郎の内なる世界であって、他者たる聴衆は、仏教に関するいかなる知識を足がかりにして作品を理解しようとしても結局は徒労に終わる。唯一彼はオーケストラの対称的な配置という目に見える形で、曼荼羅を示してはいるが、この配置とても響きの交叉という効果を目論んでの措置だ。こうした空間を活用した実験的手法は1960年代当時の音楽状況を反映している。
 成立の過程を概観すると、この交響曲は拠って立つ日本的美意識の根源と作曲家の思想的基盤に於いて、キリスト教と表裏一体となった西洋音楽の対極にある存在とも言える。だが素材は12の音に限られており、20世紀ヨーロッパ音楽の延長線上にある。
 黛敏郎が最も影響を受けたストラヴィンスキイやメシアンなどの作風に拠っている部分もあるため、ともすれば仏教的思惟からの影響を見出せず、表題から受けるイメージとのギャップに困惑する人があっても不思議ではない。
 その困惑を解消するためには、西洋音楽が行き着いた合理的非合理を体験した作曲家が、日本人が日常的に受け入れている独自の「ハーモニー」に非合理的合理を見出す⇒底流にある仏教の影響も踏まえ、その象徴として梵鐘の音を追求の究明に向かう⇒『涅槃交響曲』の作曲によって両者の融合を図り、独自の解を得る⇒そこから更に自身の思惟を純化発展させて、ようやく『曼荼羅交響曲』の帰結に至る…という10年にも亘る長い道のりを考える必要がある。迂遠な話だがそうした文脈の中で捉えてこそ、この作品の価値や位置づけを我々は初めて理解できるのではないだろうか。

(注1) カンパノロジーとは黛敏郎の造語。鐘を製造する際の合金の割合や鋳造の方法を研究する学問の名称を意味する。そこで得られた音響(カンパノロジー・イフェクト)に基づく作品群の表題にもこの名称が冠されている。
(注2)『 涅槃交響曲』に関連する文は、以下の拙稿をベースにしている。作品理解の一助とされたい。

初演:1960年3月26日、岩城宏之指揮 NHK交響楽団 日比谷公会堂「第4回 3人の会」

楽器編成: ピッコロ、フルート、オーボエ、コールアングレ、クラリネット、Esクラリネット、バスクラリネット、ファゴット、コントラファゴット、ホルン2、トランペット2、トロンボーン2、テューバ、ティンパニ、木琴、グロッケンシュピール、鈴、ヴィブラフォーン、ムチ、シンバル、吊りシンバル(大・小)、中国シンバル、タムタム(大・小)、ゴング、キン、鐘(テューブラーベル)、大太鼓、チェレスタ、ハープ、ピアノ、弦五部

参考文献
黛敏郎『曼荼羅(mandala)』3人の会プログラム 1960年3月10日
團伊玖磨/芥川也寸志/黛敏郎『現代音楽に関する3人の意見』中央公論社 1956年
秋山邦晴『現代音楽をどう聴くか』晶文社 1973年
東川清一『音楽理論入門』ちくま学芸文庫 2017年

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