2003年4月演奏会パンフレットより


「オケを良く見ろ」「オケをよく聴け」「ビートは自分でちゃんと数えろ」(カラヤンの言葉)
高関さんインタビュー

― 本日はご多忙のところ、私たちのためにお時間をさいていただきありがとうございます。高関さんには1990年の4月に新響を指揮して頂き(第127回演奏会)、それからもう13年たちましたが、本当にお変わりありませんね

高関 年は取りましたよね。(笑い)

― いろいろなお話が伺えるものと楽しみにしております。先ず最初に新響についてどのように思っておられるのか、お聞かせいただけますか?期待しているところとか。
                      
高関 難しいなあ。(笑い) 今回のプログラムというか難題というか課題というか、これを一手に引き受けていただけるということですからね。他のオケ、プロのオケでもこういうプロは滅多に組めないわけですから、そういう意味でとっても楽しみにしています。どういう演奏になるのか、これからの練習次第だと思いますけど。今回、非常に内容が深いプログラムと思いますから、行けるところまで行きたい、というのが正直なところです。私にとって、新響は大曲に果敢に挑戦するオケというイメージがありました。芥川先生でショスタコビッチを演奏したり、山田一雄先生とはマーラーを演奏したり。それから現代曲に対するアプローチもね。日本人の作品にしても企画として取り上げる。特にアマチュアではなかなかやらないですよね。それはすばらしいことだと思っています。
  
― 高関さんは地方のオケを中心に活躍されておりますが、地方から見て東京の音楽シーンをどう思われますか?
                     
高関 私は「地方」という言葉が嫌いですが、その上で申し上げましょう。地方のオケもなかなか厳しい状況です。でもある意味では東京のオケよりは健全ですね。プログラム・ビルディングや入場者数の面でも大奮闘していますよ。月並みな話しですけど、今、不景気でしょ。このところ東京や大阪の演奏会のシーンというのは、演奏水準ではなくプログラミングの水準が下がってきたと思います。いわゆる名曲ばかりが増えてしまいました。外来のオケは特にそうですね。例えば、チェコフィルが来日すると、「新世界交響曲」が必ずプログラムに入るけど、彼らはもっと他の曲を聴いてもらいたいはずです。ドヴォルザークの作品だって第7番のような傑作があります。他にもヤナーチェク、マルティヌーをもっと演奏したいと、絶対思っているんですよ。マネージャーの観点からいけば、名曲の方が切符が売れるんだという固定観念があるんですね。確かにある程度は売れるんだけど。いわゆる名曲プログラムをやっていけば安全だ、という考え方が定着しつつある。これでは結果的に聴衆の数が減っていくのではないかと、危惧しています。ところが地方のオケはそうではない。決して大勢ではないけれど、しっかりと固定した聴衆がいます。しかもお客さんの雰囲気がいい感じですね。プログラムもそれぞれに特徴が良く出ている。とにかく、名曲を取り上げないと入らない、というのは違うんじゃないかな、という意見を私はずっと持っています。特に東京は中心地なのですから、もうちょっといろいろなものが聴けるようになるべきですね。そういうことに気にしないで挑戦できるのはアマチュアの特権ですね。その点で新響はまさに最先端をいっているでしょ。
   
― 恐れ入ります。ご期待にそえるよう頑張ります。話は変わりますが、指揮者を志したきっかけは?

高関 私は小学校に入った頃から大学卒業までヴァイオリンを鷲見三郎先生に習っていました。先生は、男の子はオケで弾いてみた方がいい、という主義だったもので「東京ユース・シンフォニー・オーケストラ」を紹介していただいて、小学校5年の時に入れてもらいました。最初の練習に行ってみたら衝撃的だったのですよ。山田一雄先生が振っていらしてね。山田先生以外にも、毎回いろんな指揮者が振りに来てくれました。このオケの当時の主要メンバーは、その後東京シティフィルの設立に参画しているのです。他にも清水高師さん、N響の山口裕之さん。みんな当時中学生でした。このような素晴らしいオケに入って、自分の弾く曲のスコアを買ったのが、指揮に興味をもった、というかオーケストラに興味を持った始まりです。中学2年のころでした。

