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マーラー 最も挑戦的なレパートリー ― 高関健氏にきく

 2007年第199回演奏会でのマーラー交響曲第9番の大成功に続き、高関=マーラー第2弾として今回は第6番を取り上げます。徹底した楽譜研究と、入念で緻密な音楽作りで壮大な世界を構築する高関先生は、その誠実な人柄もあって、日本楽壇のリーダーとしての期待が高まっています。今回はお忙しい中、新響との初練習が終わった直後にお話を伺いました。

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― 前回高関さんに指揮していただいたマーラーの交響曲第9番は、新響の歴史に残る演奏だったといえます。またこうして第6番で指揮して下さることを非常に嬉しく思います。

高関 ありがとうございます。

― 今回のプログラムを練習してみて、ウェーベルンとマーラーの組み合わせのよさを実感しました。

高関 やっぱりいいですね。作曲時期がほとんど同じ、数年しか違わないわけですから。

■新響初の試み~対向配置

― 今回はオーケストラの配置が対向配置(注1)になっています。これは新響の定期演奏会では初めての試みとなりますが。

高関 私がお願いしましたが、いかがでしょうか(笑)。

― 個人的には、特にマーラーは面白いと思いました。主要テーマや動機がいつもとは違う場所から聴こえたりして移り変わりがよくわかります。対向配置についてこだわりとかありますか。

高関 私がまだ学生で指揮をまじめに勉強し始めた頃に、ふたつの素晴らしいオーケストラが来日したのです。ひとつはムラヴィンスキーとレニングラード・フィル(現在のサンクトペテルブルク・フィル)、もうひとつがクーベリックとバイエルン放送交響楽団でした。この二つのオーケストラが対向配置で演奏していました。その時クーベリックがマーラーの9番を演奏したのです。特に弦楽器の立体的な響きに驚きました。対向配置がこんなに面白いものなのかと、初めて知ったわけです。それ以来、いつかは自分でもやりたいと思っていました。
 その後ベルリンへ留学をしたのですが、1982年のベルリン芸術週間でマーラーの全曲演奏が行われて、交響曲も全曲演奏されたのです。1番がムーティとフィラデルフィア、2番がクーベリックとバイエルン放送、3番と7番がハイティンクとアムステルダム・コンセルトヘボウ、4番はユンゲ・ドイチェ・フィル、5番がアバドとロンドン響、8番はベルリン・フィルでテンシュテットの予定だったのですが病気でキャンセルになって、アツモンが振りました。6番と9番がカラヤンとベルリン・フィル、10番のアダージョがバーンスタインとウィーン・フィルでした。どれも素晴らしい演奏で、今でも良く記憶に残っていますが、クーベリックの2番だけが対向配置で演奏され、その効果は圧倒的でした。
 マーラーの交響曲では、テーマが第2ヴァイオリンから始まることが多いのです。対向配置では現代の一般的な配置とは逆側の上手(みてか)ら聴こえてくるわけです。そこに下手(しもて)の第1ヴァイオリンが乗ってきて一つ上のパートを演奏する。特に9番ではその傾向が顕著に表れています。左右両側からヴァイオリンが対話するように演奏する対向配置の効果は絶大で、それを使わない手はないと学生時代からずっと思っていたわけです。オーケストラというものは、それこそモンテヴェルディ以来20世紀前半まで、ヴァイオリンはずっと対向に配置されてきました。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、マーラー、シェーンベルク、バルトーク、すべての作曲家が対向配置を前提に作品を書いています。第2ヴァイオリンが第1の隣に移ったのは1945年以降で、実はここ70~80年の歴史でしかありません。いつか必ず対向配置で演奏したいと思っていたところ、群響や新日本フィルで実現の機会が出てきました。結果的にですが、私は日本では対向配置をかなり早くから取り入れた一人だと自負しています。最初はオーケストラ側の抵抗も大きかったですけれどもね。幾つかのオーケストラからは、はっきりと「いやだ」と言われたこともありました(笑)。最近は理解が進んできたので、やりやすくなりましたね。

― マーラーに限らず、どんな時代の音楽でも対向配置であるべきだとお考えでしょうか。

高関 歴史的な観点からも作曲家が違う配置を指定していない限りは、対向配置で演奏した方が良いと考えています。しかし一晩の演奏会の中でオーケストラの配置が変わるということは、オーケストラにとって非常に負担の大きいことだと思いますから、対向配置にするのだったら一晩を通じて対向でする、それが不可能な場合はしない。たとえばプログラムの中に現代作品が1曲あって、それが通常の配置という指定があれば、対向配置にしないということです。

― オーケストラの配置が対向配置から現在の一般的な配置へ変遷した理由はどのようにお考えでしょうか?

