2006年6月維持会ニュースより


伊福部先生のこと

村原雄二(ヴィオラ)

 第194回演奏会は伊福部昭先生の「交響管弦楽のための日本組曲」を演奏いたしますが、これが先生の追悼演奏会となってしまいました。いつも伊福部作品を演奏する時、終了後にステージにお迎えして、観客に挨拶される姿を楽しみにしておりましたのに。極めて残念です。団の最古参の一人として芥川先生の御逝去の時には親を失ったような気持ちでしたが、この度はユーモアもあり大変頼りになる祖父を失ったような無念さと寂しさを痛感します。私だけでなく新響の古い団員の多くは、お二人の先生は身内のような存在、という意識が強いと思います。芥川先生は学生時代、当時日光におられた伊福部先生のもとを訪ね、門前で粘りに粘って、やっと弟子に加えて頂いた、と話しておられました。そして終戦後の食糧難の時代、サツマイモを食べながら数日間お宅に泊まって音楽の話に明け暮れしたとのことでした。新響で伊福部先生の曲を練習する時は必ず練習場に顔を出して下さり、お二人の屈託のない軽妙な会話は聞いていて大変楽しいものでした。新響はこれまで旧ソ連とベルリンに海外演奏旅行をしましたが、それぞれ伊福部先生の「交響譚詩」と「ラウダ・コンチェルタータ」を演奏して熱狂的な喝采を受けました。定期演奏会でも数多く先生の作品を演奏してきましたが、先生の歩みの節目、節目には古希記念、傘寿記念、米寿記念のコンサートを開いてお祝いをしてきました。そして次は白寿記念だと皆思っておりました。ですから古い団員が身内感覚を持つのも納得いただけると思います。
 私の個人的な話ですが、1984年の第102回の演奏会のことです。当時6歳の息子と妻が新宿でタクシーを待っておりました。そして前で待っていた上品な御夫婦がタクシーに乗る段になると、息子と妻の話を聞いておられたのでしょう、「坊や、音楽会にはおじさん達も行くので一緒に行こうよ。」と声をかけてくださったそうです。お言葉に甘えて新宿文化センターまで乗せて頂きました。車の中では、妻が北海道の生まれだったので、奥様がその話題など気さくに話をして下さったそうです。会場に着き、お礼を言っての別れ際に奥様が「坊や、今日演奏する曲はこのおじさんが作ったのよ」と言ってさっとホールに向かわれたそうです。妻は感謝の気持ちと、先生を存じ上げなかった申し訳ない気持ちで、しばし呆然としていたそうです。演奏会終了後の打ち上げの席では先生が、ヴィオラ奏者のお子さんとタクシーで一緒にきたことをお話になり、私を探してくださったそうです。しかし残念なことにその日の打ち上げには私は参加していませんでした。その話は後日団員から聞きました。
 そして10年後の1994年第145回演奏会(伊福部昭傘寿記念シリーズ)の打ち上げの時に先生にお会いしてその時の話をしましたら、「よく覚えております。あの時の坊やはどうしておりますか。」と懐かしそうな顔でおっしゃいました。息子がトランペットやヴィオラで音楽を楽しんでいるとお話しすると、「それはよかった」と嬉しそうにしておられました。先生の暖かい人柄に触れた団員のエピソードも多いことと思います。
新響はこれからも伊福部作品を演奏することと思います。そして今まで団が長い間かけて出来上がったDNAを受け継いで、伊福部作品なら新響、との自負できる演奏が続いていくものと信じています。


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