― 最初はヴァイオリンをなさっておられたのですね。
              
高関 ヴァイオリンは弾くのは好きだったのですが、練習が嫌いでしてね。(笑い)練習が嫌いだとうまくならないんですよ。これは実話だけど、中2の時に、学生音楽コンクールを受けたら3等に入賞しました。ところが受けた人が3人だけだったのです。(笑い) さすがに、これは見込み無いな、辞めろ、という話がでて、一時ヴァイオリンを辞めちゃった。でも辞めてしばらく経つと、またどうしてもやりたくてね。自分で電話すればまた教えてくださるみたいよ、と母からの助言もあって、鷲見先生のところに電話して。再び教えてもらうようになったら、「君、でもヴァイオリンは、、」と、先生がおっしゃるわけですよ。そうです、実は指揮をやりたいんです、という話から、斉藤秀雄先生を紹介していただきました。実際に紹介してくださったのは和波孝嬉さんのお母様です。斉藤先生のご自宅に伺ったら、もし君が指揮をやりたいなら学校に入れないと困るから、ヴァイオリンをちゃんとやって入学してね、学校に入れれば教えてあげるから、と言われて、桐朋学園に高校から入りました。ところがいざ入ってみると、私は桐朋の音楽教室からではなく、外から入ったから追いついていくのが大変で、最初は指揮を習うなんでところじゃなかった。でも面白くてね。3年目くらいにやっと指揮を教えていただけるかなあ、というところまで行ったところで、斉藤先生がご病気になられて大学1年の時にお亡くなりになった。もうこれで指揮は勉強できないかな、と思っていたら翌年、天から降ってくるがごとく、小澤征爾さんが桐朋に現れたんです。その後は小澤さんと秋山和慶さんのレッスンをばんばん受けられるようになって、指揮の勉強がやっと進んでいった次第です。

― ヴァイオリンを勉強されながら指揮をされておられたのですね?

高関 はい、専攻はヴァイオリン科でした。一応バルトークのヴァイオリン協奏曲(第2番)を弾いて卒業しましたよ。(笑い) ご存知の通り、桐朋は学科の垣根が低いので、指揮を勉強しながら、オケもずっと弾いていました。やっぱり指揮者の場合はオケの経験をした方がいいです。その点ではものすごく得をしました。大学2年くらいから、プロオケのエキストラにもでるようになりました。新日フィルで小澤さんの時とかね。オケの中に入って男でヴァイオリン弾いていると目立ちますよね。あいつ指揮やるんだってさ、みたいな話で。やめた方がいいよ、とか言われつつ、「いいじゃん、入れ。」なんて言われてね。(笑い) 大学3年の時に民音の指揮者コンクールを受けて予選で落ちて、大学4年の時に日本でのカラヤン指揮者コンクールに受からなければ、もうしばらく日本にいてチャンスを伺っているか、もしかしたらどこかのオケに入って弾いていたかもしれない、そういう状況でした。

― 今、お話にでました「カラヤン指揮者コンクール・ジャパン」での優勝が指揮者として世に出る転機になったということですね。

高関 1977年11月13日(日)普門館でした。ベルリン・フィルがカラヤンと来日して、演奏会の合間に指揮者コンクールがあった。本選でベルリン・フィルが我々のために弾いてくれたんです。課題曲が「コリオラン」序曲でした。冒頭のところ、棒を振り下ろしても直ぐに音が出ない。忘れられないですね。本当に重たかった。最初はアッコードばかりでしょ?だから全部オケの音が遅れてでるんですよ。だんだん頭の中がわからなくなっちゃってね。あとブラームスの交響曲第2番より第1楽章を指揮しました。

― 当日、会場に行ったのですが、驚いたのは、審査をするカラヤンが指揮者の目の前に座っていたのが印象として残っています。
                           
高関 そうそう、目の前でカラヤンがセカンド・ヴァイオリンとチェロの間に座っていました。あそこにいるとは私も思いませんでした。もう決めちゃった、といった感じで革ジャンを肩に羽織って。それと私が指揮台にあがった時ですが、当時掛けていた眼鏡が良くなくてぶれるんですよ。それで眼鏡を外したら、「お前、楽譜見えるのか?」ってカラヤンが英語で聞いてきてね。私もよせばいいのに、「覚えているから、」って言っちゃったんですよ。(笑い) そうしたらカラヤンは、あっそ!って言ってサッと座っちゃって。あれには救われましたね。
 驚いたのは、コンクールの翌日から練習を見に来て良いって言われて。当時は信じられないような話だけど、それから毎日練習を見に行きました。それとご褒美で4日後の木曜日に「コリオラン」序曲をなんと本番で振らしてくれたんですよ。ベートーヴェンの8番と「皇帝」というプログラムがあって、短いからおまえ振れ、ということでね。当日ゲネプロがあってちゃんと練習があったのね。そこでカラヤンが練習を見てくれたのですよ。例によってオケが重いので、必死になって振っていると、「そんなに大きくアウフタクトを振ったらオケが遅れるだろう。」とおっしゃってね。それまでずっと斉藤式指揮法を習ってきたものだから。フォルテのアッコードを一生懸命大きく振りかぶって、バンと腕を振るわけ。そうしたら、「それいらない!下に降りるだけでオケは弾くから。」と言われてね。でも、できないんですよ。習慣がついててね。とにかく手を上に振りあげるな、と言われ続けるので、騙されたと思ってポッと手を降ろしたら、オケがボンと出るわけですよ。アウフタクトなんて棒振りの都合で振らないほうがいいんですよね。この時から振り方を自分なりに考えるようになりましたね。

