2004年1月演奏会パンフレットより


座談会) 安部メロディーは『みそ汁』の味―
〜安部幸明先生を囲んで〜

「常に自分に正直に、わかり易い音楽を書き続けてきた」という安部幸明氏。その安部メロディーの魅力とは何なのか―。氏の作品に魅せられ続けてきた音楽家、評論家を迎え、その魅力の本質に迫る。

出席者:安部幸明さん(作曲家)小宮多美江さん(音楽評論家)斉藤真知亜さん(NHK交響楽団ヴァイオリン奏者、新交響楽団 トレーナー)土田恭四郎(新交響楽団 団長)

司会) 森 創一郎(新交響楽団 フルート奏者)


■山田一雄との思い出

---安部先生は1911年(明治44年)の生まれでいらっしゃいます。29年にチェロで東京音楽学校(現・東京芸大)に入学されて、研究科から作曲に転じるわけですが、戦時中から意欲的に作品を発表されていますね。

安部 僕の場合、戦争は嫌だな、とは思っていました。だって、いつ兵隊にとられるかわからないんだもの。兵隊にとられるということは、死ぬことでしょ。そういうのが毎日気になりながら作曲をしていたわけ。それでも、当時はニッポン、ニッポンだったから、放送局でも日本人の作品はわりに取り上げられて、作曲依頼も時々ありましたよ。でも、若い男が働きもしないで昼から家にいる、なんだか、か細い音を出している、非国民だと、周りの目がありましたからね。それでついに兵役でしょ。だから、作品の数はあまりできなかったね。それが戦後、全部なくなっちゃった。これは非常に嬉しいことですよね。そのかわり経済的にはインフレの苦しい時代に入っていき、食べることは難しくなります。ただ、作曲については、誰にも何も文句を言われずに、何でもかんでも自由に作ることができました。

---同じ時代を生きた作曲家、指揮者に山田一雄(和男)さんがいらっしゃいますね。

安部 彼は僕より1歳年下で、東京音楽学校には1年浪人してピアノ科に入ってきました。男でピアノというのは当時としてはたいへん珍しかった。女は家庭でもピアノはやりましたけれどね。当時は1学年の定員が30人ですから、みんなすぐに友達になっていました。
彼はピアノ弾きだけれども作曲もするし、指揮もやりたかったらしいのね。それで学校を出てから、僕とローゼンストックのところに指揮を習いに行ったんだ。先生への当時のお月謝は20円だったんですが、一人で行っても4人で行っても20円なんです。だから山田は誘うわけですよ(笑)。
指揮者の金子登とか、フルート吹きの山口正男、それに僕が目をつけられて、口説かれた。あんた作曲家だろ、作曲家というのは自分で指揮しなければならない機会があるに違いないから、勉強しておいたほうがいいよ、なんて誘いこまれたの。何のことはない、お金を浮かすためなんですよ(笑)。それで月に2回くらい習いに行ったんです。そのうち山口君は死んじゃうし、金子君と山田君は仲が悪い。それで山田君と僕が一緒に行くようになったんです(※2)。

■ヴァイオリンに憧れた少年時代

---安部先生といえば、15曲の弦楽四重奏曲をはじめ、弦楽器を中心とする作品が多いですね。ご自身もチェロ奏者でいらしたわけですが、チェロを始める前は、ヴァイオリンに憧れていたそうですね。

安部 そうです。今でもヴァイオリンを下げている人を見ると、なんとなく後をついて行きたくなります(笑)。父親がヴァイオリンを弾くことを絶対に許さなかったのですが、それは今から考えるとね、近所に新聞配達をしている人で、男性なのに髪の毛を長くしてヴァイオリンを弾いている人がいたんです。それで、親父はというと、軍人で頭がツルツルだった。で、その男がいかにも不良のように見えて、「おまえもいつかはああいう風になるのではないか」と、どうも、そんなところだったらしいんです(笑)。

---その新聞配達員が近所にいなければ、先生の人生も別のものになっていたかもしれませんね。ところで、そのヴァイオリンを職業にされている斉藤先生は、これまで安部作品を積極的に取り上げられ、流亞風弦楽四重奏楽団では全曲安部作品でプログラムを組まれたりしています。斎藤先生にとって、安部作品の魅力とはどのようなものですか。

