2006年4月演奏会パンフレットより


普遍的なものを追い求めて ―猿谷紀郎 自作を語る

 新交響楽団創立50周年シリーズの第2回目にあたる今演奏会では、21世紀の日本音楽界を担う世代の一人として最近めざましい活躍が注目されている猿谷紀郎氏の作品を取り上げます。猿谷紀郎氏は作曲家ハンス・ヴェルナー・ヘンツェに見いだされて、1992年「Fiber of the Breath 息の綾(あや)」で衝撃的な日本デビューを飾り、以後新しい刺激的な作品を発表し続けています。今回は第54回尾高賞受賞(第43回に続き2度目)直後のお忙しい中、氏の創造の源泉や作品の本質についてお伺いしました。

― この度は尾高賞受賞おめでとうございます。

猿谷 ありがとうございます。

― 作曲活動はいつ頃から始められたのでしょうか。

猿谷 小さい頃からピアノやヴァイオリンをやっていました。でも練習するのがあまり好きではなかったのですね(笑)、だからその頃から既に作曲をしていました。

― 慶應義塾大学のご出身ですが。

猿谷 慶應は高校からです。それまでは東京学芸大学附属世田谷に通っていました。

― 慶應ではワグネル・ソサィエティー・オーケストラには入られていなかったのですか。

猿谷 ワグネルのオーケストラには入っていなかったですね、慶應ライト(Keio Light Music Society)には一時期入っていましたけれども。ここは基本的にはビッグバンドのクラブなのですが、そこでギターを弾いていたのです。ロックやジャズなどをずっとやっていました。自分のグループは結構いろいろな所で活動をしていたのですよ、東京の老舗ライブスポットみたいな場所でね。ちょうどそのビッグバンドのギタリストが4年生でもうすぐ卒業を控えていたので「君は1年からレギュラーだ、君の未来はここにある!」などとおだてられてホイホイと入ったのです。ところがそこではアンプ運びばかりやらされて、もう冗談じゃないよと思って(笑)、すぐ辞めてしまいました。

― ご卒業後はジュリアード音楽院へ進まれたのですね。

猿谷 そうです。それ以前からクラシックの対位法や和声法などの勉強はずっとしていました。

― そして1992年に「Fiber of the Breath 息の綾(あや)」を発表され、一躍その名を日本で知られることとなりました。

猿谷 サントリーホール開設記念「国際作曲家委嘱シリーズ」で、その時のテーマ作曲家だったハンス・ヴェルナー・ヘンツェが現代日本の作曲家の「若い世代からの作品」として選んでくれたのが僕だったのです。まだ日本では全然名前が知られていなかったのだけれども選んでくれました。それでサントリーホールで日本デビューすることが出来ました。その時のシリーズの監修が武満徹さんで、指揮をされたのがオリヴァー・ナッセンです。

― その後の先生のほとんどの作品が委嘱作品ですよね。これは凄いことだと思いますが。

猿谷 室内楽を含めて全部委嘱になりますね。ほんとうにありがたいことです。 

― 今回新響が演奏する「Swells of Athena 揺光の嵩まり」(1999年)ですが、これは大阪センチュリー交響楽団の委嘱作品で初演の指揮が高関さんですね。もともと55名という小さなオーケストラのためのオーソドックスな編成なので、取り上げたいと思いました。

猿谷 それは光栄です。

− 先生の作品は難しい題名が多いのが特徴です。

猿谷 これは「ようこうのかさまり」と読みます。「嵩(かさ)まり」という使い方が正しいか、正しくないかという事には全く責任が持てないのですけれども(笑)。

― 題名は逆に英語の方が分かりやすいと感じています。

猿谷 アテーナ(Athena)は女神だけれども戦いの神でもあるのですよね。ギリシャ神話の女神の中では最強といわれています。Swellsは的確な英訳ではないかもしれません。何かエネルギーのような物が嵩まりになってだんだんと膨れていく、というようなイメージで僕はとらえています。
 タイトルに日本語と英語の両方があるというのは、例えば「Fiber of the Breath 息の綾」などもまったく同じなのですが、ブレスが息でファイバーが繊維ですから、直訳すると「息の繊維」ということになります。ですが「息の繊維」ではあまり意味が無いのではないかと思ったのです。日本語だったら「綾」だろう、ということで「綾」としました。糸が張ったり、緩んだり、また絡んだり、というような意味の「綾」を指しています。「繊維」と「綾」ではまったく違う意味というわけではないのですけれども、何かそこから派生した意味で包括的に広がるようなものをつけたい、という気持ちがいつもあります。

