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山下さん、初登場!

 今回、指揮に初めて山下一史氏をお迎えいたします。カラヤンのアシスタントを務め、コンクール優勝を経てから現在に至るまでのご活躍ぶりは広く知られているところですが、ここではプロフィールだけではわからない“素顔の山下さん”をご紹介いたします。指揮者を目指していた少年時代や海外での貴重な経験、作品に対する熱い想いなどを大いに語っていただきました。

■ 「指揮者になりたい」

- 月並みな質問ですが、なぜ指揮者になられたのですか?

 もともと音楽を始めたきっかけが「指揮者になりたかった」なんです。多分N響のコンサートのテレビ中継を見てだったと思うけど、ものごころがつく頃にはもうなりたいと思っていました。だってやっぱり指揮者が一番格好いいじゃない。一番後から出てきて一番大きな拍手をかっさらって。まだいろんな裏のことなんか知らないからね。(笑)最初はヤマハ音楽教室へ通いました。しばらくして広島にも東京と同じような桐朋学園の子供のための音楽教室ができたので、そこへ行くようになってピアノだけでなくソルフェージュなども教わりました。それで、「指揮者になりたい、なりたい」って言っていたんだけどオーケストラの中の楽器もやったほうがいいということで、小学4年からチェロを習い始めました。
 その当時広島には優秀なチェロ弾きがたくさんいてね、山崎伸子さん、秋津さん(大フィル)、銅銀さん(N響)もみんな広島の出身なんですよ。それに、安田謙一郎さん、藤原真理さん、木越さん(N響)など錚々たる方たちが夜行電車に乗って教えに来てくださっていました。3ヶ月に1回くらいのペースで斎藤秀雄先生直々のレッスンもあり、本当に恵まれた環境でしたね。
 中学2年のときに斎藤先生が亡くなられました。で、山崎さんが円光寺(雅彦)先生に「指揮者になりたい子がいるから」と僕を紹介してくれたんです。でも、円光寺先生は僕のことなど知らないからとりあえず左利きを理由に断ろうとしたんですよ。それで「高校から桐朋に行くつもりだから高校生になったら教えてほしい」とお願いすると、「それでは遅い」と円光寺先生に言われてしまいまして、それなら中学3年で上京しようかと考えました。山崎さんのお母さんにもハッパをかけられましてね。「伸子は小学生で斎藤先生に引っ張られて東京に行った。あなたは中学生でしかも男の子なんだからしっかりしなさい。」と。でも親にうちあけたらびっくり仰天しましたね。そして親父と「高校に入れなかったら音楽の道は一切諦める」と約束して、仙川のトイレも共同で風呂もないようなぼろいアパートに住むことになりました。調布の中学校に通いながら藤原真理さんのレッスンを受けたり、円光寺さんに教えていただいたりしました。高校2年からは円光寺さんが尾高(忠明)さんの一番弟子だったこともあって、尾高さんのレッスンを受けるようになりました。
 だから大学では指揮科に行きたかったんです。桐朋のチェロ科はご存知のように指揮との二足のわらじをはける雰囲気ではないでしょう。一日もはやく指揮の勉強をしたかったし。それに何よりも中途半端にチェロをやることは許されないと思いました。一生懸命やっていましたけどね。それで尾高先生に相談に行ったら、一言、「とにかく大学を出るまではオーケストラの中で楽器を弾きながら指揮者のことを客観的に見なさい。」
 たしかに高関(健)さんもヴァイオリン、大友(直人)さんもコントラバス。桐朋にはいいシステムがあったんですね。授業でも試験でも、指揮科だからチェロ科だからというわけ隔てがなかったんです。楽器をずっと弾いていたことは結果的にとてもよかったことだと思っています。

