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ブルックナーと数にまつわる話

松下 俊行(フルート)

◆清張のブルックナー観=数える話=
 予想もしない処で知人にばったり出遭う・・・・かつて松本清張の推理小説『数の風景』を読み進むうち、突然ブルックナーに関する記述に出くわした時に、これと同じ感慨を抱いた事があった。既に四半世紀も前の事ながら、その時の驚きと唐突感は今もよく覚えている。この小説自体はあまり注目するような中身は無いが、目に入る事物の数・・・・例えば行く道端の電柱の数や階段の段数、駐車場の車の数など)を数えないでいられない「ニュメロマニア(計算狂)」と思しき女が出て来る。これは神経症の一種らしいが、やがてこの女の症状が後の展開の軸のひとつになってゆく。まぁそれはそれで興味も湧く。ただそのニュメロマニアの同類としてブルックナーの名が突如現れるのには驚いた。作家はここでH.シェンツェラー(Hans Hubert Schonzeler)著の『ブルックナー・生涯/作品/伝説(山田祥一訳・青土社)』にある記述の概要と、そこに例示されている未完に終わった交響曲のスケッチを示す。8小節単位(つまり1~8までの繰返し)で作曲家自身が書き込んだ意味不明の数字があり、それがこの作曲家と神経症の証拠であるという。
 音楽作品と数字という点では大バッハが有名で、各作品の数値的な美学はもとより、A=1、B=2という具合にアルファベットをそれぞれ数に当てはめ、作品から読み取れる数を具体的な文字に変換して、そこに現れる言葉によって作品に隠されたメッセージを見出すというこじつけまがいの「研究」さえ古くから行われている。清張は当然にこの例にも触れているが、大バッハの例に比較するとブルックナーはこの内容に於いて見劣りも甚だしい。僕は清張の主だった作品は大抵読んでいるが、恐らく作中に譜面を伴ったものはこれだけだろう。しかも別にストーリーの展開とはほとんど無関係なのに、これほどにこだわる理由は良く解らない。


 新響が初めて飯守泰次郎氏を招き、ブルックナーの交響曲第4番『ロマンティック』を演奏したのが1993年4月(第139回演奏会)。それまでブルックナーの交響曲は1975年に同じ第4番を、1981年に第7番を演奏しただけだった(指揮は共に山岡重信氏)ので、ブルックナーの人となりと作品をテーマとして、この作曲家に関する著作があり、東京藝術大学で教鞭をとっていた土田英三郎氏を招き、練習の初期段階でレクチャーをお願いした事があった。『ロマンティック』に関する詳細な分析に基づく講義の余談として、ブルックナーが果たして計算狂であったか否か?に触れられた。氏は「松本清張の小説にそんな話もありますが・・・・」と今考えれば『数の風景』を例示しておいでだった訳だが、しかしご自身の考えとしては明確に否定されていた。ただ執筆途上だったと思われるある時、作家本人から電話があってこの説に関して相当に食い下がられたとの事実を苦笑交じりに語られていた。これが妙に記憶に残っている。作家松本清張の執着心と取材力を思うべきだろう。
 だが自分の乏しい読書体験からの感想としても、博覧強記にしてあらゆるテーマを網羅して作品を世に送り出した作家も、こと音楽の分野に関してはあまり見るべきものが無いように感じている。有名な『砂の器』も現代音楽の作曲家を主人公としているが、内容は難解・冗漫になって効果は上がらない。むしろ先日亡くなった橋本忍の脚本による映画(1974年・監督は野村芳太郎)によってテーマが絞られ、扱われる音楽を含めて解りやすくなって、ようやく日の目をみた感さえある。音楽を題材にした作品で個人的にお勧めできるのは、『魔笛』の台本作者にして興行師のシカネーダーをテーマとした『モーツァルトの伯楽』(『草の径』所収)くらいかなぁ、という気がしている。


