2002年7月演奏会パンフレットより


飯守泰次郎 大いに語る!

先生の並々ならぬ音楽への情熱は、練習を通じて私達に伝わってきます。6月某日飯守先生から今回の曲目に関連していろいろなお話をお伺いする機会に恵まれました。

― ご多忙のところ私たちのためにお時間を割いていただきありがとうございます。早速ですが、今回演奏しますワグナーの『ファウスト序曲』は、ニ短調という調性に運命的なものを感じます。どう思われますか?

飯守 調性の持つ意味、色合いという観点は大変重要で、私もみなさんに「調性をもっと感じて」とよく言いますね。これは、たとえばニ長調は調弦の関係で弦楽器が一番よく鳴るというようなこと以上に、ヨーロッパの音楽の長い流れの中でできあがってきた調性の持つ意味、色合いというものがたしかにあります。たとえばハ長調は、最も簡単明瞭な調性で、武器を持って戦う男性的な勝利であり、『運命』の4楽章に使われています。ベートーヴェンの交響曲を例にとれば第7交響曲はイ長調で歓喜、第九の終楽章はニ長調でこれも歓喜ですが、ニ長調はより哲学的社会的な意味での歓喜であり、一番肯定的で強い表現力をもつ調性ということができるのではないでしょうか。
同じ調でも短調になると、長調とは逆の、簡単にいえば長調が象徴するものを「得られない」という意味になります。例えば、ハ長調が誕生や勝利を表すのに対して、ハ短調はたとえば『英雄』の葬送行進曲などでもみられるように、死、あるいは勝利に対しての敗北、と言えるでしょう。もちろん『運命』も全体はハ短調で苦悩に満ちていますが、人間の内面と社会との関係における苦悩を表すのがニ短調です。ニ短調の曲といえば、モーツァルトのドン・ジョヴァンニ、ピアノ協奏曲第20番、『レクイエム』、そしてベートーヴェンの第9交響曲が代表的ですね。ワグナーでは『さまよえるオランダ人』がニ短調で、冒頭が5度のコードで始まるのも第九と全く同じです。ですから『オランダ人』のニ短調も、さまよい続けるオランダ人の苦悩を表現しているということになります。ベートーヴェンの第九を調性からみると、苦悩のニ短調で始まり、ニ長調で救済されて終わる、ということになります。

― 『ファウスト序曲』は如何ですか?

飯守 「我々ドイツ国民として芸術的に一番誇りに思うべきものは、ベートーヴェンの9つの交響曲と、ゲーテのファウストである」というのはたしかワグナー自身の発言だと記憶しています。彼は『ファウスト交響曲』を書こう、という固い決意をしていたようです。しかし、おそらく彼には生まれつき劇音楽を志向する傾向があったのでしょう。義父が俳優で幼い頃から劇場に入り浸り、最初の妻ミンナも女優でした。結局、あれだけ巨大な楽劇をいくつも残したワグナーは、劇音楽の人であって交響曲を書くことはできない人間だったのです。ですから、ファウスト交響曲を書くという構想も完遂できず、序曲というかたちになったのです。
でも『ファウスト』序曲は、ワグナーの意気込みが非常に強く感じられる作品ですね。これはちょうど『さまよえるオランダ人』の前に書かれたものですが、ワグナーの創作における『オランダ人』は、ベートーヴェンでいえば『英雄』に相当する、突如として作曲家の一生が展望できる個性が現れた作品です。もちろん、『オランダ人』の前のオペラである『リエンチ』を思わせる部分もあります。例えば、管楽器で同じ転調を何度も繰り返すところなどです。いっぽう、減七の和音の使い方は『オランダ人』の嵐の場面を思い出させるようなところもあります。
ワグナーは、のちに「示導動機」による作曲を確立していきます。示導動機とは、音程とリズムのいろいろな組み合わせで、例えば音が上へ向かって跳躍すると勝利を連想させ、音が下降すると否定、特にオクターブ下がれば死、といった意味、あるいは事物を表す音型のことです。ワグナーの示導動機ははっきりとしていて聴き取りやすいのですが、この『ファウスト』序曲の頃は、まだ「示導動機」の観念は明確にはなっていません。それでも、例えば最初のテーマをみてもすでにファウストの葛藤を感じさせますね。オクターブで跳躍しておきながらすぐ下がってしまう音型は、何とかしたい、生きる欲望がある、それなのに全てに絶望して最後には死を選ぶしかないというファウストをよく表しています。「示導動機」の理論はまだ確立されていなくても、このテーマの作り方はすでにワグナーの音程に対する作曲家としての態度を明確に伝えています。曲の終わり近く、低音が全音符で何回もオクターブ下降するところは、強烈な効果がありますね。
それから、この曲を交響曲としてとらえれば第2主題にあたる、木管の上行音型による歌うような主題も、大変ワグナーらしいですね。この主題はグレートヒェンを表すという意見もあるようですが、私はこの主題に、ワグナーの全作品に共通するテーマである「救済」がすでに含まれているように感じるのです。『オランダ人』ではヒロインのゼンタの動機=救いの動機であり、この『ファウスト序曲』も女性による救済という意味合いを持った「救済」への憧れではないか、と私は個人的に思っているのです。この曲の最後の部分も、「救済」という点でさきほどの木管の主題と密接につながっており、「救済」を表すニ長調に転調する上行音型のところなどは、『オランダ人』における「救済」と非常によく似ていてワグナー的です。交響曲にしようとしたから無理があったのかもしれませんね(笑)。とにかく、『ファウスト序曲』の音楽の進行、扱い方にはすでに未来のワグナーが顔を見せていることは確かです。

