HOME | E-MAIL | ENGLISH

曲目解説プログラムノート

ブラームス:悲劇的序曲

日高美加(チェロ)


 ヨハネス・ブラームスは、1833年ハンブルクで、コントラバス奏者の父と、元貴族の娘だった母のもとに、長男として生まれる。彼に最初の音楽的手ほどきを行なったのは父であり、その楽器はヴァイオリンと言われているが、少年ブラームスの関心はピアノに強く向けられていった。そのピアノ教育の最初の師である、当時ハンブルクを代表する音楽家マルクスセンとその弟子コッセルに、正統的ドイツ音楽教育を受けつつ、11歳でピアノ・ソナタを作曲している。また、当時盛んな音楽活動が繰り広げられていたハンブルクでは、ベートーヴェンの交響曲、ヘンデルのメサイア、ハイドンの合唱作品など古典的なレパートリーの演奏会が多く、これらがブラームスの音楽観の基本を形成したとも言われる。
 1853年、彼の生涯に最も大きな影響を与える3人の人物に出会うことになる。生涯の友であり音楽的理解者となるヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム、シューマン、そしてその妻クララである。20歳のブラームスはシューマン家を訪れ、自作のピアノ・ソナタ1番と2番を演奏し大歓迎を受け、その後すぐにシューマンは音楽雑誌にブラームスを絶賛する批評を載せる。そこには19世紀後半のドイツ音楽界において、確かな古典的教養に裏付けられた独創的作曲家を待望するシューマンの期待に満ちたメッセージがこめられていた。これは、ブラームスにとって未来を切り開く輝かしい賛辞であると同時に、世の中が待ち焦がれる「第二のベートーヴェン」として、自身がなすべき交響曲作曲へのプレッシャーともなっていったのである。一方、当時ブラームスは合唱指揮やピアノ演奏で、バッハを主要な演奏レパートリーとしていた。バッハ研究の密度は同時代の作曲家中群を抜いていたようだ。さらにヘンデル、クープラン、モーツァルトの作品校訂も数多く手がけ、それらが彼の創作活動にも反映されている。さらに同時代に活躍しながらも、音楽は対極的といわれたワーグナーの曲にも触れ、16~19世紀全体のヨーロッパ音楽を摂取していくことになる。
 1862年(29歳)以降、ウィーンに移り住み、ウィーン楽友協会音楽監督就任など名声が高まる中、1876年(43歳)に構想から20年を費やした「交響曲第1番」を完成。その翌年には「交響曲第2番」を作曲し、1885年頃まで極めて平穏で充実した作曲活動が続く。そのような時期に、本日演奏する「悲劇的序曲」も作曲されている。やがて、尊敬するシューマンの妻であり、40年以上も敬愛に満ちた交際を続けたクララ・シューマンの死の悲しみに憔悴したブラームスは、1897年(64歳)、近づきつつある20世紀のモダニズムの響きの中で、19世紀ドイツ・ロマン派の幕が下りるのを感じつつ、その生涯を終える。
 「悲劇的序曲」は、1880年(47歳)「大学祝典序曲」と対をなして作曲されている。後者はブレスラウ大学からの名誉博士号授与に対する返礼として4曲の学生歌を織り込んだ陽気なもので多彩な打楽器も用いられている。一方前者は同時期に演奏会用として作曲され、友人に宛てた手紙に「プログラムに〈劇的〉、〈悲劇的〉あるいは〈葬送〉序曲を加えるだろう」とあり、標題については迷いがあったようだ。では、何故この時期に対照的な作曲がなされたのだろうか。この2曲の創作は、彼が静けさを求めていつも訪れる、オーストリアの美しい保養地イシュルで、絶賛された交響曲第2番を完成した直後の、幸福と安定の中で行われた。だがその時期、愛するクララの息子フェリックスの死、親友の画家フォイアバッハの死、親友ヨアヒムとの不仲、そして一時的ながら難聴という恐怖が、立て続けに彼を襲ったのも事実だった。この「悲劇的序曲」には「幸福」と「不幸」、「喜び」と「悲しみ」という避けられない人生の「表裏」を敏感に受け止めた、ブラームスの思慮深くも激しい情熱を感じずにはいられない。
 曲は、厳格なソナタ形式で、冒頭に力強い2つの和音、次に弦楽器による静かな第一主題、管楽器によって増幅される緊迫感、柔らかい第二主題、再び登場する激しい跳躍による力強い第一主題、そして最終音は全員によるffで終わる。主題は入念に作られ、密度の高い労作と言われている。一貫して流れる骨太の響きは、さめざめとメランコリックな「悲しみ」に打ちひしがれるのではなく、人生に立ち向かう意思の強さに満ちている。

