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「マーラーブーム」の頃

松下 俊行(フルート)

 今を去る30年以上むかし、わが国にマーラーブームが起こった事があった。それはバブル期に突如起こり、極めて短期間に終わりを遂げた。今ではその残滓を見出す事も困難といえる当時の状況を、その時代に深く関わったひとりとして記録しておきたい。今回「クック版」の全曲演奏により、マーラーの交響曲全てを演奏した事になるので、その記念としても。


◆新響<マーラーシリーズ>の軌跡
 かつて新響は10年に亘ってマーラーの交響曲の全曲演奏に挑んだ事があった。指揮は山田一雄氏による。ひとつのオーケストラが同一指揮者によるマーラーの交響曲全曲演奏を果たした例としては先駆と云うべきで、その後40年もの時間を経ても、その例は余り多くはない。
その軌跡を新響の演奏記録から改めて抜き出してみた。

① 1979/12/1  第86回  交響曲第5番
(+花の章)
② 1980/11/20 第90回 交響曲第6番
③ 1981/9/19  第93回 交響曲第7番
④ 1983/1/23  第98回 交響曲第9番
⑤ 1983/11/1  第101回 交響曲第2番
⑥ 1984/9/26  第105回 交響曲第3番
⑦ 1985/7/20  第108回 大地の歌
⑧ 1986/4/6   第110回 交響曲第8番
⑨ 1987/6/21  第116回 交響曲第10番
        (第1楽章のみ)
⑩ 1988/1/17  第118回 交響曲第4番
⑪ 1988/7/31  第120回 交響曲第1番
(+さすらう若人の歌)


 1回1曲(まぁ当然か)で『大地の歌』を含めた11曲をまる10年かけての「マーラーシリーズ」と銘打った演奏会が、年によっては2回行われていた事に、今更ながら驚きを禁じ得ない。1月の年明けに第9番をやり終えて、10か月後に第2番『復活』を取り上げる(上記④と⑤…しかもこの間に2回の演奏会を挟んでいるのだ)というのは、現在の新響でも二の足を踏んでおかしくない。よほどの執念と情熱と勢いと、そしてある種の諦め(笑)が無ければなかなか通らない企画だろう。
 もっとも……当時の新響は今と練習量が違った。演奏会が終わればその週末から次シーズンの練習が始まった。5月連休と秋には2泊3日の合宿。文字通り盆と正月以外の週末は練習が入っていたから、1シーズンの練習は15~18回程度(現在は演奏会翌週は休みで、初回練習に備えて個人練習に充てる。全体で11~13回ほど。「働き方改革」の波は新響にも及んでいる)。個人の技量レヴェルをオケ全体の練習量で補っていた感はある。そのようにして大抵の「無理」を乗り越えたのである。

 新響のマーラーシリーズが始まったのは、マーラーの作品が一般の音楽愛好家の間に広く浸透しつつあった時期であったように感じている。いくつもの要因があろうが、デジタル化が進行によるコンパクトディスク(CD)の普及というハード面に於ける革新要素は意外と忘れられているのではないだろうか?この出現が、初めて彼の長大な交響曲は切れ目無く、手軽に再生することを可能にした。ベートーヴェンの『第九』をそっくり納める事がCD 1枚の収録時間の条件とされたとの話を当時何度も耳にした。それまでのLPレコードではこの大作は楽章毎に盤面を返す必要があって興を殺がれること甚大だったので(当時はその方法しか無かったから、ある種の儀式と割りきってもいたが)、これは画期的というにも余りあった。
 収録時間だけではない。デジタル化によって各楽器各パートの音がより明確になった。例えばマーラーの作品には、同じ旋律を受持つ複数のパートに片やクレッシェンド、片やディミヌエンドを求め、旋律の音色の変化を意図する箇所が多々出現する。或いはなかなか生演奏でも聴き始分けられない舞台裏からの演奏音や特殊楽器の音質感……新技術によってこうした音の再現効果は一挙に増大したのだ。こうした事は改めて思い起こさないと何も感じぬ程に当たり前になっている。だが、大雑把に言えばマーラーの、特に交響曲はデジタル時代に合致した音楽だったのだと思わざるを得ない。音楽ソフトとしてのCDが従来のレコードの販売枚数を超えたのが1986年というから、これが彼の作品を浸透させる結果となり、来るべき「ブーム」を形成する為の基盤となったと実感している。本来これは従来の愛好家の間に生起した、穏やかなそれとして終わる筈だったのだが。
 当時の新響はその流れを先見して感じとり、交響曲全曲の演奏をシリーズ化させて、10年かけて実現(ここが重要である)した。後述するマーラーブームが過熱しつつあった時点でシリーズを終えた点は注目されるべき点だと考えている。
 今から40年以上前といえば、マーラーの交響曲を単発でもプログラムに載せられるほどの規模と技量を備えたアマチュアオーケストラは数えるほどしか無かった、と記憶する。例えば第8番『千人の交響曲』は新響の他には、早稲田大学交響楽団が、大学の創立百周年を記念して学内の合唱団を交えて全学を挙げて演奏(指揮は岩城宏之氏)したくらいで、この記録は今もってほぼ変わっていないのではあるまいか。
マーラーシリーズは「邦人作品展」と同時並行で行われていた。この二枚看板が新響の一時代を作り上げたのだから、先人たちの功績への驚異と敬意はもっと大きくあって然るべきである。


