2005年4月演奏会パンフレット掲載予定


新響のルーツ・生い立ちについて(その2)~~ 前コンサートマスター・都河和彦に聞く

新響は来年2006年に創立50周年を迎えます。これを機に、年齢・性別・出身校・職業・地域などに関係なく音楽だけを求心力としたこの集団が、どの様にして生まれ成長してきたのかについて、いろいろな方から少しずつお話を伺う企画を始めました。第一回の元新響団員の石川嘉一さん(昨年1月演奏会プログラム掲載)につづき、今回は入団以来40年近く務めてきたコンサートマスターを昨年末で退き、今年から「普通の団員」(本人談)になった都河和彦さんです。芥川、ヤマカズ、飯守の各氏をはじめとする多くの指揮者の下で新響を引っ張ってきた体験をお聞きします。


− 入団されたのは何年ですか。

都河 1967年の秋、芥川先生と新響がソビエト演奏旅行に行く直前にオーディションを受けたのですが、演奏旅行のメンバーは既に確定していて参加できず、翌68年4月の38回演奏会が初舞台です。 プログラムは大学祝典序曲、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ソロ・徳永二男)、幻想交響曲で会場は厚生年金会館でした。

− ヴァイオリンを始められたのは幾つの時ですか。

都河 小学2年生、7才からです。父がチェロ、母がピアノを弾いていましたが、父の上司の息子さんが篠崎弘嗣先生にヴァイオリンを習っていて、素晴らしい先生らしいからうちの息子も、ということで連れていかれました。

― 好きでやっていたのか、それとも逃げ回っていたのでしょうか?ちなみに私自身は後者でしたが。

都河 うーん、中間ですね。母のピアノに合わせて毎日2時間くらいギーコ・ギーコやっていましたが、中2でレッスンをやめて進学モードになりました。新宿高校では室内楽同好会でピアノの池辺晋一郎さん(現・作曲家)などとアンサンブルをやっていました。それから東大に入ったのですが、篠崎門下の先輩に大学オケに引っ張られました。

− 以来切れ目無く現在に至る、ということでしょうか。新響に入られたきっかけは?

都河 これも新響の団員だった大学オケの先輩に強引に言われてノコノコと。大学4年の時です。芥川先生に「コンマスをやれる奴を連れて来い」と言われていたらしいのですが。入団当初は河野さんというコンマスがおられましたが間もなく退団され、その後しばらく私一人でした。当時の新響の活動は活発で、例えば1969年には4回の定期のほか5回の依頼演奏、おまけに10日間の九州・沖縄演奏旅行に行っています。昨年新響はお座敷(依頼演奏会)が3回もあって大変だ、なんて言っている人がいたけれど甘い、甘い(笑)。

− 逆に言うと何でこんなにやれたの?と思います。高度成長下の猛烈サラリーマンの時代が始まった頃で、月曜日から土曜日まで仕事がありましたものね。

(都河夫人) それで彼は土曜日が休みの外資系会社に入ったのですよ。(笑)

− それはオーケストラを続けるために?

都河 某外資系石油会社に入ったのも大学オケの先輩がいて、「この会社はいいぞ、残業はないし、土曜日は休みだし、給料も良いし、来いや来いや」ってね(笑)。それで入っちゃったんです。

− わりと自主性が無かったのですね(笑)

都河 ない、ない(笑)。何でも人の言うとおりハイ、ハイです。ただし私が配属された部署は入社2年目からはめちゃくちゃに忙しくなってしまって、新響もヒーヒー言いながらやっていました。

− コンサートマスターから見た芥川さんとはどんな感じだったのでしょうか?

都河 入団当初は芥川先生の棒の迫力に圧倒され感動しました。 しかし先生のお仕事が忙しくなった頃の練習では胃が痛くなったこともありました。定刻には来られないし、ご機嫌が悪くて1曲だけの練習で終わってしまうことも時々ありました。他の曲しか出番のない管・打楽器奏者が外で待っていて、一音も出すことなくすごすごと帰るのを見るのはつらかったです。

− 70年代の初めになって、運営委員会という組織が出来ましたよね。

都河 それまでの運営・事務は事務局長一人に「おんぶにだっこ」だったのですが、橋谷さんという傑出した人が運営委員長となって、うまく人を選んで育てて仕事をばらまいて・・・・非常に良い形になりましたね。 それに従って練習の方法や内容も改善、整備されていった。

