2001年3月維持会ニュースより


苦渋の軌跡=山田和男の「おほむたから」を巡って=

松下 俊行(フルート)

 旧仮名遣いの「おほむたから」は現在では「おおんたから」と通常発音する。そして「おおむたから」の語は「おほみたから」による。最もイメージし易い漢字で表記すれば「大御寶」であり、「大御」の部分は口語的に「おおん」と発音している(例えば「大御神(おおみかみ→おおんかみ)」「大御言(おみこと→おおんこと)」と云う場合と同じ)。だから「おほむたから」は決して「大牟田から」というような発音では無い事を銘記されたい。近世まで旧仮名遣いの中で「ん」の文字は無く、「む」で表記される。この辺り誤解を生じかねないので、文頭に当たりまずお断りしておく。


「おほみたから」とは何か?

 そこで最初に失礼ながら問題をひとつ。次の文字に共通する事項をお考え戴きたい。
 「人民」「民」「百姓」「元元」「黎元」「衆庶」そして「大御宝」。
 これらはみな「おおみたから(おほみたから)」とよむ。おおみたからとはこれらの字義からも判るように、「人々」を指す言葉である。「黎元」「元元」などは日常目にする事の無い熟語であるが、興味ある方は漢和辞典を引かれたい。それぞれに「ひとびと」「たみ」などの意味が見出される筈である。上に挙げた表記は全て『日本書紀』神武紀に即位の詔(みことのり)に初出し、以降地の文中にも頻出する。つまり「おほみたから」とは「天皇の治める人々」の意と解釈すべきであろう。

 何故「人々」を指して「おおみたから」とよぶかについての語源には諸説ある。

 (1)人民は「宝である」との意味から「大御宝」とする。
 (2)天皇の田(大御田=おおみた)を耕作する人々(田子ら)。所謂「大御田の田子等」。
 (3)大御田に属する族(やから)。つまり「大御田族」。
 (4)た=田=土。カラ=やから・うから=集団。要するに耕作従事者の集団の意。

 (2)以下の、耕作との関連に由来する説が原義としてあり、後に(1)に発展したと云うのが最も考えやすい。

 『日本書紀』は我が国初の歴史書として、中国の史書に倣って8世紀に編纂された漢文体の書物であるが、これは当時からやまとことばで訓まれていた。当然訓み方に異同が生じやすいので、宮中でも20〜30年毎(世代替りの頻度)に講書の行事が行なわれている。有難い事にその初期段階に於ける講書会の講義録が現存し、そこに「人民 於保三它可良」の記述が見出せる。「人民」を「おほみたから」と読ませるべく万葉仮名で表した訳である。同様な記録として「人民」を「於保无太加良(おほむたから)」とするものもあるが、これはやや時代が下り、平安時代に入ってからのもののようだ。「おほみたから」の語がまずあった事は、こうした資料からもまた語源からも推測に無理は無いであろう。


自筆スコアを巡って

 初演時(1945年1月)に使用された自筆スコアには、ふたつの興味ある文章が載っており、通常我々がイメージする他のスコアとはかなり異なった性格を持っている。この作品が世に出された当時の時代背景を髣髴させる資料的価値があるとも言える。この作品名が「おほみたから」ではなく「おほむたから」になっている事からして疑問が無いではない。装丁された自筆のスコアの表紙には有馬大五郎(当時日本交響楽団事務長)の揮毫でこの2つの語が併記されているのである。いずれにせよそこに書かれた2つの文に沿って、この作品の性格を論じてみたい。

 その第一は丸山作楽(さくら)なる人物の「おほみたから」の語意に関する文章と歌。これは作曲者の手で写されている。ここには(『日本書紀』にある)前述した神武天皇即位の際の詔が引かれ、「元元(おほむたから)を鎮むべし 云々」の部分から、おおむたからとは「大御田の田子等(おほみたのたこら)」から出た言葉で、後に天皇の国民を慈愛する意味で「大御宝」というかたじけない語になったとの由来が出ている(ここで殊更に「おほむたから」と訓ませているのは、詔と云う「言葉」の中に現れている為であろう。現在流布している『日本書紀』はいずれもこの部分を「おほみたから」と訓んでいる)。

 調べてみると、丸山作楽(天保11年=1840年生)は島原藩士。幕末に彼の地で国学を講じた。維新後新政府に出仕し、外務大丞として樺太でロシアと交渉。帰国後征韓論に与して敗れ、8年間投獄される。出獄後伊藤博文の後押しで立憲帝政党(時の民権運動を抑止する為に立てられた御用政党)を組織し、後に元老院議官・貴族院議員を歴任し明治32年(1899年)没。享年58。和・漢・蘭いずれの学問にも通じたとあるが、国家神道に通じる平田派の国学にこの人の原点はある。この文章の末尾に添えられた

「しづたまき いやしきわれも すめろぎの おほみたからぞ つくさでやまめや」(以下拙訳)
「賤しい身である自分も天皇の民(すめろぎのおほみたから)である。(天皇に対し忠を)尽くさずにこの生を終えようか(そんな事はない)」

 と云う雅趣も何もあったものではない、つまらぬ歌によく現れている。この文がいつどういう折りに書かれ、それを作曲者がここで取上げた経緯については、今後調べてみたいが今はわからない。


