2004年4月演奏会パンフレットより


曲目解説プログラムノート                

リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」組曲

笠川 淳(ヴァイオリン)

 歌劇「ばらの騎士」は、台本作家で詩人のフーゴー・フォン・ホフマンスタールとの協同作業から生まれたリヒャルト・シュトラウスの代表作です。前作の「エレクトラ」が初演された頃、「今度はモーツァルト風の喜劇を」というシュトラウスの希望を受けて、ホフマンスタールが友人のケスラー伯爵との会話をもとに台本を書きました。作曲は台本の執筆と並行して進められ、彼らが交わした大量の往復書簡から、作品の創作過程を詳細にたどることができます。
 こうした協同関係は、ホフマンスタールの突然の死によって断ち切られるまで足掛け20年以上にわたって続けられていて、その間に二人が完成したオペラは全部で6つあります。「ばらの騎士」はその第2番目の作品です。ただ、緊密な協同作業の過程でも、バイエルン出身の「作曲家」とウィーン出身の「詩人」という気質の違いはあったようで、それは往復書簡での批判の応酬にもあらわれています。しかし、円熟した作曲技法と台詞の巧みさが相互に作用しあって、まるで一人の手から生まれたように一体となっている点が歌劇「ばらの騎士」の特長となっています。
 さて、18世紀マリア・テレジア時代のウィーン貴族社会における恋愛模様と時の移ろいを哀愁をこめて描いたこの歌劇は、1911年にドレスデンで初演され大成功を収めました。初演後の反響はすさまじく、これを観るためにドレスデンに向けてベルリンから特別列車「ばらの騎士」号が運転されるほどで、続いて上演されたミラノ、プラハでも成功だったことから、シュトラウスはワーグナー亡き後最大のオペラ作曲家としての地位を不動にしたのでした。
 本日演奏する「ばらの騎士」組曲は、シュトラウス自身の手によるものではなく、指揮者のアルトゥール・ロジンスキーがオーケストラ演奏用に編集したもので、歌劇「ばらの騎士」と同じく作品59という作品番号がつけられています。オペラの中から絢爛豪華な旋律の数々が、劇のストーリー進行と前後かかわりなく、あくまで一続きの音楽として編まれているものです。原曲からのオーケストレーションの変更は、ごく一部を除いてほとんど行われておらず、基本的には歌劇のオーケストラ・パートを切り取ってつなぎあわせた形となっています。歌劇「ばらの騎士」には、ウィーンの街の雰囲気を反映させたホフマンスタールの台本にふさわしく、ウィンナ・ワルツがふんだんに取り入れられていますが、華麗なシュトラウスの管弦楽技法ともあいまって、このオペラの大きな魅力となっています。組曲版にも主要なワルツが集められ、さながらオペラの名場面集といった趣です。

 元帥夫人と若い貴族オクタヴィアンは戯れの恋をしている。夫人のいとこオックス男爵が裕福な貴族ファーニナルの娘ゾフィーに婚約の証である銀のばらを贈るにあたり、その使者「ばらの騎士」を誰にしようかと相談に来る。元帥夫人はオクタヴィアンを推挙するが、オクタヴィアンはゾフィーの愛らしさに一目ぼれし、ゾフィーもまたオクタヴィアンに恋をする。そんな二人の様子を見た元帥夫人は、自分の若い恋人が真実の愛を得たことを知って身を引く決心をする・・・。

 劇中に登場する「銀のばら」とは、生きた本物のばらではなく「ペルシャの香水を一滴たらした銀細工のばら」という設定となっています。この「銀のばら」の献呈式の場面では、フルート、ピッコロ、チェレスタ、ハープがヴァイオリンのソロ群とともにひそやかに「銀のばら」の動機を奏で、それとともに時折りグロッケンシュピールとトライアングルがきらめきを添えることで、硬質感のある「銀色の」響きを表現します。
 この歌劇は、前作の「サロメ」や「エレクトラ」が大胆な和声と自由奔放な旋律でセンセーションを巻き起こしたのに比べると、いくぶん穏やかでわかりやすく書かれているといわれています。しかし、独特のきらびやかで官能的な響きとともに、絶えず転調したり、コミカルに不協和音が使用されるなど、組曲版にもシュトラウスならではの技巧が至るところに凝らされていて、オーケストラには大変々々やりがいのある作品となっています。

初 演: 1946年9月28日 ウィーンにて
ハンス・スワロフスキー指揮 
(オペラの初演は、1911年1月26日 ドレスデン宮廷歌劇場にてエルンスト・フォン・シューフの指揮で行われた)

楽器編成:フルート3(ピッコロ持ち替え)、オーボエ3(コールアングレ持ち替え)、Esクラリネット、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット3(コントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンバル、トライアングル、タンバリン、ラチェット、グロッケンシュピール、ハープ2、チェレスタ、弦5部