― そもそも『ファウスト序曲』は知られていないですよね。

飯守 ワグナー自身がこの曲をどの程度気に入っていたかがわかる記述は見当たりませんが、あまりこだわっていなかったのではないでしょうか。たしかに作曲としての出来は優れているわけではなく、たとえば冒頭にチューバが吹くテーマは、冒頭の宣言をするだけで深い意味がなく1回きりしか出てきません。それからやはり最初のほうに、16分音符が延々と続く部分もありますね。『オランダ人』も長いですが、『ファウスト』序曲はさらに延々と彷徨を続けている。そんなところに私は愛着を感じます。
さきほど述べたとおり、『ファウスト序曲』では示導動機もはっきりしません。『オランダ人』『タンホイザー』『ローエングリン』となると動機ははっきりと記憶に残りますが、『ファウスト』序曲を聴いた後、いったいどんな主題だったか思い出せない人のほうが多いと思います。しかし、この曲の弱みは、演奏によってかなりカヴァーできるのではないかと思っています。だから私は新響の皆さんに無理なお願いをして、作曲されたままでは聴衆の耳には残らないところを、はっきりと聴き取れるようにしたいのです。原曲にあまり手を入れるのはよいことではありませんが、初期のワグナーの弱点を演奏で補って曲の真価をお伝えできれば、と考えています。

― これからの練習を楽しみにしております。ところで、先生とブルックナーとの出会いは?

飯守 数年前、東京シティ・フィルで交響曲第4番を演奏した録音がフォンテックからCDとして出たら、急に「飯守さんのブルックナーはいい」といった話が出てきて驚いています(笑)。ブルックナーとの出会い、といわれても、私はドイツに10年おりまして、それからオランダに15年いました。オランダもドイツの隣の国で同じゲルマン民族です。その長い間に、ブルックナーを聴く機会はしょっちゅうありましたし、いわゆるブルックナー指揮者との出会いも多かったものです。
 もうひとつは、バイロイト音楽祭の助手を長年務めたということがあります。助手をするための予備知識として、バイロイトに来る指揮者がブルックナーを演奏したCDもずいぶん聴きましたし、練習後に指揮者から非常に貴重な話をいろいろ伺ったりしました。ホルスト・シュタイン、ハンス・ヴァラート、バレンボイム、そして特にヨッフム。ヨッフムのブルックナーは定評がありますね。そのような指揮者たちから聞いた話はたしかにためになりました。
 ブルックナーとワグナーは、共通するところもあるし全く異なるところもありますが、音楽史の流れにおいてやはり非常に近いところにあります。具体的にいえば楽器法とハーモニーの移り変わりですね。ブルックナーは明らかにワグナーに心酔していて、バイロイトまで行ってワグナーに作品を献呈したことなど、いろいろな逸話が実際に残っています。ブルックナーの響きというものはワグナーから大きな影響を受けているのです。
 正直にいえば、私のブルックナー歴は長いのですが回数は少ないのです。ドイツで仕事をしていた1970年代に日本にちょっと帰ってきて、読響で交響曲第4番を指揮した時は好意的な批評をいただいたけれども、その後は名古屋フィルで5番を演奏するまで17、8年近くブルックナーを指揮しませんでした。もっとも、バレンボイムも録音はしていますがそんなに多くの回数を演奏しているわけではありません。私はもっとブルックナーをやりたかったのですが長い間機会がなかったので、7年前に新響で8番を演奏したときはとても嬉しかったですね。
 つまり、私にとってのブルックナーとの出会いとは、数多くの演奏を聞いたこと、それからバイロイトでの体験、すなわちサウンドの類似点を体得してきたことと数々のブルックナー指揮者と出会えたこと、なのです。私はそれらを、長い間自分の内面に蓄積し温めてきたのです。以前は、日本では朝比奈隆先生以外ほとんどブルックナーを演奏する機会がありませんでした。

― そもそもブルックナーに対してどのように思われますか?