― その後ベルリンに行かれたのですね。

高関 1978年に行って1986年初頭に帰ってきた。8年目に入ったときです。長かったですね。でも帰りたくなかった。あまりにも面白くてね。最初の1、2年はカラヤンが指揮する全部の演奏会、オペラを見ました。2年目の終わりというか80年の夏にタングルウッドに初めて行って。あそこはオーディションを受けて通らないと学生指揮者になれないんですよ、そうでないと聴講生。翌年に試験受けたら通って、バーンスタインがちょうど教えに来た年だったので彼のレッスンが2週間びっしり受けられて、これまた素晴らしいレッスンでした。その後はヨーロッパで少しずつ小さい仕事、演奏会を振る仕事がありました。コンクールはたくさん受けましたね。日本にいるときから数えて3勝7敗、打率は良い方でしょう。(笑い) 82年にベルリンのカラヤンコンクールを受けて見事に落っこちて発奮しましてね。83年、84年と三つずつ受けて、そのうち83年マルコで2位、84年にウィーンのスワロフスキーで優勝。もう一つ欲張ってコンドラシンまで受けたらまた落っこちて、広上淳一さんが1等になった。そこでコンクールは卒業しました。仕事は北欧のオーケストラとの演奏会が多かったですね。
 ベルリンにいた間、カラヤン以外の指揮者の練習もたくさん見ました。ベルリンに来る他のオケの練習を見に行っても誰も気にしない。というか、普通に入って見ていても誰にも止められないんです。チェリビダッケとミュンヘン・フィル、バーンスタインとウィーン・フィルも見られました。あの歴史的なバーンスタインとベルリン・フィルとのマーラーの第9番も練習から全部見ました。あの時はすさまじかった。練習が全部できないうちにリハーサルの時間が無くなっちゃった。だからぶっつけ本番の部分もあって大変なことだったんです。2回本番があったけど、1日目だけしか録音していないはずです。だから編集したとかしてないとかいろんな話がありますが、編集などできるはずがありません。オーケストラがずれているところも多くて、トロンボーンが4楽章の有名なところで落っこってますね。でも聴いている方としては本当に素晴らしかった。

― カラヤンとの思い出とかお聞かせいただければ。

高関 そうですね、先ほども申しましたが、コンクール受かった翌日から練習を見られるようになったのはびっくりしましたね。言い方は良くないけど、突然自分がえらくなったような気がしました。(笑い) カラヤンはもったいぶったところは全然ありませんでした。大学を卒業してすぐに渡欧して、ちょうど夏休みだから先ずザルツブルグ音楽祭に行ったんです。そこでカラヤンに会って、そうしたらザルツブルグでの練習を全部見せてくれました。オペラの本番では、ピットの端にも入れてくれましたね。それで翌年には、アシスタントの話が来て、練習で代わりに振ってみろって言われてすぐ振らされて、それがなんとかうまくできたので、それ以後はアシスタントとして使ってくれるようになりました。こだわりのあるような人ではなかったですね。ただし、これやれ、って言われてすぐその仕事ができないと二度と使ってくれない、というところはあった。アシスタントとして働く以上は、自分のプログラムは全部勉強しとけよ、ということで。それから先はいつ振らされるのかわからないという状態でした。カラヤン晩年の10年間に、テレモンディアルという会社を作って撮った一連のヴィデオ。日本ではソニー・クラシカルから出ているシリーズですね。その収録の時のいわゆる影武者をずっとやっていました。私の後は山下一史君がやりました。撮る寸前のところまでをアシスタントがやって、最後に代わってカラヤンが振る、という状況でした。したがって舞台上には譜面台が置いてないんですよ。どの曲が来ても暗譜で振ってうまくいかないと、カラヤンが怒っちゃう、という状況だったから。

