2001年4月演奏会パンフレットより


飯守泰次郎氏にきく

今年度のサントリー音楽賞を受賞され、ますますご活躍著しい飯守先生に、今回の
新響の演奏会に向けてお話をうかがうことができました〔4月7日〕。

<マーラー>

――飯守先生がこれまで、マーラーとはあまりご縁がなかったというのは本当ですか。

飯守 そうなのです。別に敬遠していたわけではないのですが、指揮したことのあるマーラーの交響曲はまだ少ないですし、今回の5番も若い頃にアシスタントをしただけです。以前から演奏したい、という気持ちは強くありましたが、お声がかからなかったというのが正直なところです。
ただ、マーラーというのは本来、本当にマーラーを指揮できる指揮者と演奏できるオーケストラがあって初めてできるものだと思います。マーラー指揮者というのはあまり多くなく、マーラー・ブームを築いてきたのはやはりユダヤ系指揮者が多いですね。バーンスタイン、ワルター、インバル、ベルティーニ…。もっとも、重要なのはユダヤ系かどうかよりも、マーラーのあの作品世界に入っていく勇気があるか、そして一生の間にあれだけたくさんの音符と内容を消化する時間があるか、ということですね。指揮者の現実的な立場からいえば、マーラーと、同じく音符の多いワーグナー/ブルックナーとを両方やると、ひとりの指揮者の一生では時間が足りないのです。

――たしかに、ブルックナーを振る指揮者と、マーラー指揮者はあまり重なりませんね。マーラー5番のアシスタントをされたのはいつ頃、どこのオーケストラですか?

飯守 1965〜66年頃に留学していた、ニューヨークのマンハッタン音楽院のオーケストラです。指揮は私の大先生でもあったイオネル・ペルレア先生という、晩年のトスカニーニをメトロポリタン歌劇場で支えたりした方です。ペルレア先生は当時すでに半身不随だったのですが、椅子に座って片手だけで…凄かった。当時はまだローゼンシュトック氏がメトロポリタン歌劇場で指揮をしているような時代でした。

――初めてマーラー5番に触れた印象は?

飯守 曲は知っていましたが、やはり大変な衝撃を受けました。こんな曲をどうして書いたのだろう、と。マーラーの交響曲は、5番で大きく変わるでしょう。5、6、7番の3つの交響曲におけるマーラーには、明らかに戦いと勝利という要素があり、ベートーヴェン的な苦悩の延長があります。
しかし、やはりなんといってもマーラーの音楽の特徴は、彼の生きた時代そのものだということです。マーラーは非常に感性の鋭い人です。知識人も一般大衆も政治も文化も、すべてが矛盾や苦しみと絶望を抱え、世紀末の退廃へと猛烈な勢いで進んでもはや止めようがなかったあの時代を、おそらく子供の頃から異常なほどに感じとって、まさにそこに自分の道を見出したのでしょう。いや、むしろあの時代をマーラーが作り出したのではないか、と思うことさえあります。彼は、意識的に時代に自らを投じて生き、苦しみ、悩み、矛盾…そういったものを自分の作曲のメイン・テーマとしました。第1楽章中間部の変ロ短調の急速な部分は、まさに悶え苦しむアレグロです。特に、嵐のように疾走する第1ヴァイオリンの音型は、ただ威勢良く弾いてしまいがちですが、あれほど苦しみをもって人に訴えてくる旋律は他にはまったく見当たりません。
もちろん、作曲家というのは誰でも苦しみながら作曲するもので、ベートーヴェンも、ブラームスも、モーツァルトも、シューマンも皆、創造においても人生においても大変な苦悩に遭遇しています。作曲家に限らず、自分が求める何かを追求すれば必然的に辛いことにぶつかり、それがごく自然な意味で創造力の源泉となるのです。ただ、マーラーの場合はそのようなごく自然な意味での苦しみとは異なり、むしろ好んで自分を苦しみに陥れた感があります。

