第113回演奏会「新響と30年 芥川也寸志」(1986年11月)パンフレットより


「音楽はみんなのもの」芥川也寸志


私にとってのアマチュア

芥川也寸志

 Webster大辞典によると、“Amateur”の第一義には“Love”とある。まさに愛してやまぬ、これこそアマチュアの心であろう。
 辞書にこだわるようだが、新村出の“広辞苑”で“愛”をひくと、“なさけをかけること。かわいがること。何ものかにひきずられる感じ。また、或る物事に没頭する快感。”などとあり、金田一京助の“国語辞典”では“相手のしあわせや発展をねがうあたたかい気持ち。”とある。もののついでに、諸橋轍次の“新漢和辞典”には、“1.イ,いつくしむ。かわいがる。ロ,したしむ。ハ,このむ。2.おしむ。イ,大切にして手離さない。ロ,物惜しみする。3.異性や物をむさぼり求めること。〔仏〕”などとある。
 これらの字意は、あたまに音楽を、音楽について、音楽に対して、等の言葉をつければ、いづれもアマチュア音楽家の気持ちを言いあてているように思うが、とりわけ、何ものかにひきつけられる感じ、或る物事に没頭する快感、はそのものズバリの表現ではないだろうか。要するに代償を求めず、ただひたすら音楽を愛し、それに没入していく心、それがアマチュアの中身であり、魂でもあろう。

 ところが、世間一般ではアマチュアという言葉をこのような意味には使わない。アマチュアのオーケストラといえば素人の専門家の真似をしている、したがって下手な、程度の低い、価値の劣るオーケストラ、が通り相場になっている。またプロには、プロフェッショナルのほかに、プログラム、プロダクション、プロレタリア、プロセントなどの略語としての使われ方があるからかもしれないが、オーケストラを聞いてきたと言えばそれは必ずプロの、意味するかわりに、アマチュアの場合には、大低アマチュアの、と但し書きがつけられる。
 これは、音楽とは本来プロのものであって、アマチュアはそれを真似しているに過ぎない、というひどい誤解が世間一般に流布されているためだと思われる。

 音楽は一体だれのために存在するのか、を考えたときに、それはプロたちのために、などとは到底考えることは出来ない。大体,人間は音楽なしには生きてゆけぬ。大きな悲しみに立ち向かうには、それに耐える歌がどうしても必要になるし、戦いに臨んでは勇気をかきたてる歌が、赤子を寝つかせるには子守歌がいる。人間が歌を必要とするということば、歌というものが、人間の一部を構成しているということでもある。
 プロとはある特別の才能をもった、ある特別の訓練を経た、ある特別の人間のことだろうから、音楽がそんな特別なもののために存在するなどということは、到底考えることは出来ない。
 あえて言えば、音楽はみんなのものであり、“みんな”を代表するものこそ、アマチュアと言ってよいであろう。この意味から言えばアマチュアこそ、音楽の本道である。

 しかしながら、アマチュアが普通以上に低く価値づけられているのを、世間一般の誤解のせいばかりにすることは出来ないような気がする。世の中のアマチュア自身が、必要以上に自分たちを卑下した発言をしたり、行動をしたりするのをよく見かけるからである。
 どうせ私たちはアマチュアですから、と彼等はよく言う。私はいつも、もう少し胸をはって、誰よりも音楽を愛している私たちアマチュア、と言ってくれればいいのに、と思う。もう一方、プロたちの方にも、自分たちはいやしくもプロであって、そこいらの怪しげなアマチュアとはわけが違うぞ、という必要以上の優越感を誇示したり身振りをする癖がある。私にいわせればプロとアマチュアとは、もともとはじめから性格を異にする存在であって、同列に比較したり、論じたりするのは、ナンセンスという他はないのだ。
 ところが、アマチュアの地方オーケストラがすこしうまくなって、プロのオーケストラになってゆくケースがよくあるように、この誤解はあながちナンセンスなどと言って、軽く片付けられないくらい、一般に定着してしまっている。その上に、プロが必要以上に威張り、アマチュアが必要以上に卑下するとなると、この傾向が倍加されるのは、あたりまえであろう。これが実に残念でならない。私はいつも、妙に威張っているプロに出会うと、冗談じゃあない、アマチュアがこれだけの演奏をしているのに、それでプロでございますなんて言えるのか、と言ってやりたくなるのである。
 私はいつも、アマチュアを「素晴らしきもの」の代名詞にしたい位に思っている。ただひたすらに愛することの出来る人たち、それが素晴しくないはずがない。私がいつも、新交響楽団の肩書に、小さくアマチュア・オーケストラといれるように頼んでいるのは、それを忘れないようにするために、そして、大勢の方々にそれを分かって頂きたいためにである。
 私が新交響楽団とともに、30年を過ごすことが出来たのは、私の人生においてかけがえもなく、素晴しいことの一つであった。これからも新交響楽団は、今と同じように美しく、愛に満ちあふれた素晴らしい存在であってほしい。

 新交響楽団よ、永久に栄光あれ!


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