 私は1982年に新響に入り④の交響曲第9番の演奏から加わった。とはいえいくつも理由はあるが、シリーズの間に上記のうちまともに演奏したのは結局④・⑧・⑩のみ。このように新響に入団する前は如何ともし難く、且つ入団後も演奏の機会を持てぬ交響曲の方が多かったのだ。そもそもマーラーの作品にさほどの拘りもなく(どちらかと言えば嫌いだった)、演奏機会を得られない事を不満とも思わなかった。 が、1988年7月、シリーズ最後の演奏会(⑪)終演後のレセプションで、このシリーズに皆勤した団員・・・・20名ほどいたろうか・・・・に対し、山田一雄氏から銘々に自筆の色紙が贈られるのを目の当たりにして、流石に心穏やかではいられなくなった。演奏者にとって得難い体験であった事は間違いない。そして色紙というモノの存在が、逃してしまったマーラーの演奏機会への気づきにつながったというのだから、我ながら現金なものである。さほどの執着もないくせに欠如感があったとしか思えない。そうでない限りその後に自分がとった行動に説明がつかないからだ。
 その欠如感を埋める機会は「マーラーブーム」の到来によって突如もたらされる事になったのである。


◆空前のマーラーブームとその土壌
 その「ブーム」は1本のTV-CMによって突如起こったように今も感じている。
 https://www.youtube.com/watch?v=3-h_kaEnNKg
 このCMが初めて電波に乗ったのは1986年という。ご記憶の方もおいでかもしれない。使われているのはテロップにもある通り『大地の歌』。彼の作品に接していれば、ここで使われている部分がどんな作曲者の思考の果てに創作された音楽であるか、についての知識もある。だが、全く予備知識なしにこのCMから流れる音楽とナレーションで、初めてマーラーなる人物と「作品」を知った人にとってみれば、「東洋的なメロディを書く、ちょっと風変わりな作曲家」程度の認識しか持てないだろう。そしてこうした認識の人々が前代未聞の「マーラーブーム」を現出させたのである。謂わばマーラーの「大衆化」で、今考えると不思議としか言いようがない。それまで限られた?愛好家でしか知られていなかったマーラ実はこの会社は同工異曲のCMをあと二つ制作して流している。ランボーとガウディがモデルだ。
 実はこの会社は同工異曲のCMをあと二つ制作して流している。ランボーとガウディがモデルだ。
https://www.youtube.com/watch?v=3Hbf4LGmrf8
https://www.youtube.com/watch?v=NPZlOzrtTSk&t=1s
 だがこれらによってランボーの詩集が発的に増版を重ねたとか、サグラダ・ファミリアに日本人が以前に増して押しかけたとかいう現象にはつながらなかった。ひとりマーラーだけがもてはやされるに至った。 受け入れるに足る社会の下地が醸成されていなければ、落ちた種は発芽も況して開花もしない。事実この1分に満たぬCM がマーラーブームへの発展に至るには、当時の社会状況が大きく反映していた。その社会の下地とは所謂「バブル景気」であった事を改めてここで述べる必要があろう。既に人々の記憶から遠ざかってしまっているのだから。


 1985年から91年までの6年ほどの期間が一般に「バブル時代」と位置付けられているようだ。1981年入社組の駆け出し社会人として、また給与所得を経済的基盤とする生活者としての実感はもう少し狭い時間だったように思うが、いずれにせよこの時期、戦後の日本経済の繁栄を牽引し続けてきたモノづくりから離れて、不動産や株が更なる富をもたらす源泉となるとの信仰に個人も企業も浮かれた。そしてそれが実際カネになった(個人的には全く無縁だったが)事で更に信仰が深まるという循環が出来上がっていたのだ。挙げ句にそのようにしてもたらされた、日頃持ち慣れない大金の使い途に迷った事については、企業も個人も区別がなかったのである。要するにアブク銭。まさにバブルだったし、この風潮にどっぷり浸っている人々も、こんな景気がいつまでも続こうとは考えていなかった。故に余計に刹那的な消費につながった感を拭えない。
 音楽に関連する「消費」に目を向けても、まず各地に立派なホールの建設ラッシュが起きた。思わぬ税収の伸びに浮かれた自治体もこの有り様で、建てたはいいがその使い途は地元敬老会のカラオケ大会・・・・という、笑えぬ状況が現出した。企業は揃って「メセナ活動」に注力し、芸術に対する理解・愛好度合いを、その助成金額を唯一の尺度にして競った。その恩恵によって得体の知れぬ「著名な」海外演奏家が法外なギャラで招かれる事も頻繁に起きたし、1000人ひいては5000人というやたら合唱人数の多い『第九』の演奏会(向島の芸者衆を集めて歌わせた趣向すらあった)が各所で開かれた。確か東京ドーム行われた『アイーダ』の公演では、生きた像を何頭も登場させた記憶がある(2013年にも同様の企画があったが中止)。