飯守 ブルックナーは、版の問題があるという点で特殊な作曲家です。版の違いといっても、曲によってかなり違う場合と大差ない場合とがあり、やはり一番考えなければならないのは版によって曲が全く違うという場合です。ブルックナー自身が違う曲に書き換えた場合は、その当時に演奏された版がどれかということがとても大事です。しかし、ここに一発シンバルが入るか入らないか、あるいはメロディの中で1つだけ音が違う、長さが違う・・・そこまで細かく仕分けすると非常に数多くの違いがあります。それからテンポの問題があります。特に問題になるのは各交響曲のフィナーレですね。
 もっとも、指揮者による演奏時間の違いを議論したりするのは、日本がいちばん盛んですね。ヨーロッパでは、版のことはどうもそれほど問題ではないようです。朝比奈先生もよく話しておられましたが、以前7番をハース版で演奏したとき(聖フローリアン教会での大フィルとの録音)にノヴァーク氏が最前列にいて、演奏が終わってから朝比奈先生が「今日はハース版で申し訳ない」と挨拶したら、「いや版なんて大した問題ではない。自分たちは職業としていろんな資料を探しているのであって演奏家は好きなようにやればいい」と答えた、というのは有名ですね。日本ではどちらが真実だとか正しいとか、つい構えてしまいがちですが、あちらはおおらかですね。
 朝比奈先生がブルックナーを演奏された昔は、日本でも改訂版で打楽器を入れて演奏しても何の問題にもなりませんでしたが、今なら皆驚くでしょう。以前、私が新響で4番をやったとき、4楽章にグロッケンを入れましたが、あれも勝手に入れたのではなく、改訂版の歴史のなかにちゃんとそういう例があるのです。

― そういえば先生は昨年リンツ・ブルックナー管弦楽団に客演されましたね。

飯守 昨年、リンツのブルックナー管弦楽団で、ベートーヴェンとモーツァルトを演奏しました。先方の意向もあってベーレンライター版でやることになったはずだったのですが、いざ行ってみたらブライトコプフ版が用意されていて、「これで大丈夫です」というのです。モーツァルトだけはベーレンライター版が用意されていました(笑)。向こうはのんびりしたものです。
ヨッフムはブルックナー協会のノヴァーク版を使用していましたが、改訂版の影響も受けています。バレンボイムも自分で自由に版を選んでいます。インバルはまた別のタイプの指揮者で、初稿を取り上げます。私がブルックナーを演奏する場合は、それほど版にこだわらず、使う版をそのまま使用せずにどこか変えます。自分が勝手にこうしたい、というよりも、本当のブルックナーの意志に近づこうと考えた結果として変更するのです。もちろん最終的には私の決定ではあるのですが、どこまで自分のエゴであってどこからが本当のブルックナーの意志かをよく考えて、使える限りの良心的なアプローチをします。演奏するたびに考えれば、どうしたって毎回同じにはなりません、違ってきます。
8番の場合、版によって小節数が違います。今回はノヴァーク版で、やはりハース版も自分でやってみないとわかりませんが、どちらの版も演奏の価値と曲の価値を決定的に変えるほどのことはないと思います。
一番大事なのは、全体としての有機性です。フルトヴェングラーが「Ton und Wort (音と言葉)」という本の中で、主にベートーヴェンについて「偉大なる作品というのは、その曲の価値を一挙にして捕まえることができる。作曲家はこつこつと書くが、曲が出来たときには一挙に捕まえる。」というようなことを言っていますが、ブルックナーの場合も同じことです。やはり、音楽の本質の部分とは違う楽譜の差異を材料に比較をして音楽の価値や本質に近づこうとしても、無理があります。

