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オーケストラへの扉 =『ハーリ・ヤーノシュ』をめぐる個人史=  

松下俊行(Fl)

■出発点としての吹奏楽
 新響の管楽器奏者でも、吹奏楽と全く無縁で来た人はそれほど多くはあるまい。そして縁がある場合、吹奏楽を自らの「音楽人生」の出発点にしている・・・のではないかと思う。概して言えば、余り音楽や楽器の演奏に縁が無い境遇に育ち、初めて接した音楽環境が中学校で入った吹奏楽部。しかもそこでは必ずしも自分の希望する楽器を割り当てられず(一例だが1970年代からフルートは既に男子禁制のパートだった)、不本意ながらもあてがわれた楽器(因みに僕の場合はテューバ)とそのパートを黙々と続ける、それだけが音楽・・・特に合奏という場・・・を体験できる唯一の道だったというケース。だからいずれその集団から抜け出て、その楽器を続けなければならない必然性がなくなると、他の楽器に転向する事はむしろ自然だった。という訳で新響内部でも、誰が「転向組」で元々何の楽器をやっていたか?は時々話題になるばかりでなく、本当にその「古巣」の楽器の演奏を聴く機会さえある(大抵上手い)。

 さて、30年以上前の自分の体験を書き記す事をお許しいただきたい。まぁ昔語りも多少は許される程度には枯れてきた・・・と思うので(苦笑)。
 僕の高校時代は1973年から76年までだ。荻窪のさる大学附属校で送った3年間の演奏活動も、楽器こそフルートに変わっていたが、吹奏楽以外の選択肢は無かった。そもそも全日本吹奏楽コンクールの全国大会常連校であった事が、この学校への進学を決めた最大の理由だったのだから仕方が無い。今もそうだろうが、吹奏楽とコンクールとは不可分の関係だ。コンクールで優秀な成績を収める団体に身をおくことが、より質の高い「演奏」に参加できる唯一の手段であり、且つ当時は僕の出身県である埼玉県下の如何なる高校に進んでも、全国大会に出られる目は全く無かったのだから、質を求めればどうしても県外に出るほかは無かったのだった。
 このコンクールに対する諸々の体験や感想については、いずれ別の機会を得て書く事もあろう。今ここでは3年間一度も全国大会に行く事が無かったという事実だけを書くにとどめる。この事は当時の僕にとっては人生の根幹に関わるような事であった訳だが、今になってみればどうという事は無い。以下に書く『ハーリ・ヤーノシュ』に関わる一連の事に比べれば・・・だが。

■吹奏楽をめぐるふたつの志向
 様々なジャンルの作品を演奏の対象とする吹奏楽の団体は、大まかにふたつの志向をもっている。それは「古典的」若しくは「伝統的な」スタイルの音楽を志向しようとする流れと、よりなじみの深い、一般にいう「軽音楽」に傾倒しようとする流れである。前者は吹奏楽の為に書かれたオリジナルの作品を演奏する事にとどまらず(何故なら吹奏楽の歴史そのものが浅いので、オリジナル作品そのものが質にも量にも恵まれていないのだ)、オーケストラ作品を吹奏楽用に編曲したものを厳格に演奏する事をまず考える。吹奏楽の真骨頂たる行進曲もこちらに入るだろう。後者はそれに比べると遥かに柔軟なレパートリーでよしとする。
 これらは各奏者の嗜好に基づいており、そのバランスの違いはあっても両者は必ず団体内に並存する。だから一般に吹奏楽団体のコンサートは2部構成で、第1部はクラシカルなお堅い選曲で固め、第2部はポップス系の作品メドレー・・・大抵はこちらの方がメンバーは生き生きと演奏する・・・というものになりがちだ。そうでなければ最大多数の最大幸福が保たれないのだ。これは前述したとおり「音楽をする唯一の手段」として吹奏楽を選ばざるを得ない人間がいる限り、今後もあり続けるだろう。このあたりがオーケストラと大きく異なる点である。僕が高校在学中の1974年に初めてコンクールの「課題曲」がスタイルの異なる2種類の曲に分かれたが、これとてそうした背景を考えればごく自然な帰結と思えてくるのである。

