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新響・昔話3=傘寿を過ぎたOBの独り言=

編集人注)
新響OB戸田昌廣氏による『新響・昔話』第3回(最終回)です。

【ソ連への親善演奏旅行】
 まずは、この訪ソを主宰した「日ソ青年友情委員会」から、参加する新響団員に宛てた宣言文を抜粋してみます。

 "新響のソヴィエト親善演奏旅行は、日ソ青年間の文化、芸術、スポーツなどあらゆる分野における交流を目的としている日ソ青年友情委員会と、全ソ青年団体委員会との文化交流協定にもとずいて実現されるものです。
 両委員会は異なる社会体制のもとにあっても国民が相互に生活を知り、文化を知り、芸術を知り、スポーツを知り、また政治や経済を理解しあってこそ世界平和に寄与できるものとして、交流活動を盛んに行っておりますが、新響の訪ソも日ソ両国青年間の相互理解を深める上で、たいへんよい機会であると思います"

 この時、日ソ青年友情委員会の委員長は芥川氏であり、同委員会は労音側とは不仲にあった政党、労働団体に支援された組織でした。
 したがって労音は中国を、芥川氏はソ連を向いての労音独立騒動であり、その帰結として新響の訪ソがあった、と言えるかと思います。
 その後中国では文化大革命が始まって国内はグチャグチャになり、一方ソ連は1917年のソヴィエト10月革命50周年を迎えて力を付け、他国との交流を広げておりました。

 私達新響は、横浜港から2泊3日の船旅でナホトカへ、そこから夜行列車で1晩かけてハバロフスク、そして6発プロペラエンジンの巨大な旅客機で8時間飛んでやっとモスクワへ着くという旅程でありました。
 その後まもなく(多分翌年)シベリア上空の開放が実現して、日ソ共同運航便が週1便飛ぶようになったという時代でした。
 訪れた所はハバロフスク・イルクーツク・モスクワ・レニングラード(現在のサンクト・ペテルブルグ)で、各地毎に両国の国歌演奏で始まる親善演奏会を5公演行いました。
 当時日本では、鉄のカーテンの向こう側のソ連の実情や市民生活等々が知られていなかった為か、帰国してから演奏旅行の件ではなくあの国の日常は如何に?との質問がマスコミから受けた主たるものでした。

 それから2年後(1969年)九州の新聞社から"九州・沖縄芸術祭"というのを立ち上げる計画だが「芥川也寸志と新交響楽団」と言う題目で協力をいただけないか、と言う話がありました。九州各県とまだ米国統治領だった沖縄を加えた地方を一周するという演奏旅行の話でした。
 沖縄の日本への返還は1972年でしたので、各自旅券を持って車が右側通行の那覇へ飛び、その後鹿児島へ戻って九州各県を周りました。
 当時日本各地には現在のようにプロ・アマ含めてオケは殆どなく、有名人の芥川氏が指揮をし訪ソの実績のある新響ならば、とのことで声がかかったのだと思います。
 大げさに言えば、ソ連にしろ沖縄にしろ、国の策に先駆けた民間交流で一役買っていたと言えるのではないでしょうか。

(おわりに)
 私が新響の運営に携わっていたのは、この後3年程でした。在団20年、退団してからもう40年の余が過ぎているわけですから、団から見れば昔々の過去の人間です。
 新響が縁で築いた我が家庭も、今では子・孫と大人数の家族となり、皆が皆何らかの形で音楽と関わりのある日々を送っております。
 あちこちに遠く離れて暮らしておりますが、音楽が共通の言葉(話題)となって家族間の繋がりに大変役に立っている今日この頃です。
 新響で培った音楽との生活が今になっても続いていて、80余年の人生を楽しんでおります、新交響楽団ありがとう。

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