――マーラーはウィーンの歌劇場の総監督を10年にわたって務めていますね。

飯守 そうです。マーラーが指揮者だったということも、もうひとつ非常に重要な点です。しかも非凡な指揮の技術を持ち、単によい演奏をするだけでなく、より表現主義的で近代的な演奏技術の必要性をはっきりと認識してオーケストラを徹底的に鍛え上げた人です。
指揮者としての彼が、ごく自然にキャリアを登って行ったのではなく、政治的に友人知人を動かして自分のキャリアを自分で完全に作り上げたことも、非常にマーラーらしい点ですね。彼は実に冴えた人で、ウィーンの歌劇場の総監督になることを目標に、人間関係と自分自身の指揮の力の両方を駆使して、実際にその地位を手に入れましたし、歌劇場の運営、オーケストラや歌手の指導と教育、すべてを立体的に推し進めました。「やがて私の時代が来る」というマーラーの有名な言葉も、彼のそうした面をよく表しているのではないでしょうか。
それだけなら安っぽいかもしれませんが、マーラーの場合は創造者たる作曲家として、最終的には作曲というかたちで自分の求めるものを実践し、ある意味では「責任を持った」のです。あの饒舌にして絢爛豪華な響き、技術的な冴え、そして苦悩し退廃に向かう彼の作品を見ていると、結局最後には彼は自分自身の心身を投入して自分の求めるものを体現したのだという感じを受けます。それにしても、とにかくあの人の精神構造は常人にはとても理解不可能なくらい複雑です。すべてのことが彼の内面で絡まり合っている。特に5番以降の交響曲の中にそのことを感じます。

――同じ後期ロマン派で指揮者だったR.シュトラウスとは、かなり違いますね。

飯守 R.シュトラウスの曲には、必ず現実性があり、物事の表面あるいは具体的な事物を表現する才能で成功した人で、まさに標題音楽と劇音楽の大家です。マーラーの音楽はいわばその極端な正反対で、きわめて精神的で心理的な内容を扱っています。この2人はとても仲が良かったようですが、これだけ対照的ならばわかるような気がしませんか。R.シュトラウスも、「サロメ」「エレクトラ」「影のない女」などで凄いところまで行きついていますが、マーラーの行きついた所というのは、ほんとうに崖っ縁から谷底をのぞき込むような恐さがあって、私もまだわからないのです。…やっぱり恐ろしいです、マーラーというのは。私は、あの曲をやればやるほど自分が異常になってくるような気がして、こわくなります〔笑〕。山田一雄さんも「マーラーをやるたびに髪が白くなる」と書いておられますね。新響のみなさんはどうですか?

――〔一同顔を見合わせて苦笑〕…5番を実際に指揮されてどうお感じになりますか。

飯守 マーラーの音楽にも喜びはもちろんあって、長調も必ず出てくるけれども、それは常に苦しみや絶望に対するコントラストとして出てくるのであって、ほんとうの勝利ではないのでは、と演奏しているときいつも思います。第1楽章、第2楽章はとにかく暗いし悲劇的です。
第5楽章はあの曲の中では肯定的な内容で、ベートーヴェンの交響曲2番の終楽章を彷彿とさせる音型や、ブラームスの交響曲第2番の一番最後の部分をもう「いただき!」といわんばかりに連想させるところなどがあって、マーラーがブラームスやベートーヴェンの伝統を完全にマスターしていたことがわかりますね。
第4楽章のアダージェットも、ほんとうに凄い曲です。ビスコンティの有名な映画によれば叶えられない情熱、ということになるのでしょうか。たしかにものすごくロマンティックなのだけれども、なにか到達できない、情熱があるほどに苦しみが深い、というような感じをたたえて、短いけれども完全にひとつの世界があります。熟し切って樹から落ちる寸前の果実のようで、『トリスタンとイゾルデ』から生まれたひとつの必然的な帰結といえるかもしれません。ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲で、変ニ長調の8分の6拍子のゆっくりした楽章〔弦楽四重奏曲16番作品135の第4楽章レント・アッサイ〕がありますね。齋藤秀雄先生が、自分のお葬式のときにはこれを演奏してくれ、とおっしゃっていた曲ですが、音楽的な傾向は違うけれどもやはり途中で嬰ハ短調になって葬送行進曲のようになる部分があって、あの深みとこの第4楽章のアダージェットには、共通するものがあると感じます。

<ヤマカズ先生と新響とのマーラーをふまえて>

――新響が5番を演奏するのは実は今回で3回目で、ヤマカズ先生との全交響曲チクルスの初回の79年、92年のヤマカズ先生追悼演奏会で小泉和裕先生の指揮、そして今回です。5番はマーラーのすべてが凝縮された曲で、特にむずかしい気がします。特にどうも本質に近づきにくい、オーケストラとしての難物はどの楽章でしょうか。