― そして76年に新響創立20周年を迎えた。

都河 芥川先生に企画案を出せと言われ、私はよく考えもせず、10周年と同じベートーヴェン・チクルスでよいのではと申し上げたら、何と安易なと即座に叱られました(笑)。それで先生が示されたのが満を持した邦人作品展だったのです。「目から鱗」でした。2夜にわたって10人の邦人作曲家の作品をとりあげました。その後も、清瀬保二・小倉朗・伊福部昭・菅原明朗などの個展を経て創立30周年の芥川作品展(86年)まで続きました。 小倉先生の2夜にわたった個展(78年)ではヴァイオリン協奏曲を弾かせて頂きました。バルトークを彷彿させる作品でした。

− 邦人作品には最初は抵抗があったのではないですか?

都河 最初は違和感があったし、嫌だという人も多かったと思います。邦人作品展になると休団する人もいましたね(笑)。20周年に関してもう一つ。新響は定期演奏会に番号をふっていますが、昔はサマ−・コンサートなどは数えてなかったのですね。そこで芥川先生が「20年間で演奏会数が30数回というのは少なすぎるから昔にさかのぼって数え直せ」と指示され、この時から73回へとポンと跳ね上がったのです。

− 70年代の後半から新響の演奏力が伸びてきたという見方がありますが如何ですか?

都河 そうかもしれません。まず75年のストラヴィンスキー三部作の演奏でしょうか、よくやったと思いますね。あれは3年計画で1年目が「火の鳥」、2年目に「ペトルーシュカ」をやり、3年目に「春の祭典」を含む全3曲を一挙に演奏したのです。ここでぐっと演奏水準が上がったような気がします。翌年の20周年記念邦人作品展も鳥井賞(現サントリー音楽賞)を受賞したくらいですから企画力だけではなく、演奏の方もなかなか良かったのだと思います。

― あと79年に山田一雄さんが初めていらした時のマーラー交響曲第5番は?

都河 マーラーは71年に芥川先生で1番を演奏したのですが、曲が分かりやすいので余りとまどいはありませんでした。でも5番は1番よりずっと音楽的に難しい曲です。山田先生が初めて練習を振って下さった時は、先生とマーラーの音楽の素晴らしさに感動する一方で、「ヤマカズ先生の音楽は素晴らしいが棒は分かりにくい」の評判通り、指揮棒が体の後ろの方から出てきたり、小指でサインを出したりで、よくわからなくて大変でした。もうダブル・カルチャーショックというか、阿鼻叫喚というか(爆笑)。
そのあと私は80年から82年までニューヨークに転勤になり新響からは離れていました。リンカーン・センターとカーネギーホールの中間にアパートを借りて、毎晩のように演奏会に通っていました。ニューヨーク在住の多くの日本人音楽家の知遇を得る事ができましたが特に、原田幸一郎、野島稔、毛利伯郎の3氏と後に新響で共演できるとは当時は夢にも思っていませんでした。

− アメリカから新響に戻ってこられて新響の演奏をどう思いましたか?

都河 すぐに演奏会を聴きに行きましたが、何か荒っぽい演奏だな、と。その後、復団してマーラーの3番(84年)をやった時、私は第1ヴァイオリンの後の方で弾いたのですが「これはひどい出来だな」と思いながら弾いた記憶があります。

− 次の変化はいつ頃でしょうか。

都河 ヤマカズ先生指揮の「千人の交響曲」(86年)が企画・運営・演奏の三拍子揃っていて素晴らしかったと思います。その直後、芥川先生とショスタコーヴィチの交響曲第4番の日本初演をやりました。これは難しい曲を全員が良く弾いた。第1ヴァイオリンの「猫の喧嘩みたい」といわれた箇所の難しさは忘れられないです。 同じ年の芥川作品展(創立30周年記念)はプログラム冊子の出来は今まででピカ一だと思うのですけれど、演奏の出来については余り記憶にないです(笑)。

− アンコールの「弁慶」の下駄の音がよかったですよね。指揮者の岩城宏之さんがたまたま舞台袖にいらして喜んで居られた。 

都河 そして芥川先生が亡くなられたのが89年ですね。63才とまだお若かった。山田先生も翌々年に亡くなられてしまった。

― この後、飯守泰次郎さんがご登場ですね。最初の印象は?

