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新交響楽団在団44年の思い出-③

元新響コンサートマスター:都河 和彦


編集人より
 コンサートマスターを長年に亘って務められた都河和彦氏による回想録を、前々号より、掲載しております。以下に新響創立30周年からの10年間のうち芥川氏の死去前後までの、前半部分をご紹介致します。

◆創立30周年(1986年)からの10年間-1
 1986年4月にはヤマカズ先生指揮でマーラーの交響曲第8番『千人の交響曲』を演奏、7月には芥川先生指揮でショスタコーヴィッチの交響曲第4番の日本初演、そして11月には全団員の念願だった『芥川也寸志個展』が開かれました。マーラーでは本番前日のゲネプロ会場に困っていたら、開館間近だったサントリー・ホールが音響テストを兼ねてホールを提供してくれました。本番では東京文化会館の舞台を大幅に広げ、8人の独唱者、3つの合唱団が参加して文字通り千人で演奏、新響史上最大規模のコンサートだったと思います。
 芥川個展について先生は長らく固辞しておられたのですが、多くの団員の懇請でようやく実現しました。芥川先生は常々「新響コンサートのプログラムは将来、新響の歴史を示す貴重な資料になるものだから心をこめて編集しなさい」とおっしゃっていましたが、落合宏氏、樋口のぞみさんが中心になって編集し、先生の数多くの写真・資料や寄せ書き等で分厚く、表紙に『新響と30年 Yasushi Akutagawa 1986』と先生の自筆署名があるこのコンサートのプログラムは新響史上最も豪華なものでした。

 87年4月、芥川先生が親交のあった中国人作曲家の3作品と上海音楽院生の左軍(さぐん)氏独奏のチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲による「中国作品展」が開催されました。呉祖強(ごそきょう)作曲のゆったりとした「二泉映月」は、私共日本人にとっては歌い方がよく分からなかったので、当時読売日本交響楽団のコンマスだった中国人ヴァイオリニスト潘寅林(ばん・いんりん)氏をお招きしてポルタメントのかけ方等について指導を受けました。また左軍氏の楽器はあまり良くなかったので本番では当時理事長だった松木英作氏が自分の名器「ヴィヨーム」を貸し、左軍氏は見事な演奏を披露しました。演奏会終了後のパーティーで何人かの団員による「松木さんは左軍さんにヴィヨームをあげるべきだ」とのシュプレヒコールが起きたので、松木氏は真っ青になっていました。この時の超美人の中国人通訳だった湯(たん)さんの紹介で、無量塔蔵六氏のもとでヴァイオリン造りを学んでいた中国人・陳宇さんが翌年新響に入団しました。私は彼の日本での保証人になりましたが、数年前日本に帰化しました。彼は成城学園前で「弦楽器トリオ」(私が名付け親です)を経営、多くの新響団員の楽器のメンテナンスを引き受け、度々工房で開く室内楽パーティーでは水餃子をはじめ、様々な中華料理を御馳走してくれています。

 88年7月のヤマカズ先生のマーラー・シリーズ最終回(11回目、メインは交響曲第1番)では冒頭の曲目を変更してマーラーの交響曲第9番4楽章を演奏しました。前年脳溢血で倒れ、11カ月間昏睡したまま88年4月に逝去したコンバス奏者、橋谷幸男氏を追悼するためでした。彼は私より5歳年下で早大在学中の1969年末に新響に入団、すぐに運営委員長として敏腕を振るい、ヤマカズ先生を説き伏せてマーラー・シリーズを実行、多くの団員から慕われていました。私が勤務していたモービル石油と同じ系列のキグナス石油勤務ということもあって親しく付き合い、新響外で『アンサンブル・フェルマータ』という室内オケを立ち上げ10年ほど一緒に活動しました。追悼演奏のマーラー第9番終楽章「アダージオ」の終盤部はpppやppppと最弱音になります。橋谷氏の死の哀しみのためか、ヤマカズ先生の棒が厳しすぎたのか、この個所で私の弓が震え出し何人かのヴァイオリン・メンバーに伝染させてしまいました。弦楽器は弱音で弾く時、右腕が緊張すると弓が勝手に?震えてしまうことがあります。大昔、フルトヴェングラーがベルリン・フィルに最弱音を要求したら弦の首席奏者達は怖くて音が出せず、弦楽器パートの後方から細々とした音が聴こえてフルベンは満足した、という話を聞いたことがあります。又、最近読響のコンマスを引退された藤原浜雄氏は昔「弓が震え出したら、楽器を上に挙げれば良い」とおっしゃったそうですが、残念ながら当時私はその秘策を知りませんでした。

