2001年4月演奏会パンフレットより


山田一雄先生への想い

小泉和裕(指揮者)

 高校生の時に一人で山田先生をお訪ねして(弟子入りをお願いして)から、芸大で先生のもとに学ばせて頂きました。
 その後民音のコンクールを受けさせて頂き、山田先生のもとで指揮者としてのすべてが始まりました。
 コンクール終了後、かけよって抱きしめて下さった時の感激は、一生忘れられません。
 強い憧れと尊敬をいだいて門を叩き、白紙の状態で学ばせて頂いたのですが、今になってみると今こそ先生の生き方すべてが当時以上に勉強になっています。
 これほど音楽を全身全霊で愛し、純粋に生きられた先生に師事することができた幸運を本当にありがたいと思います。
 ヨーロッパに先生がコンサートに来られた時も聴衆が心から感動し、大好評だった事を思い出します。
 先生から頂いたたくさんの御心のこもったお手紙は、何通ずつか出して読み返す度に涙が出てしまうほど感動するのです。
 音楽があらわしているように、先生のお人柄がいかに素晴らしいものかわかって頂けると思います。
 指揮者として、人間としての自分を誰よりもわかって下さっているという想いがわいてくる程でした。
 先生の追悼コンサートで新響の皆さんと共にマーラーの五番をやらせて頂いた時は、感無量というのか、特別な意識と精神状態だった事を思い出します。
 高潔な音楽家山田先生への想いは尽きません。
 これまでも これからも


ヤマカズさんの思い出

桜井健二(神奈川県立音楽堂プロデューサー)

 山田一雄先生は生きておられます。声が聞こえます。音楽が聞こえます。その証拠に、僕らの心はいまでもこんなに豊かではないですか。その心に接する時。さみしくはありません。


山田一雄氏の思い出〜「旅」

山本治彦(神奈川芸術文化財団 企画課)

 札幌、函館、仙台、郡山、日立、黒磯、足利、高崎、熊谷、日野、立川、東京、船橋、習志野、千葉、横浜、藤沢、甲府、長岡、金沢、名古屋、近江八幡、京都、枚方、大阪、境港、尾道、広島、グラナダ・・・
 1973年新緑の日比谷から1991年初夏の上野までの220回に及んだ客席でのヤマカズ体験は、私の今までの人生の上で最も価値のある旅である。ヤマカズ特有のその場でしか感じられない音楽の深みを求めての旅であった。だがそれが実現されたのは少なかった。その希少さは旅を続ける原動力となった。それは一聴衆とステージ上の芸術家との真剣勝負で、かつ孤独な旅であった。
 今、あちこちでヤマカズを栄養分にした芽がふいている。が、音楽を取り囲む状況は好転しただろうか。時がヤマカズの過度な美化や伝説化を助長しないだろうか。ヤマカズのハートの質を後の世に伝え生かしてゆくという意味でまだまだ私の旅は続くのだと思う。


もう10年にもなりますか、山田一雄先生

相澤昭八郎(音楽評論家、プロデューサー)

 「相澤君、君に指揮をさせてみたいねー」
 巨匠山田一雄は冗談とも本気ともつかぬ顔をして、私にこう言った。何かの打合せで自室にみえた折のこと。アマチュアのコーラスぐらいしか振った経験のないのを知ってか知らずか。いや、そんなことはどうでもよかったのだ。山田先生とはそういう方だった。ダンディこの上もない立ち振るまいと裏腹に、気さくで気どりなく、一方どこかキザっぽく上品でもあって・・・。
 山田先生とはレコード制作の仕事を随分させて戴いた。モーツァルト、ブラームス、マーラー。ひたすら音楽の核心へ迫る山田一雄の情熱を、記録として後世へ伝えられるのはなんと幸せなことかと思う。さらに多くの人へこの不朽の感動を分ち与えるために、まだ沢山ある未発表録音がレコード化される機会を待ちたい。


拝啓 山田一雄先生

相葉武久(新交響楽団トレーナー、東京都交響楽団コントラバス首席奏者)