■『ハーリ・ヤーノシュ』への道
 我々の吹奏楽団(僕らの学校では他のクラブと異なり「吹奏楽部」ではなく「吹奏楽団」が正式な名称だった)内部でもその拮抗は絶えずあり、運営を支配するその時々の上級生の意向により方針は年々大きく振れた。僕は当然「正統派」だったので、最上級生として所謂「練習指揮者」となると、それまで傾斜しすぎていたポップス路線をゆり戻すべく、あらゆる試みをした。例えばシェーンベルクが吹奏楽の為に書いた作品(というものがあるのだ)『主題と変奏(作品43-a)』の譜面を、本郷三丁目のアカデミア・ミュージック・・・当時の同店は、現在の場所より駅寄りにあった・・・の薄暗い書棚から探し出して強引に練習にかけたが、そもそもこうした音響に慣れていない団員間では不評だった。今でも良い曲だと思っているのだが、これは流石に劇薬に過ぎたようだ。
 この時の団員数は僅かに35名だった。この人数の少なさが、コンクールでのハンディキャップとなったが、僕の1学年下には現在広島交響楽団でオーボエ奏者を務める柴滋氏、更に下にはNHK交響楽団クラリネット奏者となった加藤明久氏がおり、それ以外の奏者も含めて今考えても人材的にはひとつのピークを迎えていた。何でもやってみようとする意慾が横溢しており、そこで出てきたのがコダーイの『ハーリ・ヤーノシュ』の編曲構想だった。
  『ハーリ・ヤーノシュ』なる作品が、我々のようなともすれば偏った音楽体験しか得られぬ高校生にまで知られるようになった理由にも、コンクールが関わってくる。前年の全国大会で、この曲(のごく一部)を自由曲に取り上げた団体があったのだ。こうしたものはすぐ伝染する。それは『戦争とナポレオンの敗北』と終曲『皇帝と廷臣の入場』の2曲だけだったが、その後あらゆる吹奏楽団にとって、重要なレパートリーになった。いま聴いてみても上の2曲は、ハーリの語る荒唐無稽な内容をそのまま音にしたようなある種不思議な部分だ。僕は『戦争と~』中にあるトロンボーンの旋律末尾に現れるF→Hという増4度の跳躍が、しばらく頭から離れなくなった。因みに言えば増4度(減5度)の音程は、ヨーロッパの音楽では「悪魔の音程」と言われて忌避される作曲上の禁じ手である。こうした奇抜さに当時の僕らは魅了されてしまったのだ。
 で、当然の事だが全曲を聴いてみた。巨大な「くしゃみ」の描写から音楽が始まるのも奇抜だが、これは物語りの最中に聞き手の誰かがくしゃみをすると、その話は現実のものとなるというハンガリーの言い伝えに基づくものだ(『ハンガリー民話集(岩波文庫)』には編者である同国の民俗学者オルトゥタイにより、民衆間に於けるこうした語り手・聞き手の実態や慣習が詳述されているが、どうした訳かこのくしゃみの件は書いていない)。いずれにせよ、もうここまで来ると機は熟していたと言って良い。自分らの手を以って、何とかこれを全曲演奏してみようとの野心が沸々と起こるまで、さしたる時間を必要とはしなかった。

 1975年5月2日金曜日・・・行動を起こした。まず再びアカデミア・ミュージックに行き、スコアを探し出した。2,400円の大枚をはたいて購入。次に池袋のヤマハで34段の大型五線紙を大量に買いこんだ。あとはひたすら「作業」である。
 作業の基本はオリジナルのオーケストレーションを、吹奏楽にある楽器のパートに割り振る・・・という事だが、当然の事ながら吹奏楽には無く、しかもオーケストラでは主体になっている絃楽5部のパートをどこにどう割り振るか?が難しい。最も安直なのは人数も多く、高音部から低音部までの楽器が充実しているクラリネットを充てるという方策。実はこうした凡庸極まりない「編曲版」が市販されている譜面の大半を占めていた。だがこれでは絶えずクラリネットが鳴っている印象しか与えられないので、他の楽器を重ねて音色に変化を与える・・・という仕掛け作りが必要になるのだ。
 また、同じ楽器を使用していても、管絃楽と吹奏楽では求められる音色や使われる音域など、楽器の用法が異なる場合が多々ある。例えばホルンの扱い方は、その記譜法を含めて違いが顕著なひとつだ。だからオリジナルのパートと同じ楽器だからといって、その譜面をそのまま転記しても吹奏楽では音に出来ないというケースもある。
 それから山のようにある移調楽器への対処。「inE♭」で記譜されているアルト・サクソフォーンに実音のニ長調を吹かせるには、譜面に何の調号をいくつ付ければ良いか?(答えは#5つ=♭7つ)という変換を頭の中で行ない、ダブルシャープやダブルフラットなど、日頃はあまり目にする事の少ない記号を思い浮かべながら実際に移調をさせて34段の五線を埋めてゆく・・・という訳で、結構複雑な作業を伴う。この原稿を書くにあたり、久々にそのスコアを出して一覧したが、各曲とも大抵4日ほどで仕上げている。これ以前にも何曲か同様の事を手がけてはおり、ある種の慣れは身についていたのだろうが、17歳当時は頭も手も存分に機能していたのにわが事ながら驚く。勿論・・・これは学業の合間にやっていた(筈だ!)。