作曲者の苦衷=昭和19年の日本=

 今ひとつは、時期は特定できないが作曲者自身がこの作品について書いた文章。これは初演若しくはそこから遠くない時期に発表した文章で活字になったものが切り抜いて貼り付けられている。この作品に対する殆ど唯一の作曲者のコメントとして貴重なものなので以下に全文引用する。

 おほむたから
                       山田 和男

 古事記に出てくる「おほむたから」なる言葉は、現今われわれの用ひてゐる「おほみたから」の源語である。
 この「おほむたから」とは天皇の「大御田(おほむた)の田子等(たこら)」の義であつて、初め瑞穗國の農民を主とした言葉とされてゐたが、後世になつて、天皇の民を愛撫し、慈育し給ふ御心深く、従つて臣民全般に對して「大御寶」といふ大御心の御表現に尊く発展したものなのである。
 さて、十四分程の短いこの曲について何等説明めいたものを書く気もしない。
 只、今日の壮大な歴史の意志のなかにあつて、草莽の微忠をかたむけつくして書いたつもりのこの曲が、香氣なきいたづらな怒號に終はつてはいけないと私は幾度か筆を投げうつたことである。それはこのたぐひの題材を心なく扱う人々の氾濫に恐怖してゐる私が、ただただ斯かる題材を扱ふに適した自分の資格をつくることにまづまづ力を傾けなければと、日々思ひ知らされてゐるこのごろであるからである。

(和男)

 問題の多い文章だ。
 前段は前述の作楽の説を今一度敷衍しているかに見えるが、そうではない。
 まず「おほむたから」「おほみたから」の語は『古事記』には無い。
 次に「おほむたから」は「おほみたから」の源語に当たるとしているが、これが逆である事はこれまで述べてきた通りだ。単なる勘違いにしては念が入り過ぎている気がする。

 後段の文は難解だが、まさにこの作品の創作に当たっての心境とも云うべきものであろう。「おほむたから」と題してこの作品を手がけなければならなかった苦衷が読みとれる。「おほみたから」の語に代表されるような、世間に溢れている根拠希薄な神国思想の蔓延と、その中にあってこうした題材を選んで創造する立場への自問。そして自らの思惑とこの時流におもねる人々とのギャップへの悩み。勿論こうした実際の文面に現れている事も重要だが、僕はむしろ「そこに書かれていないもの」により関心が向いてしまう。それは作曲者の作品に対するコメントとして当然入っているべき「おほむたから」の曲名に託したメッセージである。それが欠けている事がそれにも増して重大な事に思える。この作品によって「大御宝」たる国民に何を訴えようとしたのだろう。「何ら説明めいた事を書く氣もしない」との一言にこの作品の内容と表題との乖離を考えさせられる。結局これでは何も語っていないに等しい。

 実際に音を出してみると、この感覚は一層避けがたいものに思えてくる。と云うのも、この作品には明らかにマーラー(第5交響曲)の影響が色濃く見出せるからである。マーラー→プリングスハイム→山田和男の音楽的系譜を現在の我々が今日想像するのは決して困難ではない。この流れの中で当然創られるべくしてつくられた作品だと云う事だ。ただそれを当時の世に出すには、ひとつの「しかけ」が必要だったに違いない。昭和19年当時の作曲者にとってのそのしかけとは、意外と単純なものだった。それは当時の時流なり風潮なりに仮託して、カモフラージュする事である。具体的には丸山作楽の文を前面に出して、「おほむたから」の曲名を堂々とつける事であった。この時代に生きた人々は様々な意味で、こうした皮相的な服従を強いられたのだから、この場合などまだ良いほうかもしれない。

 但し、僕はだからと言って戦後の我々が短絡的に考えるような「自由主義者」で山田和男があったとは、敢えて思わない。この時代の人々を考える上で我々が陥りやすい誤謬を避けなければいけない。
 人はその生まれ生きた時間と空間の制約の中でしか生きられない。彼の世代であってみれば、天皇とその国民としての自覚は、我々が現在想像するものとは異なっていると考えた方がむしろ自然である。肝腎な事は、そうした本来の自覚ある人々の目で見ても、昭和19年時点での日本は異常であったと云う事だ。そして「このたぐひの題材を心なく扱う人々の氾濫」が、取りも直さず彼らの表現の枠を狭めていたと云う事実である。更に言えば、その様な制限がうわべだけの、本質とはかけ離れた次元にあったが為に、如何に脆かったかと云う事である。勿論作曲者はこの脆さにはとうに気づいていただろう。そして、敢えてそれを冒した。他の芸術のジャンルと異なり、より抽象性の高い音楽の分野だからこそ、こうした羊頭狗肉的なカモフラージュが出来たとも言えるのだが、それが出来たからどうだと言うのだ。到底意義を見出せるたぐいの話ではない。

 このスコアを初めて見たときから、丸山作楽と山田和男の繋がりが腑に落ちなかったし、作品を音にしてみると今度はこの中身と曲名の関係が解らなくなった。結局残された文章を読む限り、上に書いたような状況なり心情なりを想像するしか答えが得られないように今は感じている。

 この作品は苦渋の結晶である。あの時代でなければ生まれるべくも無かった音楽・・・それを新響が56年ぶりに音にする訳だが、個々の奏者がそうした作曲者の苦衷にまで踏み込んで、再現を心がけねば、単なるマーラーの模倣と捉えられて、それだけに終わってしまうかもしれない。

 僕が今最も恐れているのはその事である。


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