■ カラヤンのもとで

― 卒業後はベルリンに行かれましたね。

 ベルリンはなんとなくだったんですよ。世界で最高のオケがあるから。カラヤンとかじゃなく。というか、最初はカラヤンに会えるとも思っていませんでした。高関さんみたいにカラヤン指揮者コンクールジャパンで優勝し招待されてベルリン・フィル・オーケストラ・アカデミーに行ったのと僕は全然違います。僕の場合は少ない奨学金をもらって何のあてもなく行ったんですよ。その頃ベルリン芸術大学から田中良和さんが帰国することになって、ちょうど席が空いたのでその後釜で入ることができました。
 そのうち高関さんに連れられてベルリン・フィルの練習を聴きに行くようになりました。サラリーマンのように毎日朝から晩まで。よかったことは、高関さんはカラヤンの練習を見ることができたんですよ。普通はカラヤンの練習を見ちゃいけないんです。コントローラーがいて知らない人はつまみ出されるの。僕もつまみ出されていましたよ。(笑)高関さんとは同じ学校(桐朋)とは言っても年も離れているし師匠も違うから最初はそうでもなかったけど、ベルリン時代にとても親しくなりましたね。高関さんの家になかば居候していた時期もありました。(笑)
 そしたら、1985年に高関さんが広響の音楽監督になるため帰国することになって、僕はその頃民音のコンクールに落ちてしょげかえっていたんだけど、「カラヤンのアシスタントをやってみる?」という話がありました。高関さんがそんなこと言わなかったら僕は今ここにいなかったですよ。(笑)
 そのアシスタントの仕事というのはベルリン・フィルのVTR撮りのカメラリハーサルなんです。カラヤンが振った音楽に合わせて寄せ集めのオケを僕が振るんですよ。そのことについてはいろいろ言う人もいましたが、カラヤン本人が必ず立ち会っていましたから、彼は(カラヤン役の)僕が振っている姿をずっと見ているわけです。もちろんカラヤンは暗譜で指揮をするのでこちらも暗譜しなくてはならない。学校へもどこへも行かずに一日中本当に勉強しました。コンクールに落ちてどん底でまさに蜘蛛の糸にすがるようでしたね。ここから抜け出るにはこれしかないから本当に必死にやりましたよ。
 初めてベルリン・フィルを振ったのは1985年の大晦日のコンサートのためのアシスタントをしたときでした。その時にカラヤンが気に入ってくれて、いきなり次はベルリン・フィルのカメラリハーサルということで、「魔弾の射手」の一部と「ボレロ」全部をやりました。その後すぐにカラヤンのマネージャーからこれから先のスケジュールに全部同行するよう言われました。また、ザルツブルク音楽祭は特別に契約をするから何かあったときのためのスタンバイでいるようにと。しっかりお金も出たし家も借りてくれましたよ。オペラの方は見学だけでしたが、その年(1986年)は「ドン・ジョヴァンニ」でね、「門前の小僧習わぬ経を読む」じゃないけど終わったころには全部覚えてしまいました。そういえば僕のオペラデビューは奇しくも「ドン・ジョヴァンニ」なんですよ。

- ベルリン・フィルの下振りみたいなことはいきなり言われるんですか?

 そうですね。カメリハのとき限定ですけど。普通はベルリン・フィルは振れません。だってそこにカラヤンがいるわけですからね。
 皆さんはカラヤンの代わりに振ったこととかに興味があるかもしれないけど、そのことよりも、ずーっと練習を聴けて、演奏会も録音も全部を見られて、その時の雰囲気をすごくよーく覚えている。生の現場に接したことが一番ですね。小泉(和裕)さんも高関さんも表面的には人それぞれ違うけど、カラヤンから非常に大きな深い影響を受けていると思います。本人にも計り知れない部分があるんじゃないかなぁ。

- カラヤンから直接指導を受けたことはありますか?

 「第九」の第3楽章です。リハーサルの後にカラヤンが「山下を呼べ」ということで、音楽監督の楽屋に行きました。ソファに並んで座ってカラヤンが歌ったりしながら、最初から最後まで教えていただきました。結局手取り足取りみたいのはそれ一回きりでしたけどね。

■ ヘルシンボリへ

- プロとしてのデビューはどちらですか?

