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伊福部昭:交響譚詩

桜井哲雄(オーボエ)

 伊福部昭はこの曲の表題を「交響譚詩―亡兄に捧ぐ―」とした。兄の勲氏は北海道帝国大学時代にリサイタルを開いた程のギターの名手であったが、1942年に蛍光塗料研究中の放射線障害により30歳の若さでこの世を去った。その次の年、太平洋戦争の戦況が悪くなり始めた1943年に、日本音響株式会社(日本ビクター)主催の「ビクター管絃楽コンテスト」に応募すべくこの曲は作られた。審査の結果第1位となり、その年の9月にSPレコード化、そのレコードが翌年の文部大臣賞を受けた。
 この曲は二つの譚詩(バラード)から出来ている。第1譚詩は元気に遊び回った子供時代の思い出をイ短調で音楽にしている。速度記号の中に“capriccioso”とあるが、これは「奇想的な」という意味である。後述するチェレプニン(ロシアの作曲家、ピアニスト)が7年前の1836年に「写譜して勉強しなさい」と伊福部に渡した最初のスコアが、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」であった。それに学んだというよりは、チェレプニンが伊福部音楽の中に奇想曲的なものを感じたのだろうか、興味はつきない。
 第2譚詩はハ短調で別れの悲しみを歌う。曲の最後の11小節はコールアングレのソロで、ト短調の別れの歌とそれに続く長い祈りのイ音で、聴く者を静寂の中に導く。「第2次大戦中、蛍光物質の研究に斃れた(たおれた)兄のために起稿し、昭和18年春に脱稿したものです。戦争が烈しくなり、大きな編成を採ることが困難な時代だったので、2管持ち替えの小さなものとしました」と、スコアのあとがきに伊福部は書いている。
 その8年前の1935年、伊福部はボストン交響楽団のレコード演奏を聴いて指揮者のセヴィツキーに手紙を出した。そのセヴィツキーから返事が来て「作品を見たいのでなにか送れ」という。伊福部は作曲中のヴァイオリン協奏曲を3楽章の管弦楽曲に直して送ったところ絶賛された。この曲を「チェレプニン賞作曲コンクール」に出すことにしたのだが、条件が「演奏時間10分以内」であった。そこで第1楽章をカットして第2、第3楽章の2曲を「日本狂詩曲」として応募したところ、見事「一等賞賞金参百円」であった。この時カットされた第1楽章の「じょんがら舞曲」が8年後、「交響譚詩」の第2譚詩に一部使われることになる。この当時は兄の勲氏もまだ元気で、よく写譜を手伝ってもらっていた。そういう懐かしい感謝の思い出もこの曲にはこもっている。
 伊福部は音楽学校には行っていない。札幌二中からヴァイオリンを始めた。後に北海道帝国大学農学部林学実科に入る。今の北海道大学であるが、入学するとすぐに学内の「文武会管弦学部」でコンサートマスターを任される。作曲も中学から始めているが先生についたことはない。唯一習ったのは前述のチェレプニンからのみである。チェレプニンがコンクールの翌年の1936年に来日して横浜にいた時で、伊福部は就職1年目だった。「是非とも出て来い」と言われて、厚岸(あっけし)から上京し、宿代まで出してもらって作曲法と管弦楽法を1ヶ月間習っただけなのだが、そのチェレプニンが伊福部に音楽家になるように勧めた。酒が強かったことも気に入られた理由だったようである。後に東京音楽大学の学長まで務めた。
 伊福部は子供の頃からアイヌの音楽に深く触れていた。父親が十勝の音更(おとふけ)村長でアイヌ集落も管轄していた上、大層尊敬され好かれてもいたので、「和人」には見せないコタンの行事も見せてもらっていた。何かにつけて集まると歌と踊りになるのだが、詩も含めた全てが即興的だった。これは勉強以上のことだったと思われる。全ての音楽の原点は民族の生活から生まれた民族音楽なのだが、記譜法が発明されてユニバーサルになった分失ったものも多い。伊福部はそういう時代の中でアイヌ音楽に接していたのである。
 さて私事で恐縮だが30年程前、私は新響が先生からお借りしていたスコアを返すべく尾山台の伊福部邸をお尋ねしたことがある。玄関に入るなり奥様に三つ指をついて迎えられて大慌てのところへ、先生も出てこられて「上がっていけ」と仰る。もちろん固辞した。だいたい大作曲家とセカンド・オーボエ奏者とで何を話すというのだ! だが結局私は先生の書斎に上がり込んでしまった。
 部屋いっぱいの民族楽器に囲まれての1時間、先生の旺盛な好奇心に乗せられて私もずいぶんと話をした。居心地の良い部屋と、それにも増して先生の大きさと暖かさに、今でも思い出してはジーンとこみ上げるものがある。話も終わってご夫妻に丁重にお礼を申し上げて、いい気持ちで下り坂を多摩川に向かって歩いた。しばらく歩いてふと振り返ると驚愕。奥様がこちらを向いて道路に立っておられるではないか。慌てて三拝九拝、曲がり角までの道のりのなんと長かったことか。もう一度最敬礼をして伊福部邸を辞した。
 その出来事の少し前の1980年の春、新響は芥川也寸志の指揮で伊福部の「タプカーラ交響曲」を練習していた。第1楽章の練習番号の22まで来た時、芥川先生が隣で座って聞いていた伊福部先生に「この全員休みの8分休符は2つにした方が良いと思いますが」と言うのである。驚いた。そんな事を言われたら普通は怒って席を蹴って帰ると思うのだが、伊福部先生は顔色ひとつ変えず「お好きなようにしてください」と答えられた。この優しい言葉の後ろには、揺るがない自信みたいなものが感じられる。「そんなことで伊福部音楽は変わらないよ」と言っているようだ。新響所有の譜面は当時のままで、全てこの箇所に鉛筆で8分休符が書き加えられている。そんな歴史のあるちょっと見にくい手書きのこの譜面を長く使い続けて欲しいと思う(現在の巷の新版はきちんと8分の2拍子になっている)。
 2002年5月19日、新響主催で「伊福部昭米寿記念演奏会」を紀尾井ホールで開いた。先生の弟子達、というよりは音楽界の重鎮達が大勢集まって祝賀会も大変な盛り上がりであった。故芥川也寸志夫人の芥川眞澄さんが挨拶に立たれ次のようなエピソードを紹介された。


