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新交響楽団在団44年の思い出-①

元新響コンサートマスター:都河 和彦


 新響維持会員の皆様こんにちは。新響創立(1956年)12年目の1968年に入団、44年間在籍して35年間コンサート・マスター(コンマス)を務め、ここ数年はヴィオラを弾き、今年7月に退団した都河(つがわ)和彦です。このたび皆様の維持会に入会させて頂き、これからは新響を応援する側に回りたいと思っていますのでよろしくお願いします。このたび『新響維持会ニュース』編集人の松下俊行氏から「いくら長くても良いから維持会ニュース用に在団時代の思い出を書け」との命を受けたので僭越ですが、入団前の新響の歴史にも触れ在団期間中の思い出を年代順に述べさせて下さい(新響創立50周年記念演奏会[2006年]のプログラムに掲載された過去50年分の演奏記録と今年10月の定期演奏会プログラムの「最近の演奏会記録 2006年~2012年」を参照しながら思い出を綴りました。オーケストラの活動には演奏と運営の両面がありますが、私は新響ではずっと演奏サイドでのみ活動してきたので、以下でたまに触れた運営に関する記述には少々不正確な記述があるかも知れません。正確な「新響56年史??」を書くためには、各時代に演奏・運営面で活躍した数多くの団員の証言が必要と思います)。

◆新響創立(1956年)からの10年間
 上記創立50周年年表によると、1955年2月労音アンサンブル結成、同年9月芥川也寸志氏を指揮者に迎え翌56年8月、正式団名を「東京労音新交響楽団」に決定、とあります。
 ここでウィキペデイアによる芥川先生の略歴に触れておくと、1925年7月12日に文豪芥川龍之介の三男として生まれ(父は27年に自殺)、43年東京音楽学校予科作曲部に入学、44年学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊。戦後45年に東京音楽学校に復学した時、作曲科講師の伊福部昭と出会い決定的な音楽的影響を受けます。50年に『交響管絃楽のための音楽』がNHK放送25周年記念懸賞で特別賞を受賞して一躍有名になり(25歳)、54年にはまだ国交がなかったソ連に自作を携えて単身密入国、ソ連政府から歓迎を受け、ショスタコーヴィッチ、ハチャトリアン、カバレフスキーの知遇を得たそうです(29歳)。アマチュア演奏家達の熱意に打たれて新響を創立した56年は31歳の若さだったということになります。翌57年はヨーロッパ旅行の帰途インドに立ち寄ってエロ-ラ石窟院の巨大な岩を削って造られた空間に衝撃を受け、この時の感動から『エローラ交響曲』を作曲、伊福部昭と同様に若き芥川に大きな音楽的影響を与えた作曲家、早坂文雄に捧げたそうです。
 上記年表によると、新響は57年に第1回、58年に第2回の定期演奏会を日本青年館で開き、59年に会津労音例会、60年は上田・熊谷労音例会、61年は秩父・熱海労音例会に出演、62年には4月の東京労音で4回、5月の栃木労音で2回のコンサートを開いています。63年は東京労音、水戸労音等でベートーヴェンの『運命』を中心に計7回の演奏会をこなした後、12月には東京労音例会で第九を5回公演しています。
 64年4月は北海道各地の労音で連続5日の演奏会、5月に定期、8月にサマー・コンサート、そして10月東京労音八王子例会、となかなか忙しい年だったようです。
 65年はもっとすごくて、2月の定期のあと3月と4月に4回の東京労音例会、4月下旬からは四国各地の労音で7回の演奏会、7月に浜松労音で2回の演奏会、8月サマー・コンサート、9月日立労音、12月定期等々、今では考えられない過密なスケジュールをこなしています。メンバーは現在と同じで殆どサラリーマンだった筈、どのようにしてこの過酷なスケジュールに対処できたのでしょうか?

◆創立10周年(1966年)からの10年間
 「66年2月に東京労音から独立」と50周年年表にはあります。私が大学4年生だった66年の『週刊朝日』に、「新響が労音からケンカ別れした」という趣旨のトップ記事が掲載され、冒頭の「この事件の主人公は白いシトロエンに乗って颯爽と登場する。」という名文?と芥川先生の写真は今でも記憶にあります。「労音の新響に対する運営や選曲への干渉が煩わしくなって独立することにした」というのが記事の趣旨だった、と記憶しています。

