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バルトーク:管弦楽のための協奏曲

加賀雅典(コントラバス)

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「……バルトークその人こそ、他に例のないほどの警戒心と感受性とをもって世界の一切の動きを見張り、絶えず変化し、形づくられていく宇宙の声と、苦闘し続ける人類の声とに、自らのうちにあって形を与えていく人である」(ベンツェ・サボルチ)」

アメリカ移住

 バルトークが前年の母の死を機に、ディッタ夫人とともに着の身着のままの状態で渡米したのは、1940年10月30日のことであった。
 この頃、彼以外にもナチスから身を守るためにアメリカへ移住した音楽家に、ヒンデミット、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ミヨーなどがいた。このため当時のアメリカ音楽界の活況は大変なものであった。これらの音楽家たちはいずれもそれぞれの才能にふさわしい地位を得て、安住することができた。
 ところが、ことバルトークに関してはこの移住は苛酷なものであったと言わざるを得なかった。なぜなら、彼だけは一向に安定した職を得ることができなかったからである。
 ―1881年3月25日、ハンガリー(現.ルーマニア領)のナジセントミクローシュで生まれた彼は、8歳で作曲を始め、10歳でピアニストとしてデビュー、18歳でブダペスト音楽院(現.リスト音楽院)に入学して、作曲とピアノを学んだ。26歳から同音楽院で三十数年間教授を務め、作曲家としても名声を得ていたほか、ピアニストとしての実力もあった。また、盟友の作曲家コダーイとともに行ったハンガリーやルーマニアの民謡の収集・研究は、広く世界各国の学者や音楽家からも注目されていた。―そのような名声と実力から考えるとまったく信じがたい状態であった。
 もちろん、これには彼自身にも原因がないわけではなかった。元来、彼は人付き合いのよいタイプではなく、他人から同情されるのを嫌い、自己の意思に反して時流に迎合することができなかった。当初は演奏家として生計を立てるつもりもあったが、彼の演奏スタイルは聴衆を熱狂させるような派手なものではなく、彼が最も演奏したがっていた自作のピアノ曲がアメリカの大衆や評論家の好みに合わなかったので、演奏家としての道は閉ざされてしまったのである。他方で、音楽学校の教授の口は彼が音楽学校の授業のために作曲活動が制限されるのを嫌ったため、すべて断ってしまっていた。ようやく、コロンビア大学で民族音楽の名誉博士号を得て、嘱託講師の地位を受け入れた彼は、民謡の録音からの採譜と分類に従事しながら、不安定な収入でかろうじて生活をしていた。
 アメリカへ移住して約1年半後の1942年3月、彼はかつてのピアノの弟子宛に、次のような書簡を送 っている。
 「私たち二人の状態は日ごとに悪化しています。耐えられないといえば誇張になりますが、ほとんどそれに近いものです……。私は、かなりの悲観論者になりました。どんな人をも、どんな国をも、またどんなことをも信じられません……」
 それに加え、彼の体は白血病に冒され始め、次第に衰弱していくのであった。

作曲の委嘱
 そんな彼の窮状を見かねた同郷の友人、指揮者のフリッツ・ライナーとヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティは、アメリカ作曲家協会(ASCAP)に働きかけ、その援助でバルトークが安心して療養できるように取り計らった。1943年夏、こうして彼は、ASCAPの世話でニューヨーク北部の山中にあるサラナック湖畔で療養生活をすることになった。

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ヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティとジャズ・クラリネット奏者のベニー・グッドマンとともに(1943年、ニューヨーク)

 その出発の直前、当時ボストン交響楽団の音楽監督であったセルゲイ・クーセヴィツキーが彼を見舞 い(実はこの時、クーセヴィツキーはライナーとシゲティの二人から依頼を受けてやって来ていた)、クーセヴィツキー財団からの委嘱として、自身の70歳記念とボストン交響楽団指揮者就任20周年記念演奏のための作品を書いてほしいと切り出し、バルトークをいたく感激させた。彼にとっては、渡米後初めての作曲の委嘱である。
 バルトークは体力に自信が持てなかったため、この申出をいったんは断ったが、クーセヴィツキーは 期限を設けなくてもよいからと彼を説得し、作曲料の半額に相当する額面の小切手を彼の枕元に置いて 席を立ったといわれている。
 その後、バルトークは信じられないスピードで委嘱された作品を仕上げる。彼は同年8月15日、作曲 に着手し、同年10月8日には作曲を完了している。こうして作曲されたのが《管弦楽のための協奏曲》 であった。そして翌年の12月に初演されている。初演後、クーセヴィツキーは「過去の50年を通じて最 高の傑作だ」と彼を讃えた。
 彼の晩年はこの曲とヴァイオリニストのユーディ・メニューインの委嘱で作曲した《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》の成功のおかげで、経済的にも精神的にも充実した日々を送ることができた。だが、病魔は既に彼の体を蝕んでおり、1945年9月26日、バルトークはニューヨーク市内のブルックリン病院で息を引き取った。

