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ブルックナー三昧だったあの頃

土田恭四郎(テューバ)

 思えば、貴重でかけがえのない大学時代は、高校3年の時に入部した部活を通してチューバと合唱にのめりこみ、とにかく演奏する楽しみに埋没していた。

 音楽部は1922年頃創立、オケと合唱が一緒に活動しており、200名を越える大所帯で当時規模の小さい大学としては歴史と人数を誇るクラブである(学内の文科系部活の合計人数より大きかった)。混声合唱団・大学男声合唱団・大学女声合唱団・短大女声合唱団(現在は女子大合唱団)・管弦楽団があり、混声合唱団は各単声の合唱団が集まって構成されていた。春はオケと合唱が個別に、秋は音楽部としてまとまって演奏会を実施している。
 大学3年目の1978年は、なぜかブルックナーの作品を部活以外も含めて3曲続けて演奏する機会に恵まれた。

■交響曲第7番
 3年生になると、担当学年制といってクラブの運営を仕切らなければならない。ということは2年生のとき、来年に向けて指揮者とか曲目について学年皆で検討、ということになる。春のオケの演奏会にむけ、オケの同級生(確か13名ほど?)が集まって2年生の秋から役員の人選とともに、どうしようか、と検討が始まった。指揮者は前年初めてこの大学オケを指揮していただいた高関健さんにお願いすることで満場一致したが、我々の中で曲がなかなか決まらない。当時、部員の一部でブルックナーを話題にする雰囲気が多少あった。他の大学オケでも、例えば隣のW大を始めレパートリーとして演奏されることが多くなってきたこと、音楽ファンの間でブルックナーの人気が徐々に浸透して、ちょっとしたブームになってきたこともあるだろう。藝大の院生だった三番目の兄が持っていた交響曲のスコアを何冊か持ち出して、やれハース版だノヴァーク版だ、クナッパーツブッシュだシューリヒトだ、とか、部室や部活の友人の下宿で皆でレコードを聴いたり、スコアを見ていたりしていた。いずれにせよ、ブルックナーをよく知る部員はわずかであった。

 とにかくメインだけでも曲を決めるリミットが近づいてきた。同級生には女子学生が多かったせいか、大学キャンパスのすぐ近く、当時目白駅前にあった喫茶店『ルノアール』の個室にて、いろいろなスコアを持ち寄って話をすることになった。時間だけが過ぎていき、時間制限が2時間とかで延長するには何か注文しなきゃいけないと店の人に言われ、各自また何がしか注文して時間いっぱいまで粘った。結局ブルックナーが最後まで話題に上り、とっても難しいけどと、皆でため息つきながら交響曲第7番に決まったことを覚えている。当時現役でオケの団員は60名弱くらいしかおらず、しかも交響曲第4番でなくて、よりによってワグナーチューバがある第7番をなぜ取り上げることになったのか、今もって経緯につきよくわからない。他の有名大学オケでも最近演奏しているから、ワグナーチューバを何とかすれば、みたいな、後は勢いで決まってしまったのだろうか。兄からは、「W大ではワグナーチューバではなくてユーフォニウムでやってたぞ」とか言われ、その話を皆にして、たぶん私も何とかなるだろう、と思っていたかもしれない。

 問題はワグナーチューバである。奏者については、人数の少ない大学オケなので、どうせいろいろとエキストラをいれなければならないから何とかなるだろう、という気持ちが皆にあったに違いない。楽器もその勢いでといったところだ。同級生のヴィオラのCさんから、「私と同姓のハトコがN響でホルンを吹いているらしく、会ったことないけど親に連絡先聞いてみようか?」と話があり、「え?もしかしてトップのC先生?ほんと?スゲー!」と皆でその話にとびついたのは当然。話がついたとのことで、私が直接C先生に電話することになった。

 おそるおそるC先生に電話すると、話は聴いているよ、楽器あるから家にいらっしゃい、貸してあげる、とのことで、ホルンの先輩たちとお宅に伺った。すごく緊張している私たちを温かく迎えてくださり、ワグナーチューバ4本をその場で吹いてお借りすることができた。先輩たちが悪戦苦闘しながらワグナーチューバを吹いているのを見て「楽しそうだねえ」と、ニコニコされていたことをよく覚えている。(ところでなぜこの楽器がC先生のところにセットであったのか、については話が長くなるので、割愛させていただきたい。)

 後日、C先生宅に楽器を返却に伺った時かその後かは覚えていないが、せっかくだから皆で遊びにこない?とのことで、何人かでお酒を持って訪問、C先生からあれこれと酒と食事をご馳走になりながら楽しいお話を伺い、また奥様のH先生も加わって、「こういう楽器もあるのよ」と、初めてツィンバロンに触ってみたりとか、とにかく盛り上がり、結局徹夜で飲み明かした。
 そのご縁からか、卒業後もずっとチューバを演奏する機会に恵まれたこともあって、C先生とはお亡くなりになるまで思わぬ場所でお会いする機会が多く、面白いエピソードもある。いずれの機会に記載したい。