石井眞木:交響詩「幻影と死」

森 創一郎(フルート)

 昨年4月8日、甲状腺未分化がんで石井眞木先生が逝去されてから一年が過ぎました。時には指揮者として、時にはプロデューサーとして、新交響楽団に新鮮な刺激を与え続けてくださった石井先生。その先生の作品を演じるにもかかわらず、本人がこの場にいないことへの違和感を、今でも多くの団員が感じています。
 今日、我々が演奏する「幻影と死」は、その石井先生の最後の作品となってしまったものです。初演にむけたプログラムノートの初稿には、ご自身の手によって、こう記されていました。
 「この作品は、いわゆるバレエの場面、場面の音楽を接続した『バレエ組曲』ではない。平安末期に権力の頂点に登りつめ、栄華に溺れ、その地位を脅かされ死を迎える平家の武将―平清盛の『幻影と死』をテーマとして凝結し、新たに手を加えて創造した『交響詩』である(2002年夏)」
 がんと闘い続け、死と隣り合わせにいた石井先生は、この言葉をどんな思いで記したのでしょうか。
 交響詩「幻影と死」は、新国立劇場の依頼で作曲された3幕もののバレエ「梵鐘の聲」が原典となって生まれた作品です。このバレエは、新国立劇場開場記念公演として1998年2月1日、新国立劇場バレエ、高関健指揮=東京交響楽団の演奏によって初演されました。台本・振り付け・演出は、石井潤氏。「幻影と死」のほとんどの部分は、このバレエ音楽の第1幕と第2幕から抜粋され、接続されています。ただ、石井先生のコメントの通り、この作品は、バレエ音楽から独立した数曲を抜粋したものではなく、素材を有機的に結合させて一曲の交響詩に再編集したものです。具体的には、「梵鐘の聲」の以下の素材から構成されています。

「出家をした建礼門院が、寂光院で世の無常を感じながらたたずむ」
(冒頭のホルンの息音を使った神秘的な出だしから、やはりホルンの低音による物悲しい主題で閉じられる部分)

「都大路=街の人々の音楽」
(タンバリンや鈴に導かれ、9度の跳躍のリズムとともに、ヴァイオリンでH−Fis−C−(下の)Cisと下降する断片)

「平家に取り入った公家たちの踊り」
(トロンボーンの長2度の和音で始まる)

「その召使の踊り―都での争いの暗示」
(再びタンブリンで始まる跳躍の音楽)

「清盛の館での豪華な酒宴」
(木管楽器が複雑に絡み合う賑やかな音楽、ヴァイオリンとヴィオラによる優雅な旋律)

「仏御前と清盛のパ・ドゥ・ドゥウ」
(弦楽器のアクセントに導かれて、ファゴットのソロ、ヴァイオリンソロが絡む) ―以上第1幕から

「栄華の絶頂にありながらも一人孤独を感じる清盛」
(清盛を表すコントラファゴットの独白)

「平家に恨みを持つ一味」
(ピッコロの低音から始まる短3度の怪しい音楽)

「病を悟る病床の清盛」
(バスクラリネットとコントラファゴットによる独白)

「地獄の死者たち―亡霊に悩まされる清盛」
(弦楽器のトレモロとヴィブラフォンの和音)

「亡霊の出現」
(木槌で打たれるタムタムの大音響に始まる不気味な音楽)

「重病の清盛」
(低音楽器の神経質なトリル)

「清盛の死」
(ショッキングなテューブラベルとバスクラリネットの呻き)

「地獄の使者−源氏の蜂起−壇ノ浦の戦い」
(下から上へと吹き上げるような大音響)

終結部
(打楽器の16分音符の強奏)