高関 二つあると思います。一つは録音におけるステレオの登場です。ステレオ録音を行った場合、サウンドの方向性を誇示させたいがために高音で軽量の楽器を左に、低音で重量の楽器を右へと配置したのです。その方が音の方向性がわかりやすいですから、当時のレコード会社がこぞって採用したのです。もう一つは第1ヴァイオリンのオクターヴ下や三度下など、同じ動きを取る第2が近くなったことにより、ヴァイオリン間ではお互い演奏しやすくなったことがあります。
 ただこれはオーケストラにおける宿命なのですが、第1ヴァイオリンの対向にくるパートはお互いが遠くなってしまい、絶対に合わせにくいのです。合奏で必ず苦労するのが上手のパートで、現代の配置ではヴィオラ、またはチェロにあたります。けれども対向配置にすると、例えば古典派の作品で第1ヴァイオリンがメロディを弾いている時に、中央にいるチェロ(とコントラバス)が低音でアンサンブルを支え、和音を刻むことの多い第2ヴァイオリンとヴィオラがチェロ・バスに合わせて、しかも並んで弾けるという利点があります。

― 最近は日本のオーケストラでも対向配置をよくみかけるようになりました。

高関 そうですね、ずいぶんと増えましたよね。みんなでやろう、やろうと言い始めました。我々にとっては追い風になっています。

■原典版で演奏する意義~ウェーベルン

― ウェーベルンの「6つの小品作品6」、今回は原典版を使いますが如何でしょうか。

高関 私は改訂版で良いと言ったのですよ(笑)。

― ウェーベルン自身による1928年の改訂版では、編成がかなり縮小されているだけでなく、各曲につけられたテンポ・発想標語・標題的なもの(4曲目)が大きく異なっています。こういった変化については、どのようにお考えでしょうか。編成を縮小したことについては、例えば後期ロマン派の流れをそのままひきずった肥大化したオーケストレーションに対して、1928年時点でのウェーベルンにとっては、もっとコンパクトで透明なテクスチュアに対する志向が強まったとも考えられるのですが。

高関 コンパクトで透明なテクスチュアに対する志向が強まった、という観点には大いに賛成します。しかし、もっと現実的な話をしますと、編成を縮小しないと演奏される機会がないからなのです。原典版ではトロンボーンが6人、ティンパニ奏者は3人必要ですが、現実問題として普通のオーケストラの編成ではあり得ない話だと思います。また打楽器はティーフェ・グロッケン(低音の鐘)、ドラ、大太鼓、小太鼓、シンバルが同時に演奏して、その上ティンパニに3人ですから、少なくとも8人必要になってきます。演奏時間が短いにもかかわらず本当に巨大な編成になっています。おそらく「この編成では演奏できない」と言われ続けたことでしょう。1928年の改訂ではトランペットこそ4人必要ですが、トロンボーンも4人に減りましたし、ティンパニは1人、木管は2管編成になりました。これはストラヴィンスキーが「ペトルーシュカ」や「火の鳥」を書き直したことと同じ理由だと思います。