― 版の話がでましたが、ブルックナーにはいろいろと考えることがありますね。

飯守 私が一番好奇心を持って考えるのは、ブルックナー自身が改訂版をどのようにして認めたのか、ということです。これは終わりのない議論ですね。彼は自信がなかったので、人に言われると「ああそうか」といって改訂を書き入れ、また別の人にあなたらしくないと言われれば「無効」と書いた、ということですね。たしかに右往左往したかもしれませんが、やはり後から加えたあの3楽章でのシンバル、トライアングルは気に入っていたと思います。8番のこの追加は自ら書いているし、4番や7番も改訂版に同じようにシンバル一発があるし、非常に似ています。いろいろ考え合わせてみると、いい改訂をしているのも確かにあります。
 少し話はとびますが、多くの作曲家についてはある程度、価値観が定まりつつあります。例えば、ベートーヴェンはベーレンライター版が出版されて、演奏のスタイルは多様でも、作曲家自身が何を欲したのかはかなり明らかになりました。ブラームスについてもかなり多くの情報が得られています。また、そもそも作曲家を崇める虚像が崩れたのは、だいぶ前に出た「大作曲家の病気」というショッキングな内容の本で、作曲家の私生活は決して清廉潔白なものではなかったということもわかりました。これは、演奏解釈の面においてもスコアを読むときにも役に立っています。ロマン・ロランによって神格化された楽聖ベートーヴェン像は今も浸透していますが、本当の彼はもっと気難しい、もっとどろどろした内面を持つ生身の人間だった、ということがわかってきました。東西冷戦構造が崩れ、東側から新たな資料が発掘されたことで演奏に対する価値観や演奏スタイルは大きく変わってきていますが、作曲家本来の性格もかなり判ってきているので、これからたとえばベートーヴェン像が大幅に変わるということはもうないでしょう。
 ところが面白いことに、ブルックナーとワグナーについてはまだ議論が絶えません。ワグナーの場合は、議論されるというよりは好きな人とそうでない人とに分かれて、まだワグナー存命の当時から大変でした。彼の個人的な人格もかなり極端で、利用するものは利用する、女性関係は派手、借金は踏み倒す。そして、人の心を操作する非常に強い性格を持った、麻薬的効果さえあるような音楽を作った。そんなわけでワグナーについては今もいくつかの価値観があり、それらは大変に異なっています。
 やっとブルックナーの話に戻りますと、ブルックナーも議論が終わらない作曲家の一番顕著な例だと思います。幸か不幸か19世紀後半の後期ロマン派という時代に生きて、ワグナーと同じように巨大なオーケストラと官能的なハーモニーを使いながら、いっぽうで長年オルガン奏者を務めていたことで宗教性があり、教会音楽、カトリシズム、バロックの音楽、対位法等の西洋音楽の伝統をしっかりと受け継ぎ、ベートーヴェンを非常に尊敬していていました。それでいて、ブルックナーの第8番や第9番、なかでもたとえば8番のフィナーレの転調のしかた、広い意味のエンハーモニックを使っているところなどは、ワグナーよりさらに先鋭的な、R・シュトラウスの『エレクトラ』、アルプス交響曲を連想させるような凄い転調です。第9番の第3楽章のトランペットのターンタタタ!という音型のように、いったいどの調性へ行くのか分からないような部分は、ブルックナー独自のある種の激情表現です。ブルックナーは、オルガニストとして身につけたものが創作の基本にあって、いつも真四角なきちんとした調性のある曲を書いてはいますが、年とともに調性から離れていったようなところがあり、ツェムリンスキーやシェーンベルグに繋がる先進性がある、と私は思うのです。

― 先生にとってブルックナーの演奏で大切なことは?