 「梵鐘の聲」が初演される4ヶ月ほど前、石井先生はひそかに甲状腺がんの手術を行なっていました。がんと闘いながら、先生は肉体のみならず、内面でも「死」に直面していたことは想像に難くありません。
 「梵鐘の聲」のスコアが完成されたのは初演の1年前ですが、もしかすると、この作品の世界は、がんの手術に臨む石井先生の頭の中で巡っていたのかもしれません。
 翌1999年10月にオランダで初演されたオペラ「閉じられた舟」では、僧侶が「窓も櫂もない目無し籠舟に、僅かな水だけを与えられ極楽浄土を目指す、永遠の帰らざる舟出」(石井先生)、すなわち中世日本の「補陀落渡海(ふだらくとかい)」がテーマに取り上げられています。生きながらにして極楽浄土、すなわち死を目指した高僧「智暁」が、死への恐怖と生への執着の狭間で成仏できず、結局、悶絶死して「中有」(バルドー)の世界に入るものの、最後にはそこから生還するという筋書きです。そのさまを通して、生と死の狭間に揺れる内面のドラマを表現したのが、このオペラです。オランダ・ユトレヒト、ドイツ・ベルリン公演での成功の後、2000年11月には日生劇場で日本初演されています。この「閉じられた舟」に続き、石井先生は、仏教的「悟り」をテーマにしたオペラ「シッダルタ」を構想し、脚本化していました。こうして仏教的死生観を煮詰めながら創造を続けていった石井先生でしたが、死の直前には、病室の壁に「無為自然 達観の境地」と書いた紙を貼り付けていたそうです。
 生前の石井先生とも親交の深かった高関先生は、石井先生を「日本人作曲家としては、武満徹さんと両雄だった」と悼んでいます。武満氏は「日本人の感性の繊細さ」を表現する一方、その日本人の「ダイナミズム」を表現し得た作曲家が石井先生だったということです。先生の棺に納められた「幻影と死」のスコアからは、やはり躍動感にあふれた大音響が紡ぎだされます。この大音響は、死=無に於ける静かな自然(じねん)の生に、限りない「力」を見る石井先生の「生への賛歌」だったと、筆者は勝手に思い込んでいます。「梵鐘の聲」の冒頭、静かにたたずむ健礼門院が、憑かれたように激しくもだえるように踊る場面がありますが、静の内に秘める動のエネルギーのすさまじさをこの「幻影と死」にも感じずにはいられないのです。「初演」は昨年7月、ゲルト・アルブレヒト指揮=読売日本交響楽団の第418回演奏会で行なわれています。このときは大幅なカットが行なわれたため、完全版の演奏は今回が初めてとなります。
 

初演:2003年7月5日ゲルト・アルブレヒト指揮 読売日本交響楽団
   サントリーホール

楽器編成:
フルート3(3人共ピッコロ持ち換え)、オーボエ3(3番コールアングレ持ち替え)、Esクラリネット、クラリネット2、バス・クラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン6、トランペット3、テノール・トロンボーン2、バス・トロンボーン、テューバ、ハープ、弦5部、
打楽器(奏者5人)
1番奏者:ヴィブラフォン、吊シンバル(中)、タムタム(大)、タンブリン、シンバル(合わせ)、ラカタカ(アフリカの木製打楽器:18ページを参照)
2番奏者:小太鼓、タムタム(大)、吊シンバル(小・中・大)、グロッケンシュピール、プラッテンゴング(中・大)
3番奏者:ティンパニ(小・中・大)、鈴(スレイベル)、マラカス、ゴング(大)
4番奏者:吊シンバル(小・中・大)、木鉦5、大太鼓(大)、小太鼓、チェンチェン(バリ島の金属打楽器、小さなシンバルを合わせて鋭い響きを出す:18ページを参照)、クラヴェス
5番奏者:貝殻(鎖)つきタムタム(大)、鈴(スレイベル)、コンガ、竹鳴子、クラヴェス、タムタム(大)、テューブラーベル(鐘)、吊シンバル(小)


ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調

山口裕之(ホルン)