 シェンツェラーの著書に直接当たる機会を得ないが、少なくとも松本清張が引用している譜例のように、各小節に悉く数字が書き入れてある事を以って、ブルックナーがニュメロマニアであると断定する論拠としているのは、余りにお粗末に過ぎていただけない。小節ごとに数字を書き込む事などは普通に行われているからだ。例えばショスタコーヴィチの作品のように同じ音型が数十小節も続くような場合、演奏者が回数を数える便宜として繰返しの小節数が書き込まれている。そうした譜面というものは多々ある。無ければ奏者が書き込む。
 そもそも音楽作品の創造やそれを演奏する事は、「数える」行為と無縁ではあり得ないからだ。例えば我々は作品を演奏するに当たって、速度(テンポ)の決定要因である拍を数え(その拍を更にいくつにも細分化して数えさえする)、その集積の単位となる小節数を数える。これは音を出していない休みの間も継続するし、むしろその間の方が数える事の重要度は高まる。また音の高さを振動数という数値で認識し、異なる複数の音の振動数比が単純であるほど、そこに純粋なハーモニーが現出する事を意識している(この関係を最初に見出したのは数学者であるピタゴラス)。もしオーケストラで活動していながら、数値や数える行為に全く無関心の人がいるとしたら極めて不思議な存在だし、現実の問題として自力で演奏する事は不可能だろう。むしろこちらの方が立派な「病気」に思える。


 因みに今回この稿を起こすに当たり、ネット上で『数の風景』とブルックナー関連の記述を検索してみたが、僕のような屈折した(笑)見解は全く見当たらなかった。それどころか殆ど反応らしい反応が無い。驚くほどである。これは詰まる処『数の風景』の読者にとってブルックナーという作曲家は無縁であり、またブルックナー(に限らず音楽全般の)愛好者は、あまり松本清張を読まない・・・・という状況を意味するのかもしれない。この作品を通じた両者の接点が感じられない。


 芸術家という人種はどこか世間の常識良識とはかけ離れた側面を持っているし、また社会もそうした性格を密かに期待していたりする。そして当人もそうした社会の空気を逆手にとって、徒に奇矯であろうと目論んだりするから始末に悪い場合がある。だが残された諸作品から遡ってその創作者たるブルックナーという人格を想像するのは、確かに容易ではない気がするし、彼の伝記作家もその平穏に過ぎた生涯を見渡して、何か劇的な分岐点を見出すのに腐心せざるを得ない。そうした可もなく不可もない起伏に乏しい人格・人生に対し、ニュメロマニアという他に無い側面を予測し、そうであったとする乏しい痕跡を見出し、小躍りして採用・喧伝したとの印象を拭えない。
そして清張作品を信奉する一方で作曲家と無縁の衆生は、この作品から「ブルックナーなる作曲家はニュメロマニアである」と単純に刷込まれていくのではなかろうか?何かぞっとせぬ光景ではある。


◆忸怩たる記憶=数えられなかった話= 
 わが国のアマチュアオーケストラがブルックナーの交響曲をようやく採り上げるようになったのは、1970年代も半ばにさしかかった頃だろう。前記の通り新響が『ロマンティック』を演奏したのが1975年。この辺りが本格的にブルックナーに取組み始めた嚆矢ともいうべき時期だったように認識している。以前にも『維持会ニュース』に書いた事があるので重複は極力避けるが、僕が早稲田大学交響楽団(ワセオケ)に入団した翌年の1978年1月初頭に、交響曲第7番をこの学生オーケストラは演奏している(指揮は新響と同じく山岡重信氏)。
 続く7月には在京学生の選抜オーケストラであるジュネス・ミュジカル・シンフォニーオーケストラがNHKホールで第9番を演奏。このオーケストラ自体が、通常の学生オケでは演奏が困難な作品を大学の枠を超えた選抜メンバーで実現させる事を目的としていた。その団体にしてブルックナーであり且つ第9番ある。位置づけは自ずから判ろうというものだ。この時オーディションに通って、2番フルート奏者として参加出来た。個人的に初めてブルックナーを演奏した訳だが、恐らくアマチュアオケがこの未完の交響曲を採り上げたのはこれが最初で、いきなり第9番からブルックナーに入ったという経験は、その後の人生に何らかの影を落として今に至っている、と言えるかもしれない。
 なおこの時の指揮も山岡氏。こうして当時を振り返ってみると、氏がアマチュアへのブルックナー浸透に果たした役割は大きかったのだと改めて認識する。この後、どこのオーケストラでも大抵『ロマンティック』か第7番しかとりあげない時代が長く続いた。この2曲が他に比べて「解り易い」ものであり、技術的にも何とかなる(と思い込める)ものだったから・・・・と言えようか?