飯守 とにかくあまりにコントラストが激しい作品で、聞かれても困りますが〔笑〕、マーラーの本質に迫る以前に、「水準」という私の好きでない言葉を使わざるを得ないのですが、実際の演奏をある程度の最小限の「水準」で形に仕上げるまでがとにかくむずかしいという意味で、第3楽章でしょう。

――やはり私たちも、マーラーのもっとも難しい要素がこの第3楽章に凝縮されているように思われて、ヤマカズ先生とやってきた中でもついに手が届かなかった部分という気がします。

飯守 第3楽章はまずあの速さで、しかも日本人の苦手な3拍子。なのにあれほどすべての要素がいつも組み合わさっていて、それも突飛な組み合わせがあちこちにある。それらが機械的な意味で完全でなければならず、それでいて舞曲ですからそのどの要素も生き生きと弾んでいなければならない。調性の移り変わりも激しくて、常に今どの調性でどう転調しようとしているのか、オーケストラ全員が知って感じて演奏しなければならない。音程、リズムがピシッと組み合わさるだけでも至難です。現代的な感覚とは違う本当の田舎の素朴さ、土くささ、生々しさが必要だし、一方で心理的に異常に冴えた状態に至るまで、あらゆるものが入っています。中間部のゆっくりしたレントラーの感じもむずかしい。今日の新響の練習の段階では合わせるのに精一杯で、それでもまだ完全には合っていないところがあちこちに残っています。
ひとつには、やはりマーラーが自分で実際にオーケストラを指揮していたからこそ、オーケストラの演奏技術を駆使して、ここまで極端に幅広いさまざまな表現をすることが可能だったということはあるでしょう。

――この曲を作曲した時のマーラーは、やはりウィーン・フィルを念頭に置いていたのでしょうか。

飯守 もちろんでしょう。ウィーン・フィルの中でもこの奏者はこういうリズム感が弱いから指示をしっかり書いておこう、といったマーラーの配慮も楽譜から感じます。自分の総監督というポストと、演奏する相手のウィーン・フィルの個々の楽員との関係のようなものまですべてが絡み合って作品に影響している気がします。もちろん、ウィーン・フィルで演奏するだけのために楽譜の指示があるわけではない、という必然性は十分にあります。

――お尋ねするのも気がひけますが、新響もこれだけマーラーをやってきまして、今回飯守先生が指揮なさって何かお感じになることはありますか。

飯守 まずこんな大曲なのに、とりあえず皆さんがちゃんと弾いていらっしゃる〔笑〕。ただ、私の指揮している音楽と新響のやることが違っているのですが、これは今回に限らず、新響ではよくあることですし〔笑〕、ヨーロッパのオーケストラでもやはりよくあることですから。指揮者が来てパッとできあがってしまうより、お互い歩み寄って作って行くほうがずっと面白いものができるのではないでしょうか。

――新響はどうも、1回やったときの演奏がどうしてもしみついてしまうのです。

飯守 それはいいことだと思いますよ。それにしてもね、新響がマーラー全曲を一緒になさった山田一雄先生は、天才だと思います。あの方は、小手先ではなくてもう自分の全身で音楽に入り込んで行くでしょう。あんなに素晴らしいヤマカズ先生と新響の皆さんがマーラーをやってきたわけですから、正直なところ私は大変なプレッシャーを感じているのですよ。

