2003年7月演奏会パンフレットより


音楽の「始源」を見つめ続けて

―湯浅譲二氏に聞く

 「行く春や 鳥啼き魚の目は泪」の句に、芭蕉の老境の思いを見るという湯浅譲二氏。七十歳を超え、ますます創作意欲盛んな湯浅氏に、その創造の源泉を聞いた。

■青春を共にした実験工房の仲間たち

――日本を代表する作曲家である湯浅さんですが、やはり世界的な作曲家の故・武満徹さんなどとともに、実験工房(※)で青春時代を過ごされました。この実験工房という集団に先生はどのようにして関わるようになったのですか?

湯浅 それがですね、今でも実験工房の連中は不思議だと言うんですけれども…。何か高くポリシーとか綱領を掲げて集まった、といったことは全然ないんです。タモリではないですが友達の輪みたいに、偶然に友達の友達が集まっただけなんですね。
 僕は音楽評論家の秋山(秋山邦晴)と一番最初に友達になったんです。僕が通っていた慶應大学のなかに「現代音楽研究会」というサークルができて、そこにいつも秋山が来ていましてね。人によってはこのサークルは秋山がよびかけて作ったと言うんですが、でも彼は早稲田なんですよね。なぜ早稲田に作らなかったのかと思うのですけれど(笑)。
秋山の家とは下宿が近かったものですから、電車の中で話をしているうちに彼と親しくなってきて、家に遊びに行ったりするようになりました。彼は専攻がフランス文学でしたから、シュールレアリズム(超現実主義)の詩などについても勉強していて、そういう点が面白くてつき合っていました。
 その当時、新作曲派協会や地人会とか、戦後すぐ出来たような作曲家のグループがあったんですね。地人会は平尾貴四男さんが中心で、新作曲派協会は伊福部さん(伊福部昭)、早坂さん(早坂文雄)、松平さん(松平頼則)、清瀬さん(清瀬保二)など、いわば国民楽派といってもいいような人たちの集まりがありました。その人達の発表会が年に一度くらいありまして、よく聴きに行ってたんです。くだらないなとか、つまんないなとか、若いからおこがましくも批判したりしていました(笑)。
 それで二十歳の頃、武満と鈴木(博義)が新作曲派協会に入って最初の発表会の時に、僕は秋山と二人で偵察に行きました。そうしたらあまりに今までの音楽と違う音楽なので、私達は感激して、二人に会いに楽屋へ行ったんです。それが武満と鈴木と知り合った始まりなんですね。
 その一方で、絵描きの人たちで岡本太郎さんの所に集まっている人達がいまして、その中に福島秀子(前衛絵画・造形家)さんという人がいたのですが、その弟が福島和夫(作曲家)で、彼は鈴木の友人でした。それで鈴木、武満も太郎さんのところの何かの集まりに行っていたことがあったらしいのです。
 それで秋山と僕、鈴木と武満そして福島という関係ができたんです。鈴木は三軒茶屋、武満は代田、秋山が明大前で、僕が松原町に下宿していて、みんなある程度近い距離に住んでいたんですね。それであっちの家へ行ったりこっちの家へ行ったり、一週間に何度も会って、徹夜で音楽だけではなく、映画の話などもいろいろしていました。
 それである日、読売新聞の記念行事でピカソの「生きる悦び」というバレエを谷桃子バレエ団と東京交響楽団で公演する機会がありましてね。その時、読売の文化部長と親しかった詩人の瀧口修造さんから、このサークルで音楽や美術など、舞台全体を作らないかという話があったんですね。それで音楽を武満と鈴木が受け持ちました。その頃に瀧口さんが我々のサークルに「実験工房」という名前を付けられたんです。

■医者なんて辞めちゃえ!

――やはり実験工房の方々は、アカデミズムからは一線を画そうという意識が強かったのですか?