 1986年のニコライ・マルコ国際指揮者コンクールで優勝したので、その関係で同年8月にチャイコフスキーの「悲愴」と「ロココの主題による変奏曲」を南ユトランド交響楽団と演奏したのが初めてです。日本では1987年に広島出身だという事で広島交響楽団が声をかけてくれて、その後札幌交響楽団は定期で呼んでいただいて「幻想交響曲」と「第九」を指揮しました。翌年1月には「若い芽のコンサート」でN響を振りました。

― 北欧でのご活躍もコンクールによるものですか?

 そうです。コンクールの優勝記念コンサートがいくつかあって、デンマーク放送響とか振りました。で、その一環として行ったのが後に首席客演指揮者になったヘルシンボリ交響楽団です。ヘルシンボリはスウェーデンといってもデンマークに近くて、ストックホルムから入るよりも、コペンハーゲンからの方が便利な場所です。最初行って次の年も行ったらいきなりニールセンのシンフォニー。しかも6番。あのややこしい曲ですよ。それまでニールセンなんかまったく振ったこともなかったけれど、大きなチャンスだったし、北欧のオケで彼らの大切なレパートリーを任されたという大きな責任感を感じながら引き受けました。で、それ相応の結果が出たら、「今回はとてもよかった、君自身興味があれば毎年1曲ずつニールセンをやらないか?」というオファーを受けました。これは、6年はこのオケと付き合うということで、当然他の演奏会もやることになりました。日本とヘルシンボリとの行ったり来たりでしたがやっぱりやっていれば惹かれていきます。それで、結局常任のオッコ・カムの次に一番振っているから首席客演指揮者になってしまったというわけなんです。ヨーロッパのオケって指揮者とこういう仕事の仕方をするんだ、と思いました。日本だと最初にポジションありきで、良い時はワーッと使って、その後は・・・ということがあるけど、この人はいいなと思ったら、大事に6年間成長を期待するみたいなところがある。だって当然(年齢が)二十いくつの指揮者なんかいいわけがないじゃない。それでもどこかに良さを感じて、こいつの6年間を一緒に見てみたい、時間をかけて育てよう、というところがあるんですよね。

■ 現代曲は嫌い?

- ところで、プロフィールを拝見すると、現代曲もずいぶん振っていらっしゃるようですが。

 デビューしたてはまったくダメでした。僕自身好き嫌いが激しくて本当に嫌いでしたね。音楽を苦しめているようで。例えば、これがオーボエではなくてクラリネットである理由を聞きたい。だってブラームスなら絶対あるわけじゃない。オーボエならオーボエの、クラリネットならクラリネットの必然性が。弦だってそうでしょう。ヴィオラでしか出せない音色とかブラームスだとある。でもひどい曲だと音域だけで楽器を使っている。楽器の生理みたいなものを無視しているんじゃないかと思うんですよ。
 で、最初のうちは断っていたんだけどだんだんそんなことも言っていられなくなってきて。そんな時、渡邉曉雄先生の話を人づてに聞いたんですよ。「新しい作品を演奏するのは同時代に生きる我々演奏家の責任だ。我々が演奏しなかったら日の目を見ない、音にならない楽譜がある。世に出るチャンスがあるんだったらそれに協力する責任がある。」本当に目から鱗が落ちたとはこのことでそれから意識が変わってきました。結果的には淘汰されるにしても最初のチャンスがないと。もし良ければ再演されていくわけですからね。で、たくさんやってくると譜面を見ただけで良し悪しがわかるようにはなりました。去年も作曲家のコンクールみたいなものがあって20数曲の楽譜を読んで選定したりしましたね。

- 今回の新響のプログラムはまさにクラシックの王道を行くような曲目ですが。

 僕自身現代作品もやっていきたいと思うんだけど初めて会うオケとはどうかな、と思って。やっぱり現代曲はまず音にするだけで大変だし、なかなか普段話しているような言葉やセンテンスのようにするのは難しいじゃない。やったことに意義があるだけでは最初の演奏会としてはどうかなぁ。現代曲でも自分の中で再演を続けてきた曲でないととりあげられないですよね。

