2001年6月維持会ニュースより


ティーツ先生のこと

奥平 一(ヴィオラ)

 去る6月15日から17日にかけてリハーサルのために、ハバロフスクからティーツ先生ご夫妻、ピアニストのザゴロフスカヤさんがサンクトペテルブルクから来日しました。リハーサルは2日間7時間半行なわれ、団員のだれもが、ティーツ先生の見事な指揮によるラフマニノフの第三交響曲がこんなにも名曲であったのかと驚いたことでしょうし、ザゴロフスカヤさんの美しく力強いピアノ演奏に第二ピアノ協奏曲の素晴らしさを見直したことと思います(ティーツ夫人は第三交響曲のハープパートを担当して下さいます)。

【ティーツ先生との出会い】

 ティーツ先生と新響の出会いは5年前、今回の演奏会チラシ裏面の解説に詳しく書かれています。私自身も新響のメンバーがティーツ先生とお会いした新橋の宴席に同席しました。小柄でしっかりした体格、白い髪、眼鏡越しの時にやさしく、時にするどいその眼、煙草をくゆらす手つきなどが、即座に山田一雄マエストロを思い出さずにはいられませんでした。
 この折のティーツ先生との会話は、国際交流基金が用意した日本国内のプロフェッショナルオーケストラ見学の感想や、新響のこと、極東交響楽団のことなどでしたが、なかでも強く印象に残っているのは二点、チャイコフスキーの第四番、五番、六番が一つのテーマで作曲されているとの話とラフマニノフの第三交響曲を得意としていることでした。
 ともかく、この会見はティーツ先生という我々に未知の指揮者の存在を強烈に認識させたのです。  余談ながら、この時の通訳者は合唱団で歌を趣味にしている闊達な女性の名通訳で、ティーツ先生と我々の通訳をしながら食事をし、時には自らの質問を我々に発しながらついには「あなた達は、それで仕事も家庭も大丈夫なの??」とのたまわったものです。

【青森での再会】

 その後、新響の演奏会指揮者の調整に苦慮した時、落合、桜井健の両団員からティーツ先生の名前があがりました。桜井の献身的な働きでティーツ先生の了解を頂いたものの、指揮ぶりが判りません。「ロシア功労芸術家」であるからきっと間違えのない立派な音楽家であろうくらいの認識です。そんな時、青森の弘前銀行がスポンサーとなり、ティーツ先生と手兵のオーケストラである極東交響楽団の演奏会があるという情報が入りました。これは聴かずばなるまいと野次馬根性で、落合、桜井、私とでそれぞれ出張を都合したり会社を休んで自腹を切って青森へ飛んだのでした。団代表としては当時運営委員長であった村井夫妻が参加しました。
 プログラムはチャイコフスキーアーベント。「フランチェスカ・ダ・リミニ」、ピアノ協奏曲、第五番の交響曲、アンコールに「くるみ割り人形」の有名なパドゥドゥ、ピアノ独奏はザゴロフスカヤさんであったのです。
 ティーツ先生の指揮は立派且つ明快で、その技量は世界的水準にあるとすぐにわかりましたし、何よりも音楽の全てが指揮振りに表現されていました。そして、ザゴフスカヤさんの演奏にこれまた驚き、ロシアの音楽界の深さを思い知ったことでした。

