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「英雄の生涯」と偉大なるホルン奏者

箭田 昌美(Hr)

 R.シュトラウスの作品全てにおいてホルンは活躍の場が与えられていますが、特に「英雄の生涯」では主役である「英雄」としての役割を担いホルン奏者にとって特別重要なレパートリーとなっています。冒頭より弦楽器と共に演奏するテーマからホルンの音色を印象付けます。途中8本のホルンセクションによる咆哮から最後の弱音でのソロまで、ホルンという楽器の持つ表現力を最大限に引き出しています。従って「英雄の生涯」の演奏においては独奏ヴァイオリンと共にホルンの演奏が注目されるところとなります。そこで「英雄の生涯」の演奏に絡めて、20世紀の偉大なるホルン奏者についてご紹介させて頂きます。

1 ゲルト・ザイフェルト(1931-)
 ザイフェルトはカラヤン時代のベルリン・フィルのサウンドを支えた偉大な奏者であり、多くのオーケストラのホルン奏者にとっての理想、目標となっています。全てのオーケストラ曲の演奏においてザイフェルトの演奏は規範となるものですが、特にカラヤンの最も得意とするR.シュトラウスにおいて、広い音域、極限まで抑えられた弱音から、ベルリン・フィルの大音量の全奏をも突き破る強音まで完璧にコントロールされた演奏には驚嘆させられます。EMIにより1974年に録音された「英雄の生涯」でカラヤン/ベルリン・フィルの全盛期の記録を聴くことができます。また1986年のサントリーホールのオープニングシリーズにおいて、カラヤンの代理として小澤征爾がベリルン・フィルを指揮した「英雄の生涯」の演奏はサントリーホールの誕生と共に多くの日本人の記憶に残る演奏でしたが、テレビで放送されたこの演奏会でのザイフェルトの演奏は特に素晴らしいものであり、ビデオに記録されたこの演奏は私にとって永遠のスタンダードとなっています。
 ここで雑誌「パイパーズ」2005年5月号に掲載された元ヤマハの技術者であり、現在ベストブラス社長である濱永晋二氏のコラムよりザイフェルトに関する記述をご紹介いたします。『20年位前の東京でのことです。当時のベルリン・フィルのホルンセクション全員とソリストの故アラン・シビル氏が同席した貴重な試奏会での出来事でした。試奏会は通常生産品です。まず、メンバー全員が自由に試奏を開始しました。みんなの音が入り混じる中、少し遅れてザイフェルト氏が到着。そのうるさい(失礼)音の中で、ザイフェルト氏が英雄の生涯のフレーズを本番さながらの勢いで吹いた途端、周りの音が全く無くなり、彼の音だけが部屋中に鳴り響きました。このときの音が私の耳には、まるでオーケストラが一緒に鳴っている音に聴こえたのです。生涯忘れられない思い出の一つです。』

2 ローラント・ベルガー(1937-)
 ウィーン・フィルは世界で最も統一された演奏スタイルと独自の音色を共有するオーケストラです。中でもウィーン式の楽器を用いるオーボエとホルンはその特徴的な音色が大きな魅力となっています。独特な構造を持ったウィンナ・ホルンは通常のホルンに比べて演奏困難な楽器ですが、ウィーンのホルン奏者達はその伝統の音色を守るべく切磋琢磨し、素晴らしい演奏を聴かせています。ウィーンの名手達の中でも60年代、70年代に首席奏者として活躍したローラント・ベルガーは偉大なる奏者として知られています。一部の室内楽演奏以外でソリストとして名前が出ることが少ない奏者ですが、多くのウィーン・フィルの演奏においてベルガーの名演を聴く事が出来ます。例を上げればショルティによるワーグナーのリングでのジークフリートの角笛、カール・ベームのブルックナー「ロマンティック」、ブラームスの交響曲、バーンスタインとのマーラーなどでしょうか。その魅力はまさに「朗々たるホルンの響き」であり、鳴り響く大音響は強い印象を残します。R.シュトラウスとも関係深かったウィーン・フィルはシュトラウスの演奏において多くの名盤を残しています。ベルガーによる「英雄の生涯」の録音も複数あるものと思いますが、確実にベルガーの演奏であろうものとして1977年のカール・ベームによる録音があります。晩年のベームによる重量級の演奏ですが、ウィーン・フィルの音色の魅力に溢れた演奏となっています。