参考文献
『作曲家◎人と作品 ブラームス』西原稔著(音楽之友社)
『ブラームス』三宅幸夫著(新潮社)
初  演:1880年12月26日
ハンス・リヒター指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
楽器編成:フルート2、ピッコロ、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、弦5部


ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲
亀井 淳一(オーボエ)


 ハイドンの主題による変奏曲は、「ハイドン変奏曲」という略称や「聖アントニウスのコラールによる変奏曲」の別称が有名であるが、新響団員の中ではハイドンバリエーションを「ハイバリ」と略す人もいる。私の好みであるが、本文では「ハイドン変奏曲」の略称を用いることにする。

 ハイドン変奏曲が作曲された1873年、ブラームスは指揮者としても活躍中であると同時に、交響曲第1番の構想中でもあり、管弦楽に強い関心を抱いていた頃である。彼はそれまでに数々の歌曲やピアノ曲を作曲していたが、管弦楽曲としては1859年に作曲しているセレナード第2番以来14年ぶりの作品である。また、彼は変奏曲に強い関心を抱いており、ハイドン変奏曲以前にはピアノ曲として、「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」、「パガニーニの主題による変奏曲」などを作曲している。
 まず、ハイドン変奏曲の主題を譜例1に示す。この主題はハイドンが18世紀末に作曲したとされるディベルティメント(フェルトパルティエン)第6曲の第2楽章に見られるものである(原曲の編成は2本のオーボエ、ホルン、ファゴット、セルパン。後に第6曲のみが“ディベルティメント”という名称で一般化した)。実は、このディベルティメントが本当にハイドンによるものかどうかは議論が分かれている。これはディベルティメントのオリジナルの草稿が見つかっていないためで、出版譜は誰かの手による写譜稿(パート譜)が元となっている。また、ディベルティメントの第2楽章の冒頭には作曲者自身によって「コラール聖アントニー」と記されていることから、たとえディベルティメントそのものがハイドン作であったとしても、第2楽章の主題自体は古い巡礼歌からの引用である可能性が高いようだ。

 ブラームスがディベルティメントの第2楽章の主題(ハイドンの主題)を取り上げたのは、彼が1871年にウィーン楽友協会の芸術監督に就任したことが大きなきっかけであった。それは、当時楽友協会の司書であり、音楽学者でハイドン研究家でもあったフェルディナント・ポールと親密な関係になったためである。
 ポールは、以前からディベルティメントの写譜稿に目をつけており、そのパート譜から総譜を独自に書き上げていた。既に彼と知り合いだったブラームスは、1870年頃にこの総譜を見ており、そのときからハイドンの主題に大きな興味を持っていたようだが、楽友協会でのポールとの再会により、ハイドン変奏曲の構想を拡大させたと言われている。

個人的なことではあるが、このハイドンの主題は私にとって思い出のある旋律である。私が学生時代に所属していたオーケストラでは、木管セクションのオーケストラ・スタディーとして、ハイドンのディベルティメントを半年かけて勉強する。編成は一般的な木管五重奏で、フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットであり、イギリス人のハロルド・ペリーによる編曲のものである(現在ハイドンのディベルティメントはこの編成で演奏されることが最も多いようだ)。第2楽章のハイドンの主題は一見簡単なフレーズではあるが、そこから一つ一つの音の扱い方、音のスピードや表現方法など、演奏方法の基本を学んだ。
私にとっても印象深いハイドンの主題だが、ブラームスはハイドン変奏曲冒頭の「主題」で原曲の響きを忠実に再現するよう努めている。しかし、そのあとに続く変奏は、主題を基本にしながらも、ブラームス独特の構成と色彩で書き上げられている。