― 勉強する場を与えられた、ということですね

高関 実際いつでも代われるように、というつもりでしたね。といって、私がいたときにはカラヤンはいつも元気で、代わるようなことはありませんでした。私が離れて半年くらいしたら、カラヤンが風邪をこじらせて、山下くんが代わりに演奏会を振った、という事件がありました。本当に起きる時は起きるということですね。

― アシスタントとして振っている時にカラヤンからのアドバイスは?

高関 カラヤンが言ったことは非常に明快で、ひとつはオーケストラの楽員をよく見ること。目をつぶって振っていた人が言ったということが大事です。(笑い)  「オケを良く見ろ」「オケをよく聴け」「ビートは自分でちゃんと数えろ」この3つですよ。もうそれしかないのですよ。カメラ・リハーサルでベルリン・フィルを私が振っていた時、うまく合わないような時があって、おかしいな、と思っていると、「数えてないだろう、数えろ!」とあのダミ声で言われましてね。そんなこと言ったって、と思って、イチ、ニ、サン、シ、イチ、ニ、パンと数えて振ると、オケがバシっと合う。「だから言っただろう!」基本的にはもうそれしかないです。でもたぶん彼が一番大事にしろ、と言ったのは、「オケをよく聴け」ということだったと思う。自分が先に振っちゃたって全然意味が無いから。私の癖はちゃんと知っていて、「振りすぎるな。」とよく言われました。一方、いわゆる音楽的なことについては、特に何も言われませんでした。よくは分からないのですが、当時は私の個性をある程度認めてくれていたようにも感じていました。
 カラヤンは練習と本番とでは振り方が全然違っていましたね。練習は細かく振る、というかほとんど動かない。腕は動かないで棒の先だけ動いていた。特にマーラーなど初めての曲では、オーケストラの響きを確かめながら、本当に細かく練習をしていましたね。

― 帰国後はいろいろなオケで重要なポストにつかれてご活躍なさっておられますね。後は母校でのご指導も

高関 最初は広響で4年間音楽監督と常任指揮者。群響では1993年から音楽監督として11年目ですね。1997年からの大阪センチュリーでの常任指揮者はこの3月で終わって、4月から札響の正指揮者です。新日本フィルには1994年から2001年まで指揮者を務めていました。それ以外にも多くのオーケストラで活動しています。桐朋では、いわゆる講師としてではなく、ゲストコンダクターとしてオケだけを年間に1回か2回の演奏会を振りにいきます。            

― それでは、今回のプログラムについてお話をお伺いしたいのですが。まずはバルトークの「中国の不思議な役人」から。

高関 この曲は演奏の機会が日本では少ないですよね。バルトークの作品は、1930年頃を分岐点にして作風がガラっと変わるのですよ。作品で言えば、ピアノ協奏曲第2番あたりです。後期の作品では、どちらかというと分かりやすい方向に戻っていきます。構成が簡潔になっていきますね。反対に「中国の不思議な役人」、「かかし王子」はまだドビュッシーの影響下にあって、一番めんどうくさい時期の作品。名前が有名なわりには演奏されないので、今回は良い機会です。私もまだ本番で振ったことがない。(笑い) 自分にとっても挑戦です。しかも今回は息子ピーターによる新しい復元版なのでね。とにかく緊張感があるし、変拍子も難しいし、テンポの変化が本当に分かりにくい。でもその難しさがそのまま魅力になっているような作品ですね。それに対して、バルトークは後期の作品では、特に曲全体を支配する音程関係を決定してから作曲に取りかかっています。例えば「バイオリン協奏曲第2番」だったら完全4度ですね。これが主題のモチーフにどんどん発展していく。「弦、打楽器、チェレスタのための音楽」だと、増4度となってそれを裏返しても同じ、という具合です。「役人」でも短3度が主要な音程関係ですが、まだこの頃はそれを音色としてとらえている、そういう面白さがあります。