3 デニス・ブレイン(1921-1957)
 「英雄の生涯」の歴史的録音として作曲者の自演も残っておりますが、ホルン奏者にとっての遺産というべき録音に1947年11月トーマス・ビーチャム指揮によるロイヤル・フィルの演奏があります。この録音において伝説の名手デニス・ブレインによる演奏を聴く事ができます。デニス・ブレインは1945年にウィルター・レッグにより創設されたフィルハーモニアの首席奏者として活動し、特にカラヤンと多くの録音を残しています。フィルハーモニアはトーマス・ビーチャムにより最初の演奏会を行い、ビーチャムはこのオーケストラを自分のものとしたいと申し出るものの、常任指揮者を置かない方針のレッグに断られ、1946年に自分のオーケストラとしてロイヤル・フィルハーモニック(RPO)を結成します。デニス・ブレインは二つのオーケストラの首席奏者をかけもちすることになります。
 デニス・ブレインとR.シュトラウス、ビーチャムについて興味深い逸話がありますのでスティーブン・ベテット著山田順訳「奇跡のホルン デニス・ブレインと英国楽団」(春秋社)から引用してご紹介します。
 『リヒャルト・シュトラウスの作品は常に独奏ホルンのための豊麗なパートを含んでいるが、ビーチャムは、1947年秋ドルーリィ・レインのサター・ロイヤルで開始されたRPO演奏会の新シリーズを、この作曲家を讃えるフェスティヴァルの一環とすることを決めた。この企画は大成功であったが、既に84歳を迎えようとしていたシュトラウスが自らフェスティヴァルに臨席し、さらには演奏会の指揮も引き受けるに及んで、一層の盛り上がりを見せることになった。もっともシュトラウスが実際に指揮をしたのはRPOではなく、フィルハーモニアであった。10月19日、ウォルター・レッグもやはりシュトラウス・フェスティヴァルに参加する演奏会をロイヤル・アルバート・ホールで催し、作曲者自ら「ドン・ファン」「ブルレスケ」「家庭交響曲」を指揮したのだった。シュトラウスはこれより先、10月初めにビーチャムがRPOと行ったリハーサルと本番にも立ち会っていた。10月5日にはポール・トルトリエが「ドン・キホーテ」のチェロ独奏をとつとめ、その一週間後にはデニスが「英雄の生涯」を吹き、特に終曲の崇高かつ困難なホルン・ソロにおいて素晴らしい演奏を聞かせた。評論家の一人はデニスのカーマニアぶりを念頭に、「英雄の生涯」の冒頭を評して「彼はギアを三回シフトさせたようであった!」と書いている。』
 この演奏会の後の11月にアビーロードスタジオにて行われた録音が上述したものです。古い録音ですがデニス・ブレインの気品ある音色を感じ取ることが出来ます。この翌年にデニスとRPOの関係に「英雄の生涯」を発端とするトラブルが発生します。
 『ウォルター・レッグもトーマス・ビーチャムも、デニスのような奏者がこうした形でかけもちを行っていることを決して快くは思っていなかったが、本番がかち合わない限りにおいて、このシステムは何とか機能していた。両人とも、特定の奏者から全面的な忠誠を得ようと努め、例えばビーチャムはデニス、ジェイムズ・ブラッドショー、レジナルド・ゲルといった奏者については報酬を上乗せした。しかし、1948年12月には危機が訪れた。RPOはブラッドフォード、リーズ、マンチェスター、ハンリー、ウルヴァーハンプトンへの演奏旅行を行うことになり、プログラムにはリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」が含まれ、12月15日にはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでも同じ曲目が演奏される予定であった。デニスはフィルハーモニアへの出演の関係で演奏旅行には参加出来なかったが、ロンドンの演奏会だけは出られる状況にあった。ここに到って、RPOの三番ホルンでデニスが不在の時は一番を吹いていたロイ・ホワイトが、憤然として抗議の声を上げた。演奏旅行の間中、「英雄の生涯」のきついソロを吹かされたあげく、最後のロンドンの演奏会ではデニスが戻ってくることに我慢がならなかったのである。ビーチャムは、人々が持つ印象とは異なり本来気楽な性格の持ち主であったが、問題の重大性を認識すると、直ちにデニスにメッセージを発した。すなわち、演奏旅行とロンドンの演奏会の両方に参加するか、さもなければRPOと袂を分かつかのいずれかにせよ、と。デニスは即座に退団を決め、残る1949年の間中、ロイ・ホワイトがRPOの首席ホルンを務めることになった。この間には、ビーチャムの70歳記念演奏会やリヒャルト・シュトラウス追悼演奏会も行われたが、当然ながらビーチャムは不満であった。彼は「聴衆は小利口な若いホルン奏者ではなく、この私を目当てにやってくるのである」と強がりを言った。それでも、フィルハーモニアとレッグへの対抗意識から、自分が重大な判断ミスを犯してしまった点は認めざるを得なかった。』
 なおこの後の1950年にデニスはRPOに復帰しています。
 デニス・ブレインは1957年9月1日未明に自身の運転する自動車事故により36歳という若さで帰らぬ人となりました。


第198回演奏会(2007.7)維持会ニュースより

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