 89年1月31日、新響を33年間育て、私が21年間お世話になった芥川先生が63歳の若さで逝去されるという悲しい出来事がありました。青山葬儀場での盛大な葬儀には師匠の伊福部先生を初め、土井たか子社会党委員長も参列されていました(芥川先生は政治的には左派で私が新響に入団した1968年には美濃部革新派都知事を応援しており、4月の知事就任1周年記念集会で新響は芥川先生作曲の革新都政応援歌?を演奏しました。團伊玖磨、黛敏郎と53年に結成した『3人の会』で黛氏は右派だったのは興味深いことです)。弔辞では黛氏が「芥川さん、あなたは日本音楽著作権協会理事長などの激務を重ね死に急いだ、壮烈な文化への戦死だった」と述べられたと記憶しています。
 先生が4月に振る予定だったストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』とチャイコフスキーの『悲愴』は、ヤマカズ先生紹介の若手指揮者、本名徹二氏が振ってくださいました(本名氏にはその後、40周年(1996)の2日連続の邦人作品演奏会と郡山演奏会(2004)でお世話になることになります)。『悲愴』終了後、私が「天国におられる芥川先生へ捧げます」と短いスピーチをして、先生の『交響管絃楽の為の音楽』第2楽章を追悼演奏として、指揮者無しで演奏した思い出があります。
 5月にはサントリー財団主催の芥川也寸志追悼コンサートがサントリー・ホールで開かれ、新響が芥川先生の遺作を含む数曲を外山雄三氏の指揮で演奏しました。コンサート後のパーティーで私が外山先生に「新響は20年近く前に先生にチャイコフスキーの4番を振っていただきましたが、もうアマ・オケは振りたくない、とおっしゃっていました」と話したら、「ボク、そんな失礼なことを言いましたか?」と、とぼけて?いらっしゃいました。      
芥川先生逝去の半年後、埼玉県松伏町に先生が建設に関与した『田園ホール・エローラ』が完成、90年1月新響は森山崇氏指揮で芥川作品ばかりのコンサートをこのホールで開きました。また同年4月にサントリー音楽財団が「芥川作曲賞」を創設しました。


 89年7月の定期では、指揮者今村能氏の提案で今村氏と親しい新進気鋭の作曲家細川俊夫氏に『ヒロシマ・レクイエム』の作曲を委嘱、サントリー・ホールで初演しました(今村氏は87年にもルストワフスキ『管弦楽のための協奏曲』等を振っていただいたのですが、私は仕事が多忙で休団していました)。『ヒロシマ~』は8人の独唱、2つの合唱団、そして日本語の語り二人と英語の語り一人が入る大規模な曲で、英語の語りは当時新響チェロ団員だったアメリカ人のジョン・ブロウカリング氏が担当しました。作曲者の細川氏はクフモ音楽祭と重なり初演の会場に見えませんでしたが、5月の鹿嶋合宿に現代音楽専門のコンバス奏者、溝入敬三さんと来て下さり、現代音楽についてレクチャーしてくださいました。「皆さんは例えばドとレの間にはドのシャープかレのフラットしかない、と思っているでしょう。でも理論上もっと多くの音が無数に詰まっているんです。それらの音を使ってあげないと可哀そうじゃないですか」とのコメントには全団員唖然としました。
 10月、私が80~82年のNY滞在中に知遇を得、88年から日本で指揮活動を始めた原田幸一郎先生が新響の指揮台に登場、やはりNYで知り合ったチェリスト毛利伯朗氏(現読響首席)がドヴォルザークのコンチェルト(ドボコン)を弾いてくださいました。毛利氏はドボコンの最初の練習には我々が合宿中だった鹿島ハイツに夜間タクシーで駆けつけ、すぐ私達の酒盛りに加わりました。翌朝の初練習でチューニングの時「ワー、指先までアルコールが残っている!」と叫んだのですがソロを弾き始めた途端、すべての団員が彼の素晴らしい音色、表現力、技術にあっという間に引き込まれてしまいました。本番も見事な演奏で、第3楽章終盤での毛利氏とコンマスだった私との丁々発止の掛け合いは未だ脳裏に残っています。


 90年1月20日、『追悼・芥川也寸志』の定期コンサートが新宿文化センターで開かれ、芥川作品3曲をヤマカズ先生が振ってくださり、『ポイパの川とポイパの木』の語りを岸田今日子さんがしてくださいました。1月27日は松伏町の依頼、翌28日は台東区の依頼で芥川作品を演奏し、27日は森山崇氏指揮(於エローラ・ホール)、28日はヤマカズ先生指揮(於奏楽堂)でした。(2012年11月30日記)


(次号に続く)
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