主題 Andante 変ロ長調
 原曲の響きに近づけるため、木管を主体とした楽器編成であり、弦は低弦のみでしかもピッチカートである。旋律は原曲どおりオーボエによるものであり、またセルパンの代わりとしてコントラファゴットを用いている。主題の最後には変ロ音(B♭)が5回連続して響き渡るが、この音こそ、第1変奏以降に繰り広げられる変奏の基となる。以降は、それぞれの変奏の変ロ音にも注目して聴いて頂きたい。

第1変奏 Poco più animato 変ロ長調
 三連符を豊かに使用した旋律に八分の三拍子の効果を付している。変ロ音の連続で始まり、弦が対位法的に新しい旋律を二つの声部に分かれて演奏する。

第2変奏 Più vivace 変ロ短調
 短調の変奏曲で、暗く寂しい感じであるが、情熱的である。強弱の変化が繰り返され、最後にはやはり変ロ音が重要な役目をしながら終わる。

第3変奏 Con moto 変ロ長調
 明るく、ロマン的な曲想。旋律は繰り返されるごとに新しく変奏される。オーボエとファゴットが弦による対位法を伴って、新しい旋律を奏でる。旋律が弦に移行すると、木管が十六分音符のアルペジオで軽やか且つ愛らしい彩を加える。

第4変奏 Andante con moto 変ロ短調
 前の変奏を受けて緩徐楽章のクライマックスを築き上げる。オーボエとホルンの旋律で始まり、ヴィオラが対位法的旋律を奏でる。その後、弦と管で旋律が入れ替わり演奏される。第5変奏 Vivace 変ロ長調急速、快活な曲想であり、次の変奏と共にスケルツォ楽章に当たる。弦が軽快な動機と変ロ音を用いた節を、また木管が主題に基づく軽快な旋律を奏す。その後、ホルンの出す断続的な変ロ音と、八分の六拍子と四分の三拍子との複合拍子に印象付けられる。

第6変奏 Vivace 変ロ長調
 弦がピッチカートで主題を拡大し、管が主題の展開動機を奏する。さらに続くアルペジオの動機で次の変奏へとつなぐ。

第7変奏 Grazioso 変ロ長調
 曲想が変化し、牧歌的なものとなる。前変奏に由来する動機がこの変奏を統一し、同様に管から弦へと旋律が移行される。後半は複合拍子へと展開され、変ロ音が低音のほかにクラリネット、ホルン、2番フルートに暗示的に表れる。

第8変奏 Presto non troppo 変ロ短調
 神秘的な響きの変奏曲。ヴィオラとチェロの旋律に続き、ヴァイオリンそして木管が対位法で加わる形式が展開されて繰り返される。最後にはやはり変ロ音がシンコペーションで表れる。

終曲 Andante 変ロ長調
 前からの変奏であると同時に、この曲だけで一連の変奏曲をなすパッサカリアを構成している。主題は低弦で奏でられる冒頭の5小節であり、その後18もの変奏が次々と展開される。曲の終わりに向けて徐々に「聖アントニー」の主題が明らかに示される。第18変奏では主題を示した上に木管が輝かしいグリッサンドを重ね、壮大な曲想となる。その後、変ロ音の節は弦及びピッコロ、コントラファゴットに示され、力は次第に弱まるが、最後は力強い和音で輝かしく曲が終結する。

参考文献
『ブラームス』門馬直美著(春秋社)
『作曲家◎人と作品 ブラームス』西原稔著(音楽之友社)
初  演:1873年11月2日 ブラームス指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
楽器編成:フルート2、ピッコロ、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット2、ティンパニ、トライアングル、弦5部


リヒャルト・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」
前田 知加子(ヴァイオリン)

 リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)が前半生に集中的に書いた7曲の一連の交響詩の中の最後の作品であり、ウィレム・メンゲルベルクとアムステルダム・コンセルトヘボウ・オーケストラに献呈されている。ミュンヘンの宮廷歌劇場の首席ホルン奏者であり名人として遍く知られていた父フランツ・シュトラウスの熱心な教育の元に育った早熟の天才シュトラウスは、大学での学業を中断し、マイニンゲン、ヴァイマール、ミュンヘンなどドイツ各地の宮廷歌劇場を渡り歩き指揮者・作曲家としてのキャリア形成を積んでいたが、その過程で、ブラームスの薫陶を受け(シュトラウスは1894年マイニンゲンにおけるブラームス自身の指揮による第4交響曲初演の演奏会に参加し、その際大学祝典序曲で大太鼓を叩いている)、一方で彼に終生最も大きな影響を与えることになったもう一人のリヒャルト、当時既に巨匠となっていたワーグナーの作品を深く識り、次第に独自の作風を築き上げて行き、今日のオーケストラコンサートのレパートリーとして欠くことの出来ない、『ドン・ファン』作品20(1888)、『死と変容』作品24(1889)、『ツァラトゥストラはかく語りき』作品30(1896)、『ドン・キホーテ』作品35(1897)等の傑作交響詩を次々に作曲していった。この曲は1898年、ミュンヘンに於ける2度目の宮仕えの間に着手し、翌年フェリックス・ワインガルトナーの後任としてベルリンの宮廷音楽監督になって間もなく完成した。規模的にも楽器編成的にもこれまでの作品を凌ぐものであり、交響詩作曲家としてのシュトラウスがその頂点に達した作品であるが、それはそのまま19世紀を通じて発達してきた管弦楽曲というジャンルが1世紀をかけて辿り着いた一つの頂点とも言えるものである。
 『英雄』というタイトルと変ホ長調という調性は、当然約100年前に書かれたベートーヴェンの英雄交響曲を意識していたものであるが、ベートーヴェンにとっての英雄がナポレオン・ボナパルトという歴史的・政治的に偉大な人物であったのに対し、ここで描かれているのは、ビスマルクやヴィルヘルム2世ではなく、批評家や世間の嘲り・無理解と戦う芸術家の姿である。後述するように英雄が自らの業績を振り返る場面で、シュトラウスが自作の引用を行っていることから、初演当時からこの英雄はシュトラウス自身であり、自らを英雄に擬えるとは臆面もないとの非難があったが、この点につきシュトラウス自身がロマン・ローランなど何人かの人々に語った言葉が伝えられている。それによると、あるときは、自分自身に関する交響曲をなぜ書いてはいけないのか私にはわからないと言ったり、また別の場ではとくに曲自体にプログラムがあるわけではなく、戦いの場で敵と戦う一人の英雄を描いているということを知れば十分だと言ったり、必ずしも一貫しておらず、一体どちらが本音なのかと悩むところではあるが、後世の我々がこの曲を聞く際には、シュトラウスの自画像と思って聞くもよし、世間の無理解と戦う孤独な芸術家の姿を思い浮かべて聞くもよし、どのように聞いてもこの曲の価値が減ずることは無かろう。ただ、やはり、第5部が自作の引用で成り立っていること、第2部の英雄の伴侶が結婚して間もないシュトラウスの愛妻パウリーネを描写していること(この点についてはシュトラウスは明言している)などからすれば、英雄には作曲家自身の姿が色濃く投影されていると言わざるを得ないであろう。
 この曲を書いたあとシュトラウスはオーケストラ作品としては、『家庭交響曲』作品53(1903)と、先日当団も取り上げた『アルプス交響曲』作品64(1915)という2つの大曲を書くが、後半生はもっぱらもう一人のリヒャルトの後を追って(あるいは越えようとして)、最後の楽劇『カプリッチョ』作品85(1941)に至るまで歌劇・楽劇作曲家としての道を歩んでいくことになる。(『英雄の生涯』を作曲した時点では、楽劇『ばらの騎士』作品59はおろか、この分野で初めて世に認められることになった、『サロメ』作品54すら書かれていなかった。)
 全曲は切れ目無く演奏されるが、便宜的に6つの部分に分けられる。もともと各部に標題はなかったが、初演に際し主催者より聴き手の手引きとなる様、標題を付すことを求められ、シュトラウスが已む無く便宜的に付けたタイトルが残っている。楽譜出版に際してはこれらの標題は付されなかったが、曲の理解のためには便利なので、現在でも一般的に使われることが多い。以下それに従って各部の概要を見ていくこととする。