 新設の大ホールという「器」があって使途に困るほどの「カネ」がある・・・・となれば大編成のマーラーの交響曲がそこに根付く土壌は充分過ぎるほどに形成されていた。挙句に全国のホールにて玉石混淆レヴェルの演奏で、マーラーの交響曲が鳴り響く事態が起こっていった。


◆東京マーラー・ユーゲント・オーケストラ(TMJ)
 こうした状況を冷めた目で見ていた1987年の夏、新響を含めた複数の音楽仲間から「マーラーの交響曲第9番を山田一雄氏の指揮で演奏しないか」との声がかかった。会場として翌年2月のサントリーホールを押さえたという。このホールはこの前年1986年10月に竣工したばかりだった。曲目・指揮者・会場いずれもこれ以上望むべくもない条件だ。曲自体は新響入団後初のコンサートで演奏してはいるものの3番フルートの席で、且つ演奏自体、合宿での練習をも経ていながらあまり完成度の高いものではなかった。本番中ヤマカズ氏がオケに向かって何度も叱咤の声を上げている(!)のを耳にして驚いたほどのものだった。要するにその時の演奏の出来と、それを自分の力では如何ともし難いポジションにあった事への満たされぬ思いがずっと燻り続けていたのだった。それから4年、マーラーの作品を取巻く環境もこれまで述べたように激変しており、言うなれば意趣返しの機会を得た心境で話に飛びついた。
名称を『東京マーラー・ユーゲント・オーケストラ(TMJ)』として、秋口より開始予定の練習に向けて、主に東京で活動するアマチュアオーケストラからこれぞというメンバーをほぼ一本釣りで集める。並行して運営メンバーも徐々に絞られ、私はこの一期一会といえる一発オーケストラの代表者に祭り上げられた。当時新響でインスペクターを務めており、山田一雄氏とのコンタクトの利便性がその一番の理由だったのだろう(それが災いして巨匠に新響とTMJ を混同させる弊害も招いたが)。
ここでこのオーケストラが果たした演奏についての詳述する紙幅は無く、本稿の目的でもないので避けるが、当時のアマ・オケとしては突出した水準に達していた事だけは明記しておきたい。当初TMJ なる団体について半信半疑だったヤマカズ氏も、我々の想定を超える注力振りを見せた。1988年2月に行われた演奏会は成功だったのだ。