 山田先生と初めてお会いしたのは芸大の一年の弦楽合奏の授業の時であった。
当時芸大の指揮科の教授に山田一雄、渡邊暁雄、金子登の各氏がおり、各学年毎に年に数回のオーケストラの授業を受けていた。
 1年生はアンサンブルを勉強しており、山田先生は弦楽合奏の授業に颯爽と現れた。曲はモーツアルトのディベルティメントK136。小柄の先生が作る音楽はスケールが大きく、初めて音楽の本物に出会った感動が今も蘇る。
 2年生の頃、東北地方からの帰りの特急、車掌が「お連れ様が食堂車でお待ちです」と小生の名前を呼んでいる。見当も付かず食堂車に行ってみると山田先生がニコニコしながらビールを飲んでいらした。
 確かに昨夜、同じ演奏会でご一緒だったが、低学年のバス弾きの名前を憶えておられるとは思いもよらず、すすめられるまま同席させて戴いた。「好きな物を頼みなさい」と先生は言うが恐縮しているとメニューの中から先生はつまみを中心に注文した。
 先生は音楽を志した若い時代の事、指揮者としての自分の事、日本の音楽界の事等、話は尽きず相当お飲みになって席に戻って行かれた。勿論有り難く御相伴に預かり、上野駅迄爆睡した。
 その後何度も演奏会をご一緒させていただき、粋でお洒落で日本人離れしたスケールの大きな音楽性に触れる度、音楽の進むべき道を確認出来た。
 今も心の中で尊敬と親しみが融合する、愛すべき永遠のマエストロである。


ヤマカズ先生のこと

北爪利世(クラリネット奏者)

 僕が初めて山田一雄先生を見た(お目にかかったのではなく)のは、昭和12年の4月、僕が入学した年に、奏楽堂で誰かの伴奏を弾かれた時の事でした。其後プリングスハイム先生指揮のオーケストラの中でのピアノやハープを弾かれるのを見る機会も多くなりました。昭和16年に卒業して、外のオーケストラに入った僕は、学生時代に一度も話をしたことがなかったのですが、そこは大先輩と後輩の事とて、すぐに親しくお話が出来る様になりました。東管、東フィル、東響と変った先々で顔を合わせては、何となくなつかしい様な親しさを感じたものでした。
 山田先生の指揮棒は、初めの内は決して見易いものではありませんでしたが、その音楽の素晴らしい奥行や表現は、後で録音をきくといつもウーン!と唸らされたものでした。練習の時など自分が先生の棒に合っているかどうか不安なことも多かったので、ある時その事を伺いに行った所、「君はいつも僕のここに合っているから大丈夫!」と御自分の右肘を指差された事がありました。とても面白い感覚だと思いましたが、それだけ身体全体で音楽の表側も裏側も同時に表現して居られ、独りで出来る限り沢山のことを伝え様として、いつも豊かな内容を望んで止まなかった名人気質の音楽家であったと思っています。


山田一雄先生没後10年によせて

折田義正(甲子園大学栄養学部長、大阪大学名誉教授)

 私が聴いた最後の先生の演奏会は1991年7月21日新響132回演奏会で、これは先生最後のステージでもあった。
 この時のラヴェル「道化師の朝の歌」の軽妙洒脱な演奏は今もって忘れられない。しかし、当日ステージ上の先生のお姿が胸のあたりが弱々しい感じで、医師としては心配だった。終演後楽屋に訪れたかったが、お疲れと思い断念した事が残念でならない。先生亡くなられて10年、私は音楽を聴き続けているが、心からの感動は得られていないように思う。私が先生の音楽作りを座標軸の原点としていたからだろう。先生はわが国の楽団の殆どすべて指揮された。これらには強い表現意欲と激しい気魂に満ちている。いくらかのCD、私がエアチェックしたテープ、わずかなNHK名曲スケッチが残っているが残念な事だ。 私は先生指揮新響110回、122回も聴いている。先生の指揮者の道も新響(N響)、終りも新響だ。新響メンバーも先生の精神を忘れず発展して頂きたい。


ヤマカズさんの思い出

柴山洋(新交響楽団トレーナー、オーボエ奏者)

