2001年3月維持会ニュースより


山田先生の思い出

我らが名誉指揮者の山田一雄が亡くなってから、10年の月日が経とうとしています。氏は、新響に数え切れないほどの大切なものを遺してくださいました。それらの一部を、団員から紹介させていただきたいと思います。


ダンディーな先生

都河 和彦(ヴァイオリン)

 先生の思い出は多々あるが、まずは1979年に初めて新響に見えてマーラーの5番を振って下さった時の衝撃が忘れられない。拍子をとるのではなく、激しい身体の動きで音楽を表現する指揮法に面くらい、すべてのパートの動きが分かっていないと先生の音楽についてゆけない、とカルチャーショックを受けた。振り終わると開口一番、「床を見て御覧なさい。いろいろ沢山落ちてるでしょ。ppとか、sub pとかsfとか・・・」と言われ、パート譜通りに弾けていないことも痛感させられた。
 先生の棒はどこが小節の頭なのか分からなかったり、一拍どこかにいってしまったり(先生は「右手の小指で振った」とおっしゃったのだが)、幾つ振りなのかわからなくなることが多々あり、棒に頼るクセがついていた我々にとって本番は戦々恐々だった。先生の指揮の激しさもつとに有名で、「指揮台から数十センチ飛び上がった」とか「指揮台から客席に転げ落ち、ハンカチを振りながら指揮台に這い上がって来た」とかいう伝説があったほどだったが、マーラーの「千人の交響曲」の本番の時も大暴れのせいで曇ってしまった眼鏡を足元に投げ出して指揮を続けられたのでいつ眼鏡を踏みつけるか、と気が気でなかった。それでも共演を重ねるたびに先生の棒に慣れ、色彩感・躍動感溢れる素晴らしい音楽に惹かれていった。
 先生は1912年生まれだから、真っ白な長髪をなびかせて颯爽と新響に初登場された時はもう67歳だった訳だが、とにかくダンディーで亡くなる1、2年前までは非常にお元気だった。練習時の服装は常に薄い黒のセーターとプレスのきいたグレーのズボン、首や手首には金の鎖をかけ、控室で着替えなさっている時に盗み見た裸の上半身はボクサーのように艶やかで引き締まっていた。練習時にカミナリが落ちることもあったが、ユーモアや気さくさもお持ちで、芥川先生の還暦祝いのパーティーでは気軽にトリプティークを振ってくださった。先生が創出された山田流書道・書体はそれはそれは見事なもので、マーラー・チクルスに全回出演した団員は先生直筆のお祝いの色紙を頂いたのだが、私はアメリカ転勤等で全出演できなかったのは今でも心残りである。
 山田先生を新響に招聘した功労者、コントラバスの橋谷君は脳内出血で88年4月に亡くなった。その翌年1月には新響生みの親の芥川先生、そして91年8月には山田先生と、新響はこの時期かけがえのない方々を続けざまに失っている。その後コントラバスの平野さんが逝き、昨年夏には山田先生を敬愛してやまなかった打楽器の上原さんも逝ってしまった。この5人の方々は今回の新響の演奏に天上から耳を傾けてくださることだろう。


いたずらっ子ヤマカズ

桜井 哲雄(オーボエ)

 山田一雄は書をよくする。打ち上げのとき、毛筆と和紙を持ちこんだ。机に並べると、楽しそうに書いてくれた。筆太で黒々と、新響へとして、『響流十方』と書いた。四方八方の『八方』に『過去と未来』を加えて『十方』に響け、という事である。調子に乗って別のときにまたお願いしたら『力を入れずして天地を動かす』と書いた。
 40年間山田一雄を見聞きして、僕は、指揮は踊りだという考えに到達したのだが、もしかしたら御本人は全く動かないで指揮するのを究極の指揮と考えていたのかもしれない。小指の先でも指揮をする人でしたから。しかし、当時は全くその逆で、唸るし、飛び跳ねるし、汗をまき散らすしで、山田和男著『指揮の技法』のなかに有る、やってはいけないことを総べてやるという指揮ぶりだった。鹿島の合宿のとき、このことに触れると、楽しくてたまらないという表情で、『そうなんだよ』と言った。僕には幼稚園のいたずらっ子のようにみえた。
 中学生のとき、僕は山田一雄が嫌いだった。何だかクニャクニャしてて・・・。大学を出てしばらくしてから僕は柴山洋名人〔現トレーナー・オーボエ〕の追っかけをやるようになり、その関係で東京交響楽団の定期会員になったのだが、そこでヤマカズのベートーヴェンを聴くことになった。これがアッと驚く為五郎。素晴らしかった。あの棒でどうして? でも、次の演奏会のベートーヴェンも本当に素晴らしかった。本物だと思った。クニャクニャが素敵にみえるようになった。その10年後に、故橋谷幸男の頑張りでマエストロ山田がマーラーを振りに新響にやって来ることになった。イヤー、嬉しかった。でも、棒は解りにくかった。『どうしてお出来にならないの?』と言って指揮台の上で困っておられるマエストロには、我々も困った。困りながらもマーラーの交響曲を10年で全曲やってしまった。全曲に参加出来た幸せ者は意外にも二十数人しかいなかった。幸運なその人たちにはマエストロから直筆の色紙が贈られた。
 いろいろ教えられました。この、育ちの良い、いたずらっ子の純な気持ちが『ヤマカズのマーラー』になるんだなと思いました。そして、僕みたいな凡庸な常識人には到底入り込めない世界だと思い知らされたのが、最大の教訓でした。悪い人だ。

