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ブラームス:大学祝典序曲

安藤 彰朗(チェロ)

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若き日のブラームス

■作曲の経緯など
 ヨハネス・ブラームスは1833年5月7日、ドイツのハンブルクで生まれました。そうなんです。昨日はブラームスの178回目の誕生日でした。同い年の作曲家には、ロシアのA.ボロディン(1833-1887)がおり、また発明家でノーベル賞の提唱者であるA.ノーベル(1833-1896)も同じ年にスウェーデンに生まれています。日本は江戸時代後期、「天保の大飢饉」が起こった年でした。
 ブラームスが36歳のときの作品である《ドイツ・レクイエム》が大成功を収めてから、彼の作曲報酬は大きく上昇し、ウィーン楽友協会からも音楽監督就任要請があるなどブラームスの名声は各地で大きく高まっていました。そこへ満を持して交響曲第1番が発表されます。海を渡ったイギリスでもブラームスの作品と名声は広まっており、ケンブリッジ大学は1876年に、ブラームスに対して名誉博士号授与の申し出を行います。このとき仲介役を努めたイギリスの作曲家スタンフォードは、名誉博士号授与式の際に、完成されたばかりの交響曲第1番の、ブラームス自身の指揮によるイギリス初演を計画します。ところがブラームスは、船旅に気乗りしない、英語が苦手、儀礼的なことにたいして負担を感じるなどの理由から、この申し出を断ってしまいました。しかしその後、今度はロンドン王立フィルハーモニー協会が、授与式にブラームスが出席する必要を求めないということで、彼に金メダルを授与します。
 この間にも交響曲第2番の大成功、ヴァイオリン協奏曲の発表など、次々と意欲的な作品を送り出し ているブラームスにたいして、1879年に、ドイツ(現ポーランド)のブレスラウ大学からも名誉博士号授与の申し出があります。これはブレスラウ管弦楽協会の指揮者であり、ブラームスを支持していたB.ショルツ(1835-1916)の推薦によるものでした。イギリスでの一件を気にしていたブラームスは、ショルツに手紙を書き、称号を受け取るためにはどうすれば良いか相談します。その答えが、何か曲でも書いてくれたらありがたいというだけで、船旅の必要もなく、特に面倒な条件もなかったため、これを受けることにしました。

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現在のブレスラウ大学

 はじめはブラームスも、歴史ある大学にふさわしい威厳のある曲、もしくは輝かしい曲を作ろうとしていたようですが、以前に彼がゲッティンゲン大学で哲学などを受講した際におぼえた学生歌を用いて、楽しい演奏会用序曲を作曲することにしました。したがってこの曲は、大学側から祝典的な行事などのために委嘱されて書かれた曲ではなく、ブラームス自身の感謝や喜びの気持ちを込めた曲なのです。このことからブラームスは《大学祝典序曲》というタイトルについて最後まで悩んでいました。
 この少し前、敬愛するシューマン夫妻の息子で、ブラームスが名付け親となってかわいがっていたフ ェーリクスが病気で亡くなり、翌年にはブラームスの長年の友人である画家のフォイアーバッハが亡く なったことも知らされます。大きな名声の裏側で、大きな悲しみに包まれていたことが伺い知れます。
 また、ボンでシューマンの記念碑の除幕式があり、シューマンの妻クララと出席しました。シューマン がライン川へ投身自殺を計り、精神病院へ収容された後に死を迎えた悲劇を改めて思い起こすとともに、シューマンによって世に羽ばたいた自分の存在を確認し、彼にたいする感謝の念を抱いたことでしょう。

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ブラームスが敬愛していたロベルト&クララ・シューマン夫妻