 さて、前プロもモーツァルトの交響曲第36番『リンツ』で決定。悪戦苦闘の半年にわたる練習の末、1978年5月30日に杉並公会堂で第17回の演奏会を迎えることになった。実はこの年の春にヴィオラに入部した1年生のことでマスコミが大きくとりあげ、3回生で音楽部総務委員長となった私は連日連夜の取材対応に奔走、演奏会直前までホールとか大学を含む関係各位との打ち合わせで多忙を極め、当日は本人がステージに登場するのではとの期待から観客と取材陣が殺到、ホール側と取材側がもめたりして会場の内外で騒然となった(本人は上手だったので、前プロにステージデビュー、上下関係が厳しい音楽部ではあくまでも後輩なので当日は下級生の常として男性の楽屋番を担当)。とにかく満員御礼にて無我夢中のまま、演奏内容はそれなりに、異常な熱気に包まれた演奏会であった。
 高関さんはこの後、日本でのカラヤン・コンクールで1位になり、ベルリンへ行かれることになったが、箱崎のターミナルでお見送りがてら皆で押しかけ、ブラームスについてアドヴァイスをもらうとか、今思えば厚かましいことをやったものだ。

■交響曲第9番
 この年の春、NHKがバックアップしていたJMJ「青少年音楽祭」、通称ジュネスのオーケストラに参加することになった。これは夏に年1度NHKホールで行なわれて全国放送されるという演奏会で、都内を中心に近郊の大学オケから参加者を募り、オーディションを経て3ヶ月近く毎週日曜日に渋谷のNHKのスタジオにて練習をするのである。オーケストラの曲はブルックナーの交響曲第9番、合唱曲としてラフマニノフの『鐘』、それとマンドリンオーケストラがあり、私はブルックナーに出演することになった。指揮者は山岡重信先生である。当時は各大学オケの名手が揃い、前年にマーラーの『復活』をNHKホールで聴いて、来年は是非とも出たいと思っていたのでエントリーしたのである。そして当時のアマチュアオケではまずとりあげることのない、というかありえない彼岸の響きに満ちた神秘の曲を演奏できるというすばらしいチャンスに恵まれた。

 とにかく難しい曲だったが、若さゆえバリバリと怖いものなしで演奏したことを思いだす。思いつくままに当時のメンバーをあげてみると、コンサートマスターはW大のSさん、オーボエの1番はR大のDさん、フルートの2番にW大のM氏、トロンボーンは1番にW大のTさん、2番は前年のマーラーにてすばらしいソロを聞かせてくれたJ大のNさん、3番は大学の先輩Iさん、ホルンの1番はH大のSさん、2番はD大のFさん、3番は大学の先輩Iさん、5番ホルン(ワグナーチューバ1番)はW大のI君、トランペットの1番はH大のNさん、ティンパニーはJ大のSさん・・・などとよく覚えている。
 ジュネスに出演したことで、学外での交友関係が一挙に広がり、他の大学オケからエキストラに呼んでいただいていろいろな音楽経験を積むことができたし、その後の金管アンサンブルの結成(現在もこのアンサンブルで活動している)、特にJ大のNさんからは親しく音楽面で教えていただき、後に新響の団員になられたことから新響を紹介され、入団のきっかけを作っていただいた。新響には元団員で当時のメンバーが多かったし、現在も何人かは在籍している。
 またこの時のメンバーとは思いがけない所でお会いしたりすることも多い。お互い顔を覚えているもので、例えばティンパニーのSさんとは、10年前に新響が福岡で演奏した時に地元のオケの方と合同演奏したが、打楽器として出演され、20年ぶりに再会、ということもあった。

 本番の演奏で印象に残っているのは、第3楽章の終わり。ホ長調のやわらかい響きがホールに残り、指揮者の山岡先生の手がまだ完全に降ろされていないのに、突然「ブラボー!」の声が掛かって、山岡先生がガクっと体を動かされたことを覚えている。
 この年の春は、第7番と第9番を一緒に演奏するという、実に貴重な経験をした。今回新響で第9番を演奏するのは、このとき以来であり、練習していると当時のNHKでのスタジオの練習風景はもちろんのこと、NHKの食堂の風景とか、そこで見かけた芸能人の方々とか、いろいろと余計なことまで思い出す。

■『テ・デウム』
 秋の音楽部の演奏会に向けて、確か6月から選曲が始まったと思う。秋は管弦楽団と合唱団が一緒になるため、選曲も合唱の担当学年が加わり、大掛かりである。短大の2年生も担当学年として加わっての話し合いが続く。指揮者は音楽部の常任指揮者でいらした前田幸市郎先生であり、とにかく演奏会のメインとなる曲がブルックナーの『テ・デウム』になった。ブルックナー晩年の作品で神に捧げられた大曲である。演奏時間は25分くらいの曲だが、ブルックナーの宗教曲の中でも最高傑作のひとつであり、とても力強くオルガン的な響きがする。合唱がこれまた大変で音域が広く、ソプラノやテナーには音がめちゃくちゃに高いところがあり、バスやアルトも低い音があって、とにかく難しい。なんでこの曲に決まったのかこれまたよく覚えていない。それにしても合唱もオケもチャレンジである。たぶん指揮者の前田先生が宗教音楽に造詣が深く、ブルックナーの三大ミサ曲を本邦初演されたことと、春に演奏した交響曲第7番の第2楽章アダージョと同様の音型があることが、刺激となった要因のひとつかもしれない。オケの学生指揮者と合唱の学生指揮者が、本当に合唱できるのか?そういうオケはどうなのよ?とお互いにやりあい、侃侃(かんかん)諤諤(がくがく)だった。