■ さあ、「英雄の生涯」

- 今回のメインの曲目については、新響の意見として最初ブラームスの4番(交響曲)ということで先生にお伝えしていました。でも初めてお会いした時に、白紙の状態だとしたら先生は何がよろしいですかと「仮に」お聞きしたところ・・・。

 仮に、だったんですか?(笑)是非ともリヒャルト・シュトラウスをやりたいと言いました。
 言わずと知れたあの時代のカラヤンとベルリン・フィルの十八番で、右に出る人はいなかった!晩年のカラヤンの「アルペン・シンフォニー」を聴いたんだけどぶっ飛びましたね。もうその頃だいぶ足が悪くなっていて歩くのも大変そうでした。実は指揮台の背もたれに自転車のサドル状のものがついていて、もちろん客席からは立っているように見えるんですが、そこにまたがって指揮をするんです。そもそもカラヤンは指揮をするとき下半身は動かさない人でしたから。で、いったんそこにセットされてオケを振り始めたら、あのよぼよぼしていた人のどこにそんなパワーがあるのかと、そりゃあもう驚きました。まるでいい意味でのサイボーグのようでした。そういうのを目の当たりにしました。
 リヒャルト・シュトラウスの作品はカラヤン自身が本当に好きだったんですよ。オケもよくそのことをわかっていました。ザルツブルクでの「英雄の生涯」のリハーサルで、カラヤンが終わったとき泣きはしなかったけど特別な雰囲気があって、それをオケも感知して自然とこう何というか・・・。カラヤンとベルリン・フィルとは仲違いしたという情報のみが独り歩きしている感があるけれど、勿論そういう部分もあったけれど、皆が思っているような完全に亀裂が入っていたわけではないと思うんですよ。夫婦がそうであるようにうまくいかないところもあるけど、こういう気持ちにさせてくれる人はこの人しかいないとか、そういったどうしようもない部分、「業」のような部分でものすごく固く繋がっていたんじゃないかと思います。カラヤンではないと出せない音、他の人では逆立ちしても絶対に出せない音があった。それが一番リヒャルト・シュトラウスの作品に表れていました。その音を僕も高関さんも小泉さんも聴いているから、どんな音かは言葉で説明できないけれど、不思議なもので相手がどんなオケであれ、指揮者がそこに思い描いて振っているとその片鱗が表れてくる時があるんですよ。魔法のようなことなんだけどね。だから安易なプログラミングと思われるかもしれないけど、だからといって僕も「英雄の生涯」は何度も振ったことがないから本当に大切な一回です。
 「ハイドン・バリエーション」は、新響でもこれまで何度も挙がっていたけど、なかなか実現しなかったと最初お会いしたときに聞きました。「僕もそれはよくわかります」と答えたのを憶えています。あんな難しい曲はないですからね。でもそれをわかった上であえて取り上げます。そうしたらもう1曲(悲劇的序曲)はある程度必然的に決まりましたね。

- また「英雄の生涯」に話は戻りますが、新響では1978年に演奏して以来になります。先生からご提案を受けて団員の意見を聞いたんですけど、反対が多いかと思ったら意外とそんなこともなくてすんなり決まってしまいました。実は皆やりたかったのかと・・・。

 誰かが言うのを待っていたんじゃない?(笑)まあ、こういうことはタイミングの問題もあるでしょうね。
 「ツァラトストラ」だと別の難しさがあって、でもここのオケならパズルを組み立てるようにぱっとできあがると思うけれど、「英雄の生涯」はそうはいきません。よりリヒャルト・シュトラウスの世界があると思います。まぁ、実際凄い曲ですよね。晩年のリヒャルトは「オーボエコンチェルト」や「メタモルフォーゼン」みたいに室内オーケストラのような方向に進んでいくようになったけれど、そんなことになるとはまったく考えられない。三十何歳でこれを書いているんだから、ある意味絶頂期でもあり驕りも表れていますよね。それがまたものすごく魅力的です。「ここまで俺はできるぞ」みたいなね。

2007年5月8日
聞き手:土田恭四郎(テューバ)
撮影:桜井哲雄(オーボエ)
まとめ:田川暁子(ヴァイオリン)


第198回演奏会(2007.7)パンフレットより

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