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マーラーとブルックナー ―― 心の拠り所としての神 ――

佐藤 楽(ヴァイオリン)


マーラーは一生を通じて神を探し求めた。ブルックナーは神を見た。
ブルーノ・ワルター


■異邦人としての意識
 今から一世紀半前の1860年7月7日。グスタフ・マーラーはチェコのイフラヴァ(当時オーストリア領ボヘミヤ)近郊のカリシュト村にてユダヤ人ベルンハルト・マーラーとマリー・ヘルマンの第二子として生まれた。幼少の頃からピアノの才能を発揮し、10歳で演奏会を開く程の腕前であった。15歳でウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学する。18歳の若さで同音楽院にて作曲賞を受賞する等、若い頃から才能を発揮した。
 しかしこのような活躍とは裏腹に、ボヘミヤ生まれの異邦人、更にはユダヤ人としての意識は強かった。当時の情勢としてカトリック圏のオーストリアはプロテスタント圏のドイツより更に保守的であり、反ユダヤの思想が渦巻いていた。音楽院を卒業後、指揮者としてのキャリアを積む過程でマーラーは自らの出生と対峙することとなる。ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督候補となった1896年冬の日の事。仲介者の作曲家エデン・フォン・ミハロヴィッチに手紙を宛てている。そこで、彼はユダヤ人である事が就任の妨げになる事を恐れ、自分がカトリックに改宗していることを主張している(しかし、これは事実と反しており、実際改宗しているのは1897年2月である)。結果としては、このような働きかけが実を結び、彼は1897年ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督となる。また1898年には、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者に就任する。
 音楽だけでなく恋愛に関しても非常に努力家であった。音楽院を卒業し、作曲活動が本格化すると平行し、意中の女性のため曲を書いた。王立郵便局長の娘ヨゼフィーネ・ボイスル、カッセル歌劇場の歌手ヨハンナ・リヒター等が有名である。失恋続きであったが、1902年41歳の時、19歳年下のアルマ・シントラーと結婚する。同年に長女マリア・アンナ、1904年には次女アンナ・ユスティーナが誕生する。

■斬新な作風の交響曲
 交響曲第七番『夜の歌』は、この時期から1905年にかけ作曲された。全五楽章編成、『夜の歌』という表題は、第二楽章、第四楽章にある『夜の音楽』というタイトルに由来する。初演は1908年プラハにて作曲者自身の指揮により行なわれたが評価は芳しくなかった。不評の理由はこの交響曲の展開の図式にあったと言われている。具体的には、第一楽章から第四楽章までが、落ち着いた夜の雰囲気を感じさせる曲想である一方、第五楽章で唐突に明瞭なファンファーレが鳴り響き、大音量のフィナーレが始まるといった内容である。周知の通り、従来の交響曲の多くは『苦悩⇒闘争⇒勝利』という図式が伝統的に使われてきた。第七交響曲の場合、言わばそれらからドラマチックな要素がそぎおとされ、単に『暗⇒明』という図式になっていると言える。この斬新な作風の交響曲が聴衆にとって難解であったことは日本においても同様である。日本初演は1937年に行なわれるが(東京音楽学校管弦楽部・プリングスハイム指揮)それ以来、1974年の次回演奏会(東京都交響楽団・渡邉暁雄指揮)まで演奏機会には恵まれなかった。哲学者・音楽評論家テオドール・アドルノ(1903-1969)はマーラー第七交響曲の第五楽章がそれまでの楽章に比べ『軽すぎる』と内容の薄さを批判している。
 斬新な部分は交響曲全体の流れだけでなく、各楽器の音色・奏法にも見られる。まず、交響曲では使用される機会の少ない、テナーホルン、ギター、マンドリン等の特殊楽器が登場する。更に、右手を深く朝顔に差し込んだ独特のホルンの音色、後年のバルトークピチカートを思わせるチェロ・コントラバスの強烈なピチカート等の特殊な奏法がある。ピチカートの最後の一打では(第三楽章401小節目)、マーラーは譜面にフォルテfを五つ重ね『So stark anreißen, daß die Saiten an das Holz anschlagen(指板にぶつかる位に激しくピチカートする)』と表記している。