――でも、すでにこれまでの飯守先生のマーラーのご指導に、新響のメンバーは大変な衝撃を受けています。あまりにマーラーが先生の体の中に入っていて…。

飯守 まだとても、体の中には入っていません。心の中には入っているのですが〔笑〕。

――飯守先生のどこかに、マーラーに対する深い共感がおありなのではないかと思うのですが、いかがですか。

飯守 私は、ヨーロッパの国々で長年、大都市よりもむしろ田舎で雑多な経験を重ねてきました。それは正直なところ単なる偶然の連続ともいえます。でも偶然というのも面白いもので、不思議とそこにいつも必要なものが待っていたのです。意識的にキャリアを目指すよりも、ヨーロッパの人々の中に身を置いて生活することの方が私には大事だったし、実際に長年の暮らしの中でこそ、調性だの記譜法だの交響曲だのオペラだの、という以前の、西洋音楽の根っこにある言語、宗教、民族性、生活感情…きりがありませんが、そうした背景あるいは土壌ともいうべきものを、感じ取れたのではないかと思います。そこでいちばん実感したことは、音楽というのはすべて、それぞれの民族の言語と歴史と密接に絡んで生まれてきたものだ、ということです。それを単に「クラシック音楽」というひとつの言葉で理解してしまうのはあまりに単純に過ぎます。
今の音楽界は、才能、教育、キャリア、水準、…どこでどんな賞を取った、どんな地位にある、ということが重要なエリートの世界です。たしかにそれも必要だけれども、音楽というのはもともと「音」でしょう。音というものは、自然科学的に、宇宙にもともと法則として存在しているものですね。ごく単純なところで数に支配されていて、弦楽器ならば張ってある弦の長さによって、管楽器ならばつまりパイプですからそのパイプの長さによって、倍音の法則にもとづいて音が出ます。その原理から始まり、ハーモニーや調性が必然的に生まれた。その音楽が耳から入って、人間の精神に直接影響を与えるのです。私は、人間の精神あるいは魂そのものも宇宙の法則にもとづいていると思っているのですが、それら「音」と「精神」が触れ合う、ということが音楽の素晴らしいところです。もちろん実際の音楽作品においては作曲家の個性が出ますし、その時代その人なりの形式としてバロックだの国民楽派だのいろいろあるけれども、共通しているのは、どこか、何かを経由して自分以上のなにものかへ到達する、という感覚で、そういう努力をしてみな作曲しているのです。作曲というのは作曲家ひとりの才能だけではないということです。自分以外の根源的なもの、つまり人間以上の、宇宙、自然、世界にあるなにものかを予感し、かちとって、そこに到達し、音符にとらえる、というのがほんとうの作曲家の才能ではないかと私は思うのです。
ましてや指揮者は、自分で音が出せないのですから、仲介者あるいは媒体として、作曲家が意図したものをオーケストラに伝えるのが務めで、自分の才能云々でなく、その音楽が生まれた言葉、歴史…すべてを感じとるようにして伝えれば、挫折などせずにどんどん力が与えられるのではないか、という気がするのです。そうすることで、極端にいえば、音楽を通じて宇宙(神)と一体になれると思うのです。
マーラーに限らず、すぐれた音楽作品のすべては、その音楽の内容とその背後に、どんなに測ってもきりがないくらい深いものが入っています。好奇心をもってそれらを探し求めるのはとても面白いことだし、いつもそうしていれば必要な才能は与えられると信じています。これは、オーケストラであっても、演奏家であっても、指揮者であっても、同じことです。大切なのは結局、何を読み取るか、そして何を伝えるかです。私自身、5番をやるだけの時間が足りるか、自分にそれだけの能力や技量があるか、といまも心配です。でも、やるのは自分ではない、スコアを読めばそこから力は与えられると考えているし、またそう思わなければこわくてできません〔笑〕。

<ヤマカズ先生に思うこと>

――飯守先生は、生前のヤマカズ先生と直接の交流はおありでしたか?

飯守 もちろん何度か、演奏会を聴かせていただきました。不思議なことに、山田先生のほうから声をかけていただいて、ヤマカズ先生はずっと芸大ですから私のことをご存知だったはずがないのですが。お着替え中の楽屋に平気で招き入れてくださって、とても気さくに奥様にもご紹介していただきました。本当はもっとヤマカズ先生
の演奏を聴きたかったのですが、ちょうど私が一番ヨーロッパに長くいた頃で、数回しか聴けないうちに亡くなってしまわれたのが大変心残りです。

――芥川先生が亡くなって、これからどんな指揮者にお願いしたらよいかヤマカズ先生にご相談にうかがったとき、ヤマカズ先生は飯守先生のお名前も挙げて「残念ながら今は日本にいないけれどね」とおっしゃいました。ヤマカズ先生の演奏をお聴きになったときの印象はいかがでしたか。