 ベートーヴェンの交響曲第5番は、おそらくあらゆる交響曲の中でも最もよく知られた曲の一つである。この交響曲がこれほどまでに有名であるのは、なんといっても第1楽章冒頭のモティーフによってこの曲が「運命」交響曲として広く受けとめられてきたからであろう。第1楽章の冒頭について「このようにして運命は扉をたたく」と語ったという、同時代の伝記作者が伝えているベートーヴェンの言葉の真偽はともかくとして、この広く流布したエピソードのために、われわれは、ベートーヴェンの音楽の中でもひときわ優れた集中度と構成力をもったこの傑作を、音楽そのものとしてではなく、「運命」という標題のもつイメージにどうしてもとらわれて聞いてしまう、という不運に見舞われているのかもしれない。確かに、ベートーヴェンという一人の人間が仕上げた作品には、彼の私的な格闘の痕跡もきっと残されていることだろう。しかし、もしも格闘ということを問題にするのであれば、ベートーヴェンが彼の時代環境の中でどのような音楽的な(あるいは音楽家としての)戦いを挑んでいたかということのほうが、この交響曲の音楽そのものにはるかに密接に関わっているように思われる。
 ベートーヴェンが交響曲第5番に取り組んでいた1805年から1808年はまさにナポレオンの全盛期であり、ベートーヴェンが1792年以来住んでいたウィーンも、フランス革命の進展、そしてそれに続くナポレオンの遠征に戦々恐々としていた。革命やナポレオンに対するベートーヴェンの態度は、その時々の政治的出来事などに応じて両面的なものであったようだが、例えば交響曲第3番(1803-04)、歌劇『フィデリオ』(1804-05)、ゲーテの悲劇『エグモント』のための劇音楽(1809-10)にも見られるように、抑圧的な体制に対して自由な精神の飛翔を求めるというテーマは、おそらくベートーヴェンの音楽の根幹を成すものの一つに数えることができるだろう。
 市民革命による封建的な支配の打倒、革命に脅威を感じてこれを鎮圧しようとする隣国封建君主の軍隊への国民的抵抗、逆にフランス軍の侵攻によって鼓舞されることになる隣接諸国の国民意識といった時代の流れは、世界史の中のできごととしてとらえられることになるが、こういった時代のうねりは、ベートーヴェンが音楽家として生きていた小さな世界の中でも別のかたちをとって現れていた。ベートーヴェンがドイツ(といっても、小邦に分かれた「神聖ローマ帝国」内のケルン選帝侯国)の小都市ボンから、ハプスブルク帝国の首都ウィーンに出てきたのは、もちろん、芸術と富の都、グルック、ハイドン、モーツァルトの街で音楽家として名を成し、世界に認められるためである。しかし、そのことは同時に、ボンで宮廷音楽家であるのとは比較にならないほど、貴族の文化的機構のうちにいやおうなく組み込まれてしまうことを意味していた。もちろんウィーンで音楽家として生活し、認められていくために、ベートーヴェンは数多くの貴族とつきあい、パトロンとして支援してもらっている。(交響曲第5番は、そういったパトロンたちのうち、ロプコヴィッツ侯爵とラズモフスキー伯爵に献呈されている。)しかし、ベートーヴェンがときとしていかに宮廷的な儀礼を嘲笑し、あえて野卑で無作法な振る舞いをしたか、さらにはパトロンに対しても場合によってはいかに反抗的で無礼な態度をとったかという記述は、伝記の中でおなじみのものでもある。そういった振る舞いは、貴族の使用人として仕え、見世物のように演奏させられることを「卑しい」ものとして拒絶する一人の音楽家の矜持に根ざすとともに、ちょうどモーツァルトが教会と宮廷という封建社会の二つの権力に仕えながらも、それらから次第に離れていくことになったと同じように、音楽の社会的位置づけがまさに変わろうとする過渡的現象の一つでもあった。
 もちろん、そのような転換点として、音楽そのものの革新性を抜きに語ることはできない。第1楽章だけでなく交響曲全体の構成を支える冒頭のモティーフ、第3楽章から第4楽章への緊張に満ちたattaccaでの移行、第4楽章でのスケルツォのテーマの再現、同じく第4楽章でのピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンの使用といった外面的な特徴だけでなく、あの特別な集中をともなったエネルギーの凝縮そのものによって、ベートーヴェンの音楽は、ハプスブルクの宮廷文化の中で展開してきたウィーン古典派の伝統を継承しつつも、そこから大きく足を踏み出すことになるのである。
 だが、この交響曲第5番がこのようにさまざまな意味において、変革の時代におけるそれ自体革新的な交響曲であるにせよ、現代のわれわれにとってこの交響曲はどのような力を持つのだろうか。われわれ日本人がなぜ、ほぼ200年も経たこの日本で、ナポレオン時代のウィーンに生きたベートーヴェンの交響曲を演奏するのだろうか。これほどの傑出した作品に対して、このような問いを向けることはあまり意味がないように思われるかもしれない。しかし、この交響曲がベートーヴェンの時代とわれわれの時代ではどれほど異なるコンテクストのうちに置かれているかを改めて考えてみると、われわれがこういった現代的なコンサートホールで演奏するという行為はかなりショッキングな対比として見えてくる。ベートーヴェンの時代の歴史的環境、社会的・文化的環境のなかで成立した作品が、もはや最先端の奇抜で野心的な音楽としてではなく、いまや完全に評価の定まった「古典的」傑作として、かなり異なった楽器・演奏スタイルによって演奏される。(ちなみに、この演奏会ではもちろん現代楽器を用い、弦楽器も大編成であるだけでなく、木管楽器とホルンは
人数を倍に重ねている。)そして、バロック作品、イタリアのオペラ様式、ウィーン古典派といった音楽的環境のなかで音楽を享受する貴族中心の演奏会に対して、ここでは、作品が成立した時代の社会・文化からはまったく切り離された「コンサートホール」といういわば無機的な空間のなかで、現代にまでいたる西洋音楽の素養を身につけた聴衆を前にして演奏が行われる。
 これほど異なったコンテクストのうちに置かれたとしても、もちろん、ベートーヴェンが彼の時代の中で格闘していたものは、作品という布地のうちに織り込まれている。その布地を当時あったように再現しようとするのではなく、その織物そのものがなす構成を新たなコンテクストの中で浮かび上がらせ、われわれにとってそれがどのような力を持つものであるかという問いに対して、そのたびごとに答えようとすることが、ここで演奏するということなのかもしれない。

初演:1808年12月22日ウィーンにて
楽器編成:
フルート2、ピッコロ1、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット1、ホルン2、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦5部




これからの演奏会に戻る

ホームに戻る