■ドイツ語の譜面表記から読み取れること
 マーラーの先進的な姿勢は、言語学的な見地、つまりは、譜面に表記されたドイツ語からも読み取れる。マーラー自身がウィーン楽友協会音楽院にて薫陶を受け、妻アルマも敬愛していた作曲家にアントン・ブルックナー(1824-1896)がいる。マーラー第七交響曲と近い時期に作曲されたブルックナー第九交響曲のドイツ語と比較してみると興味深いことが分かる。なお、ブルックナー第九交響曲の作曲年は1896年(絶筆)、マーラー第七交響曲の作曲年の8年前にあたる。
 『冒頭の』というドイツ語を取り上げてみよう。マーラー第七交響曲では名詞の語尾には何も付けず『am Anfang』と記している(第三楽章258小節目等)。それに比較し、ブルックナー第九交響曲では、中性名詞三格の語尾に『e』を付け『im Anfange』と記している(第三楽章77小節目)。中性名詞三格の語尾に『e』を付ける習慣は19世紀においても使われていた古風な言い回しとされている。1900年前後のこの時期においてどちらも同等な頻度で使われていたとすると、『am Anfang』は当時のニュアンスとして、比較的モダンな言い回しだったのではないだろうか。なお、現代ドイツ語の日常会話においては、まず殆どの場合『am Anfang』が使われる。ブルックナー・マーラー共にウィーンを中心に活動しており、地域での言い回しの違いの可能性は考えにくい。音楽以外、単語の選び方一つをとっても、マーラーが常に新しい方向を見据えていたことが伝わってくる。

■心の拠り所を探し求めて
 第七交響曲初演の不評に悲嘆したマーラーであったが、1910年9月第八交響曲の初演が大成功を収めることとなる。その第一楽章のコラールにはカトリック古来の祈祷の言葉が用いられている。これは第七交響曲の初演失敗の反省からとも受け取れる。
 第七交響曲初演前から第八交響曲初演の成功までのマーラーを取り巻く状況は非常に厳しいものだった。1907年、長女マリア・アンナが他界し、マーラー自身も心臓病の宣告を受ける。更に1910年、妻アルマの不貞が発覚し、精神的に窮地に追い込まれたマーラーは精神分析学者ジークムント・フロイト(1856-1939)の被験者となる。このような境遇があってか、第七交響曲の曲想には、方向性が定まらない一種の不安的さを見て取る事が出来る。感情の高まりに反して急激に掛かるデクレッシェンド・ピアノ、不規則なアクセント、定まらない調性(※)そして、既述の突然雰囲気を一新するフィナーレである。言わば、地に足の付かない宙に浮いた状態といったところだろうか。
 ※曲の終始に渡りハ長調とハ短調の間を行き来している第二楽章等

 マーラーは異邦人というだけでなく、どこにも心の拠り所が持てなかったのかもしれない。その作曲活動は試行錯誤の繰り返しであった。脱ユダヤを目指しながらも、オーストリアの伝統文化と同化することもできず、新しい道を模索し続けた。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を僅か3年で辞任したのも、楽団員との音楽的見解の衝突が原因の一つと言われている。『やがて私の時代が来る』という有名な台詞は、新境地を求める者として必然的に出た言葉だった。そう感じるのが自然ではないだろうか。

■あとがき
 チェコは一度だけ赴いた記憶がある。学生時代、ナチス躍進期のドイツの研究のため1年程現地に留学していた。その頃、プラハに音楽留学中の桐朋音大の友人がおり、一度会い行った事がある。その時のエピソードを最後に紹介したいと思う。
 気持ちいい晴れの日、一緒に町を回った。カレル橋、時計台、ヤン・フス像、ドボルザークホール、スメタナホール、そして、山の頂にそびえ立つプラハ城。プラハ城へ続く坂道の途中、ガラス工芸店でボヘミアングラスを買った。素朴な美しさのある透明感だった。チェコの美しい伝統文化と誇りを羨ましく思ったものだった。
 晴れやかな青空、グラスの美しい透明感。しかし、それらと裏腹に、苦悩するマーラーの心は曇り切っていたのかもしれない。

     Hus.jpg
 プラハ旧市街広場にて。手前はヤン・フスの彫像、奥は聖ミクラーシュ教会
  ※ヤン・フス(1369-1414)
  ボヘミヤ出身チェコ人の宗教思想家・宗教改革者。 免罪符に異を唱えカトリック教会と激しく対立。
  1414年コンスタンツ公会議にて焚刑に処され、 故郷ボヘミヤに帰る事はなかった。



●参考文献
・『異邦人マーラー』 ヘンリー・A・リー著 渡辺裕訳 1987年 音楽之友社
・『グスタフ・マーラー -現代音楽への道-』 柴田南雄著 1995年 岩波書店
・『ブルックナー・マーラー事典』 根岸一美/渡辺裕監修 1998年 東京書籍
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