齋藤 僕の場合、安部作品との出会いはクラリネット五重奏曲でした。ヴァイオリン奏者の篠崎功子先生から声をかけていただいて一緒に演奏させてもらったのが最初でした。
その作品の初演当時の話を安部先生から伺うと、戦後のすごい時代の中で、練習はするんだけれど、誰かが買い出し(※)に出ていて、5人が集まることはついにゲネプロでもなかった。本番ではじめて5人集まって、本来の音が出たとおっしゃるんですね。それは笑ってしまえば笑えるのかもしれないけど、そんな時代の中で安部先生が作曲を続けてこられて、音も残っている。その情熱が僕にものすごく伝わってくるんですね。
その一方で、僕のほうにも、日本人の作品に対する思いがありました。僕らは日本人のくせに西洋音楽をやっているんですよね。ヨーロッパ人から見れば、黒い髪をしたのがモーツアルトを弾いているのはおかしいんですよ。ドイツ人がシューマンをやるというのが正解のはずです。例えばサヴァリッシュ(N響桂冠名誉指揮者)が来て、シューマンなんかを振って「グート」とか言って帰って行く。でも、彼のなかでは絶対違うんだろうな、と思ってしまうんです。それなのに我々プレイヤーは邦人作品をはっきり言って馬鹿にして、演奏する機会を減らしているんですよね。本当は日本人が一番理解して表現できるのは、やはり日本人の作品なんですよね。そんな僕の気持ちと、安部作品から感じた先生の情熱とが接点を持ったわけです。
ただ、実際に弾いてみると、すごく難しい。出てくる旋律が『みそ汁』みたいなんです。そのみそ汁の出し汁が安部先生そのもの。そして、その出し汁のなかに、先生が生きていた時代背景が具としてつまっているんですね。それを単品で、「今日の具は大根です」と出すのだったら、つまり1曲だけ演奏するんだったらできるんですが、先生の弦楽四重奏曲をシリーズでやらせて頂くと、たとえば芋の具が出てきて、いやあ、当時の芋はどんな味がして、どんな意味をもっているんだろうと。そういう難しさがあって、逆にそれがすごい魅力にもなるんですよね。

---安部先生の旋律は『みそ汁』の味ということですが、西洋の調性音楽の中にも日本的な響きがにじみ出てくるわけですね。

安部 僕は日本人でしょう。だから別に意識しなくたって西洋人になれっこないんだから、自然に自分の思っていることを書いてればそうなるんだ。だから安直な考えかもしれないけれど、意識して日本的にしたいとか、そんなふうに意識したことはないですね。その時出てきた、例えば旋律なら旋律、和音なら和音、もうそれだけなんです。

土田 安部先生のシンフォニーを実際に練習していて感じるのは、単純に日本的ではないということですね。そこがまた面白い。今まで新響がやってきた戦前の邦人作品などではコテコテに日本的なメロディーが出てくるものが多いんですけれど、今回演奏する安部先生の交響曲の2楽章に出てくるチェロのメロディーなんかも、もちろんみそ汁の匂いはするんですけれど、コテコテの日本的旋律とはちょっと違う。そこがスタイリッシュで、面白いんです。

---評論家として長年、安部先生に注目していらした小宮先生の目から見て、安部作品の「日本的なもの」をどう見ますか。

小宮 ちゃんとした曲には、「おへそ」みたいなところがあるものですけれど、たとえば、安部先生の弦楽四重奏曲の第1楽章ではそこのところで、一番凝縮された日本の音、響きが出ているんですね。先生はまったく意識なさらないで書いていらして、私が本のなかでそのことを書いたものですから、先生は「よく分かりましたね」とおっしゃったんです。

安部 僕もね、ほお、と思ってびっくりしてね。そう言えばそうだなと思った(笑)。例えば、その「おへそ」の部分がちょっとペンタトニック(5音音列)のようになっているのね。そんなことは別に意識したわけではなかったんですが。