― 実際に演奏してみると譜割りがとても難しいのですが、計算していくとだんだんテンポが速くなって次のテンポへ移行したりなど、とても面白いですよね。実際に電卓で計算してみた強者もいます。

猿谷 そういう部分もありますよ、確かに(笑)。曲目解説に書いている文章では抽象的で曖昧な書き方をしていますけれども…。
 例えば重力によって光が曲がったりとか、時間が歪んだり、ずれたりすることなどがありますよね。当時はそういうことが音楽に直結して何か出来ないかということを考えていました。今はまた考えが違っていますが、ただそういった普遍的なテーマを扱いたいな、という気持ちは今でも変わりません。もっと細かい微分・積分などの数学の理論になると、もちろんそのようなことを音楽上例えばヤニス・クセナキス(1922〜2001年)のように用いた人もいますけれども、そこまで行かなくてもある種の東洋的な曖昧さみたいなものをひっくるめた上で模索していた時期がありました。今仰ったようなテンポが微妙に、またある時は数学的にずれていくというようなものは、具体化した一つの例かもしれません。

― 時間の歪みといったようなものを意識していらっしゃるのでしょうか。

猿谷 それはありますね。
 その前に書いた作品に「ゆららおりみだりFractal Vision」(1993年)という曲があります。高関さんが「遥光の嵩まり」の前に初演して下さった曲なのですが、そちらの方が顕著に出ています。例えば音楽の速度標語の一つにアッチェレランドとかリタルダンドなどがあります。これは次第に速くとか遅くという意味ですが、そもそもそういうものは人間の生理的な部分から出てくるものだと思います。高揚してくるとテンポが速くなる、などという風にです。そういった生理的な部分を客観的に観るとどうなるのか、という考えが当時はありました。音楽の記号というのはだいたい相対的です。例えばメゾフォルテだったらやや強くだとか、フォルテだったらメゾフォルテよりも強くというようにです。逆に何デシベルで演奏しなさい、ということはあり得ないですよね。テンポの指定などでは例えば1分間に60拍でとかはあるのですけれど、その一方でアチェルランドなどは前よりも速くするとか、リタルダンドのように前よりも遅くする、というように音楽の指定というのは相対的です。
 だから逆に言うと生理的なものが入らない状態で曲がずっと繋がっていくとどうなるのか、というようなことを「ゆららおりみだり」の中で試してみました。高関さんは覚えていらっしゃると思うのですけれど、最初の演奏は12、3分くらいで終わったのに、次にやると20分くらいかかった、というようなことが実際にあったのです。絶対的なテンポを最初に指定してあってもスピードが上がって行く。なおかつ譜面上には一定に聞こえるような音がちりばめられてある。要するにどこに基準を置くか、既に響いている音を基準にして速くしていくのか、あるいは一定した音に基準をおいて速くしていくのか、などによって全く速さが変わってきてしまう。そういう意味ではチャンス・ミュージック(注)の考え方とはまた違うのですけれども、場合場合によって違う音がするとか、違うスピードになるというのは、書いている側としては面白いのではないかなと思うところがありました。