第1部 英雄
 冒頭いきなりホルンとチェロがこの曲の基調である変ホ長調の分散和音を駆け上がり、ほとんど3オクターブにわたる堂々たる英雄のテーマを提示する。引き続きかなり遠い調性であるシャープが沢山付いたロ長調の優美な主題が直ぐにあらわれ、この英雄の持つさまざま側面が描かれていく。

第2部 英雄の敵
 ほとんど調性感のない木管楽器による特徴的な音型、テューバによる5度音程の特徴的なリズムを持った音型などが、英雄の敵=批評家の嘲りや無理解・敵意を表す。あまりに執拗に繰り返されるこれらの攻撃に、英雄が苦悩し落胆する様がチェロ、バスクラリネット等の低音楽器で描かれ、英雄はこれに立ち向かっていこうとするが、対立が頂点に達したところで、突如として英雄を救うかのように、独奏ヴァイオリンによる英雄の妻が登場し、第3部に移行する。

第3部 英雄の妻
 前半は独奏ヴァイオリンによる英雄の妻と、低音楽器による英雄との対話によって進められる、最初は英雄が妻をなだめたりすかしたりする様が描かれるが、途中から二人は寄り添い、全オーケストラによって二人の間の細やかな愛情が描かれる。(後半、第2ヴァイオリンには最低音(ソ)より半音低い音(♭ソ)が要求され、途中で調弦を変更しなくてはならないが、次の第4部ではまた元に戻さなければならず、これがなかなか厄介である。独奏ヴァイオリンについては、後で再述する。)

第4部 英雄の戦い
 舞台裏のトランペットによるファンファーレが遠くから聴こえ、戦闘開始を告げる。チャイコフスキーの『くるみ割り人形』や『1812年』における戦闘場面でも聴かれるような、大砲や機銃の響き、奔走する兵士たちの足取り等がちりばめられているが、なぜかこの部分は3拍子で書かれていて、優雅なワルツに乗って踊るように英雄の妻が現れたりもする。敵との戦いは一進一退を繰り返すが、最終的には英雄の主題が圧倒し勝利を収める。

第5部 英雄の業績
 英雄=シュトラウスがこれまでに作曲した数々の曲からの引用によるコラージュが織り成され、英雄の業績が回顧される。『ドン・ファン』、『死と変容』、『ツァラトゥストゥラ』、『ティル・オイレンシュピーゲル』、『ドン・キホーテ』等からお馴染みの旋律が次々に繰り広げられる。他に楽劇の処女作である『グントラム』、『マクベス』や自作歌曲からの引用もなされるが、これらは、余程のシュトラウス好きでもないとなかなか判り難いのではないか思われるので、末尾の譜例をご参照されたい。

第6部 英雄の引退と成就
 英雄の敵がなおも現れ、英雄もそれに立ち向かいはするが、長くは続かず、やがて『ドン・キホーテ』からの引用を思わせる牧歌的なイングリッシュ・ホルンの響きが聴こえてくると、音楽はしだいに穏やかになり、過去を振り返りながら残りの人生を伴侶とともに平穏に暮らす英雄の姿が描かれる。独奏ヴァイオリンとホルンの対話により英雄は大往生を迎えるが、最後に金管楽器と打楽器により英雄に対する弔砲が高らかに奉げられ、その響きが消え去るとともに全曲は幕を閉じる。(初稿では、独奏ヴァイオリンにより静かに終わることになっているが、どちらの終わり方も捨てがたいものがある。)