■17歳の挫折と転機
 さて、その結果だが第3曲目の『歌』(これが表題である。余談だが、由緒ある居酒屋の品書きに、銘酒であってもただ「酒」とだけある潔さをいつも想い浮かべてしまう)は編曲を断念せざるを得なかった。僕はこの曲に最も強い印象と、郷愁のようなものを感じ取っていたので、何とかならないかと知恵を絞ったが、どうやっても35名の編成では無理だった。
 そもそも前面に出てくるツィンバロンというハンガリーの民族楽器のパートは他の楽器で代替する事が不可能だったし、厳密に言えば冒頭のヴィオラのソロも、管楽器では表現し難いニュアンスを含んでいる。それ以上に問題だったのは絃楽器群に最弱音で出てくる高音域のトレモロだった。吹奏楽器の宿命であるブレスの問題はさておくとしても、高音域を最弱音で、且つ霞むような質感を出せる管楽器は、残念ながら存在しない。だからマーラーの『巨人』やブルックナーの交響曲第7番を吹奏楽でやろうとすると(そんな野望を抱くところはないだろうが)、その冒頭から行き詰まってしまう事になる。
 身もふたも無い言い方をすれば、最もハンガリー的な色彩の強いこの『歌』の部分を欠いている事で、既に編曲は失敗だった。コンサートのプログラムにするにしても、あくまで「抜粋」とせざるを得ないのだから。それでも一応パート譜を作り、音にはしてみた。悪くは無い出来だったが、「やはり何かが足りない」という欠落感は拭えなかった。考えてみればこれは当然の事だ。『ハーリ・ヤーノシュ』6曲の編成にはサクソフォーンやコルネットや多彩な打楽器群など、吹奏楽で使用されている楽器の殆どを含んでいる。だからその音響は多分に「吹奏楽的」で、実際『ウィーンの音楽時計』や前述の『戦争とナポレオンの敗北』は管打楽器だけの曲である。そしてその上に絃楽器が加わって前述の『歌』や『間奏曲』のような世界を作り上げる。この音響的な対比こそがこの組曲のひとつの魅力であり、作品の深みに結びついている。だが当時はこうした事を分析的に考える力は無く、やみくもに音にしてみてただ「何かが足りない」と首をかしげるだけだった。やはり気力と体力はあっても思慮には欠ける高校3年生だったのだ。最近は気力と体力さえ欠けてきて、いささかうんざりしているが(苦笑)。

 この失敗から得たものは詰まるところ、「オーケストラの作品はオーケストラの為に書かれ、オーケストラでなければ再現は出来ない」という至極単純な真理だった。オーケストラならではの音域や音色や音量の多彩さ。その精緻な表現力とそれを活かした作品の多様性。そうした世界がこの世にあるのだと気づいた瞬間、僕はオーケストラへの扉を開けた訳で、それは確実にその後の人生の転機になった。こんな簡単な事が転機になってよかったのだろうか?との思いは今もあるが、とにかく「これからは何が何でもオーケストラだ!」となって、それまで漠然としか捉えていなかった進路を急にすっきりさせた。すなわち附属大学への進学を捨て、「しっかりしたオーケストラ」のある大学に入ろうと考え直したのだ。これは当時としては、結構勇気の要る選択だった。音大への興味が湧かぬでも無かったが、オーケストラで演奏する機会を得る事を優先すればこれはむしろマイナスの要因となり得たし、そもそも音大進学を考えるには成績が良すぎた(冗談です)。
 いずれにせよ、いくつかの紆余曲折を経て大学入学と同時にオーケストラに籍を置き、所謂「カラヤンコンクール」での演奏と優勝を体験し、最盛期のジュネス(この時のメンバーの多くは、新響を含め今も主要なアマチュアオーケストラの中核として活動を続けている)での演奏機会も得た。卒業後1年して新響に入り、退団に追い込まれる事も無く(2007年9月で在団25年)、ずっとオーケストラに関わって来られたのだから、僥倖としなければなるまい。その契機に『ハーリ・ヤーノシュ』があり、それをオーケストラで演奏する機会を遂に得た事に、殊更の感慨を禁じ得ない。

 「心血を注いで仕上げた」手書きのスコアは僕の譜面棚に放置されたまま、その後全然日の目を見ていない。僕自身がその後吹奏楽から離れてしまったから、演奏される機会はついに巡っては来なかったのだ。冷めてしまえばあれは一体何だったのかと苦笑するほかない一時の熱情だったのかも知れない。が、びっしり書き込まれた音符群を眺めていると、吹奏楽という唯一の窓から、音楽の宇宙を何とかして覗こうとした若き日の無謀の軌跡にも見え、その後の音楽体験を経るうちに自分の中から喪われて久しいものに思い至るのである。  
第196回演奏会(2007.2)維持会ニュースより
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