湯浅 ドイツ的なアカデミックなもの、いわば形式主義みたいなものに対しては最初から反抗していました。僕たちはわざとソナタなどは書かないんですが、アカデミックな人たちからは「書けないんだろう」なんて言われました。僕は書けないのではなく、書かないんだよと言っていたんですがね(笑)。
 武満は、まあ僕たちみんなそうなんですが、自分で形を模索していく中でいわゆる形式、構造に対するコンプレックスを持っていたと思うんですね。ですから、一生懸命書いて行くうちに構造なんかについても話をする。実際に晩年の作品などでは、五つの音だけで出来ているとか、武満は説明していました。しかし、これにはある意味でのコンプレックスがあったと思うんです。コンプレックスの裏返しとでも言うのでしょうか。
 いずれにせよ、我々がむしろフランスの系統に影響を受けたのは、瀧口さんとの交流からということもあります。瀧口さんはアンドレ・ブルトンなんかとも直接知り合っていますし、アンリ・ミショーやホアン・ミロなんかとも直接の交流があるんですよね。ですからフランスのエリアールとかアンリ・ミショーなどの詩集を読むような気風が実験工房の中にはあったんです。
 ですから全体的に音楽だけではなくて、ある種のフランスのシュールレアリズムを中心とするものや、コクトーとかサティなどにも最初から興味をもっていました。当時だれも知らなかったメシアンに興味を持って、五十年前に「世の終わりの四重奏」とか、「アーメンの幻想」などを初演したんです。
 ただ、我々はフランスの作品ばかりでなく、シェーンベルクの「ピエロ・リュネール」(月に憑かれたピエロ)や「十二音の管楽五重奏」、「ヴァイオリンとチェロのファンタジー」などの初演も行っています。武満はアルバン・ベルクが好きだったし、僕もウェーベルンは当時からとても好きでした。

――その実験工房の付き合いが医学生だった湯浅先生の運命を変えてしまったのですね。

湯浅 そうですね。その時、僕はまだ慶應大学教養学部の二年生だったんですが、みんなとつき合ってるうちに「大学なんか辞めちゃえ、辞めちゃえ」と言われるんです(笑)。それでも僕は医者になるんだから辞められないと思っていましたけれども、日本人の発表会を聴いているうちに、自分はもう既に作曲はしていましたから、このぐらいなら自分でも作曲できると思ったんですね。
 それで、総合病院の院長をしていた父に恐る恐る「医者にならなくてもよいですか?」と申し出ました。ところが、父は自分でいろいろ絵も描くし、建築にも興味があるという多才な人だったものですから、即座に「よし、やれ」と言ってくれたんですね。

■言葉と声、音楽
 
――さて、今回、新響は先生の『奥の細道』を演奏するわけですが、こうした作品のほかに、先生は『お葬式』(故・伊丹十三監督)などの映画音楽も手がけられています。『お葬式』では伊丹監督からは難しい注文もあったのですか?

湯浅 特に注文はありませんでした。いろいろと話をしていると、彼は音楽をすごくよく知っている方だった。シベリウスがお好きとか。ですから映画についても音楽的イメージは持っていらしたと思います。でもここはこういう音楽で、というようなことはおっしゃらなかった。
 僕は何人かの監督とご一緒しましたが、この作品の台本を読んだときは、まるでドキュメンタリーを読んでいるような印象を受けましたね。これが映画の台本か、と思いました。最初は全然映像を見ないわけですから。後になって映像を見ると、実際に映像を見なきゃわからないような面白さがたくさんあって、とても素晴らしい映画だと思いましたね。

――先生は童謡の世界でも印象的な作品を書かれていますね。「走れ超特急」では「びゅわ〜ん、びゅわ〜ん」と歌いますし、「インディアンがとおる」では「あっほいあっほい」と歌いますね。