― 編成が大きい原典版を演奏してもらえないから書き直したということであれば、原典版で演奏する価値はあると思うのですが、如何でしょうか。

高関 もちろんあります。

― テンポの設定が変わっていることはどのように考えられるでしょうか。発想標語が大幅に変わっていることも、作曲者が見直したということでしょうか。

高関 指示がより具体的になったということです。ウェーベルンもストラヴィンスキーと同じように自作を良く指揮しました。演奏を繰り返すうちに自然にテンポが上がったり、遅くなっていったりするようになっていったのだろうと思うのです。その結果改訂版ではここは速く設定しようとか、こちらはゆっくりしようとか、そういうことになったのだと想像しています。しかし2曲目の最後のメトリークを例にとりますが、原典版と改訂版でここは発想自体が変化しているのですね。だからその違いをきちんと意識して演奏しなければなりません。
 私が作品6をはじめて原典版で演奏したのは1987年11月、サントリー・ホールの作曲家委嘱シリーズでの演奏会です。テーマ作曲家はルイジ・ノーノで、演奏会にあわせて来日されました。サントリー音楽財団がノーノに委嘱した新作を世界初演したのですが、演奏会の最後を飾る曲がウェーベルンの作品6だったのです。その際ノーノは、作品6は絶対に原典版でやりたいと主張されました。ノーノが私のリハーサルを聴いていましてね、先ほどの2曲目の終わりの所で「そこは楽譜ではテンポは変わっていないはずですが。そこのテンポは変えなくてよいのです」と言ったのです。メトリークの読み方は改訂版と違わなければいけないということを、私はノーノから教わりました。因みに、ノーノの奥さんはシェーンベルクの娘さんです。

― では今回は意義がある、ということですね。

高関 大いにあります。

― 今回の演奏では、1928年の改訂版との違いを念頭において、とくに原典版の性格を意識しながら演奏されるということはあるのでしょうか。演奏においての原典版と改訂版との違いは出されますか。

高関 もちろん違いを明確に出します。言い換えれば1928年版の影響を受けないように演奏します。それは例えば「ペトルーシュカ」を演奏する時でも、「火の鳥」の場合でも同じです。楽譜の読み方を峻別しないと、結局は両者を混同してしまいますし、しっかりした演奏にならないと思っています。ですから両版をそれぞれの立場で、違う作品として演奏するようにします。

■マーラーの最終判断を探る~交響曲第6番

― さて話題をマーラーに移します。第6番はダイナミックで精緻なオーケストレーションで力強く生命力に満ち、大胆な対位法と和声を駆使した傑作だと思います。

高関 やはりマーラーの作曲活動の中期を代表する5番、6番、7番の交響曲群は凄い迫力ですよね。5番は対位法を駆使した多声的な書法が顕著に表れていて、実験的なところがあります。対位法に限って言えば、5番が指揮者にとって一番やっかいです。6番の方が古典への回帰が強いと思います。例えば古典的な4楽章構成になっていたり、第1楽章の提示部に繰り返しがついていたりなどです。一方7番になると表現主義が先走ってくるわけです。そういう意味では6番が一番均整のとれた完成度の高い作品だと思います。でもまあ随分規模を大きく書きましたね(笑)。マーラー自身にとっても生涯の絶頂期だったのでしょうね。

― 交響曲第6番に限らず、マーラーの楽譜には多くの版が存在します。また中間楽章である第2楽章と第3楽章の配置についてはどのようにお考えでしょうか。今回は第2楽章=アンダンテ・モデラート、第3楽章=スケルツォという順で演奏しますが。

高関 第6交響曲の校訂に関する重要な資料としては①自筆原稿、②版下(写譜師による筆写譜)、③初版のための校正刷り、④初版(大型および小型スコア)、⑤初版小型スコアの重版、⑥改訂新版、⑦その改訂新版にマーラー自身の訂正の入ったコピー(指揮者メンゲルベルク所有)、⑧初演に先立つウィーンでの試演(1906年5月1日、ウィーン・フィルによる)および初演(1906年5月27日、エッセン)で使われた管打楽器のパート譜(手書きのパート譜で、マーラー自身の手による書き込みが多数含まれる)、⑨そして1963年出版の第1次全集版、エルヴィン・ラッツ(Erwin Ratz)校訂、以上の9つが挙げられます。
 初演は全ドイツ音楽協会音楽祭のフィナーレを飾る公演として、マーラー自身の指揮によって行われました。聴衆の大部分が音楽家だったこともあり、演奏会にあわせて大型および小型スコア(上掲の④にあたる)、ツェムリンスキー編曲によるピアノ連弾版と、音楽学者シュペヒトによる詳細な曲目解説が事前に出版されたのです。つまり聴衆は初演に先立って勉強することができたわけです。これは6番に限って行われたことです。初演には友人であったリヒャルト・シュトラウスも立ち会っています。
 さて第2、第3楽章の演奏順についてですが、マーラー自身中間楽章の演奏順については何度か逡巡していたようです。初版(④)では、第2楽章=スケルツォ、第3楽章=アンダンテの順で印刷されています。しかしマーラーは既に楽譜が出来上がっているにもかかわらず、練習の間に、どうも最終日の練習のようですが、楽章の順番を入れ変えてしまいました。初演当日のプログラムには「第2楽章=アンダンテ、第3楽章=スケルツォの順で演奏することに決定した」という内容のメモが挿し込まれ、実際に初演はその通りの順で演奏されたことが確認されています。

