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親父の「ツァラ」

新響テューバ奏者:土田 恭四郎


 「恭四郎、カラヤンという指揮者とベルリンフィルの演奏会が近々あるのだが、一緒に行かないか?」 突然父から言われ、面食らった。1979年秋のこと、私は4年目の気ままな大学生活を満喫していた時である。なんでも外国人の接待でベルリンフィルの来日公演チケットを押さえたが席が余っているのでどう?とのこと。普段の父とは様子が違っていて、こちらの様子を伺いながらの申し入れに対し、即座に反応したのはいうまでもない。30代で香港の領事をしていた父によれば、「海外ではこのような演奏会に招待という接待がある。お前はただ演奏会にくればいいから。」という話だった。たぶん兄達は家にいなかったのと、どうも事前に断られた様子もあり、声をかけてくれたのだろう。父からまともに演奏会の誘いがあったのは初めてのことだった。
 この年のカラヤンとベルリンフィルとの来日公演は、すごいプログラムであった。10月16日から26日まで、東京の普門館にて、マーラー交響曲第6番『悲劇的』、シューベルト交響曲第8番『未完成』とチャイコフスキー交響曲第5番、ドヴォルザーク交響曲第8番とムソルグスキー(ラヴェル編)組曲『展覧会の絵』、ベートーヴェン交響曲第9番『合唱』、ハイドンのオラトリオ『天地創造』、ヴェルディ『レクイエム』、モーツァルト『レクイエム』とブルックナー『テ・デウム』、というラインナップ。最初の10月16日が、モーツァルト交響曲第39番とR・シュトラウス『ツァラトゥストラはかく語りき』であった(その後の演奏会に連日一番安い席を求めて通い詰め、ベルリンフィルに酔いしれた思い出がある)。
 当時の父は、横須賀にあるB大校長という要職にあり、普段は母上と横須賀に近い官舎で生活していたので、たまたま家に帰って来た時のことであろう。その後チケットが郵送され、席で会おうとのこと。上着を着てネクタイを締めて会場に行ったら既に父と母上が到着しており、その後外国人の夫婦がやってきて型どおりの挨拶を済ませ、演奏が始まるのを緊張して待った。あのバカでかい普門館で座席が前の方の上手側であったためか、電子オルガンのスピーカーが目の前にあり、その存在感のあるスピーカーから出てくるバカでかい冒頭の電気的な重低音、レコードで何度も演奏を聴いた綺羅星のごとくのトッププレーヤー達のソロが印象に残っている。電子オルガンは「パナトーン」(パナソニック製)だった。


 K察官僚として数々の修羅場を乗り越えてきた父は、若い時からとにかく剣道一筋、武道と海軍(主計中尉として軍艦「武蔵」乗艦)、そして国家公務員としての矜持は強靭なものであった。一族の長としてどこに行っても常に中心に居て、その風貌から「威厳」があり、よくいえば「謹厳実直」、悪く言えば「単純」というか、よく母が生前「単細胞」といって笑っていたのを覚えている。クラシック音楽とは全く無縁と言ってもよく、普段は話題にもあがらなかった。ときたま朗らかに、「お前達は俺のことクラシックを知らないと思っているだろう、俺はベートーヴェンの『月光』ソナタを知っているし弾けるぞ!」と自慢げに語っていた(家族の誰も父のピアノを聴いたことが無い)。
私が高校生のとき、出張でヨーロッパの駐在官の激励巡視があった。玄関にて家族全員で見送りの時、「この出張のために眼鏡とコートを新調したぞ!スーツケースも新しいのを購入したぞ!飛行機はファーストクラスだぞ!どうだ!いいだろう!」と、満面に笑みをたたえて自慢げに言うところが憎めない父であった(因みに最近までこのコートとスーツケースは私が所有し愛用していた)。
 出張の自慢話のひとつとして、ボンのベートーヴェン・ハウスに寄った時、「現地のスタッフに、私はベートーヴェンの『月光』ソナタを知っておる、それに1楽章は弾くこともできる、と言ったら、皆驚いていた!受付にいた地元のおばあさんはとても感心していたぞ!どうだ!すごいだろう!」とよく話していた。ある時、その自慢話をしていた父の隣で、父方の祖母(女高師(注1)から東京音楽学校分校でピアノを習得)が、ぼそっと「あの程度の曲は誰でも弾ける。」と独り言を言っていたのが強烈な印象として残っている。