主人は、昭和21年に音楽学校で先生にお目にかかって、その日の内に日光にある先生のお宅まで押しかけて三日三晩居候して、それから弟子にさせて頂いたという話はもう有名にございますけど、その後もついに尾山台にある先生のお宅の近くに家族ごと引っ越してしまって家族ぐるみで奥様にも先生にも大変お世話になりましたことを何度も繰り返し申しておりました。


 この時写真と録音の係だった私が、何かのことで先生に近づいた折「耳が遠いので皆の話がほとんど分からないのですよ」とそっと告げられた。ええっ、なのにあの笑顔で祝賀会を2時間も過ごされているなんて。ひょっとして尾山台での私の話も我慢して聞いてくれたのだろうか。この時の録音を文章化したのだが、渡し損なってしまった。そのうちあの世で謝ろうと思う。
 1989年2月の寒い日、芥川先生のお葬式の帰りに成城の道路を歩きながら作曲について聞いた。先生は「新しいものを作るのは大変でね、どうしても何かに似てくるんですよ」と真顔で仰っていた。どのように返事をしたらよいのか分からず恐縮してしまったのだが、その伊福部昭先生も2006年2月8日に目黒の病院で亡くなられた。91歳であった。「弟子達よりも長生きして申し訳ない」と何回も話されていたが。
 初演は1943年11月20日、山田和男指揮、東京交響楽団、日比谷公会堂で行われた。録音の初演は同年9月4日に同じ演奏者で既に行われている。


初  演:1943年11月20日 山田和男指揮東京交響楽団
楽器編成:フルート2(2番ピッコロ持ち替え)、オーボエ2(2番コールアングレ持ち替え)、クラリネット2(2番バスクラリネット持ち替え)、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、ハープ、弦五部


参考文献
『伊福部昭・音楽家の誕生』木部与巴仁著(新潮社)
『芥川也寸志・その芸術と行動』出版刊行委員会編(東京新聞出版局)
『私のなかの歴史北の譜』北海道新聞夕刊1985年3月28日から4月8日まで掲載
(伊福部昭公式ホームページより)
『伊福部昭交響譚詩』ポケットスコアOGT-302(音楽之友社)

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