飯守 私が一番大切にしたいのは、彼の性格です。特に、まず彼の素朴な面です。敬虔なカトリック信者・オルガン奏者で即興演奏の天才でありながら、天真爛漫な自然児で田舎者丸出し、彼のオーストリア訛りはかなりひどかったようです。服装にもまったく無頓着で、左足は尖がった靴で右足は先の丸い靴を履いていたといいます。大柄で顔は小さく、鼻が大きい。恋多き人ですが、女性に接するセンスは欠落していたらしく、最晩年に40年下の女性に求婚して周囲を慌てさせたという話もありますし、学校で生徒の女の子に「あたしの大好きなかわいこちゃん」と気軽に呼びかけたのを、隣の女教員に告発されて大騒ぎになったこともあります。
 作品に関しても、弟子、指揮者、友達が何か言えばそれを受け入れてしまう。ナイーブだったのか、とにかく演奏して欲しかったのか、本当は頑固だったのかもしれません。彼の頑固さは自分で意識した頑固さではなく、あらゆる批評家に叩かれても決して変わることのない無意識の頑固さで、それが彼の良さであり、そういう意味で魅力を感じます。ブルックナーは、演奏することを考えないで作曲したのではないかと思うこともあります。通常の作曲家はやはり聴き手に受け入れられたいという気持ちがどこかにあり、そのために曲を変更したり、聴衆の趣味に媚びたりする面がありますが、おそらくブルックナーの場合そのようなことは皆無でしょう。それでも彼の音楽が好き、という人がブルックナー・ファンで、比率としてたぶん女性は少ないでしょうね。
 彼は無頓着、それが魅力なのです。聖なる愚直という言葉がぴったりです。彼は、殺人罪の裁判があると必ず傍聴に出向いたり、火事があれば焼死体にも異常に興味を示したといいます。本能的な欲求が非常に強いのですね。あの深い信仰、謙虚さと、官能という相容れないものが同居した野人、才能のない天才といわれるゆえんです。8番の第3楽章は大変美しく、ブルックナーにしてはかなり受け入れられやすい音楽ですね。ところが、あの3楽章のテーマ、人間の心の底まで訴えかける、神秘と信仰と愛情を持った最高の音楽を、彼自身がどのように解説したと思いますか?「かわいこちゃんの目をずっと見つめている」だそうです!他の作曲家は自分の作品を巧みに説明しますが、ブルックナーは一生懸命に自分の音楽を説明してもこの程度だったのです。
 とにかく彼の人格にはいろいろな矛盾があって、混沌としています。そのような彼の個人的な特徴に好奇心を持って考えながら全体を作っていく。あらゆる矛盾を考えあわせた上で全体を有機的に表現できるよう、その場で最善をつくすことです。ブルックナーだけは、情報と知識をどんなに集めても他の作曲家のようにはその本質がでてこない。かなりの忍耐で作っていかなければならないのです。
 版の問題に埋没すると、ブルックナーの価値をかえって見失うおそれがあります。それから、版にかかわらず楽譜の指示だけではテンポの設定ができません。彼の一生から私が強く感じることは、彼は人格においても音楽においても「即興」というものに比重がかかっていた人ではないか、ということです。彼が圧倒的な名声を得たのは、作曲家としてではなくオルガンの即興演奏でした。パリへ行ってノートルダムで大成功、その後ロンドンでも大成功を収めました。最初に交響曲を作曲したのは40才頃で、それまでは主に合唱曲を作曲していました。体系的に勉強してひとつのシンフォニックなものを構築していくよりも、自分の信仰とカテドラルの空間を埋める全体を作る、というのが彼の生涯の「型」でした。だから、シンフォニックな一貫性のあるテンポという感覚を彼は本質的に欠いていた、あるいはそれを意識しなかった。オルガンを思い浮かべてみてください。弾き始めはガー、ゴー、ダー、とある程度揺れて、次に細かい音符がでてくると自然とゆっくりとなります。構築性という視点でみればたしかに気ままなテンポにしかみえませんから、それを信じてそのとおり演奏すると全体がおかしくなります。それがブルックナーの特徴なのです。どんなにチグハグに思えても、有機性を持った全体が統一できるように努力するべきなのです。ブルックナーの場合、演奏者によってまったく違ういろいろな演奏があり、私もやるたびに違いますし、さまざまな異論がでてくるのも当然なのです。

― 新響はブルックナーを過去にも演奏していますが今回は以前と比較して如何ですか?

飯守 だいぶ前のことなのでよく覚えていなくて申し訳ないのですが、今回の方が皆さんに柔軟性が出てきて理解も早くなっています。やはり新響は底力があるし、組織もしっかりしていて、プロをしのぐ実力を持っています。仕事ではなく本当に音楽を求めてやっているからでしょう。ただ、これは新響に限らず全ての日本のオーケストラに言えることですが、結局のところ調性と音程という問題はいくら言っても足りませんね。どうしても技術先行になってしまう。シンプルに合わせて、バランスに気をつけて、でも純正調のハーモニーと調性の色合いとなるときりがありません。例えば先程の『ファウスト序曲』でも、調性への好奇心が本当に音に現れて欲しい。それともうひとつは、一人一人の音色がさらに艶やかになってほしい。皆さんはエネルギーや表現力はあるのですが、音色自体の美しさが恒常的にもっと出てくれば、鬼に金棒です。
 西洋音楽の背後には、やはりヨーロッパの歴史のはるか昔から、宇宙的なひとつの音色が響いているのです。人間もその宇宙の一部である、という感覚が遺伝子に埋め込まれている作曲家が書いている音楽です。ワグナーにしても、この調性は神々で、この調性は・・・などとは一言も言っていませんが、ただシンプルに耳を傾ければ自然に伝わってきます。ブルックナーは、アダムは根音で、神はエヴァを5度として与え、子供は3度、と面白い説明をしています。西洋音楽の根本にある宇宙の音色は、勉強で勝ち得るのではなく、皆さんが自分の中にあるDNAを開放して自然に感じれば必ず感じ取れるのです。それに好奇心を持ち、求めて、そして好きになれば、きっと皆さんの音の魅力となって現れてくるのです。


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