2005年6月維持会ニュースより


「交響曲」の風景

兼子尚美(フルート)

私の実家には、「キロロ」というゴールデンレトリバーがおり、たいそう愛されている。「キロちゃん、キロちゃん」と呼ばれると、すでに成犬ながら幼かったころの愛くるしい表情そのままのきょとんとした顔をこちらに向け、しっぽをふる。子どもの時分から犬好きだった私は、犬の飼えない現在の状況をかこちつつ、朝の通勤途中に似たようなレトリバーの散歩を見かけては、心の中で「キロちゃんだ」とつぶやき、しばしの幸せな気分に浸る。

そんな私も、猫は苦手だ。あの狡猾そうな瞳、そして人の手をするりとかわして去ってゆく姿を見ては、子どものころからなんとなく、なじめないものを感じていた。それを決定的にしたのは、数年前に遊びに行った友人の家での出来事だった。そこには家主も認める凶暴な猫がいて、洗面所で手を洗おうとしていた私を、家への闖入者と思ったらしい。敵意丸出しの攻撃を仕掛けてき、少しでも動くと、飛びからんばかりの勢いで迫ってくる。何とかその場を逃れようと、じりじりと退歩しながら猫と対峙した私は、大人にして小動物の恐怖をとくと味わった。結局、厚手のタイツの上から数か所ひっかかれ、鋭いつめの傷は、その後しばらく消えなかった。

谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のおんな』は、猫の一筋縄ではいかない特徴とその魅力をよくあらわしている。しかし、この作品とて無情な猫とそれにかしづいている男を描いている。やはり、猫に比べて犬の愛されるべきは、衆目の一致するところなどと思っていたら、あにはからんや、以下のような文章に出会った。矢代秋雄氏のエッセイである。

「犬が嫌いである。子供や老人が犬に喰い殺されたなどときこうものならカーッとしてしまう。さらに犬を飼っている人が気にくわない。彼らは世の中の人が皆、自分同様に犬好きと思いこんでいるらしい。応接間に犬が出てくる。客である私の膝に手をかける。いやな顔をすると、相手はとたんに警戒心を抱き、まとまる話もパーになってしまう。(中略)少なくとも私の知っている範囲では猫好きのほうがずっとデリカシーがある。訪客の前に猫が出てくると、然るべく遠慮させるくらいのことは知っている。(後略)」(『音楽における郷愁』矢代秋雄より「犬ぎらい」 音楽の友社)

なんだか自分のことをずばり言い当てられているようで、どきっとした。矢代秋雄氏のエッセイを読むにつけ、彼の人柄がしのばれる。

さて、今回演奏する「交響曲」は「日本フィル・シリーズ第1作」のために委嘱され作曲したもので、4ヵ月半という彼にしては短い期間で仕上げられた。それもそのはず、第1楽章、第2楽章のイメージは以前から暖めていたものだったという。第1楽章の大部分はパリ留学(第2回フランス政府国費留学生として渡仏し、パリ国立音楽院に留学した)の終わりごろ書いていたオスカー・ワイルドの「サロメ」のための序曲または交響詩によっている。また、第2楽章は、パリに学びフランス演劇の権威として知られる獅子文六の『自由学校』の中に出てきた神楽の太鼓の音に着想を得て、「テンヤ・テンヤ・テン・テンヤ・テンヤ」という変拍子を一貫して用いている。第3楽章は、二つの主題を軸にしたゆるやかな変奏曲であり、冒頭と楽章最後に奏でられるコールアングレとアルトフルートの掛け合いが聴きどころ。第4楽章は序奏つきのソナタ形式で、その勢いのあるアレグロ部は吹奏楽の編曲でもよく演奏される。

「もともと私は、4楽章制の交響曲の中で第1楽章と終楽章がともにソナタ形式またはそれに準ずる大形式であることに疑問を持っており、第1楽章に序的性格を持たせることは最初からのプランであったのである。」と日本フィルハーモーニーの演奏会プログラムに書いているように、この交響曲は、第1楽章全体が序的な性格を強く持ち合わせている。

一音たりともゆるがせにしないという作曲姿勢を強くした、パリ留学後第一作のこの作品は、矢代秋雄28歳のときのものであった。

ところで、氏によれば、初演時の日本フィルハーモニーの練習は、アルトフルートがまだなく、どこからか借りてきた楽器は湿気か何かでキーの動きが鈍く、峰岸壮一氏が吹き、小出信也氏がキーをおさえたり離したりして二人がかりで吹いたそうである。峰岸氏は吹きながら小声で小出氏に「はなせ、はなせばわかる」などとやっていたとか。

時代は下り、現在、新響には団のアルトフルートがあり、個人で持っている団員もいるので、今回はラヴェルと矢代秋雄で、二つのアルトフルートがお目見えすることになる。今回の演奏会のフルートは、どのパートもいずれ劣らず吹きがいがあり、それぞれのソロの音色の競演となるか。

また、この「交響曲」、打楽器の使い方が面白い。第2楽章のティンパニもしかり、第3楽章の印象的なリズムも一度聞くと忘れられない。これは、矢代氏自身がディンパニを演奏していたということに関係があるのだろうか。そのリズムもどこか日本的なものを髣髴とさせる。

演奏者としてこの「交響曲」に接し、矢代秋雄氏の音に対する厳しい姿勢、音楽に対する真摯なまなざしを感じる。これは、犬好きをばっさりと切る、あのいさぎよさにも通じるのかもしれない。

参考 
『音楽における郷愁』矢代秋雄より 音楽の友社
日本フィルハーモニー 第228回演奏会プログラム


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