 この直後の9月、ワセオケは総勢150名ほどで渡独。ベルリンで開催された第5回国際青少年オーケストラ・コンクール(いわゆるカラヤン・コンクール)に『春の祭典』をメインプログラムに引提げて参加し、優勝を果たした。すると当のカラヤンが優勝のご褒美として我々を指導してくれる事になった。それは良かったのだが指導の対象として『春の祭典』をとりあげるのは、コンクールの結果が出来レースではないか?との誤解を生じる懸念が持ち上がり、急遽別の曲をという運びに。そこで俎上に上がったのが年初に演奏したブルックナーの第7番だった。長い曲なので第1楽章のみとなったがそれで充分だった。
 確かにこの交響曲を演奏した直後からはコンクールを目指して丸々半年に亘って『春の祭典』ばかりを練習していたのだから、それがダメとなれば直近で演奏した(つまり最も練習に時間をかけた)曲はワセオケにとってブルックナーという事になる。僕は『春の祭典』こそローテーション入り(ピッコロ)していたが、まだ1年生だった年初のブルックナーとは無縁。演奏経験のある上級生はひしめいているとあって、「あ、これでカラヤンとは縁が切れたな」と諦め、やや自棄気味に羽をのばし、西ベルリン(まだ壁があった時代である)の街を飛びまわった。
 だが、宿舎に帰ると筆頭トレーナーのT氏よりお呼びがかかった。このT氏とは、今年2018年7月下旬に『週刊文春』誌上で、2年ほど前に起こしたワセオケの現役学生に対するパワーハラスメント問題を録音音声付きで暴かれた、後の「永久名誉顧問」・・・・記事が出た直後に退任した・・・・である。だが当時は間違いなくコンクール優勝の真の立役者にして功労者だった(故に例の記事によって「晩節を汚してしまったな」との個人的な思いはある)。
 さて、T氏のもとに出頭すると「ブルックナーの1番フルートは君が吹きなさい」とのご下命。「大」の字が付くかどうかは分からないが明らかな抜擢だ。かたじけなさに涙こぼるるまま退出したは良いが、そもそも練習しようにも譜面も無いのである。ちょっと楽譜屋に立ち寄ってパート譜を買い入れて、という事の出来るようなシロモノではない。もちろんこれはオーケストラ全体もそうで、こんな事態を想定して日本からブルックナーの譜面を携えて来ている筈もない。


 だが翌日には1番フルートの譜面が手渡された。今でも忘れる事のない深いブルーの表紙のパート譜。めくってみると最初のページの角に"Berliner Philharmoniker"というスタンプが捺してある。何と!ベルリンフィルハーモニー管弦楽団所蔵の譜面だった。通常は門外不出の扱いの筈だが、まぁあの「帝王」カラヤンがひとたび「やる」と口にしたのだ。山だって簡単に動こうというものだ。譜面くらい何でもない。
 当たり前だが1番フルートのパート譜はこの1冊しかない。すなわちオーレル・ニコレやカールハインツ・ツェラーやジェームズ・ゴールウェイなど歴代の名首席奏者らが使用した譜面そのものが、いま自分の手元に回ってきた訳である。社会経験も音楽経験も乏しくボンヤリしていた(これは今も変わらず)20歳当時とは言え、流石にこれは大変な事を引き受けてしまった、という悔悟の念がひしひしと湧いてきた。

