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伊福部 昭:シンフォニア・タプカーラ

今尾 恵介(打楽器)


 今から36年前、新響が本日の「改訂版」を初演したプログラム冊子に、当時65歳であった作曲家自身が次のような言葉を寄せている。


 作者は、アイヌ語でシャアンルルーと呼ぶ高原の一寒村に少年期を過しました。そこには、未だ多くのアイヌの人達が住んでいて、古い行事や古謡が傳〔伝〕承されていました。
 タプカーラとは、彼等の言葉で『立って踊る』と云うような意をもち、興がのると、喜びは勿論、悲しい時でも、その心情の赴くまま、即興の詩を歌い延々と踊るのでした。
 それは、今なお、感動を押え得ぬ思い出なのです。
 その彼等への共感と、ノスタルヂアがこの作品の動機となっています。(以下略)


 この一文はその後に頒布されたCDの解説や書籍など各所に引用されているので、どこかで目にした方が多いかもしれないが、作者が少年期を過ごした「シャアンルルー」という地名らしきものが何を意味するか気になっていた。ネットを探せば「十勝平野」だとか「大海原」という解釈が見られるものの、どうも釈然としないので、手元の『地名アイヌ語小辞典』を参照してみた。
 「シャアンルルー」はないが、アンルルーan-rurなら載っている。「反対側の海にのぞむ地方;山向こうの海辺の地。──太平洋岸のアイヌは日本海岸を、日本海岸のアイヌは太平洋岸を(略)」と、方向性をもつ地名的な概念であることが示されており、続いて十勝の古名としての「si-anrur」も掲載されていた。「①真の、本当の ②大きな」という意味をもつsiを冠したことで「ずうっと山向こうの海辺の地」と強調されている。もとは石狩アイヌが十勝を指した呼び名という。これに相違ない。
 余談だがこのsiには「糞」という意味もあるそうで、ずいぶん以前に新響プログラムの編集者として伊福部邸でインタビューをお願いした際、「シシャモと言ったら『馬鹿な(糞)日本人』の意味になってしまうので、あの魚はススヤムと発音しなければ」というお話をうかがった。林務官として道東のある僻遠の村に赴いた際、お役人様に生の鮭を食わせては失礼と、わざわざ鮭の缶詰をご馳走になったという笑い話も印象に残っている。
 伊福部昭は大正3年(1914)に北海道釧路町(現釧路市)で父伊福部利三・母キワの三男として生まれた。伊福部家は因幡国一宮たる宇倍神社(現鳥取市国府町宮下)の神官を代々つとめた家で、昭が67世(代目)というから、古代からの話である。伊福部氏は鑪(たたら)製鉄の特殊技術を持った一族であった。
 父の利三は官吏で、大正12年(1923)には十勝・音更村の官選村長となった。当時の明治政府は先住民族アイヌに対して日本型の営農指導などを通じた同化政策を進めており、明治32年(1899)施行の旧土人保護法成立でその態勢は確固たるものとなっていく。伝統的な生活から無理に引き離され、深刻な差別も生まれていくのだが、同39年にはこの音更にもアイヌ子弟の教育を目的とした庁立音更尋常小学校が置かれている。9歳で釧路の町からここに移った伊福部昭がアイヌの歌や踊りを目の当たりにし、その肉声や音調、リズムの感覚などに大きな影響を受けたことは想像に難くない。
 その後は札幌第二中学校(現札幌西高)を経て北海道帝国大学農学部林学実科に入学、卒業後は帝室林野管理局の林務官として厚岸森林事務所に奉職した。独学で作曲を始めていた伊福部が本格的にデビューしたのがチェレプニン賞(モーリス・ラヴェルも審査員であった)で第1位入賞した「日本狂詩曲」であるが、国内の作品を東京でまとめて送る手続の中で、当時第一線の楽壇の面々から「あまりに西洋音楽の作法から外れ、日本の恥」として応募から外されそうになったエピソードは、その作風の強い独自性を物語る。
 さて、根室本線の旧狩勝トンネルを抜けた東側は、広大な十勝平野を俯瞰する絶景として「日本三大車窓」にも数えられていた。その風景はまさに石狩アイヌが見たシャアンルルーであろう。原生林で覆われていた大地は碁盤目に道路が走り、今では見渡す限りの畑に変貌したが、その昔─100年近く前に存在した音楽と即興の詩と踊りとは、どんなものであっただろうか。


第1楽章 Lento molto-Allegro
 ゆったりと時間が流れる広大なシャアンルルーのレント・モルト。やがて踊りを感じさせるアレグロが近づいてくる。即興の詩の字余り・字足らずが独特な興を添えながら。中間部では何の詩かわからないが、朗々と奏でられる。


第2楽章 Adagio
 ハープの下降音型は夕暮れか。ゆったり流れる笛の調べ。夜はまだ長い。


第3楽章 Vivace
 始まりは「緊急地震速報」の元となったE-HF-B-F-Gis-Bという不協和音(作曲家の甥・伊福部達東大名誉教授-音響学が採用)。短調でありながら、深刻かつどこか脳天気な雰囲気をも併せ持ちつつ、たたみかけるように突き進んでフィナーレ。


 以上、筆者の勝手なイメージに基づく記述であるが、最後に作曲家が自著『音楽入門』で記した「現代生活と音楽」と題する一文の冒頭を掲げておこう。


 私たちはかっては、農耕には農耕の歌を、漁(すなど)りには漁りの歌を、馬を追うには馬子唄を、また少年時代にはさまざまな遊びに伴った童べ唄を、冠婚葬祭や年中行事にはそれに伴った多くの唄や音楽を持っていたのでありますが、近代の機械文明は、この私たちから、そのようなもののすべてを取り上げてしまったのであります。


初演:原典版:昭和30年(1955)1月26日、米国インディアナポリスにてフェビアン・セヴィツキー指揮 インディアナポリス交響楽団、翌31年3月16日に上田仁指揮東京交響楽団で国内初演
改訂版初演:昭和55年(1980)4月6日、東京文化会館大ホールにて芥川也寸志指揮、新交響楽団(第87回演奏会-日本の交響作品展4)
楽器編成: フルート2、ピッコロ、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、トムトム、小太鼓、ティンバレス、ギロ、ハープ、弦五部
参考文献
 知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター 1956年
 伊福部昭『音楽入門』(1985年改訂版)
 現代文化振興會 1985年
 新交響楽団第87回演奏会プログラム 1980年4月6日
 伊福部昭公式ホームページ(暫定版)http://www.akira-ifukube.jp/

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