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作曲家「芥川也寸志」とアマチュア音楽家「芥川也寸志」

藤井 章太郎(フルート)


 芥川先生ご存命の頃、団員同士の会話では、芥川先生を親しみと敬意をもって“アー様”呼んでいた。
 アー様と新響のお付き合いは、1955年から1989年まで34年の長きに亘った。ところが、1986年の第113回演奏会以前、新響はアー様の作品を4曲しか演奏させてもらえなかった。『絃楽のためのトリプティーク』『交響管絃楽のための音楽』『交響三章』「コンチェルト・オスティナート」の4曲だけである。1976年に始まった『日本の交響作品展』であっても、一切取り上げることはなく、10年目の第113回演奏会『日本の交響作品展10:新響と30年--芥川也寸志』に至って、新響はやっと4曲以外の作品を演奏する機会を得た。これ以降、新響は映画音楽を含め数多くの芥川作品を取り上げてきた。アー様ご存命の頃、作曲者と共に演奏したこれらの作品は、今日では新響のレパートリーになったと言える。しかしながら、演奏させてもらえなかった作品もあり、今回取り上げる『オーケストラのためのラプソディ』もしかりである。アー様が新響に許さなかった理由は「新響じゃ無理だから」・・・・・。


 アー様没後の再演の方が、私にとって、より大きな感動を体験できた演奏が多い。特に、『日本の交響作品展10』で共演できた「交響曲第1番」は、僭越ながら、作曲者自らの指揮ではさしたる感銘を受けなかったのに対し、没後、第126回山田一雄、第166回飯守泰次郎、第232回湯浅卓雄といった指揮者との再演では、演奏しながら毎回「鳥肌」ものだったのだ。アー様は「はにかみや」な面もあって、自分の作品を指揮する時もそんな一面が出て、指揮が控えめだったかもしれない。日本の楽壇を代表する名指揮者とアー様の指揮者としての力量の差だったのかもしれない。作曲者としてのある種の先入観から、作品を客観的に捉えられなかったのかもしれない。いずれにせよ、没後の再演は、私にとってかけがえのない貴重な演奏体験になっている。
 ショスタコービッチ作品などでアー様の指揮ぶりは、自作の指揮とは全く違うのであった。「はにかみ」は一切なく、全身からオーラを放出して作品の深層部を引き出しているように感じた。若き日の単独渡露体験、ロシア作曲者との交流、客観的なスコアリーディングなどが織り交ざった結果であろうか。もう一つ忘れてならないのは、アマチュアの純粋さであろう。アー様の寄稿にこのような一節がある。


 “Webster大辞典によると、“Amateur”の第一義には“Love”とある。まさに愛してやまぬ、これこそアマチュアの心であろう。
 ・・・途中略・・・
 私はいつも、アマチュアを「素晴らしきもの」の代名詞にしたい位に思っている。ただひたすらに愛することの出来る人たち、それが素晴しくないはずがない。私がいつも、新交響楽団の肩書に、小さくアマチュア・オーケストラといれるように頼んでいるのは、それを忘れないようにするために、そして、大勢の方々にそれを分かって頂きたいためにである。” 
 http://www.shinkyo.com/04history/をご覧いただきたい。


 アー様は、指揮者として新響の一員であり、いや、アー様ご自身は新響を一心同体だと思っていたのであり、高い理念の基で「アマチュア指揮者」を体現していたのだと確信している。

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