 初練習はさる教会で行われた。茫然自失の体で臨んだ為この教会の佇まいさえよく覚えていないのだが、練習に先立って例のT氏が、「この教会を使える事になったのも、日本の国際交流基金の支援対象に今回のワセオケがなっていて、そのお墨付きがあっての事だ」という趣旨の説明があった。何の事かよく判らなかった。
 だが、この日の練習後誰からともなく「あの教会は有名な『イエスキリスト教会』ではなかったか?」と囁かれ始めた。フィルハーモニーザールが完成する以前、ベルリンフィルと名指揮者による往年の名盤の録音が多々行われていた教会である。現在のように簡単に情報が入手できる時代ではないし、個人的にはこの日の記憶だけがひどく曖昧なのでその真偽は判らない。
 唯一よく覚えているのは、そうした贅沢ずくめの環境下での練習に於いて、「案の上」自分の出来が非常に悪かった事だ。いかんせん・・・・並み居るメンバーの中で自分だけが演奏経験が乏しい上に、山岡氏(そもそもワセオケOBにして、この時音楽監督としてコンクールの指揮も務めていた)の振りがよく分からないとあって、出るべき処で出られず、余計な処で飛び出す事に終始した。挙句に周囲の上級生(2年生たる自分以外みんな上級生だが)から、「この曲知らないのか?」と訊かれる始末。まぁ何を言われても仕方ありませんです、はいという開き直りの心境となった。


 何が問題だったか?は自分でもよく解っていた。このブルックナーの作品の小節を「数えられなかった」のだ。第1楽章は終始2/2拍子、すなわち二分音符を1拍として1小節2拍。それが443小節あるので指揮者は886拍を振る(そんなに振っているのか!)・・・・というほど単純ではない。テンポが一定の行進曲とは違うのである。ブルックナー特有の第1楽章のテンポは2拍子としては遅すぎ、4拍子に分けて振るには速すぎる上に、一定ではないので指揮者は演奏者の理解を助けるためにも2拍と4拍の部分を振り分ける。
 この区分は指揮者によって異なり、それが指揮者独自の解釈を構成する重大要素でもあるので、マエストロを迎えての初回練習では「ここは2つ(拍)で振る」とか「ここからは4つで何小節目から2つ」というような説明が必ずあり、それを譜面に書き込む不可欠な儀式が行われる事になる。そして既に前年の後半、6か月以上にも亘る練習を経て、本番での演奏経験のある諸先輩方は、山岡氏のそうした振り分けがしみついており、何の違和感もなく棒に反応する。その中にあって新参者の僕だけがその洗礼を受けておらず、且つベルリンフィルからの借り物の譜面には拍の書き込みもない。今考えると不思議に思うほど何の書込みも無かった。だがこの楽章の前半にあるフルートのソロの部分には運指に関する記号が書き入れてあったから、明らかに演奏の現場で使われた譜面である。
 このように何の手助けも無い状態となれば、トラブル発生は必至だった。長い休みの小節を数える間に、山岡氏の棒の動きを凝視すればするほど、それが2拍なのか4拍なのかが曖昧に見えはじめ、曲がどこまで進んでいるかが判らなくなって自分の出番を誤る事を繰返したという次第。当時の経験不足を度外視しても、これはやはり当然の帰結だったと思う。


 消沈して宿舎に帰ると、次の練習に捲土重来を心密かに誓い、パート譜に愧じぬ演奏を期して独り「数える」練習に励んだ。ところがカラヤンを指揮台に迎える件は、その後数日にして水泡に帰した。彼がザルツブルグ辺りで練習の折に指揮台から落ち、腰を痛めてしまったからである。彼はワセオケを指導するという約束自体は翌1979年10月に日本で果たされたが、曲も異なればワセオケの技量も変わってしまっていた。ブルックナーの第7交響曲をカラヤンの指揮で演奏する機会は永久に失せてしまった訳だ。負け惜しみ半分交じりの気分で「残念」と思った記憶が去らない。


 爾来ちょうど40年の時が過ぎた。いままたこの作品を演奏できるのは奇縁とも云うべきだろうが、過去の経験から照らして、毎回の練習に振り向けるエネルギーの半分は小節数を「数える事」に費やされるだろうと予感している。これが基本動作とは理解しているが、いくつになっても同じ事を繰返しやっているなぁ。
そして・・・・それでも時に数え間違える。「命長ければ恥多し」という兼好法師の言葉がどこからか聞こえてくるような心地もする。わが身に苦笑禁じ得ず。

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