 労音から離脱したこの年は創立10周年に当たり、4月の定期演奏会の後、9月・10月・11月・12月の4回の演奏会でベートーヴェンの交響曲全9曲を演奏する「ベートーヴェン・チクルス」を敢行しています。
 1967年9-10月に新響は日ソ文化交流協定に基づいて訪ソ親善演奏旅行を行っています。4月に14回定期、8月に訪ソ記念特別演奏会を開いた後、9月22日~10月9日にモスクワ等4都市で5公演を行いました。東大オケ5年生だった私は(留年しました)この直前に新響のオーディションを受けて合格したのですが、「ソビエト旅行のメンバーはもう確定している」とのことで参加できませんでした。
 67年12月の第15回定期演奏会も私は多忙で出演できず、東大と東大オーケストラを卒業後モービル石油(株)に入社した1968年4月の定期が新響初舞台でした。新響の練習に参加してみて、芥川先生(当時42歳)の力強い指揮ぶりに圧倒され、また並はずれた行動力や企画力、先見性に感銘を受けました。常にパリッとした濃紺のジャケット、折り目のついたグレーのズボン、糊のきいた青いワイシャツ、赤と紺のストライプのネクタイ、ピカピカに磨かれた革靴というダンディーぶりにも感服しました。殆どの練習には外車を運転して来られ練習後、原宿の中華料理店「南国酒家」で夜食をよく御一緒した記憶があります。
 このコンサートでは東京交響楽団(東響)の若きコンサート・マスターだった徳永二男氏がメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を独奏、メインはベルリオーズの幻想交響曲でした。(翌69年11月東大オケ同期でチェロを弾いていた明子と結婚したのですが、彼女にとってもこのコンサートが新響初舞台でした。東大オケで『幻想』を演奏したばかりで新響はチェロ奏者が足りなかったので、オーディションを受けずに「もぐり入団」出来たそうです。)新響の当時のコンマスは東工大出身の河野土洋氏で、私はこのコンサートではファースト・ヴァイオリンの第3プルト外で弾いたのですが、このコンサート後私もコンマスに任命されました。
 当時、芥川先生は東京交響楽団(東響)の財政再建のため同団の理事を務められており、東響に維持会員制度を導入、後日新響でも採用したと記憶しています。その関係で同年8月、東響・新響の合同演奏会が秋山和慶・芥川也寸志両氏の指揮で開かれました。弦の奇数プルトは東響、偶数プルトは新響ということで、コンマスは徳永氏、私は第2プルト内で弾きました。東響との合同演奏会は前年の67年10月、4年後の72年8月にも行われました。
 68年10月の定期には芥川先生が当時指揮界の巨匠だった近衛秀麿先生にお願いして、モーツァルトの『ジュピター』等を振っていただきました(創立12年目の新響にとって初めての客演指揮者だったそうです)。近衛先生の指揮は分かりにくく、皆で「先生の肘の動きに合わせよう」などと打ち合わせた記憶があります。
 芥川先生は前年67年にアマチュア合唱団「鯨」を立ち上げており、68年12月ベートーヴェンの『第九』で2回共演しました。私にとって『第九』はあこがれの曲でしたがそれまで弾く機会がなく、これが私の「第九初体験」でした。「鯨」との年末共演は翌69年はヘンデルの『メサイア』でしたが、70年からは連続5年間、いずれも『第九』の2回公演を実施しました。
 69年8月から芥川先生の仕事の都合で練習日が土曜から木曜に変わりました。72年4月から又土曜に戻りましたが、この間会社に楽器を持参せねばならず、練習に間に合う様に会社を抜け出すのも大変でした。先生も忙しくて練習に遅刻したり、練習が予定通り進まなくて一音も出すことなくスゴスゴと帰る団員もいた、と記憶しています。
 69年10月末から10日間、九州沖縄芸術祭参加の演奏旅行があったのですが、コンマスの河野氏は参加できず、私も仕事の都合と自分の結婚式の準備で参加できなかったので、上智大学出身の秋山俊樹氏が急遽入団、コンマスを務めてくれました。

 70-72年頃、組織改革がありました。芥川先生は「音楽はみんなのもの」が口癖でテレビでは柔和な笑顔を振りまいていましたが、我々新響団員に対しては「作曲家と指揮者は神様と思え」も口癖で、我々の拙い演奏には苦虫を噛み潰したような厳しい表情で叱咤激励していました。この頃数多く入団してきた民主的運営の学生オケ出身者が新響の「芥川独裁」「芥川・アンド・ヒズ・オーケストラ」といった雰囲気に反発、団内に不協和音が流れ始めたので数グループに分かれて話し合いが持たれました。結果として芥川先生のそれまでの功績に対し、今迄の「常任指揮者」に加え「音楽監督」にもなっていただいて権限をより強化し、団員は先生に忠誠を誓うという形で落ち着いた、と記憶しています。またそれ以前の運営体制は常任指揮者・委員長、副委員長2名、事務局長、数人の各委員という構成でしたが、72年頃には音楽監督兼常任指揮者、理事長、運営委員長、技術委員長(私)、事務局長から成る「理事会」が団運営の道筋をつけていくようになりました(その後、いくたびの変遷を経て、現在の団長、運営委員長、演奏委員長、インスペクター、各委員の体制に落ち着きました。新響には創立以来「規約」が存在し、組織等についての規約変更は、各年末の総会で諮られ多数決で決定されてきました。
 70年に芥川先生は3度目の結婚をされ、成城学園前に豪邸を新築なさいました。打ち合わせのため理事会メンバーで何度かこのお宅にお邪魔しましたが、忙しい先生に1時間ほど待たされるのが常でした。