飯守 天才です。とにかく凄い。他の指揮者と全然違うと思いました。もちろん日本にも近衛秀麿さんもおられたけれども、ヤマカズ先生は古くからの日本の精神的遺産を継承して、しかも棒振りというのではなくもうその人自体が指揮者であり音楽である、というまったく違った存在で、日本にもこういう人がいたのか、と思いました。それと、至るところに流布している数限りないヤマカズ先生の逸話ですね〔笑〕。実際の先生の音楽とそうしたエピソードを一致させて聴いていました。そのヤマカズ先生と長く一緒になさったなんて、新響の皆さんが本当に羨ましいです。
日本にはもうああいう人は出ないのではないでしょうか。だいたい、日本ではあのような人が育つような教育はしないのにどうしてあのような人が出てきたのか不思議です。やはり天才だったのです。本当にもう少し、ヤマカズさんの演奏を体験したかった、残念です。
ヤマカズ先生の著書『一音百態』を読み、私もほんとうに真実だと共感することがあまりにたくさん書いてあって驚きました。クラシック界という狭い箱庭に安住して技術だけを磨いていればよいというのは思い違いで、それでは自分で自分を殺すことになるとか、演奏というのはスパッと切ったら鮮血が流れるようなものでなければならない、という点には特に強い共感を覚えました。私も、訓練して訓練して演奏するのではなくて、ほんとうに新鮮な、心の中から血が通っている演奏をしたいといつも思っているのです。それと、芥川さんもまったく同じ事をおっしゃっていますが、アマチュアもプロも、最後に到達するところは同じだということです。むしろ、すぐにできてしまうプロの技術がかえってあだになることがあり、上手下手やプロ・アマということよりもいかに「心を打つ」かが重要、というのに私もまったく同感です。

<『おほむたから』>

――『おほむたから』にはどんな印象をお持ちですか?

飯守 たしかにあの曲にはマーラー5番が色濃く反映していますが、プリングスハイムさんがマーラー5番を初演したのをヤマカズ先生が聴いて衝撃を受けたのが1932年で、その後すぐの作品ならわかるのです。でも『おほむたから』はそれから10年以上経って作曲されたのに、マーラー5番そのものという場所がたくさんあるのは何故か、まだわからないのです。ヤマカズ先生は作曲当時すでに指揮をたくさん経験しておられたし、自分の作品をかなり客観的に見ることができた方だと思うのですが、どうしてこのような曲を書いたのでしょう。
『おほむたから』では、たとえば『交響的木曾』のような日本のメロディを生かした楽しい感じの作品とは明らかに違う色彩を持たせようとしたことが感じられますが、彼はいったい本当は何を考えたのでしょう。あの地味な日本のメロディは、ヤマカズ先生の言葉通り「神武天皇の国民を本当に愛する慈悲の心」なのだと思おうとするのだけれども、どうしてもそう思えない。しかもそこへ突如マーラーを思わせる部分が出てきます。絶望の深さはマーラーまでは行かないにしろ、やはり明らかに悲劇と苦しみの嵐なのに、ヤマカズ先生の言葉はそうした苦しみにはまったく触れておられない。
『一音百態』を読んでいてひとつ、意見が違うと思ったのは、プリングスハイムさんによる5番の初演を聴いて「突如、その葬送をかき乱すかのように陽気でにぎやかな曲があらわれ」と書いておられる部分です。たしかに動きはにぎやかだけれども、あの調性とヴァイオリンのメロディの形は、私には葛藤と苦しみの叫び、激しい痛みともがきだと感じられるのです。ですから、もしかしたらヤマカズ先生にすれば『おほむたから』のマーラー的な部分はマーラーの温かみであり農民のにぎやかさ、なのかもしれません。とにかく私は、この曲が書かれたときの彼の神秘的な精神状態、それからのっぴきならない政治的社会的状況について、まだ解明できていないのです。

――ヤマカズ先生のなかにマーラーと共通する土壌があったのは確かでしょうね。

飯守 よく「マーラーの生まれ変わり」といわれていた通り、指揮者で作曲家であるヤマカズ先生の像がマーラーと重なってみえるということは、私にもあります。ただ、二人はひとつ大きく違うところがあります。マーラーは、苦しみ、退廃、絶望、世紀末の閉塞感、そういったものに自分自身を陥れることによって霊感を得て自分の創造の道を発見し、自分ができるものは全部創りだそうという、下心といってもよいくらいの執念がある人でした。でもヤマカズ先生は、そうした下心はなく、演奏家としての才能にも恵まれてむしろ天真爛漫なアマデウス的な部分を、マーラー的な気質とともに併せ持っていたのではないでしょうか。人柄もマーラーとは正反対で、まるで妖精のようなところさえありました。皆さんはそのヤマカズ先生とずっとやっていらした。いやはや、私は大変なところに遭遇してしまったものです。先ほども申し上げた通り、力はスコアから与えられると信じるほかはありません。


最近の演奏会に戻る

ホームに戻る