第165回演奏会(99年4月)プログラムより


伊福部 昭:シンフォニア・タプカーラ

上原 誠(打楽器)

 伊福部昭は、1914年釧路に生まれた。父が役人であったため北海道各地に移り住み、小学校後半を過ごした十勝の寒村では、遠くアジア大陸をルーツとするアイヌ民族の文化や生活の神髄に触れ、幼年期における強烈な原体験となった。伊福部家は、因幡の国(鳥取県)東部に千年以上も続く古い家系で、いわば生粋の大和民族である彼にとって、民族間の差異は衝撃的であったが、それ以上に彼等の逞しさに感動を覚えた。
 この「タプカーラ」というのは、アイヌ民族に伝わる踊りで、足をしっかり踏みしめる動作から踏舞と呼ばれ、悪霊を威嚇し良霊を迎えるという意味を持つ。この動作は日本各地における古い信仰に根差した芸能や儀式にも多数見られ、例えば福岡県南西部、熊本県との県鏡に近い山門郡瀬高町の大江天満宮に今も伝わる「幸若舞」でも、重要な要素となっている。
 すなわち、自然の恵みのみによって生きてきた古人(いにしえびと)たちに共通する大地への感謝と畏敬の気持ちの表われであり、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の第1部のタイトル「大地礼賛」にも通じる。

 1926年札幌二中(現・札幌西高)に入学した伊福部が出会った音楽好きの同級生三浦淳史(現・音楽評論家)は、当時既に外国の文献やレコードを取り寄せることすらしており、小学校高学年のころから西洋音楽に目覚め、ヴァイオリン、ギターを独習していた伊福部に、サティー、ドビュッシー、ストラヴィンスキーといった当時の日本では名前すらほとんど知られていなかった音楽をもたらした。それまで聴いていた西洋音楽に今一つ違和感を感じていた伊福部は、ストラヴィンスキーの音楽に蒙古を中心とした汎アジア的な北方民族の親近感を感じ取り、『初めてこれがひそかに自分が音楽と考えていたもののように感じられ(中略)、自分でもあるいは書けるのではないかと本気で考え』管弦楽法の勉強を始め、のちにスケールの大きい民族主義的作風を確立していった。

 1932年北海道帝国大学農学部林学科に入学した伊福部は、学業の傍ら学内オーケストラ、次兄・勲、早坂文雄らとの自作の発表など、意欲的で多彩な音楽活動を展開した。そして1935年北大を卒業し、地方林務管として厚岸の深い森の中に赴任した後も音楽への情熱は変らず、ランプの明かりと独学の知識のみを頼りに最初の管弦楽曲「日本狂詩曲」を作曲した。
 この曲は1935年、パリ在住のロシア人作曲家アレスサンドル・チェレプニンが主催した日本人のための作曲コンクールに送られ、応募20曲のうち首席に選ばれた。審査員としてイベール、オネゲル、ルーセルら当時の錚々たる作曲家が名を連ねる世界第一級の作曲コンクールだった。翌年来日したチェレプニンは、伊福部に作曲理論を授け、生涯で唯一の師となった。彼は横浜での約1ヶ月の滞在費を含め、一切の費用を負担したうえ、北海道まで伊福部の両親を訪ね、息子を音楽家にすることを勧めている。

 ところでこのアレクサンドルの父親ニコライは、ペテルブルク音楽院でリムスキー=コルサコフに学んだ作曲家・指揮者で、リャードフらとともに「新ロシア楽派」を称して「五人組」の後継者を自認し、未だに西欧文化偏重の強かったロシアで民族音楽の旗を掲げていた。やがてディアギレフに起用され、1909年ロシア・バレエ団初のパリ公演を指揮するとともに作品を提供し、引き続き1914年まで指揮・作曲・編曲に参画した。その間、彼と同じ流れを汲むストラヴィンスキーがかの3部作を発表し、当時の文化の中心地パリに次々と衝撃を与えていく現場を目の当たりにし、我が意を得たりと喜んで息子にも繰り返し語ったに違いない。志を継いだ息子は来日した折、当時の月刊誌に寄せた「日本の若き作曲家に」と題するメッセージを次のように結んでいる。『先づ自國に忠實であり、自らの民族生活を音樂に表現されよ。(中略)諸君の音樂作品がより國民的であるだけ、その國際的價値は増すであらう。』20歳そこそこの若者・伊福部の作曲に、紛れもない日本の国民音楽の芽生えを見出したチェレプニンは、作曲理論だけでなく創作活動の基本理念をも、殊の外熱心に伝授した。
 幼い頃にアイヌ民族から得た原体験を下地として、このチェレプニンの教えに力づけられ、やがて『総ての芸術は、その民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達すべきもの』とする信念を確立していった。

 チェレプニンに教えを受けた際、交響曲を作曲するにはまだ技量不足とクギを刺されており、成果として作曲された「交響譚詩」の第1部はソナタ形式がとられている。このことからも、伊福部は交響曲への意欲をずっと抱き続けていたと思われる。先の「日本狂詩曲」から20年、名著「管弦楽法」の923ページに及ぶ第1巻とほぼ時を同じくして、いわば満を持して作曲されたのが、この“シンフォニア・タプカーラ”(タプカーラ交響曲)である。そしてその内容はタプカーラという民族性を通じて大地礼讃という共通の人間性を高らかに歌い上げたもので、伊福部の作品の集大成であり、彼の信念そのものの表われであると言える。
 なお、この曲は、『少年である私をそそのかし、作曲という地獄に陥れたメフィストフェレス』三浦淳史に捧げられている。

 この曲の初稿は1954年に完成したが後に改訂を施し1979年12月に脱稿した。作者によれば主たる改訂は、1楽章の冒頭、2楽章の中間部、3楽章の結尾部に行われたという。改訂版の初演は1980年4月6日、芥川也寸志指揮により、当団第87回演奏会「日本の交響作品展-4 伊福部昭」で行われた。

初演:初稿の初演は、1955年1月26日、フェビアン・セヴィツキー指揮のインディアナポリス交響楽団で。改訂版の初演は、1980年4月6日、芥川也寸志指揮による当団第87回演奏会「日本の交響作品展-4 伊福部昭」で。


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