 このような心情も影響してか、ブラームスは《大学祝典序曲》の作曲中に《悲劇的序曲》の作曲を始 めます。彼自身によると「ちょっと違う曲も書いてみたくなったんだ」とのことですが、毒舌家で、皮肉やブラックユーモアの多かったブラームスですので、真意の程は分かりません。こうしてまったく性格の異なる2つの演奏会用序曲がほぼ同時期に書かれることとなり、演奏会でも2曲を同時に取り上げるプログラムが多かったようです。
 ブラームスは1880年の5月頃から《大学祝典序曲》の作曲を始め、9月には《悲劇的序曲》とセットで4手ピアノ用の楽譜が完成しており、これらを9月13日のクララの誕生日にプレゼントして、2人で演奏しています。12月にはベルリンを訪れ、大学のオーケストラを指揮して試演会を開き、友人J.ヨアヒム(1831-1907)らにも聴いてもらいました。信頼する友人から多くの意見を求めたと思われます。初めて演奏会のプログラムとして登場するのは翌1881年1月4日で、このときも《悲劇的序曲》が一緒に取り上げられています。

■楽曲について
 シンバル付き大太鼓を伴って、遠くから行進曲風の歯切れよい旋律が聴こえます。途中、弦とファゴ ット、ホルンにより賛美歌風の曲が挿入されますが、すぐに行進曲に戻り、今度はぐっと近付いてきます。やがて静かになると、穏やかなティンパニにのって、金管楽器によって明るくゆったりとした主題が奏されます。
 これが《我らは立派な校舎を建てた》という学生歌で、イェーナ大学の学生組合が解散される時に、テュービンゲン地方の民謡に歌詞を付けて歌われてきたものと言われています。次第に楽器が増えて力 を増し、頂点を迎えます。経過句として再び行進曲が登場しますが、冒頭では短調だったものが、今度 は長調で現れます。すぐにヴァイオリンに柔らかい旋律が現れ、チェロの沸き上がるようなピチカートにのって第2ヴァイオリンとヴィオラによって、学生たちが宴会のときに歌う《祖国の父》を歌いだします。
 木管楽器がこれを受け継ぎ、次に現れる主題を予告するように姿を変えてゆきます。この予告を受け てファゴットが軽快に《新入生の歌》を歌い始めます。
 これは元々《狐の歌》と呼ばれていて、詩人L.ホルベルク(1684-1754)の書いた喜劇の中で農夫たちが歌う歌詞などをもとにして、民謡の旋律に歌詞を付けたものと言われています。大学での勉強を望む新入生が、希望を胸に馬で目的の大学に向かう様子を描いたものだそうです。しばらくこの主題を扱うと、冒頭に登場したいくつかの楽句を変形させて展開部を形成します。しかし冒頭の行進曲が現れて、すぐに再現部に入ります。ここでも《我らは立派な校舎を建てた》が管楽器で現れますが、呈示部のように柔らかいものではなく、弦楽器も伴って盛大に歓喜を謳歌しています。次いで《祖国の父》も姿を見せ、《新入生の歌》で盛り上げておき、《さあ愉快にやろうじゃないか》によって学生たちの感激と喜びを頂点に導きます。これは1700年代から愛唱されていた学生歌で、管楽器によって高らかに歌い上げられ、壮大に締めくくられます。
 自由なソナタ形式を基本として、それぞれの学生歌を、変奏や独自の主題を用いて緻密につなぎ合わ せてゆく技法や、キャラクターに合わせた楽器の割り当てなど、ブラームスの優れた技法が存分に活用 された、創意溢れる傑作へと仕上がっています。また、ブラームスの管弦楽曲の中では珍しいほど打楽 器を多用していることにも注目です。
 《大学祝典序曲》いかがでしたでしょうか。この後にも彼の傑作《ヴァイオリン協奏曲》や、彼が見いだしたチェコの天才作曲家、ドヴォルザークの交響曲が続きます。彼らが生きた時代に想いを馳せながら、ごゆっくりお過ごしください。

参考文献
『作曲家 人と作品シリーズ ブラームス』 西原稔著(音楽之友社)
『ブラームス 大学祝典序曲』ミニチュアスコアOGTー57 門馬直美解説(音楽之友社)
『作曲家別名曲解説ライブラリー ブラームス』 (音楽之友社)

初  演:1881年1月4日 ブラームス指揮
ブレスラウ管弦楽協会第六回予約演奏会
ブレスラウのコンツェルトハウスにて
楽器編成:ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トラン ペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、シンバル、トライアングル、弦五部
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