 だが、特筆すべきはこの演奏会を運営するに際して直面した当時のマーラーブームの異常さにこそある。
そもそも何の実績も信用もない、従ってカネもない「一発オーケストラ」がサントリーホールを確保できた事自体が既にして不思議だった。当然予約に当たっては前金を支払う。だがそもそも未だメンバーも揃っておらず、経済的基盤も曖昧と来ている。どうしたか?参加者からの出費ももちろん充てたが、結局そのカネの大半は、核となったメンバーが心当たりの企業から協賛として集めたのである。サントリーホールの使用料は当時でも200万円ほどの額だった筈で、有り体に言えばそれ賄うに足る金額が集まった(因みに言えば新響が毎回のコンサート会場としている東京芸術劇場の使用料は、現在でも100万円に届かない)。それも極めて短期間に先にも触れたが各企業は「メセナ」の美名の下に、競って協賛先を求めていたのだ。
マーラーの名を冠したオーケストラが、マーラーの権威たる山田一雄氏の指揮で、マーラーの交響曲をサントリーホール(例のCM の威力がここで遺憾なく発揮される)で演奏する……となればカネ余りに苦しむ企業は狂喜して飛び付き、ひれ伏して惜しまずカネを差し出すという構図が出来上がっていたのである。演奏会を開こうとした我々の動機は純粋そのもので、決して増長していた訳ではなかったが、この時流に結果として(上手く)乗った事になる。
 現在新響が音楽振興に理解ある財団から助成金(最大でも100万円だ)を申請するために費やす知恵と努力と比較すると、まさに隔世の感を禁じ得ない。
 メディアにも数多く取り上げられた。『朝日新聞』に我々運営陣のインタビュー記事が載ったその日、代表者たる自分とコンサートマスターがそれぞれ属する企業(いずれも一部上場の大企業である)のトップ同士が会うという偶然が重なった。会談の冒頭、両者間でこの記事の件が話題になり、円滑に事が運ぶ一助になった・・・・と後に秘書室からわざわざ上司経由で連絡があり、暫くの間は有名人の地位を得た(昇進とは全く無縁だったが)。無教養で反知性的な社員ばかりだ!と日ごろ反感を持っていたが、そのわが社内でもこの時期はさすがにマーラーが浸透していたのだ。
 日頃よほど著名な演奏家のコンサートしか取り上げない『週刊新潮』の“Tempo”欄に我々TMJの演奏会の告知が載った事には心底驚き、少し怖くさえなった。我々からダメ元で情報をバラまいた結果とはいえ話題性があったのだ。
 演奏会終了後には、代表者として『週刊文春』の取材も受けた。この団体の杜撰な経理状況(これは後に事実とわかり、処理に苦慮した)や代表者の乱倫な女性関係(そんなものは幸か不幸かなかったが)を「文春砲」によってスクープしようとの意図ではなく、コンサートの盛況に対する取材との話だったが、相手の意図は次第に判ってきた。要するにこの皮相なブームを、マーラーの名を冠したオーケストラの代表としてどう見ているか?を確認したいという事なのだった。「マーラーを初めて聴く人が多くいたようですね」「寝ていた客も目立ちましたが・・・・」との形で水を向けてくる。こちらにしてみれば初めてだろうが寝に来ようが客は客なので、当たり障りのない真面目な答えに終始した。そうしたコメントが決め手に欠けたのだろう、結局その原稿はボツになったとの通知があり、掲載用の写真だけ後日送られてきた。
 
 記事はボツになったが、この記者の眼はブームの一面を確実に捉えていたと感じる。確かに2000人余りを収容するサントリーホールはほぼ満席になった。新響がここで行った数々のコンサートでもこれほどの入りは目にした事はない。だがこの時の来場者の大半は初めてマーラーの交響曲を聴きに足を運んでいた。今ならさしずめ「にわか」と呼ばれるファン、要するに例のCMのイメージを唯一のよすがとして作品に接しようと足を運んだ善男善女だった。
だが日頃クラシック音楽とは疎遠で、『大地の歌』の、殊更に東洋風の1分ほどの部分をもってそれをマーラーの音楽と考える人が、いきなり90分にも及ぶ交響曲に接した。そのイメージとの落差・隔絶は察するに余りある。
「こんな長い曲だとは思わなかった」「退屈で眠くなった」などなど、通常のコンサートではまず目にしない呪詛の言葉がアンケートに多く見られた。我々は苦笑する他はなかったがブームを思うと象徴的である。しかもこの時の前プロがベルクの『6つの小品』とくれば、悲劇でさえあったろう。気の毒と思う他はない・・・・。


◆ブームの退潮=TMJと新響=
 こうした人々がその後同様のコンサートに足を運ぶことはなかったろう。もうマーラーは懲り懲り、そう考える人がいて普通である。そして現実ににわかファンは急速に退場して、ブームは急速に退潮に向かう。一方で「そういうものだ。マーラーの音楽が『ブーム』になるなんて異常そのものだ!」と考え、にわかファンと席を同じゅうせず、そうした連中を相手にした低レヴェルの演奏など聴きたくないとの矜持を示す、従来からの愛好家も離れていったから、更に凋落には拍車がかかった印象がある。
 TMJはそうした動向に鈍感に過ぎた。一回限りの前提を覆して「次」に挑んだ。従来の成功体験そのまま意識で運営が継続されたが、山田一雄氏が死去した1991年(バブル終焉の年だ)を境に、その後は演奏会を重ねる毎に財政的に窮乏が進行していた。企業は既に一斉にメセナから手を引いていた。恒久的な資産がある訳でもない。それでも海外公演まで企画をし、代表者も知らぬ間に一部メンバーは実行に移そうとしていたのである。当然頓挫する。これが1994年の事で、これでTMJは解消した事になるが実質的にはもっと早い。


 こうして見返すとマーラーブームの真只中にあった1988年という年の、新響と東京マーラー・ユーゲント・オーケストラというふたつの団体の活動は極めて対照的だった事に気づく。片やその年の夏に10年続いたシリーズを完結した。一方はブームの波に乗り、瞬時の大成功を収めた事で、時代の下降に気づかず凋落を免れなかった。
 双方のオーケストラに関わった身としては、単純に新響の先見に軍配を上げる気にはなれない。今は関係者からさえ語られる事の殆どないTMJが、あのバブル時代に束の間開花したブームのあだ花のひとつの様に、後に伝えられてしまう事だけは避けたい、と切に思うのである。

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