小宮 わりとすぐ日本的な旋律が聞こえるような場合、日本人なら真っ先にそれを感じますからね。ある程度作品として弱いところがあっても、日本的ということで聴衆は気持ちを動かします。まあ、悪く言えばごまかされることもあるかもしれない(笑)。でも、先生は基本的な姿勢として「日本的なもの」をそのようには使われないので、じつは先生の曲を美しく演奏するのは難しいんだと思います。

土田 演奏する側にとっても、先生の交響曲1番を練習していて、すごく難しい。メロディーはすごくわかりやすいんですが、何カ所かに「ウッ」と怖いところがある。ごまかせないんですね、響きも音も。ご本人を前にして何ですけれども、作りがすごく巧妙というか、お洒落なところがあるんです。特に感じたのは、合奏でやるとわからなかったんですが、管楽器だけで分奏をやると、オーケストレーションがとても凝っていることがよくわかる。何カ所かそういうところがあります。

小宮 私ね、つい最近、先生のフルート・ソナタのいい演奏を聴いたんですね。先生は他の作曲家に比べて、なかなか録音を残されないんですが、フルート・ソナタを聴いていて、その理由がすごくよくわかったんです。どの作曲家のどの曲だって、良い演奏によって良くなるに違いないけれど、ことさらに先生の曲は本当に良い演奏でないと、という気がしますね。

■「現代音楽」はくたびれるだけ

---今回の安部先生のシンフォニーについては、小宮先生はどのような評価をお持ちですか。

小宮 あらためて日本のオーケストラが日本の作品を演奏してきた歴史を考えますと、数だけで言えば戦争末期の数年がすごく多いんですね。ところが、記録を見ますと、敗戦からしばらくガタッと減るんですよね。その代わり、戦後すぐは室内楽が圧倒的に多くて、1950年前後から60年にかけても室内楽が多い。安部先生も戦中から室内楽の分野でたくさん作ってこられる時期があります。
この交響曲1番が書かれた57年というのは、東京交響楽団が定期演奏会で日本の作品を取り上げた、一連の時期の真ん中くらいでしょうか。だいたい50年代の終わりごろから、日本フィルもできてオーケストラ活動が盛んになって、日本の管弦楽作品も作られるようになります。
ところが、60年代のなかば以後、つまり前衛の時代になると、オーケストラの方は成長するのに反比例して、日本人の作曲家による管弦楽作品は頭打ちになっていくんです。ですから、先生の1番からシンフォニエッタにいたる三つの交響曲は、作曲された背景から考えても、時代を象徴する作品なんです。第1番のスコアは初演のすぐあとに音楽之友社から出版されていますが、これは音楽の友社が「現代日本音楽選」シリーズのなかで管弦楽スコアを出版した第1号だったそうです。

---一方、日本の若手作曲家がいっせいに目を奪われた50年代の世界の音楽事情を見ますと、1952年にはジョン・ケージが、奏者がピアノに向かって何もしないで終わるという、『4'33“』を発表して、「偶然性の音楽」を突然、極端な形で提示しました。同じ年にピエール・ブーレーズが、『2台のピアノのための構造I』で総音列音楽(音高だけでなく、強弱、音の長さなどすべてを音列化した音楽)を試み、シュトックハウゼンが活動した電子音楽スタジオがケルンにできたのが53年です。1950年には安部先生は39歳でいらしたわけですが、終始、調性音楽を離れることがありませんでした。