 当時、合唱はオケより人数が少なく、大音量のオケに打ち勝つためにも必死だった。ブルックナー特有の金管の強烈なユニゾンとハーモニーでどうしてもオケの音量はでかく、オルガンも入る大規模な讃歌でソロも4人必要だ。オケと合唱の合同練習の時、合唱のテノールで同期のやつなんか、譜面台を前に置いて、「とにかく吼えるぞ!」と身構えているくらいである。
 私は、特にバス・パートを集めるために合唱団のOBに個別に出演を依頼したり、合唱とは前田先生の関係で親しかった東大の男声合唱団にも声をかけたりと人集めに奔走した。
オケの先輩で合唱でもよくバス・パートを歌っておられた大学院生のK先輩は声がとても低く、ヘ音記号で五線から下の声がよくでるので、合唱の静かなアカペラの部分に登場する低いDの音のため、この曲に限ってはオケでなく合唱に出てください、と懇願した。ソロは高校の合唱部の先輩で(高校は大学と同じ敷地にある)大学に進まれたあと、藝大の大学院に入学されたテノールのH先輩に頼み込み、先輩のソロはもちろん、他の3名については同じ院生の仲間でお願いすることになった。

 オケの前プロが、ベートーヴェンの序曲『フィデリオ』とブラームス交響曲第4番である。新響でも考え付かない?何かすごいプログラムになった。実は『テ・デウム』の弦楽器は、延々とユニゾンでド・ソ・ソ・ド、ド・ソ・ソ・ドと、労多くして何とか、といった感もあり、弦楽器が納得するプログラムでこうなったかもしれない。とにかく練習するしかない。第22回の音楽部としての演奏会は1978年11月14日、学校に新しくできたばかりの創立百周年記念会館の「正堂」と名づけられたホールで行うことになった。客席は補助いすをいれても1400にも満たないが、ステージが大きく響きも良い。何しろ初めてのできたばかりのホールの演奏会、山台の設置や照明の操作を全て自分たちでやらなければならない。
 そして春に話題になった1年生のご両親がお見えになるとのことで、これまた演奏会直前まで大学や関係各所との打ち合わせで多忙を極めた。自分の出番は『テ・デウム』のチューバのみだが、この演奏のためにF管のチューバを手に入れたこともあり、その楽器で初めての演奏だったのでそれだけでも興奮している。そして本番当日、とにかく無我夢中でホール内を走り回っていた。とにかくばたばたして落ち着きなく動き回っていたので、副部長の先生達から、「君はもっとどっしりと構えていなさい」と注意を受けたことを思い出す。休憩時間の時に、ホール内の貴賓室に前田先生と一緒に伺い、来賓へのご挨拶の際、音楽の持つ素晴らしさについて滔々としゃべる自分に対して、何であの時にこんなことしゃべったのだろう、と後悔したりしたものだ。

 休憩の後、いよいよ『テ・デウム』である。満席の客席で演奏が始まった。すさまじい音量と気合の入った壮大な響き。合唱もがんばって張り叫んでいる。自分自身も異常に興奮している。終曲の圧倒的な二重フーガを経て、例の第7番のアダージョと同様の音型で盛り上がるコラール風のところで、ふっと客席を見たら、なんと1Fの後ろにあのC先生が立っておられるではないか!ドア係の1年生がC先生に気がつき、既に満席でありもしない座席の方へ誘導しようとしていたが、いいよと手を振っておられる。すごく驚いたのと同時に、曲のボルテージがあがるにつれとても嬉しくなり、感動で涙が溢れそうになった。演奏会の前にC先生には招待状を発送していたが、わざわざいらしてくださったのである。
 終演後、ステージで後輩たちに後片付けを指示していたら、C先生がステージにひょっこりといらして、ニコニコしながら、「今日は暇だったから新しいホールの見学に来てみたんだ、ところで指揮者の前田先生とはY大学にてお付き合いがあってねえ、さっき挨拶にいってきたよ、それにしてもいいホールだねえ」とのこと。思わず、「ありがとうございました!」と大声で最敬礼した。

 その晩は、目白の喫茶店でのレセプションの後、とにかく飲み歩いて徹夜し、早朝に学校の部室に行って昨日の録音テープを、ボーっとしながら何回も聴いていた。

 こうして、ブルックナーの傑作にどっぷりと浸った1年は終わった。
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