湯浅 実験工房の頃からNHKやTBSのラジオやテレビの子供番組の音楽は随分長くやっていました。本当はもっと早く大人の番組で音楽を書きたいと思っていましたけれどね(笑)。
でも、子供の歌を書くときには、子供だからといってただ易しく書くだけじゃなくて、やはり音楽性がなければいけないと思っていたということはありました。
 「びゅわ〜んびゅわ〜ん」とか「あっほいあっほい」とか、これらはいわば擬態語とか擬声語ですよね。「ぴこっとさんの娘」という私の曲でも、「ぴこぴこぴこぴこ」と歌います。私はとくに擬態語、擬声語の歌詞を選んだということではありませんが、もともとそれにすごく興味を持っていました。「擬声語によるプロジェクション」(Projection Onomatopoetic (1979))とか、「擬声語によるうたあそび」(Uta Asobi(Play Songs) on Onomatopoeia (1985))といった作品を作曲したのもそうした関心からだったんです。
 言語学で言うシニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifie)、日本語では指示記号と指示内容という事になるわけですが、普通の言葉というのはまず音響の信号ですから、それは単に指示的な関係を持っているだけで、それが指示する内容、つまり意味と直接には何の関係もありませんよね。例えば「机」という発音に対して、「机」という内容があるのは、必然性がまったくない。「牛」、「馬」など、みんなそうです。昔、ミュージック・コンクレートでヴォイセス・カミング(Voices Coming (1969))の作曲に取り組んでいるときに、いつも自分の中で問題になっていたことが、この人間の声と言語の関係だったんです。
 もともと言語は声から出ているものですが、文字ができる何万年も前から人間は音響的なコミュニケーションをやってきました。今、あなたと喋っている言葉も音響で通信しているわけですが、しかし、我々は同時に言葉の意味の通信もしていますよね。
 ところが、非常に特殊なのがオノマトペ(onomatopoeic words)という擬音語、擬態語、擬声語なんです。「ピン」「トン」「ポン」「ドカン」などですね。それがどういう意味かというと、その意味でしかない。狂言で言う「さらさらさらさら、パッタリ」という表現も、擬声語、擬態語ですね。それが何を意味しているかというと、それしかない。つまり、音楽的な意味が言語の意味そのものになっているということなんす。
 それで擬声語、擬態語を集めてきて、それを音楽にすると、集めてきたこと自体が音楽的な構成になるんですね。どのような関連でそれを集めるかということが、もう音楽を構成しているということになるんです。
これはとても面白いことで、そうした関心から僕はいくつか曲を作っています。僕が作った童謡もまったく偶然にそうした擬音語、擬声語が含まれるものが多いですね。

■世阿弥と芭蕉―禅思想と湯浅音楽の本質

――ところで、今回の『奥の細道』を含め、湯浅先生の作品には芭蕉に因んだものが非常に多い。先生にとって芭蕉はどのような存在なのですか。

湯浅 僕は実験工房時代、鈴木大拙さんの本をたくさん読んで、禅的な考え方の影響を受けていました。大拙さんは『禅と日本文化』という著書の中でも芭蕉の「古池や 蛙飛び込む水の音」の解釈を論じたりもしているんですよね。
 僕は日本の文化の中心を支えているのは禅的な精神だと思いたくて、逆に江戸末期的な閉ざされた陰影礼賛的なものは好きではない。むしろ室町・鎌倉時代に日本の精神の神髄があると自分では思っているんです。
 そういう意味で、まず世阿弥にすごく興味を持っていました。それは子供の時に四、五年謡いをやっていた事も影響があります。能舞台を観る機会も子供の頃からありました。そこで繰り広げられる音楽がすごく不思議で、どうやって合わせているんだろう、地謡と笛がまったく無関係に演奏しているようでいて、かつその空間性がすごく面白かった。ものすごく現代音楽のように聴こえたんです。
 芭蕉は江戸・元禄時代の俳人ですが、彼も禅の思想をもっていて、桃青法師という名前も持っています。僕は、芭蕉と禅的な世界に非常に共通性を感じていて、そのどちらも僕の音楽の本質的なものと関わってくるんです。