 ヤマカズさんは私がオーケストラに在籍していた期間、ずっと御一緒させて戴いた。当時からその熱情溢れる指揮ぶりと飾らない御人柄に強く魅かれていたのを思い出す。
 楽隊の思い出話というとどうしてもオーケストラの出来が悪い時の裏話になってしまい恐縮だが、初めてヤマカズさんの指揮に接したのは、ある地方のホールの柿落しにオペラ「蝶々夫人」の公演を行なった時だった。練習が足りずにオーケストラの出来が悪く、本番最中にずれそうになった。するとヤマカズさんはホールに響き渡る大声で「ここ!」と叫んで指示を出したのである。
 別な機会、やはり地方で地元の合唱団との公演があったがこれも本番の出来が危ぶまれる状況だった。何とか演奏会を終了し、指揮者の控え室を通りかかるとドアが開いている。着替え中だったようだが扇子でバタバタと顔を仰ぎながらその場にいた関係者に「いやー、君、何とかなるもんだねえ」と仰っていたのが極めて印象的だった。
 そして私がオーケストラの団員として演奏した最後の演奏会がヤマカズさんの指揮だった。奇しくもそのプログラムに載った指揮者へのインタビューの中に(*)新響の話題が出て来るのである(当時ヤマカズさんは新響とマーラー「大地の歌」を練習中)。
 残念ながら私はヤマカズさんの指揮でマーラーの作品を演奏したことがない。また御自身が作曲活動を行なっていたことは新響との関わりで知った。
 そのプログラムの何たる偶然。今日の演奏会への因縁を感じざるを得ない。

*新日本フィルハーモニー交響楽団第131回定期演奏会(1985年6月6日)プログラムより、当該部分を引用します。
−−きょうは先ほどまでアマチュアの新交響楽団(新響)の練習でしたが、プロと比べていかがですか?
山田 新響とは何年か前からマーラーを始めてね、今は<大地の歌>で、あと残りは1番、4番、8番かな。普通のアマチュアのオーケストラと気概が全然違うね。ひとつの系列ををたててマーラーを全部やろうというのが非常にみどころがあるし、プロフェッショナルなオーケストラが落ち入りやすい技術主義が全くない。最初の練習の時、これでできるのかと思うけれども、それをカバーする気合というか、音楽を愛する気持ちがあるんでね、演奏会そのものはものすごく満足だな。昔、N響の全身の新響に天才的なクラリネットがいて、余りにも天才的なために生活も滅茶苦茶なのね。<悲愴交響曲>のソロなんて、音程悪いとこあるんだ。悪いって誰もが認めても、なお、あのソロは絶対だっていう風な、本当に神そのものみたいな音出してね。ああいうのが本当の演奏だという気がしたんだよねえ。そういうものが精神としては新響にある。プロの音楽家が、それを絶対に技術で割り切ってしまうみたいな所に問題があるんで、新響は非常に面白いと思った。音程よくないのは本当はいけないんだよね。でもそれとは別に「これこそは音楽だ!」というものがありたいね。(以下略)


情熱の人 やまかず先生

大谷康子(ヴァイオリニスト、東京交響楽団コンサートマスター)

 今でも町の中で後ろ姿がやまかず先生にそっくりの方をみかけると思わず走り寄って前にまわってしまう。そして「やっぱり先生ではないのだ」と確認してしまうととても寂しい。先生ならオシャレな蝶ネクタイをして天国から降りて来て「みんながどんな音楽をしているか、ちょっと見に来たのよ」とおっしゃりそうな気がする。
 先生の想い出は尽きないが特に強烈だったのはウィーン西駅のことである。その時先生と私はTBSテレビ「音楽の旅はるか」という番組に出演してマーラーの取材をしていたところ、マーラーに傾倒していらしたやまかず先生に突然マーラーが乗り移ったようになってしまってカメラが回り出しても先生は、絶句…… 頭を抱えたきり涙は出ても声が出ない…… 横顔もマーラーに似ている先生のその様子に私も涙が出てきて困った。30分以上も続いたことであった。
 凄まじい感情移入をされるやまかず先生、どの作品に対しても情熱的だった。先生の指揮で演奏できたことは私にとって宝物である。


ヤマカズさんの思い出

吉村信良(社団法人全日本合唱連盟理事長)

