2001年9月維持会ニュースより


飯守先生によるブラームス交響曲第一番の練習を経験して

荒井 隆(ヴァイオリン)

 ブラームスの交響曲第一番は、数ある交響曲の中でも、言わずとも知れた名曲中の名曲です。維持会員の皆様におかれても、各地のオーケストラの演奏を数多く聴かれている方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。新響もこの曲を過去に取り上げていますが、今回、ドイツ語圏各地での研鑚の経験豊かな飯守先生の下で、どのようなアプローチで曲が新しく仕上げられつつあるかを、過去のブラームスプログラムにおける練習での経験も踏まえつつ紹介してみたいと思います。

 今回の飯守先生による練習では、この曲の色々な要素について改めて一つ一つ考えさせられ、新たな意味を見出すことができます。例えば、第一楽章冒頭のテインパニが低いC(ド)の音を八分音符で刻みテンポを支配する中、ヴァイオリンや木管などの旋律が高いCからクロマティック(半音階的)な進行で1オクターブ上のCの直前のB(シ・フラット)まで順次上がって行きますが、飯守先生の棒からは、ただの半音階進行以上の何かが迸り出ているのが判ります。この曲は、交響曲作曲家として偉大な先達であるベートーヴェンを意識し、構想段階から数えて17年目の1876年にようやく完成しましたが、先生の棒からはブラームスのそうした産みの苦しさがこの冒頭部分にドラマチックに表現されているように感じられます。飯守先生は、譜面上の音符の羅列を有機的に結合し意味を持たせ、我々はそれを感じ取り自ら考えつつそれを受容し、実際の音楽に具体化して行く……そうした指揮者とオーケストラとの理想的とも言える関係が過去何回かの本番を通じ構築されてきているのではないでしょうか。

 先生の指導の中で一番厳しいのは、調性の変化・和声進行を意識した演奏と音程の正確性についての要求が高い点です。具体的に申し上げますと、調性や和声に対する鋭敏な感覚を磨くこと、例えば、

  (1)T(トニカ)→D(ドミナント)→T(トニカ・解決)などの和声の進行に伴って、緊張や弛緩などのエネルギーが生み出されること
  (2)曲の途中で転調した場合でも調性独特の響きや色彩を直ぐに思い描いた上で音を出すべきこと
  (3)西洋音楽の伝統においては「ハ長調→勝利、ホ長調→愛」など、調性固有の「意味」があり、各奏者はそれを意識して音色を形づくるべきこと(ブラームスの交響曲第1番は、深刻な響きのハ短調に始まり、勝利のハ長調で終わる)

などを繰り返しおっしゃられております。
 また、響きを重視する練習が進むにつれ、先生の視点は弦楽器・管楽器を問わず各パートの音程に向けられ、根音(和音の基礎となる音)や主音をベースとした「澄んだ」音程を繰り返し求められます。従来、新響は音程の正確性に対する要求があまり高くない面もあったかもしれませんが、各楽器の出す音程が個々の和音の中で正確に嵌まった際には、練習会場や本番の演奏会場自体が暖かみのある響きや懐の深い響きで優しく震えて応えてくれます。会場に響くハーモニーの中に身を投じることによるこうした「幸福感」を大切にしていこうという意識が、飯守先生の指導のおかげで団員の間に浸透しつつあります。

 次に、「力を抜いて楽な音量で演奏会場全体に響く演奏……力任せではない演奏」を求められている点について紹介します。
 オーケストラにおいては、演奏に熱中するあまりつい力んでしまい、「熱のこもった」演奏をしても、音が響かずイメージが上手く伝わらないことがしばしばあります。こうした現象が生じるのは、耳元では大音量でキイキイ鳴っているように聞こえるが、実は、エネルギーの大半が破擦音(はさつおん)を出すために消費されており、楽器本来の音色があまり響いていないことが原因です。逆に、力をあまり入れず楽に楽器を発音させる方が、破擦音が少ない分耳元では一見「手抜き」をしているように聞こえるが、客席で聞くと楽器の音色が結構響いているように聞こえます。
 維持会員の皆様の中には、ヨーロッパに旅行・滞在された方も多くいらっしゃるでしょうが、彼の地の乾いた空気の下で、教会など石造りの建物の中で何か音を出してみるとどうなるでしょうか。静寂の中で靴が床に触れるだけでも「カツーン」とか「コーン」とか響きます。これは、我が国の湿度が高い空気の下で神社・仏閣などの木造の建物内部で柏手(かしわで)を打つ場合の音(「パシッ」とか「バシャッ」とかいう湿った感じの音)とは大きな違いがあります。
最近の音響技術の進歩に伴い、この東京近辺でもヨーロッパの石造りの建物までとはいかないまでも、音響が素晴らしいホールも増えています。従って、奏者が力加減を上手くコントロールしてホール全体に自然に響く音色を出していくことが今後益々求められて行くでしょう。この点、ともすれば、我が国の多くのアマチュアオーケストラにおいては、「力のこもった演奏」が、「熱演」として評価されるという雰囲気がある中で、「楽に音色を響かす」という飯守先生のアプローチは、明らかに一石を投じています。