――本質的なものに関わるというのは、どういうことですか。

湯浅 少し話はそれますが、音楽を作曲する上でロマンティシズムは絶対に必要だと僕は思うんです。なぜなら、ある理想を追いかけるという事がなければ、そもそも作曲などできないからです。そういう意味ではロマンティシズムは大事。ただ、そのロマンティシズムの中には自己耽溺という部分もあります。僕はそういう部分はあまり好きではない。むしろストイックな物事への対し方が好きなんです。そのストイックな姿勢が禅的な精神と非常に一致するわけです。
 ある人は僕の音楽を「ヒューマニズムの音楽だ」と言ったりしますが、僕は自分でもそう言ってもよいとは思っています。ですが、肩を組んで連帯感で歌を歌うような意味での「人間的なもの」は嫌いなんです。ですからシュプレヒコールなんていうのも大嫌いですね。ああいうことは絶対にやりたくない。ですから、音楽の政治参加ということも僕はすごく危険なことだと思います。戦時中に育ったせいか、なおその思いは強いですね。
 音楽というのは人を鼓舞する力がありますが、そこに付ける言葉を変えれば、同じ音楽が右にも左にも向くことになります。これはすごく危険なことだと思っています。

■音楽が湧き出る源

湯浅 しかし、普通の音楽はそうではなく、いわゆる非人間的なメッセージの中でこそ、人間は自己を自覚するという考えを僕は持っています。それが能の世界に非常に共通して感じられるし、芭蕉の句も人間がどうしたというものはあまり詠んでいないんですね。
 芭蕉はほとんど物象についてしか詠まないのですが、そこにはもちろん人間がいる。そして、芭蕉は、そこにいる人間と大自然、あるいは大宇宙と一体化するような瞬間を詠んでいると思うんです。芭蕉のそういう点と、僕の音楽のもともと発祥してくる地点とが一致すると思ったんですね。
 もともと実験工房の頃から、そのことはよく考えていました。つまり、音楽はどこから出てくるのか、一番本質的な音楽の発生源とは何か、というようなことを実験工房の連中と若いなりによく議論していました。
 武満はそれは「愛だ」と言っていました。鈴木は「源に立ち返る」というようなことを言っていました。僕は「既成のものではなく、ある種の宗教的な世界を人間が持つところから出てくる」と言いました。それは原始民族よりもっと前、旧石器時代に人間になったばかりの人類が宇宙をとらえていたその捉え方を、内触覚的に捉えるということなんです。

――先生の音楽のキーワードである「始源への眼差」というのは、そのことですね。

湯浅 そうです。人間がものを名付けたり、あるいは「自分」とか「あなた」という言葉を獲得すると、自分自身が二元的に分裂してしまうんです。つまり、呼ぶ私と呼ばれる私、というように相対化現象が起こるんですね。ですからそれまでは犬や猫と同じように宇宙と一体化して生きていたわけですが、言語を獲得することで、二元化・相対化して、「大宇宙」対「自分」という対立構造が生まれます。宇宙に対する畏怖観が出てきた頃から宗教が生まれてきて、それを一体化するためにお祈りする、という行為が生まれてくるわけです。
 それは音楽にとって非常に本質的なことで、つまり、音楽もそういう祈りの役割を持っていると僕は思うんです。僕は東洋と西洋という事を考えながら、実は東洋も西洋もないもっと前の「始源」というところでものを考えたいと思っています。

(聞き手・構成 フルート 森 創一郎)

※ 実験工房(1951〜1958年)
 山口勝弘、北代省三、福島秀子、駒井哲郎、秋山邦晴、佐藤慶次郎、鈴木博義、武満徹、福島和夫、湯浅譲二、大辻清司など、美術、文学、音楽、写真各分野の気鋭芸術家グループの呼称。
 自作の作品発表会のほか、シェーンベルク作曲の「月に憑かれたピエロ」などの初演を行うなど、当時の前衛作品を積極的に紹介する活動も行った。
1951年、読売新聞社主催のピカソ祭東京展記念で、谷桃子バレエ団の公演「生きる悦び」が上演される。このときに彼らの後見人的存在だった瀧口修造の推薦で舞台美術を山口、北代、福島秀子が、音楽を鈴木、武満が担当。この製作メンバーが瀧口によって「実験工房」と名付けられた

インタビューを終えて
 実験工房時代、湯浅先生は「十二音音楽」の理論書やメシアンの楽譜を、銀座のヤマハや本郷のアカデミアで注文して手に入れたのだそうです。昔も今も、東京の音楽好きが出入りする店は変わらないのだと感慨深くなりました。それにしても、50年代初めにはもう、アカデミアでメシアンの楽譜が手に入るようになっていたとは、驚きました。(森記)


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