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追悼 ヴィクトル・ティーツ先生

ティーツさんのこと

桜井 健(打楽器)


 昨年は新響創立50周年という記念の年であったのだが、我々の敬愛する伊福部昭氏、7月の194回演奏会を指揮していただく予定だった岩城宏之氏と訃報が続いた。記念シリーズの一連の演奏会は成功だったように思うが、それを支えたテンションは、おまつり気分というよりも、むしろ何か厳粛な緊迫感、悲壮感が底流にあったよう感じたのは、私だけの思い過ごしだろうか。
 そんな中、私たちはもう一つの訃報に接しなければならなかった。指揮者のヴィクトル・ティーツ氏が昨年の3月に亡くなった、という情報が我々の元に届いたのである。
 ティーツ氏は、ロシア、ハバロフスクの極東交響楽団の芸術監督・指揮者で、私たち新響の演奏会では、1999年10月11日の第167回演奏会、2001年7月28日の第174回演奏会、2004年10月17日の第187回演奏会、と3回の演奏会を指揮していただいた。
 1938年のお生まれだから、まだ67歳だったはずで、2004年にご一緒したときも、エネルギッシュな精力的で厳しい練習であったし、とてもお元気だったので、急な訃報に私たちは大変驚いた。

 ふとしたご縁から、私たちがはじめてティーツ氏にお会いしたのは1997年6月のことであったから、足掛け10年に近いお付き合いをさせていただいたことになる。
 マネージメント会社も介さず、事前交渉や来日中のアテンドも全て団員があたったので、演奏会の回数こそ3回だが、その割にとても濃密な交友をさせていただいたように感じる。
 在ハバロフスク日本領事館の方のお話では、以前から心臓の調子はよくなかったが、一昨年(2005年)晩秋頃から入退院を繰り返すようになっていたそうだ。それでも、2006年3月8日に予定されていた、ティーツ氏の念願だった日本の邦楽器演奏家との共演コンサートに向けて、ご自身がタクトを振るおつもりで、領事館の担当者とも演奏会準備の打合せをしていらしたそうだ。
 しかし、2006年の年が明けると病状が進み、病院から退院することが難しくなった。奥様のジャンナさんは、付きっきりで看病にあたられたそうだが、残念ながら病状は好転せず、3月に亡くなられたそうだ。
 葬儀はモスクワで行われたそうだが、ハバロフスクでも氏の功績と人柄を慕う人々は数多く、お別れの会が催された。
 ティーツ氏の真摯な人柄は、理想の音楽に近づくためには妥協をせず、こと音楽、練習に関しては例えようもなく厳しいのだが、ひとたび指揮台を降りると、決して偉ぶらず謙虚で、日本の暑さや食事や送迎などのアメニティについて不満をおっしゃることはなく、チャーミングでユーモアのセンスのあふれた、魅力的なおじさんになる。

 ティーツ氏との最初の共演に向けて、プログラムのメインとなる候補曲をあげていただいた。それは次の5曲だった。チャイコフスキーの4番、5番、6番の交響曲、ラフマニノフの2番、3番の交響曲である。ティーツ氏はロシアの作曲家の中でも、「人間の内側から湧き出る深いテーマ性を持つ」作曲家として、まず第一にチャイコフスキーを、そしてそれにほとんど並んでラフマニノフを敬愛されていた。
 最初に示された「メイン候補曲5曲」のうち、チャイコフスキーの第6番「悲愴」は最初の共演の167回演奏会で、174回演奏会ではラフマニノフの交響曲第3番を、そして187回演奏会ではチャイコフスキーの第4番を指揮していただいた。
 残るはチャイコフスキーの第5番とラフマニノフの第2番。…なかなか良い曲が残ったなあ…などと考えていた。

 ティーツ氏と演奏会プログラムの案をやり取りする課程で、ボロディンの「イーゴリ公」序曲は、何度も候補にあがったことがあって、私は「イーゴリ公」序曲を聞くと、ティーツ氏のことを思い出す。本日の演奏会の「シンフォニア・タプカーラ」は伊福部昭氏の追悼演奏なのだが、私個人の気持ちとしては「イーゴリ公」序曲はティーツ氏の追悼演奏という感じがする。そして、次回の演奏会のラフマニノフの交響曲第2番も…。


第196回演奏会(2007.2)パンフレットより

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