 父にとって『ツァラトゥストラはかく語りき』という曲は、冒頭のところのみがこの曲そのものだと思っていたようで、「せっかち」な性分から、座禅とかならともかく、じっとしていることができず、とにかく剣道で鍛えた精神力で「我慢」するという感じであった。1975年NHKホールでのベーム=ウィーン・フィルによるブラームス交響曲第1番を、たまたまテレビ中継で観ていて「ベームとかいう人の指揮は凄い!まさに剣道と同じ間合いに通ずる!剣聖!10段の構えだ!」と、何事も剣道が中心の世界であった。
 自他共に認める超人であった父だが、1997年膵臓癌に侵されていることが判明、手術したが結局癌を除去することができず、退院の時に医師から「あと半年」、と母上に告げられ、本人に知らせることなく家族は覚悟を決めていた。みるみると痩せていく父であったが、母上の懸命な支えにより体力も気力も回復していったのは奇跡であった。
 1998年の秋、両親が住んでいた家に家族でご機嫌伺いのため行った時、何気なく新響の話とか演奏会のことなどについて話をしたところ、是非演奏会に行きたい、とのこと。大町先生による『ツァラトゥストラはかく語りき』の演奏会(注2)であった。「この曲なら知っている。」とのこと。その演奏会には母上と共に来場、終演後にロビーで会った時、「楽しかった!おまえもなかなかやるな!」と、満面の笑みで一言。父にとって最初で最後の新響の演奏会となった。翌年1999年1月に体調を崩して入院、道場に立ちたいという強い意志を見せながら、7月4日早朝に家族全員で看取られてその波乱に満ちた77年の生涯を閉じた。
 思えば、父にとって『ツァラトゥストラはかく語りき』は特別な何か共感するようなものであったのではないだろうか。父の存在と生涯がこの曲に被っているように思えてならない。冒頭の「きわめて幅広く」曙が到来する単純だがハ長調という絶対的な主題は、父の姿そのものである。「大いなる憧憬」や「歓喜と情熱について」は表情豊かで人間性溢れる父の憧れと悩みの表現であり、「埋葬の歌」は戦争経験や修羅場に直面した時の深い感情、思索と沈静の姿と重なる。「科学について」は、厳格な対位法から派生した科学的な形式としてのフーガとして、幼少のときからの厳しい教育と躾による自覚を伴った哲学の勉強と官僚となっての姿、別の見方をすれば剣道を通しての厳格な姿勢が出ており、「嫌悪の主題」は、曲がった事が嫌いな性格からくる雄叫び、もっとストレートに言えば凶悪犯罪に立ち向かう父の慟哭とつながる。「病より癒えゆくもの」は、建前(フーガ)と本音(嫌悪)が、官僚としての生涯を通して常に対峙していたことを示しており、「舞踊の歌」は周囲に見せていた陽気な姿といえる。そして「夜のさすらい人の歌」は、晩年の姿で、死を前に深い思想に包まれるかの如く、ゆっくりと静かに過去を回想してさまよう姿であり、解決されない知性と感性の相剋の謎を残して、私にその問題を残して旅立っていく父の姿であろうか。


 「真の紳士にして、真の武人であれ」をモットーにB大では常に学生を鼓舞し、魅力ある人物としてその生涯で多くの人から慕われていた父は、峻厳と寛容を持った意思の人であり、情の人として多くのエピソードを残していった。「ツァラトゥストラはかく語りき」は私にとって父への憧憬である。この曲を通して親父としての父と対峙することで、父への想いをかみしめていきたい。


注1)
女高師⇒東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)


注2)
第163回演奏会
1998年10月4日(日)東京芸術劇場
曲目 リスト/レ・プレリュード
    シューベルト/交響曲第8番ロ短調『未完成』
    R.シュトラウス/『ツァラトゥストラはかく語りき』
    J.シュトラウス/歌劇『こうもり』序曲(アンコール)
指揮 大町陽一郎

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