安部 そうですね。とにかく僕は調性音楽の中で育っていて、現代音楽のようなものはわからない。日本で調性をともなわない技法が一気に出てきたのは、やっと僕が40代になって、交響曲を初演した1950年代ですよ。それが、いつのまにか主流になっちゃったわけだ。それがいまだに続いている。それがいけないとは決して思っていないけれども、何で誰もがそうなっちゃったのかと、それは思いますね。
僕は昔、ヘタクソなチェロを弾いていたんですが、チェロという楽器は倍音を伴う楽器で、その倍音を無視できないわけですよ。どこを弾いたってどっかの倍音が鳴っていて、それを利用した楽器ですから。ところが、近頃はひとつの教育方針としてピアノで音楽を教えるでしょ。すると、ややもすると、あれしか正しい音じゃないんだと教育されてしまう傾向があります。これは日本のみならず外国でもそうではないかと思います。これは良い面もあるけれど、かえってそれが邪魔になることもある。つまり、12しか音がないという考え方になるわけでしょ。でも実際は、7倍の倍音でどうなるとか、長3度だってほんとは平均律でとった場合より低くなるわけなんですよね。
ところが現代音楽となると、そういうことをあんまり考えていないのね。いまのほとんどの作品には粗雑な「響き」だけしかない。その響きだけを聴かされる。極端なことを言えば、12の音を全部いっしょに鳴らして、それがいつも変わらない。ただそれがピアノになったりフォルテになったり、時々何かの楽器が休んだり。そういうのが多いでしょ。作曲家は何が面白くてやっているのかなと思って、くたびれちゃうばっかりなの。

斉藤 平均律の音というのは、どの音を並べても振動の比率が全部小数点になるんです。でも、純正律というのは2:1とか、全部整数比で割れるんですよね。やはり人間の耳にはそれを鳴らすのは嬉しいですよね。でもそれがド、ミ、ソ、シ、レ、ファ、と、時代と共に9の和音、11の和音というようになってきた時に、そのきれいな音がもう響かなくなってしまうんです。

---そういうことですよね。小宮先生は安部先生のスタンスをどうご覧になってきましたか。

小宮 確かに今の現代音楽は、「聴く方の仕事」というものを無視しているという気はします。ただ、作曲家というのは生身の人間として時代を生きているわけですから、時代とまったく無縁ではあり得ない。私は「前衛」に対するスタンスとして、ただ時代の流れだから乗っていってしまうということと、単に流れに乗るのではなく、自分を保ちながら、その時代の空気を反映させていくという2つのスタンスがあるんだと思います。時流に乗っただけだったら作曲家はだめだと思う。安部先生がおっしゃるように、そのことを今の時代の皆さんにもわかってほしいと思っています。

齋藤 作曲という、ものを生み出す仕事というのは、少し暴力的な言い方をすると、その時代にないものを模索するということなのかな、と思います。時流に乗るのかそうでないかということは詳しくはわからないけれど、創作ということでイメージするのは、モーツアルトとサリエリですね。サリエリは当時流行作家だったけれど、モーツアルトはそうでなかった。それはプレイヤーとしてもそうなんですよ。

それで、私が思うのは、安部先生の作品が魅力的なのは、先生はやっぱり新しいことをやっているということなんですね。それは先生ご本人も意識していらっしゃらないかもしれない。例えば前衛音楽が全盛で、とにかく新しいことをやるんだといってみんな模索しているころ、安部先生のように旋律を書くことは、「演歌を書く」と言われて蔑まれた時代だったんです。旋律を書くことはタブー視されていたんですね。それにもかかわらず、安部先生が旋律を書き、明解なハーモニーをずっと守り通してこられたということは、ある意味で新しいことだと思うんですよ。
その一方で、いわゆる現代音楽は、細胞になっちゃったんですよね。人があってそれが本体なのだけれど。どんどん解剖していってしまって、細胞がどうの、核がどうのっていう風になっていたのだと思うんですよ。
いずれにせよ、音楽会というのは曲を作った人、音を出す人とそれを聴く人という3つの立場が自然にポンとひとつの点に乗った時がいい演奏会なんですよね。

安部 そうなんですね。だからこそ、旋律が大事。旋律こそ音楽だと思いますよ。

(※)戦争直後の食料不足の中で、農家などに食料の調達に出かけていた。配給制の時代、そうしなければ満足な食事をとることができなかった。因みに、安部先生のクラリネット五重奏曲の初演は1946年5月25日。終戦から1年も経っていない。
(※2)1939年、山田は安部幸明、小倉朗、尾崎宗吉、深井史郎、原太郎、松本善三、桑沢雪子、喜安三郎、井上頼豊、山根銀二、園部三郎と「楽団プロメテ」を結成し、自作の発表会を行なっていた。その翌年の1940年から山田はローゼンストックの自宅に安部らと指揮を学びに通うことになる。


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