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小型スコア、初版、カーント出版、ライプツィヒ、1906年、楽章の入れ替えについての作曲家の希望が書き込まれた紙片がはさみこまれている(ウィーン楽友協会所蔵)

― なぜそのようなことをしたのでしょうか。

高関 まずマーラーが作曲をした時点で構成がはっきりしなかった事があります。両端の楽章があまりに確固としているので、中間については、ある意味どちらでも良かったのだと思います。演奏してみて決めたい、という部分があったようです。その後、マーラーは第6番を2回指揮しましたが、ともに「アンダンテ―スケルツォ」の順で演奏しました。また出版の上でも、初版小型スコアの重版(⑤)と改訂新版(⑥)では「アンダンテ―スケルツォ」の順に入れ替えられています。
 作曲者の死後、1919年にウィレム・メンゲルベルクがアムステルダムで第6番を演奏することをアルマ・マーラーに知らせたところ、アルマから「まずスケルツォ、その後にアンダンテを。」という電報が入り、メンゲルベルクはそれを作曲者の最後の意向と受取って、楽章順を入れ替えて「スケルツォ―アンダンテ」の順で演奏しています。それから、ラッツ校訂の第1次全集版(⑨、1963)では初版の形「スケルツォ―アンダンテ」に戻されましたが、これはラッツが当時健在であったアルマと個人的にも親しく、アルマに意見を求めたことに原因があるようです。
 ところでアルマ・マーラーは思い込みの強い、はっきり言って勘違いの多い人格のようです。彼女は自分にとって都合のよいようにしばしば事実を意図的に改変していると指摘されていますし、晩年に書いた「回想録」も脚色だらけと言われています。アルマの証言は間違っているという研究書もたくさん出つつあります。マーラーとリヒャルト・シュトラウスの交換書簡はもう出版されていますし、マーラーの書簡全集もこれから出版されますので、事実関係についてはこれから徐々に真実が明らかにされてくると思います。
 楽譜の校訂の問題についてですが、ご存じの通りマーラー自身が卓越した指揮者でもあったので、演奏の度に自分の理想とする響きをめざしてどんどん改訂を重ねていくわけです。しかしこうした改訂は出版の段階から始まっていて、第6番においても、すでに版下(②)および校正刷り(③)にも数多くの変更がマーラー自身の手によって書き込まれています。その後いよいよリハーサルの段階に入り、本格的な変更が加えられていきます。ウィーンでの試演とエッセンでの初演に使われた管打楽器のパート譜(⑧)にはそうした変更がマーラー自身、あるいは助手の手によって書き込まれています。先ほどの校正刷り(③)をマーラーは初演の指揮で実際に使った形跡もあるようで、リハーサル時の変更も多く書き込まれています。

 1931年に来日し東京音楽学校(現東京藝術大学)の作曲教師に就任したクラウス・プリングスハイムは、第6番の初演時に23歳でマーラーのアシスタントを務めました。彼は初演時の変更の過程を全部知っていて、後に回想を書き残しています。特に6番は出版を初演前に間に合わせるという時間的な制約が課せられたため、限られた時間の中での改訂作業は煩雑を極めたそうです。そしていよいよウィーンでの試演に入ると、マーラーは休憩中には直し、食事をしていても直すといった具合に、文字通り寝る間も惜しんで、初演の本当にぎりぎりまで改訂を加えたそうです。ですが例えば訂正をパート譜に書きこんだにもかかわらず自分のスコアに書き入れるのを忘れた、などということがとても多かったのです。それをプリングスハイムが懸命にまとめたのですが、結局まとめきれずに終わってしまった部分もあったようです。しかしこうした改訂の多くは改訂新版(⑥)に取り入れられ、ラッツ校訂の第1次全集版(⑨)の基になったわけです。

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― そのプリングスハイムはマーラーの重要な作品の本邦初演を手掛けることになりますね。昭和9年(1934年)第6番の日本初演資料として「東京藝術大学百年史:演奏会篇第二巻」を持参しました。日比谷公会堂で行なわれた東京音楽学校の第70回の定期演奏会で、メンバー表が記載されており、ティーフェ・グロッケンを山田一雄先生が叩いています。