【ティーツ先生のチャイコフスキー感とラフマニノフ感】

 話は前後しますが、開演前に楽屋でティーツ先生と契約を交わし、さまざまなお話を伺いました。
 この時、新響はチャイコフスキー第四交響曲、ラフマニノフ第三交響曲というプログラムの素案を持って行ったのです。そこから、ティーツ先生のチャイコフスキーの交響曲について考えの披露が、あの新橋の夜の続きとして始まったのでした。
 チャイコフスキーの四番以降の交響曲はすべて同じテーマによっている。そのテーマとは、私(チャイコフスキー)と運命のぶつかり合い、対決である。
 四番の第一楽章は運命の動機で開始され、まことに考え抜かれた深い表現となっていて人に強烈な印象を残すことにも成功している。第二、第三楽章も良い。しかし、彼は四楽章で運命との戦いから逃げた。大衆的な受けのする音楽に「逃げて」しまったのだ。
 五番でも冒頭から運命の動機が聴こえる。テーマが循環し、終楽章でもテーマに真っ正面からぶつかっているが、まことに不思議な音楽となってしまった。それは、チャイコフスキーが運命に打ち勝ったのか、運命に押しつぶされたのかが明確に表現できていないのだ。
「彼は暖炉の使い方を誤ったのだ」とティーツ先生はおっしゃったのです(この時、通訳をして頂いていたハバロフスク日本領事館副領事でチェロを弾くという若く聡明な安田女史は、「えっ?」とティーツ先生に聞き返したのですが再び同じ言葉が返って来ました)。
 ティーツ先生は続けました。六番の交響曲で初めて彼は自分に回答を出したのだ。その終楽章では、運命に負けて「死」が全てを解決する。
 偶然ですがレコード芸術7月号に、優れたシューマン研究家として世界中の指揮者から信頼を寄せられている前田昭雄さんが、ティーツ先生と全く同じ内容のエッセイを掲載しています。ぜひご覧下さい。この文章のなかに、次のようなくだりがあります。
 "…チャイコフスキーの宿は王冠荘だったっけと思い出した。このウィーンの宿で作曲家は日記を書き閉じたのだった。帰ってから確認すると、1888年3月27日に有名な最後の記入がなされている。「家へ帰ろう。鞄をつめる。ロシアへの旅が残っている。誰ために書くのだ、書き続けるのだ?その甲斐はない。これで多分もう、日記は書くまい。老齢が戸を叩く、恐らく死も遠くない。こんなことに何の甲斐があろう。」第四交響曲完成の1987年以来、作曲家の心身は危機に陥っていた。この記入があって二ヶ月後、1888年の5月に第五交響曲が着手されている。…"
 そしてラフマニノフです。ラフマニノフの第三交響曲はロシアの心が込められている名曲である。ロシアでは、第一楽章の主要フレーズはこのように"くせ"のある歌い方で演奏されるのだと自ら歌って下さいました。なぜならば、"ロシアで初演された時の演奏"の仕方が伝えられているからなのだ。この曲のような傑作をチャイコフスキーの四番の前に演奏するとチャイコフスキーの印象は悲惨なものとなってしまうであろう、東京の聴衆がチャイコフスキーをより好むのであれば仕方がないが、とまでおっしゃってラフマニノフに馴染みのなかった我々にその魅力を力説したのでした。
 結果、二年前に行なわれたティーツ先生との共演は、グリンカ・歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲、カリンニコフ・第一交響曲、チャイコフスキー・第六交響曲「悲愴」というプログラムとなったのでした。

【ティーツ先生への期待】

 今回の来日初練習でティーツ先生はラフマニノフの三番をロシア色濃厚な解釈で指揮して、そこは「雄牛のようにほえろ」とか「求めても求めきれない気持ちで」とか、前回演奏会の厳しくドライな練習では聴かれなかった言葉が飛び交って皆を驚かせました。
 私も、プレビンやプロトニョフ、スベトラーノフ、尾高などのCDで聴き込んではいましたがティーツ先生の解釈が独自の美学に貫かれた優れたものであることを確信しました。次回7月末の3回連続の練習が楽しみでなりません。
 モスクワ音楽院でキタエンコと同級であったティーツ先生は、音楽院卒業後すぐに国からハバロフスク行きを命じられたのだそうです。当時は従うしかなかった、と。キタエンコが西側世界で活躍しているのに比較してティーツ先生はとことんハバロフスクに徹しているようです。副領事であった安田さんによれば、ハバロフスクは美しい町で、極東交響楽団は定期演奏会以外にも夏の野外コンサートなどを開き、ティーツ先生は市民の尊敬を集めているとのことでした。
 新響の活動理念とアマチュアであることを十分理解した上でティーツ先生の指導は厳しい。維持会員の皆さま、どうぞ期待してご来場下さい。


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