 山田先生とのおつきあいはずいぶん古いのです。たしか、京響の芸術監督に就任されたとき、オネゲルの「ダビデ王」をやるから手伝えといわれて、わけもわからずうろうろしていたころだったでしょうか。でも京都から離れられてからの方がおつきあいが頻繁になりました。そして、先生定宿の京都ホテルの近くの居酒屋で大ごちそうになるのが定番でした。
 あるとき、いつもと違うちょっぴり怖い顔で、そう、場所もいつもの居酒屋ではなくてホテルのロビーでした。
「君はなぜ山田一雄に師事といわないんだ。ボクが師匠では気にいらないのか?」。
 とんでもない、お礼を払ったことは一度もないし、むしろしょっちゅうごちそうにばかりなった上でそんな恐れ多い……。以後、大喜びで思い切り「ヘンな弟子」にしていただきました。
 コンクールの京産グリー学生たちの打ち上げに出席されてのご挨拶での「絶句」や、客演をお願いしたときの、孫のような学生たちとのたのしいふれあいは忘れられません。
 もう10年たったのですねえ。でも私の心の中では、たのしいお付き合いが限りなく続いています。


ヤマカズさんの思い出

古野淳(新交響楽団トレーナー、新星日本交響楽団ホルン奏者)

 ヤマカズ先生は疑いなく偉大なマエストロでありながら、私たちオケの人間とつねに親しく接してくださいました。お忙しい中、私の自主制作したCDを聞いてくださり、ご自分の演奏会のおり、客で来た私を目ざとく見つけ、たいへんほめてくださったことは、今も忘れられない思い出です。
 先生は、この新響の演奏会当日にはもう存在しない我がオーケストラ、新星日本交響楽団の永久名誉指揮者で、数々の忘れられない名演を私たちに残してくださいました。この愛すべきオーケストラは先生と相性がよく、先生の深い芸術のどこまで表現できたかはわかりませんが、他の優秀なオケが次々と破たんをきたすなか、見事な熱演を生みだしてきたのです。大学卒業直後、右も左もわからないままオーケストラに飛び込んでしまった私にとって、ヤマカズ先生は、偉大なるオーケストラの道知るべであり、私の音楽の原点と呼べるマエストロでありヒーローなのです。


ヤマカズさんの思い出

池田敏美(新星日本交響楽団創立メンバー、ヴァイオリン奏者)

 日本指揮界の重鎮でいらした、高い存在の先生に初めて定期演奏会を振っていただいたのは、1972年3月でした。それから、濃く永い御指導をいただく事が出来ました。同じ曲を指揮される度に、ちがったアプローチを研究され、柔軟な感性でオケマンを納得させ虜にして了う魔術をもっておられた。経験の浅い私達後発のオケを、大きな愛情と根気、包容力で励まし続けて下さったのは、「何故?」と思える程幸せな奇跡でした。
 暮の「第九」の終楽章 Allegro ma non tanto に入ってすぐ棒を落とされた先生は、とうとう拾わなかった私を終演後の舞台袖に呼び、「僕の大事な楽器である棒を拾わないとは何事か!」と青筋を立てて怒られた私は、星の様に大きい先生の前で、深く頭を下げ乍ら「これで二度と先生とご一しょできない」と縮こまるばかりでしたが、ややあって、「そんな大事な棒なら落とさなきゃあいいんだよなァ、ハ……」と、高笑いされて、緊迫した空気をときほぐして下さった先生の笑顔。あれも、先生の不思議な魔術だったのですね。もう一度、あの魔術にかけられてみたい。


ヤマカズさんの思い出

イヴォンヌ・ロリオ=メシアン(ピアニスト)

 夫オリヴィエ(*1)と私は、1978年に山田一雄マエストロの指揮で『7つの俳諧』(*2) を演奏し、大きな喜びを得ました。演奏家たちも指揮者も、リズム、響き、色彩感、そして感情表現が完璧で、実に素晴らしい演奏でした。私たちは、この卓越した指揮者の才能と偉大なる好意に、まさに瞠目いたしました。

* 1 オリヴィエ・メシアン(20世紀のフランスを代表する作曲家、1908年〜92年)
* 2 メシアンが1962年に来日した際の印象から作曲した管弦楽曲で「奈良公園と石灯籠」「山中湖カデンツァ」「雅楽」「宮島と海中の鳥居」「軽井沢の鳥たち」などの7曲から成る。1978年に藤沢市で行なわれた「山田一雄の世界」4夜シリーズ中で、山田一雄指揮新日フィル(ピアノ独奏:ロリオ夫人)により、作曲者同席のもとで日本初演された。なお、新響トレーナーの柴山洋氏もこの初演に参加している。



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