都河 飯守先生は93年からですね。まずは練習中によく話をされる方だなぁと(笑)。この時のメインはブルックナーの4番で精神的に非常に深い音楽を紡ぎ出して下さいました。ところで山田先生は新響を17回振ってくださったのですが、飯守先生も今回の演奏会(2005年4月)で17回になるのですね。ついに同じ回数になった。

− コンサートマスターとして特に忘れられない出来事は?

都河 1976年の鳥井賞受賞では苦い思い出があります。授賞式の数日前に日帰りでスキーに行ったのですが、アイスバーンで投げ出され、頭から落っこちて左肩を強打しました。やっとの思いで家に帰ってヴァイオリンが弾けるか試してみたら痛くて弾けないのです。式で芥川先生の「弦楽のためのトリプティーク」のソロを弾くはずだったのですが、急遽他の団員に代わってもらいました。まあパーティには出席しましたけれど。その後大阪でも記念コンサートがあったのですけれど、それも私はパス。

− テレビ出演もありましたね。

都河 何回かありましたね。芥川先生が司会をしていたNHKの「音楽の広場」という番組では、ヴィヴァルディの「四季」から「秋」のソロを弾かせて頂きました。本番のテンポが凄く早くてビックリしました(笑)。あと元団員のジョン・ブロウカリングさんが出演していたNHK教育TVの英会話番組の中で「ドン・ファン」のソロも弾きましたね。

− ところで話は変わりますが、普段の練習はどれくらいやっていたのですか?

都河 数年前に会社を退職してからは毎日2時間位さらっていますが、サラリーマン時代、ウィークデーは深夜まで残業か飲み会で練習できたのは週末だけ。土曜日の朝、楽器ケースを開けてE線の錆落としから始めるわけです(笑)。やはりサラリーマン時代は会社が中心でしたね。

− なんだ、「音楽一筋の40年」とかではなく普通のサラリーマンだったのですね(笑)。

都河 フツーのサラリーマンですよ。腕前も落ちっぱなしです。中学2年でレッスンを辞めた時点がテクニック的には最高でしたね。パガニーニなんか弾いていたから。あと大学では勉強そっちのけでアンサンブルばかりやっていたから、もう一つのピークと言えるかもしれません。それから会社員になってダ・ダダー、と下っていった。

− 長い長い40年間の下り坂ということでしょうか(笑)。それでどうして昨年末、コンマスを辞めようと決心されたのですか?

都河 2,3年前から本番の舞台で目眩がする事が多くなってこれはヤバイと。演奏委員会でのキビシイ技術論争についていけなくなったこと、それから技術が落ちているのに還暦過ぎていつまでもコンマスをやっているのはみっともないかなぁ、というのもあります。いつだか演奏会のアンケートに「あの白髪のコンマスが…」なんて書かれちゃって(爆笑)。
− 最後に新響に対して一言。

都河 新響はスムーズに世代交代していってほしい、と思います。優秀な人が入ったら席を譲る。私もヴァイオリンやヴィオラのメンバーが多すぎる状況になれば喜んで降ります。でも今は両パート共足りないから、まだ存在価値はあるかな。ただし同じ古参団員でも野崎さん(トランペット首席)は別格、あと10年くらいは持ちそうですね(笑)。

都河和彦の超私的ベスト演奏会:

1.マーラーの「千人の交響曲」(86年・山田一雄指揮)
 演奏会全体が成功だった。
2.「ワルキューレ」第1幕全曲(演奏会形式)
「ニーベルングの指輪」ハイライト
(96年、98年飯守泰次郎指揮)
 ワグナー音楽の真髄に触れることが出来た。
3.伊福部昭個展(80年・芥川也寸志指揮)
安倍圭子さんがマリンバ協奏曲を、小林武史さんがヴァイオリン協奏曲を弾き、後に新響の十八番になったタプカーラ交響曲を初めて演奏した。
4.先日の「ローマ三部作」(05年1月・小松一彦指揮)
小松先生の情熱が凄かった。
5.ストラヴィンスキー三部作一挙上演 
(75年・芥川也寸志指揮)
6.ドヴォルザークのチェロ協奏曲
(89年・原田幸一郎指揮)
原田先生の初登場、毛利伯郎さんと一緒にソロを弾かせて頂いた。
7.ブルックナーの交響曲第8番(95年・飯守泰次郎指揮)
  ブルックナーの真髄に触れることができた。


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