高関 これは面白い資料ですね。しかもこのメンバー表は凄い、ほんとうに「山田和男」としてお名前が載っていますね。金子登さんがファゴットで、安倍幸明さんがチェロを弾いていたり。ヴァイオリンには兎束龍夫先生のお名前も載っていますよ。

― その時の舞台写真がこの資料にありまして、やはり対向配置なんですよ(笑)。

高関 ほら、そうでしょう?(爆笑)

― それと面白いのは、第2楽章がアンダンテなのです。

高関 やっぱりそうだ!(笑)。マーラーを演奏するために楽譜を研究し続けているうちに、国際グスタフ・マーラー協会と仲良くなってしまいましてね(笑)。特に主任研究員のラインホルト・クビーク(Reinhold Kubik)博士(国際グスタフ・マーラー協会副会長)と親しくやり取りを交わすようになりました。第2番、7番、そして先日の9番でもそうでしたが、昨年群響で6番を演奏する際に、博士から「一番新しい版を持っているか」と尋ねられたので、「もちろん持っている」と答えました。続けて博士から「1998年版のカテゴリーⅢ」というのが大事だから、これは今回スコアには直接書き込まなかったけれどもぜひやって欲しい」と言われたのです。それで実際に「カテゴリーⅢ」を書き込んで演奏してみたのですが、ここはちょっとおかしいのではないかと思った点がいくつか出てきました。そこでその部分を指摘したところ、今後新しい校訂版を出す際の校訂報告の下書きを送ってくれたのです。まだゲラの状態で、譜例は書かれていませんでした。たとえば「ここは初版と同じ」とか、「ここは改訂新版と同じ」などと、文字でしか書かれていなかったのです。博士は「譜例がないから判りにくいとは思うけれども」と言ってくれたのですが、初版(④)と改訂新版(⑥)を持っていれば判ることなので、それを参考にして私が自分で全部パート譜に書き込みました。

― それでは今回、最も新しいとされている版に、さらに新しい情報をプラスアルファしているというわけですね。

高関 そうです。クビーク博士からの最新情報を反映させているのですから、今回が更に最新版となるわけです。このように6番の第2次全集版は現在クビーク博士を中心に校訂作業が進んでいます。新しい校訂では特にメンゲルベルクが演奏に使っていたマーラーの改訂の書き込み入りのスコア(上掲の⑦)と初演に使われたパート譜(⑧)の研究が要点とされているようです。
 メンゲルベルクはマーラーの作品を何度も演奏して、また個人的にも親交を深めたので、彼が使ったスコアにはマーラーの意思が相当反映されていると言われています。6番でも初演からそう時間を経ないうちに、マーラーにアムステルダムでの自作自演を依頼しています。結局多忙のため実現しませんでしたが、後にメンゲルベルク自身が演奏を計画し、そのためにマーラーから訂正の入ったスコアを2度にわたって借り受けています。2回目に借りたのが1907年の1月末ですが、これはマーラー自身がウィーンで演奏した直後で、自作自演の最終回にあたります。メンゲルベルクはマーラーを心から尊敬し、しかも非常に誠意あふれる人だったそうで、マーラーの改訂を綿密に自分のスコアに書き込んでいます。また他の作品で、マーラーがアムステルダムで自作自演を行った折には、すべての練習から本番に出席して、特にマーラーが練習で指示したことを、テンポや表情を含め具体的な形でスコアにメモしています。ですから、メンゲルベルクのスコアにはマーラーの最終判断がそのまま書き込まれている、ということもできるのです。しかしマーラー自身の初演に使われたパート譜との間に違いが多く見られるようで、現在はその点を中心に研究が進んでいます。
 それから中間楽章のことに戻りますが、私も資料を持ってきています。マーラー協会のホームページからもアクセス出来る資料(注2)ですが、これは「第2楽章にはアンダンテをもってくるべきだ」という論文です。最近の研究成果をまとめたもので、クビーク博士の論文も掲載されています。国際マーラー協会の最終判断として、ラッツの第1次全集版を批判し、「アンダンテ―スケルツォ」の順で演奏してほしいということがホームページ上で掲示されています。この論文はそれを補強するためにカプラン財団の協力の許に公開されています。