― 作曲に際してのそのようなお考えは昔から変わりないのでしょうか。

猿谷 いえ、その頃はずっとそういうことに興味がありましたが、今は若干変わってきていると思います。

― 曲の題名にこだわっておられるように感じます。特に日本語に対するこだわりをとても感じます。

猿谷 この間のサントリーホールでの「武満徹 メモリアルデー・コンサート」で世界初演された「Where is HE? 夢 まじらひ」(2006年 NHK交響楽団委嘱作品)でも、当初から谷川俊太郎さんの詩を生かすということで決めていました。ですがただこれを日本語で「彼はどこ?」と付けても仕方がない、誰でも分かることだしそれは意味の無いことだと思ったのです。結局「夢」という言葉を使いました。「夢」という言葉をタイトルに使ったことは今まで一度も無いのですが、武満さんの作品の中にはたくさん出てきます。あと「まじらひ」という言葉は、「一瞬の」とか「まばたく」という意味の古来の言葉なのですが、ほんとうは名詞形があるかどうかは分からないのです。「まじらふ」としか辞書には出ていません。「まじらひ」と書いて「まじらい」と読ませたのですけれども、要するに瞬間の夢というか、幻の夢というか、そのような感じです。ただ現代に使われていない言葉でも、意味だけではなく音自体の響きというようなものも重要だと考えています。例えば「瞬間の夢」と「夢 まじらひ」という曲とでは、意味はすごく近いとしても受ける印象は全然違います。日本語は音の響きを大事にしてきた言語だと思います。そのような日本語の響きを大事にしていきたい、という気持ちがあります。ですからみんなが知らないところを狙って名付けてやろう、というような気持ちは全く無いのですよ(笑)。

― 日本語には言葉に魂がある、例えば「言霊(ことだま)」という言葉もありますが。

猿谷 そうですね。例えば「ゆららおりみだり」という題名はまったくの造語なんです。言霊がふれ合う「ゆら」という言葉があって、これは昔からある言葉なのですが、それが「ゆらら」となるともう無いのです(笑)、実際にはね。ただし僕にとって「ゆら」よりも「ゆらら」の方がもっと柔らかい感じがするかな、と思った。あと単純に複数形になれば「ゆらら」じゃないかとかね、これは西洋的な発想かもしれないのですが。いろいろな側面から考えてタイトルが出てきたりするのです。
 話は変わりますが、人には姓と名前がありますよね。例えば男性の名前でも女性の名前でも、人は小さい頃から周りの大人などから名前を呼ばれて育つわけです。人はそれぞれの名前の「音」によって性格が形造られていくのではないかと思っています。特に女性の場合の方が下の名前で呼ばれることが多いと思います。僕が知っている人間の数はたいした数ではありませんが、例えばヤ行が多い人、カ行が多い人、ア行が多い人、それぞれなんとなく違うような気がします。皆さんも思い返してみるとおわかりになるかもしれませんが、自分の名前をずっと耳にして、これが自分の音だと無意識に入って人格が形成されていくことはあるのではないかと思っています。そういう意味では言葉は意味を持っていますから音楽とは違うのかもしれないけれど、音としての言葉というものを常に意識しています。
 佐治敬三賞(2004年度)をいただいた「三井(みい)の晩鐘」という曲があるのですけれど、そこにはソプラノが入っています。そこで主役の女性(龍の女)がある種のストーリーを伝える上で、自分は言葉を喋れなくてもどかしい、というような表現をしなければならない箇所が出てきます。その時に「私は喋れなくてもどかしい」と歌わせたのでは話にならないので、全部母音で子音抜きで歌わせたことがあります。このような手法は例えばルチアーノ・ベリオ(1925〜2003年)などもやっていますので僕がインベント(創作)した訳ではないのですが、龍の女の言葉にならない望みを子音を省いた母音のみによって表象したのです。そしてストーリーの最後に本人が出てくるところでは子音を含めてちゃんと歌わせました。例えば「きかせて」と歌う時には子音を取ると「いあええ」になります。だけれどもストーリーがプログラムに掲載されていてお客さんが理解されていると、「いあええ」と歌ってもちゃんと「きかせて」と聞こえるのです、これは実際に試してみたのですけれども。そういう意味で言葉は「音」に委ねているところで曖昧な部分もあるのです。
 オペラなどで日本語をのせて歌うということは非常に難しいです。自分でもこの先どういう風に出来るのかまだ全然分からないのですけれども、言葉と音の関係はこれからも大事にしていきたいと思っています。またその現れのひとつがタイトルに出ているのだと思います。

(注) 偶然性の音楽。伝統的な音楽の理論性や形式に反対してジョン・ケージが20世紀半ばに提唱、シュトックハウゼン、ブーレーズ、リゲッティらが発展させた。日本では、一柳 慧、武満徹がケージの影響を受けた。アレアの音楽 aleatoric music、チャンス・オペレーションともいう。

2006年3月10日
聞き手  土田 恭四郎(テューバ)
まとめ・構成  藤井 泉(ピアノ)


これからの演奏会に戻る

ホームに戻る