 あれからもう10年!


京都での「復活」

門倉 百合子(ヴィオラ)

 1981年5月、ヴァイオリンの亘理さん、ヴィオラの奥平さん、打楽器の上原さん、そして私の4人で、京都まで山田先生のマーラー第2番「復活」を聴きに行った。午後の新幹線に乗り込み、花束を用意して演奏会場の京都会館へ急ぐ。演奏は当時山田先生が常任指揮者・芸術顧問を歴任されていた京都市交響楽団。確か会場の後ろの方で聴いていたのだが、先生の汗が今にも飛んできそうだった。
 熱のこもった演奏に感動し、楽屋にご挨拶に伺うと、先生は行き付けの先斗町のクラブを教えてくださった。早速4人でその店に向かい、ママさんと歓談しているところへ、先生はご家族の皆さんといっしょにやっていらした。お嬢さんはまだ小学生だったろうか。おしゃべりに花が咲き、夜の更けるのも忘れて楽しい一時を過ごした。
 翌日午前中は各自それぞれ過ごし、昼に待ち合わせて普茶料理を食べに行った。そこで偶然マーラーファンの堀口大井さんと出会う。堀口さんは新響のプログラムにも何回か曲目解説を書いてくださった方で、やはり山田先生の「復活」を東京から聴きにいらしていたのだった。ここでもマーラー談義に花が咲いた。
 帰りの新幹線の中で、先生あてにお礼の葉書を寄書きした。投函してしばらくすると、先生からお返事をいただいた。受け取った私がコピーして他の3人に渡した葉書が、上原さんの遺品の中にきちんとファイルされていた。先生の詩的な文面を見ると、20年前の京都をありありと思い出す。葉書の最後には、「みまかれしマーラーに代わりて山田一雄」と署名があった。


京浜東北線のシルバーシート

桑形 和宏(打楽器)

 山田先生との思い出は数限りないが、「それについて何か書け」と言われたならば、なにはさておき書かなければならない個人的な体験がある。
 先生が亡くなる2ヵ月ほど前のことである。千葉県の市川市に住んでいる私は、その日も東十条の練習場に向かうべく、日暮里で京成線から京浜東北線に乗り換えた。
 なにげなく車両後方に目をやると、一際目立つ白髪の男性が座っていた。山田先生である。声をかけようかとも思ったが、熱心にスコアを見ていらっしゃったのでやめにし、私は愛読書のマンガ雑誌を読み始めた。
 しばらくしてから、背中を叩かれたので振り返ってみると、なんと山田先生である。1団員の顔を覚えていてくださったうえに、声までかけていただいて、まだ若僧であった私は大感激した。それから先生は、空いていたシルバーシートに一緒に座るよう誘ってくださり、私は先生と並んで腰をかけることになった。
 それから約20分間、先生と2人だけで話をした。名著「指揮の技法」は、一夏こもって一気に書き上げたこと、指揮台から落ちたにもかかわらず振りながらステージに上がったというのは作り話であることなど、興味深い話をいっぱい聞かせていただいた。緊張していた私は、ただただ頷くばかりであった。 今にして思えば、「運命と田園を振り間違えたのは本当ですか」などの、失礼をも省みない質問をたくさんしておけばよかったと、悔やんでいる。
 そのうちに話題ががらりと変わり、「君ね、人が急に死んでしまうというのは違うよ」と、急に暗い話になった。「人は、足が弱り、手が弱り、だんだんにいろいろなところが弱っていって死ぬんだ」といった意味のことをお話しされた。本当に困ってしまって返事のしようがない私は、黙って聞いているほかなかった。早く東十条の駅に着けばよいと正直思った。
 東十条駅に着くと、先生は急に「胸が苦しい」とおっしゃり始めた。さらに困ってしまった私はどうしてよいかわからず、とりあえず先生のカバンを持って、練習場まで一緒に歩いて行った。
 その後間もなく、山田先生は急逝してしまった。先生と2人だけの時間を持つことができたことは、一生の思い出となっている。と同時に、あの時はどうお答えすればよかったのか、今もって答えが見いだせない。


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