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― この論文が発表された後でも、相変わらず通常通り演奏されていますが。

高関 1998年に最新版が出た当時は前任者との共同作業だったので、楽章を入れ替えることまではできなかったようです。来るべき第2次全集版では「アンダンテ―スケルツォ」の順で出版されるので、その後はこの順番が定着していくでしょう。

― アルマ・マーラーの回想にある第4楽章に使用されるハンマーに関しての記述に「英雄は運命の打撃を3度受ける。最後の一撃が、木を切り倒すように彼を倒す」とあります。これも嘘かもしれないということですか。

高関 かなり脚色があると思います。ハンマーの打撃についてですが、作曲当初は第4楽章が始まってすぐの9小節目、それから再現部の冒頭にあたる530小節目にも入っていたので、問題の最終回、783小節とあわせて5回あったのです。そのうちの2回を削って3回になったところで出版して、そして練習の段階で最後の3回目をやめたのです。一般的に3回目をものすごく強く演奏することが多いですが、あそこは実は、管打楽器に対して改訂後はフォルテ1つですね。最初はフォルテ2つだったところを、フォルテ1つに直しています。ですから最後は弱々しく演奏しないといけない、「もう立ち向かう気力もない」というように演奏しなければならないのです。それからマーラーは改訂の段階で打楽器のパートを徹底的に削っています。今回クビーク博士の新しい校訂報告に基づいて削った分を別にしても、初版から改訂新版までに全体の3分の1近くを削っています。初版を参照していただくと打楽器パートの異様さにむしろ驚かれるはずです。

― 例えばハンマーのように楽器以外のものを打楽器として使うという発想は、どこから生じたのでしょうか。

高関 作曲当初の自筆原稿にはハンマーは書かれてはいないのです。最初はイメージとしてはっきりしたものは無かったらしいです。その代りに色鉛筆で星印が書いてあるのです。それがだんだんとイメージが固まってきて、最初は鈍い音とか書いて、そのあとハンマーを加筆したのです。ですがハンマーというと金槌のような金属的な音が出てしまうので、nicht metallischem Charakter(金属的ではない)という言葉を書き入れ、しかも後に括弧付きで“(wie ein Axthieb)”(斧の一撃のように)と補強しています。

― 一般的に日本では「悲劇的」と副題がついておりますが、どのようにお考えですか。

高関 マーラーは最初に表題を書いて、最後にそれをはずすことが多いのです。1907年の1月にウィーンで初演した時のプログラムには、確かに“Tragische”(悲劇的)という副題がついています。ですがスコアには一度も表題としては印刷されませんでした。でもそうした発想自体が存在したことは確かにあったのだと思います。

― 「悲劇的」という言葉の感じ方についてはどのようにお考えですか。

高関 日本人の我々が思う悲惨なイメージの「悲劇」というよりも、「劇的」に近い印象ではないでしょうか。例えばギリシア悲劇のような、演劇的な発想だと思います。

― 高関さんにとってマーラーはライフワークですか。

高関 そう思います。マーラーはオーケストラを指揮する人間なら誰でも一度は振ってみたいはずです。合わない人もいるかもしれませんが、オーケストラで演奏会をするとすれば、最もチャレンジングなレパートリーだと思います。第6番よりもさらに編成の大きな曲もありますし、また演奏時間の長い曲もあるのですが、構想の壮大さや幅広いダイナミクス、そして心情の克明な描写などマーラーほど魅力的な作品を書いた人はいません。また指揮者に対する要求も大変厳しいので、私みたいなものにとってもそれがどこまで実現できるのか、非常に興味があるスコアとなっています。そういった意味でも非常に好きですよね、やっぱり。そしてこうして皆さんと演奏出来ることは何よりも楽しいのですけれどね。

― 今回、新響に期待することがありましたらお願いします。

高関 今日の初練習でもう全楽章通っちゃったからね(爆笑)。本当に素晴らしいな、と思います。これからもっと先へ練習を進めて行くことができますね。

2009年2月21日


(注1)本日の演奏会における配置(対向配置)

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(注2)http://posthorn.com/Mahler/Correct_Movement_Order_III.pdf

聞き手:土田恭四郎(テューバ)
写真撮影:桜井哲雄(オーボエ)
まとめ・構成:藤井 泉(ピアノ)

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