― ヴァイルの交響曲も、通常私たちが持っている作曲家のイメージとは違って面白い曲ですね。
              
高関 彼の交響曲は、2曲ありますが、第1番というのはどちらかというと偶然出来た曲。第2番は「三文オペラ」や「マハゴニー市の興亡」も書いちゃった後のヴァイルが、古典に戻って書こうと強く意識で書いた曲で、この曲の大きな特徴です。イントロダクションがついたソナタ形式の第1楽章、スケルツォはないけど、ゆったりとした第2楽章、第3楽章はベートーヴェンの第7番みたい。打楽器のパートは作曲家が一度書いた後、撤回したのですが、今回は復元して演奏します。作曲当時、ヴァイルの頭の中には、ビゼーのハ長調やプロコフィエフの古典交響曲があったに違いない。第2交響曲の魅力はしっかりした形式の中に、突然「三文オペラ」の旋律が入ってくるところ、そこが面白い。懐かしいメロディーがでてくる。今で言うミスマッチです。この曲は、当時パリで音楽家のパトロンとして有名だったポリニャック公爵夫人が、パリに逃げてきたヴァイルを助けるために委嘱した作品です。1920年代から30年代まで、彼女は当時多くの音楽家を支援していて非常に良いことをしましたね。もう一人がスイスのパウル・ザッヒャー。この二人のお陰で、20世紀の名曲がたくさん生まれています。特にバルトークはザッヒャーにすごく世話になっていました。

― バーンスタイン「オーケストラのためのディベルティメント」は?
                                      
高関 実質的にバーンスタインの最後のオーケストラ作品で、同時期に独奏フルートと弦楽オケ、打楽器のための「ハリル」という曲があるけれど、この後、彼は死ぬまでの10年間、実質的に作品が書けなくなった。この曲は最初、ボストン交響楽団の創立100周年を記念する1981〜82年シーズンの開幕コンサートに、「ファンファーレ」としてアナウンスされていたのです。私はこの時ちょうどタングルウッドに滞在していたのですが、なかなかできあがらないみたいよ、という話を聞きました。ご承知の通り、バーンスタインはボストンに生まれ、タングルウッドでも勉強して、クーセヴィツキーやミトロプーロスにもかわいがられ、いずれボストン響の指揮者に、と思っていたのですが、当時のボストンは彼を必要としなかったのね。結果的に彼はニューヨーク・フィルでデビューしたけど、ボストン響にずっと屈折した感情を持っていて、それがこの曲の中には入っているんだ、という話を聞いたことがあります。
最初のファンファーレは、いわゆるシェークスピアの劇中必ず出てくる道化芝居。この動機の最後のシ、ド、これはB(ボストン)とC(100周年)です。でも、最初のファンファーレの形はあきらかに「ウエスト・サイド」ですよね。他の曲も必ずB(シ)、C(ド)、ないしはその逆が出てきます。2曲目はチャイコフスキーのワルツ。ロシア人だったクーセヴィツキーに対する想い。バーンスタイン自身もロシア系ユダヤ人ですしね。3曲目のテーマはド、シ、と逆のテーマで始まりますね。5曲目はコープランドです。バーンスタインは彼と「お友達」でした。6曲目はシューマンの謝肉祭のパロディで12音です。7曲目は「星条旗よ永遠なれ」と「ラデッキー・マーチ」合間に「ラコッツィー・マーチ」、いろいろとあります。私は1981年のタングルウッドで、バーンスタインがボストン交響楽団を振っているのを実際に聴きました。

― タングルウッドでの演奏はいかがでした。
                                           
高関 タングルウッドでも、彼はオケとぶつかってましてね。スコアを床に投げつけて「この守銭奴めが!音楽家なんかやめちまったらどうだ!」みたいなこと言ってね。今でも忘れません。オケは練習時間が終わると立ち上がろうとするわけ。ところがまだ練習が曲の半分もいっていないのに、先生時間です、みたいなこと言うものだから、「お金で音楽なんか買えるかよ!」って。必ずやるんですから。ところがバーンスタインは超過分はちゃんとペイするんですよ。アメリカのユニオンで決まりがあるみたいで、ペイすれば問題ないらしいんですよ。ニューヨーク・フィルの練習なんかでも、必ずそうでしたものね。ユル・ブリンナーみたいなステージ・マネージャーが大きな時計を持ってステージに出てくると、「オー、マイ・ゴッド!」とかなんとか言って、その後「いいよね?」と、それから1時間練習するんですから。それをちゃんとペイしている。必ず練習は伸びることをニューヨーク・フィルのメンバーも判っていて、後に仕事を入れていないわけです。

― いろいろ楽しいお話しありがとうございます。― 

構成・まとめ 土田恭四郎(チューバ)


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