2002年3月維持会ニュースより


 花の章・若き日のマーラー

岩城 慶太郎(Fg)

 私が新響でお世話になり始めてから、まもなく2年が経とうとしています。月日が流れるのは、本当にあっという間で、4月の定期演奏会で6回目の舞台となります。今回の演奏会では「巨人」の1番ファゴットのパートをいただきました。大好きなマーラーの、それも首席奏者を務めさせていただくとあって、日々の練習から身も心も、ファゴットも踊っております。
 「大好きな」と申しましたが、私は以前マーラーの楽曲をどうしても好きになれませんでした。いま思えば、「長い、うるさい、ワンパターン、吹いても報われず、ただただ疲れるだけ……」というような理由をつけて、食わず嫌いをしていたのかもしれません。それが5年ほど前、小林研一郎氏の指揮で、初めて「巨人」を演奏する機会を得て、この食わず嫌いはすっかり治ってしまいました。以来「巨人」は私にとって特に思い入れのある楽曲となったのです。(実に余談ですが、コバケン先生は終楽章のビオラのソロの場所でこうおっしゃいました。「みなさん、もっと唸ってください。まずは、唸り声を出す練習をしましょう。楽器を置いてください。さぁ皆さん、ご一緒に。ワン・ツー・・・ヴウぅっ!」コバケン先生、本番でも一人で唸りどおしでした。)
 そんな経緯も(?!) あって、今までに実にたくさんの演奏会や録音音源などで交響曲第1番を聴きました。その中でも特に衝撃的だったのは、若杉/都響の録音です。ご存知の方も多いかと存じますが、それは「ブルーミネ(花の章)」と呼ばれる楽章を2楽章目においたもので、そのほかの楽章に関しても、実に多くの改訂が音楽に反映されていました。改訂版の録音にはしばしば、いくら耳を澄ませても明確にわからないものや、単に奇を衒っているものが多いように思うのです。しかし、この改訂版は明確な信念を元に録音されているように聞こえました。
 私はすぐにこの楽章を気に入ってしまいました。弦楽器とトランペット独奏による甘くて切ないこの楽章は、前後にあるマーラーにしては「健康的な」2つの楽章と相俟って、どこか青臭く、新鮮な一面を感じ取ることができます。まだご存知でない方は、ぜひお聴きになってみてください!
 今回の演奏会では(私にとっては実に残念なことに!)「ブルーミネ」を含むハンブルク稿は使用せず、エルヴィン・ラッツ校訂によるマーラー協会全集版(1967年ユニバーサル社より出版)を使用します。
 交響曲第1番は1888年、マーラーが27歳の時に書き上げられ、翌89年にブダペストで「2部から成る交響詩」として初演されています。残念ながら初演当時の楽譜、すなわち初稿は現存していません。現在残っている最も初期のものは、93年にハンブルグで初演されたもので、これがハンブルク稿と呼ばれるものです。ハンブルクでの初演にあたって、マーラーは、この「2部から成る交響詩」に副題をつけています。それらは、文献を頼れば
《巨人》交響曲形式の音詩
第1部:若き日より
<花の絵、果実の絵、茨棘の絵>
第1楽章:「春、そして終わることなく」
(序奏とアレグロ・コモード)
第2楽章:「ブルーミネ」(アンダンテ)
第3楽章:「満帆に風を受けて」(スケルツォ)
第2部:人間喜劇
 第4楽章:「座礁」(カロ風の葬送行進曲)
 第5楽章:「地獄から」(アレグロ・フリオーソ)
だということです。
 この稿は、翌94年のワイマールでの再演以来、1969年に蘇演されるまで、「お蔵入り」となってしまいました。このワイマールでの再演を最後に、5楽章からなる「2部から成る交響詩」は「ブルーミネ(花の章)」を取り除いた4楽章からなる交響曲へと改訂されたのです。
 「ブルーミネ」は、カッセル時代のソプラノ歌手への想いを綴ったものだとか、あるいはウェーバー夫人との恋に関係するものだとかいう説もあります。ことの真相はわかりませんが、交響詩から交響曲への「格上げ」作業にあたり、このような私小説的な楽曲を、楽曲構成上の問題を残してまで盛り込むのはいかがなものかと、マーラーは思ったのかもしれません。
あるいは、これは蛇足というか邪推ですが、妻アルマへの愛から生まれたといわれる交響曲第5番の第4楽章「アダージェット」は削除されずに、「ブルーミネ」が削除されるということは、「ブルーミネ」に失恋のトラウマを感じたりしたのかも知れませんね。ブダペスト、ハンブルグ、ワイマールと3回演奏してみて、そのたびに後悔したとか、しないとか……
 少々脱線してしまいました。話をもとに戻します。
 交響詩から交響曲への改訂作業は、ハンブルグ歌劇場での仕事の合間を縫って行われ、1896年に「大編成管弦楽団用交響曲ニ長調」としてベルリンで演奏されます。「巨人」というタイトルは削除され、「ブルーミネ」は1楽章まるまる削除され、またその他の楽章に関しても大幅な改訂を施すと同時に、付随する一切の副題が削除されています。マーラーはこの時、「副題をつけることにより、聴衆がそのテキストに拘束され、先入観を持たれてしまうことが、ハンブルクとワイマールの演奏会を行ってわかった」という趣旨の手紙を、批評家のマルシャルクに宛てて書いています。
 その後99年に「交響曲ニ長調」としてヴァインバーガーから刊行されます。この時にもやはり「巨人」という副題も、各楽章の副題も省かれています。そのかわり、各楽章に対してマーラー特有の「おごそかに、威厳をもって。だが重々しくならないように(第3楽章)」といったような、まるで小言のような注釈がつけられました。
さらに1906年にはユニバーサル社から決定稿が、67年には指揮者としてのマーラーの、更に細かい書き込みが加わった全集版が、そして最近では92年にパート譜を元に新校訂版が刊行されています。そのたびに新しい「小言」が増えたり、そうかと思えばなくなったりするのです。
 ここまで来ると演奏する者としては、何を信用して良いやらさっぱりわからなくなります。そこで、いろいろなスコアを読んでみると、実に面白い「小言」があることに気がつくのです。こうなったら楽しんでしまうしかありません。
「極度にリズミックに」とか「チューバ奏者が十分なpppで演奏できない場合はコントラファゴットで演奏する」とか「ヒキガエルの鳴き声のように」とか・・・。もう具体的すぎて、かえって分かりにくくなってしまっています。ファゴット吹きとしては、「チューバの十分なppp」というのが、どの位の音量なのか、常に迷うのです。しかも、チューバ奏者が先輩だったりするとなおさらです。
 具体的な指示で最も圧巻なのは、終楽章のホルンに対する「ここでは音量をより大きくするために立ち上がる」という指示です。あれは何かのパフォーマンスだと思っていたのですが、なんと楽譜に書いてあるとは・・・。
 え? 今回の演奏会では立ち上がるかどうかですか? それは4月20日の本番をお楽しみに。


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