 70年11月は外山雄三氏を客演に迎え、チャイコフスキーの交響曲第4番等を振っていただきました。藝大卒業後N響に入団、ウィーンに留学という輝かしい経歴で、ずっとプロ・オケばかり振ってきた厳しい練達の棒についてゆくのが大変で、打ち上げの席では「もうアマチュアは振りたくない」という意味のことをポロッとおっしゃいました。

 71年8月のサマー・コンサートでの芥川先生指揮・リムスキー=コルサコフの交響組曲『シェラザード』では私がヴァイオリン・ソロを担当しました。このコンサートでは「服装自由」だったので私は黄色と青のアロハシャツを着て弾いたのですが、隣席のサブ・コンマス秋山氏はデザイナーの奥様初瀬さんがデザインした「白装束のアラビアの王様」の衣装で登場して聴衆に大受けし、私のソロはすっかり霞んでしまいました。
 71年10月の定期で新響は初めてマーラーを取り上げました。交響曲第1番です。9月末の鎌倉合宿で芥川先生が、「新響はついにマーラーを演奏できるまでになった!」と感慨深くおっしゃったのを未だに覚えています。

 芥川先生は若手有望指揮者と見込んだコバケン(小林研一郎氏)にも新響の指揮を何度か委ねました(71,72年)。73年暮の『第九』は芥川先生が振る予定だったのですが直前に風邪で倒れ、急遽コバケンが暗譜で振ってくださいました。このコバケンが74年の第1回ブタペスト指揮者コンクールに出場することになり、新響が課題曲の練習台になったのですがその甲斐あって?彼が優勝したのはなつかしい思い出です。
 73年8月のサマー・コンサートの『ピーターと狼』では芥川先生が浪花千栄子さんにお願いして名調子の語りを披露して頂きました。
 74年8月のサマー・コンサートではチャイコフスキーの『白鳥の湖』抜粋を演奏しましたが、黒柳徹子さんが素晴らしい語りをしてくださったこと、そして『ナポリの踊り』でトランペット(Tp)の野崎一弘氏がこれまた素晴らしいソロを聴かせたことは未だ記憶に残っています。野崎氏の父上は昔N響のTp奏者で、彼はその後も数々の名演を新響演奏会で披露、私と同年代ですが現在もTpの首席を務めています。
 当時、芥川先生は尊敬してやまないストラヴィンスキーの3部作(火の鳥・ペトルーシュカ・春の祭典)の一挙上演が夢で、73年『火の鳥』 74年『ペトルーシュカ』、75年3部作全曲と3年がかりの周到な準備で上演を成功させました。74年、75年と『ペトルーシュカ』のピアノ・ソロを2回名演し、ここ数年私の飲み仲間だった渡辺達氏が今年4月、62歳で急逝したのは悲しい出来事でした。

 75年10月の定期は早稲田大学オケ出身で読売日本交響楽団(読響)ヴィオラ奏者を経て指揮者に転向した山岡重信先生を初めて迎え、ブルックナーの交響曲第4番等を振っていただきました(山岡先生は、私は渡米中で出演できませんでしたが、80年と81年にも振ってくださいました)。このコンサート直前の合宿では、合唱団「鯨」の紹介で鹿島神宮にある雇用促進事業団運営の「鹿島ハイツ」を初めて使いました。それ以前は軽井沢、岩井等の宿泊施設でしたが、「鹿島ハイツ」は都心からは少々遠いものの、音楽ホールがあって他の設備(大浴場・テニスコート・宴会場等々)も充実した理想的な合宿所で、その後2007年まで毎年のように年2回、2泊3日の合宿を行いました。合宿2日目夜の宴会では新入団員が何らかの芸を披露するのが慣例となり、楽器以外でも芸達者の団員が多いことに驚きました。何組かの団員家族が車で子供連れて来ており、幼かった我が家の長女と次女も何度か参加して芥川先生に可愛がっていただきました。

(次号に続く)
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