 また、ドイツ・ロマン派の作品を演奏する際の解釈に属する事項ですが、先生の指揮棒には、アウフタクト(旋律が弱拍から始まる際に、その始めの弱拍の部分を言います。)をやや「重め」に感ずるという拍節感があります。やや具体的にいうと、4拍子の場合、「1拍目」、「2拍目」、「3拍目」、「4拍目」と来て、そのままメトロノーム通りに次の小節の「1拍目」に流れ込むことはせず、「4拍目」がやや伸びます。言い方を変えれば、譜面上の小節線を超える際に、次の小節の強拍(1拍目)を導き出すためのエネルギーを感じて「4拍目」を「幅広め」あるいは「長め」に演奏をするというものです。
こうした解釈については、聴衆によっては、「音楽が流れない」とか「また飯守節が出た」と批判する向きもあります。昨年来日したギュンターヴァント指揮北ドイツ放送響を始め、ドイツやオーストリアにおける地元オーケストラのブラームスの交響曲などの生演奏をラジオやテレビなどで聞くと、こうした最終拍を長めに取るタイプの演奏にもしばしば出会いますので、ある意味では同地での伝統的な解釈なのかもしれません。飯守先生がブラームスやブルックナーを指揮される際には、とくに緩徐楽章などのスローテンポの箇所を中心にこうした拍節感が指揮棒からごく自然に滴り落ちています。新響の団員もごく自然にそれを受容した演奏を行って来ていると思います。

 飯守先生と新響との関係について、是非最後に触れておきたいことがあります。それは、筆者だけでなく大多数の団員がきっと同じように感じていると思われますが、飯守先生は、練習の際に「何故ここはこう弾かなければならないか」ということについてユーモアと箴言(しんげん)を交えて説明してくださいます。
 先生の一言一言が豊富な音楽経験・知識・情熱に裏打ちされているだけに説得力が高いのです。例えば、筆者の記憶に残っているところでは、「新しいフレーズが始まる際には、それはちょうど人間が静止状態から歩みを始める時の最初の第一歩に一番エネルギーが必要なのと同様、エネルギーが必要である。従って、フレーズの始めを何気なく弾き始めてはいけない」とか「人間の体は左右均等に見えるようで実は均等ではない。音楽も必ずしも均等・均整に進むばかりでなく、細かいところで当然伸縮があり得る。ただし最終的には辻褄が合っている。」、「ブラームスは太っていた。その太った体をタプタプゆすりながら酒場でマダムとダンスを踊っていた姿を想像してみると良い。そう、彼の音楽は不器用なんですよね。」など、印刷された楽譜を素人の我々がじっと見詰めているだけでは決して思い付かない色々なアイデアを提供してくださいます。紙面の都合であまり紹介出来ないのが残念です。
 オーケストラの団員は、曲を演奏する際に指揮者から個々の説明が無くても指揮棒からその意図を汲み取っていくことが基本ですが、一方で、指揮者のアイデアを「言葉」で説明してもらうことで曲に対する理解が深まるのも事実です。こうしたアイデアは、その後別の曲を練習・演奏する際にも応用が効くので、オーケストラとしての表現の幅が拡がって行きます。

 飯守先生は、サントリー音楽賞の受賞や東京シティフィルの常任指揮者などの活動、ワーグナーの「ニーベルングの指環」の演奏会形式での公演など、各方面で活動されており、多忙な毎日を送っておられますが、今後も是非末永く指導を仰ぎたいものです。


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