 さて以下は私事で恐縮ではあるが、今回の演奏会では前述の第3部英雄の伴侶における素敵なヴァイオリンソロを弾かせて頂けるという光栄に浴することになったのだが、とにかくこのソロはオーケストラ史上空前絶後の大ソロといっても過言ではなく、聴かせどころであるばかりではなく、曲全体の出来を左右することにもなりかねない箇所であるだけに、弾く者にとっては重責を感じざるを得ない。(技術的にもっと難易度が高い、あるいは時間的により長いソロは他にいくらでもあるかもしれないが、いろいろな意味でこのソロに匹敵するのは、ベートーヴェン『荘厳ミサ曲』ベネディクトゥスのソロくらいではないかと思う。コンサートマスターのオーディションなどでは必ず弾かなくてはならないという点でも。)
 先述したように、この独奏ヴァイオリンは英雄の伴侶=作曲者の良き理解者であった妻パウリーネの描写であるのだが、新旧併せて30数種類の録音を聞いた中で、女性が弾いているものは1種類しかなかったのはやや意外な感じがする。私は今回このパートを弾くにあたって、パウリーネのことをよく知ることが演奏への手がかりになるのではないかと思い、いろいろと調べてみたのだが、シュトラウスや周囲の人々によるコメントもさることながら、やはり一番参考になったのは、シュトラウスの書いた音楽そのものであった。優れた歌手であった彼女のために、シュトラウスは彼女が演奏することを想定し
て実に様々なタイプの歌曲を書いているが、そこで要求される表現の幅の広さは、ヴァイオリンソロに非常に細かくつけられた表情指示(わざとらしくうな垂れて、陽気に、軽々しく、少しセンチメンタルに優しく、怒って、荒れ狂って、突然再びおとなしく情感に満ちて等々)と通ずるものがある。また、二人の間に本当にあった夫婦喧嘩をシュトラウスが自ら台本を書いてコメディに仕立ててしまった歌劇『インテルメッツォ』作品72では、宮廷楽長シュトルヒ夫人としてパウリーネそのものが登場するが、そこでの彼女の振る舞いはあるときはわざとらしくうな垂れ、媚を売ったかと思うと、突然陽気になり、その次の瞬間には激しく怒っているという様に、まるで、『英雄の生涯』のヴァイオリンソロそのものの様であり、上記の独奏ヴァイオリンに対する表情指示は、シュトルヒ夫人(=パウリーネ)の舞台上での一挙手一投足に対するト書きではないかと思われるほどである。
 本日は、愛妻パウリーネ夫人の姿を、シュトラウスの書いた音符から音として蘇らせて、聴いて頂く方々に少しでも感じとって頂く事が、筆者に課せられた大きな課題であるが、それには私が女性であることを上手く活かすことができるのではないかと思っている次第である。

参考文献
“Richard Strauss” Kennedy Michael著(Shirmer, 1976 ; rev. 1995)
“Richard Strauss: Man, Musician, Enigma” Kennedy Michael著(Cambridge, 1999)
“Richard Strauss, An Intimate Portrait” Willhelm Kurt著(Rizzoli, 1989)
“Richard Strauss” Deppish Walter著(Hamburg, 1968)村井翔訳(音楽之友社1994)
作曲家別名曲解説ライブラリー⑨『R.シュトラウス』(音楽之友社1993)
初  演:1899年3月3日 リヒャルト・シュトラウス指揮フランクフルト・アム・マインに於ける博覧協会演奏会にて
被献呈者、メンゲルベルクとコンセルトヘボウオーケストラによる初演は1899年10月26日於アムステルダム
楽器編成:フルート3、ピッコロ、オーボエ3、コールアングレ(4番オーボエ持ち替え)、クラリネット2、Esクラリネット、バスクラリネット、ファゴット3、コントラファゴット、ホルン8、トランペット5、トロンボーン3、テナーテューバ、バステューバ、ティンパニ、シンバル、トライアングル、大太鼓、小太鼓、中太鼓、ドラ、ハープ2、弦5部(作曲家の指定では第1ヴァイオリン16、第2ヴァイオリン16、ヴィオラ12、チェロ12、コントラバス8)

第5部英雄の業績における自作引用(一部)
○歌劇『グラントラム』作品25より
○交響詩『マクベス』作品23より
○歌曲『解き放たれて』作品39-4より
○戯曲『たそがれの夢』作品29-1より


第198回演奏会(2007.7)パンフレットより

このぺージのトップへ