管弦楽のための協奏曲
 バルトークは初演時の演奏会プログラムに次のように書いている。
 「作品全体の雰囲気は、―第2楽章を除くと―第1楽章の厳粛さと第3楽章の死を悼む歌から終楽章の生への肯定へと移行する漸進的な推移を示す。……この交響的なオーケストラ曲にこのような題をつけたのは、諸楽器を協奏的及び独創的に使用する傾向からきている……」
 この曲は名人ぞろいのボストン交響楽団の各プレイヤーの優れた腕前を発揮させるために作曲された だけあって、バロック時代のコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)を思わせる内容となっている。なお、この曲の発想には、彼の楽譜を出版しているブージー・アンド・ホークス社の社主ラルフ・ホークスが彼に宛てた「バッハのブランデンブルク協奏曲集のような作品を書いてみたらどうでしょう」という書簡や、コダーイの同名作品の影響を指摘する声もあるが真相は定かでない。

第1楽章「序奏」
 曲の冒頭で低音弦の進行上に表れる弦楽器の神秘的な音色や、その動機を発展し微妙に発想を変化させていく導入部は、バルトーク独特のものである。続いて、伝統的なソナタ形式の主部に入る。主部では、弦楽器が第1主題を示し、それと対照的な楽想の第2主題をオーボエが出す。
第2楽章「対の遊び」
 二対の管楽器がファゴット、オーボエ、クラリネット、フルート、トランペットの順に次々に登場し、独立した旋律を歌い活躍する。スケルツォのような雰囲気を漂わせるが、中間部では一転、金管楽器の静かなコラールが聞こえる。
第3楽章「悲歌(エレジー)」
 バルトークの典型的な「夜の歌」。中間部にハンガリー民謡風の旋律が使われているほかは、いずれ もその主題は第1楽章と強いつながりを持つ。
第4楽章「中断された間奏曲」
 軽い気分の楽章で、民謡風の主題を中心に書かれている。「中断」とは曲の中盤で乱入してくる騒々 しい旋律のこと。ショスタコーヴィチの第7交響曲第1楽章、いわゆる「戦争の主題」のパロディとい われる。トロンボーンのグリッサンドによる「ブーイング」と木管楽器による「嘲笑」が特徴的である。
第5楽章「終曲」
 ジグザグに音階を行き来する無窮動風の旋律が流れ、音楽は次第に高揚する。やがてトランペットが 新しい主題を演奏するが、各種の楽器でこれを対位法的に展開し、コーダで力強く再現して曲を閉じる。
 コーダの部分は、バルトーク自身の「エンディングが唐突過ぎる感がある」との反省を基に改訂がな されている。本日の演奏ではこの改訂版を使用している。

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   ニューヨークのカーネギーホールで行われた バルトークの自作演奏会を描いた戯画

参考文献
『クラシック音楽史体系第10巻 Heritage of Music』ウィルフリッド・メラーズ監修(金澤正剛監修(日本語版)、パンコンサーツ、1985年)
『最新名曲解説全集第6巻』柴田南雄「バルトーク」音楽之友社編(音楽之友社、1980年)
『バルトーク音楽論集』バルトーク・ベーラ(岩城肇訳、御茶の水書房、1992年)
『バルトーク物語』セーケイ・ユーリア(羽仁協子・大熊進子共訳、音楽之友社、1992年)
『管弦楽のための協奏曲(ポケット・スコア解説)』 青島広志(日本楽譜出版社、2006年)
『名曲ものがたり(上)』 志鳥栄八郎(音楽之友社、1987年)
『オーケストラ名曲大全』 志鳥栄八郎(音楽之友社、1994年)

初  演:1944年12月1日、ニューヨーク・カーネギーホールクーセヴィツキー指揮、ボストン交響楽団

日本初演:1951年10月2日、日比谷公会堂上田仁指揮、東京交響楽団

楽器編成:フルート3(3番はピッコロ持ち替え)、オーボエ3(3番はコールアングレ持ち替え)、クラリネット3(3番はバスクラリネット持ち替え)、ファゴット3(3番はコントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、小太鼓、大太鼓、タムタム、シンバル、トライアングル、ハープ2、弦5部
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